身辺雑記 

by totoropen (OOKA Minami)


2001年5月1日〜5月31日

●最近読んだ漫画について●公務員の肖像権と報道の自由●憲法記念日に思う●ドライブ●ソファー●しわ寄せ●弁護士費用の敗訴者負担●柴田昌弘「ラブ・シンクロイド」●ある教諭の逮捕●司法と医療の座談会●続・ある教諭の逮捕●こってり系しつこいラーメン●放送メディア●小泉答弁の詭弁●「切ない系・時間モノSF」●デスクワーク●外野勢力●時代への不安●絶妙な質疑応答●二足のわらじ●納得いかない原稿●雑用こなしデー●番組収録●ハンセン病訴訟と控訴断念●発言者として参加●拘置理由開示公判●公園の犬●事実の積み重ね●低所得者!●メディアの危機●「思想検事」●金髪先生が懲戒免職●●●ほか


5月1日(火曜日) 最近読んだ漫画について

 このところ、柴田昌弘という漫画家の作品にハマっている。たまたま本屋で見かけた「THE APEMAN/エイプマン」という単行本の表紙にひかれて、買って読んでみたらとっても面白かった。もちろん表紙に描かれた絵に何か強く感じるものがあったのだが、単行本のオビに書かれていたキャッチコピーが何とも言えず衝撃的だったのだ。そこにはこう書かれていた。「21世紀初頭、社会の底辺を支える労働力としてつくられた<エイプマン>──それは、ヒトとサルの混血生物だった!」。いかにも僕が好きそうな内容なんだけど、なかなか見事なコピーだなあと思う。内容を端的に説明しつつ、この後に続くドラマの展開に読者の関心を確実に導いているからだ。書籍のオビの文句はことほどさように重要なのだなあと、改めて実感させられた。で、ラストのあっと驚くどんでん返しが「猿の惑星」を彷彿とさせて(両者の内容は全然違うけど)、思わずうなってしまったのである。柴田昌弘氏はSFや超常能力をテーマに多くの漫画を描いてきたベテランの漫画家で、その名前はもちろん以前から知っていたが、きちんと読んだのはこの作品が初めてだ。

 そんなわけで、ここ最近は柴田氏の漫画を次々に読んでいる。次に読んだのは「フェザータッチ・オペレーション」で、これは、大学生の慎平のアパートに突然、体は人間だが頭の中身はスーパーコンピューターの女の子がやって来る物語だ。20年も前に描かれたものなのに新鮮で、人工脳と自我、電算ネットワークと情報管理などの問題に突っ込んで言及している。これもなかなか考えさせられる内容だった。似たような設定で別の作家による「ちょびっツ」という漫画があるが、設定の掘り下げ具合や人物設定・描写の深みなどの点では柴田氏の「フェザータッチ」の方が上かもしれない。

 柴田作品のほかには、松本光司の「クーデタークラブ」に注目している。退屈な日常を変えようと女装にハマっている優等生の高校生が、謎の女子高生から一般の生徒には非公開の「革命部」なるクラブを紹介され、自分にとっての本当の「革命」を模索するという物語だ。政治的革命ではない。「ヤングマガジン」で連載中。僕はこの雑誌は読まないけれど、単行本が2巻まで出ている。タイトルが面白そうだったので単行本を読んでみたら、興味深いストーリーと人物描写でアタリだった。今後の展開に期待している。


5月2日(水曜日) 公務員と肖像権と報道の自由

 東京都下の某市へ。先週の「身辺雑記」(4月25日付)で書いたあの教育委員会の「うそつき」幹部が、大勢の市民や議員らと、市庁舎前でやり取りしている場面が展開されていた。市教委が教員にでたらめな事情聴取と処分をしようとしていることに対して、保護者らが説明を求めて詰めかけたのだ。取材なのだから僕はカメラを向けてシャッターを押した。するとその市教委幹部は「写真はやめてください」と叫んだ。「報道です」と答えて僕は取材を続けた。市教委幹部は行政の責任者として、公の場所で市民の抗議に応対しているのであって、個人としてそこにいるのではない。私的行為ならいざしらず、職務として公務遂行中のこの人に肖像権は存在しないと思う。しかし市教委幹部は「報道でもやめてください」と再び大声で叫んだ。そこで僕は「報道の自由です」と応じた。そんな大上段に振りかぶった台詞は言いたくないのだけど、正当な取材活動を行政に妨害されるいわれはない。報道の自由を侵害されようとしているのに、黙っているわけにはいかない。社会性のある出来事であれば、その事実を広く伝えるのは記者の仕事であり責任だ。市教委幹部はさすがにもう黙ってしまった。

 だがしか〜し。角度を変えて何枚か写真を撮ったのだが、周辺にいた何人かの職員がカメラをさえぎるような姿勢を、なおもかたくなに続けるのには驚いた。やっぱりここの行政には一種異様なものを感じる。市民・議員らとの2時間以上のやり取りが終わり、エレベーターに乗り込む市教委幹部を追いかけて「ぶら下がり」取材みたいな格好で話を聞いた。「先日の電話では、議会で質問は一切なかったと明言されていましたが」と聞くと、市教委幹部は「確認していないから分からない」と平然と答えるのだった。「一切ない」と明言するのと「確認していない」のとでは、話がまるで違うじゃん。そもそも、そんな大事なことを市教委が「確認していない」だなんて、そんなうそが通じると本気で考えているのかねえ。もしも本当に確認していないのだとすれば、それこそ職務怠慢が問われるではないか。う〜、頭がおかしくなりそうな市だなあ。市民も議員も、行政のあまりのお粗末さにまじで呆れ果てているぞ。


5月3日(木曜日) 憲法記念日に思う

 朝日新聞の阪神支局が襲われ、記者2人が殺傷されてからきょうで14年が経った。1987年5月3日。この時、僕は新聞記者になって2年目だった。僕に限らず、およそジャーナリズムにかかわっている人間にとって、中でも記者職に就いている者にとっては、この事件は決して他人事ではないと感じたはずだ。内戦や内乱が続いて戒厳令が敷かれているような国ならいざ知らず、まさかこの平和な現代の日本で、言論の自由が保障されているはずの日本で、しかも新聞社の支局で記者が殺傷されるなんて、想像すらできない大事件だった。だからこそ言いようのない衝撃と恐怖が走ったのだ。それから朝日新聞の関連施設などで、襲撃や脅迫事件が次々に起きた。ちょうど在日外国人や「日の丸・君が代」の問題を取材していた僕は、デスクや先輩・同僚記者から「気を付けろよ」とか「お前は大丈夫なのか」などと心配された(冷やかされた?)。

 「そんな記事を書いたら殺すぞ」と脅されて、怖くない人間なんてほとんどいないだろう。僕も取材に使っていたバイクの点検は真剣にやった。暴力や脅迫を前にすれば、たじろぎ、ひるみ、そして自己規制して腰くだけになっておかしくない。法律や弾圧で自由にものが言えなくなるのではなく、暴力と脅迫によって自由な言論が封じ込められてしまう。卑劣で陰湿で許し難い犯行だ。しかし、それは他国の話でも戦前の日本の話でもなかった。そして阪神支局襲撃事件の後も、脅迫や嫌がらせ行為によって言論を封じ込めようとする動きは、今でも堂々と行われているのだ。従軍慰安婦や南京虐殺、教科書などの問題について発言する一般市民に対し、脅迫や嫌がらせが続いているのがまさにそれである(「身辺雑記」1月31日付の「卑劣な個人への脅迫」および、「セカンドインパクト」に掲載の「相次ぐ自宅や職場への脅迫」参照)。そんな卑劣で不当な圧力に何も感じない社会風潮を、何より不気味に感じる。

 「自由にものが言えない」というのは、社会問題について発言しようとしている人たちや記者だけの問題では決してないと思う。学校や会社や役所や地域や組合の中でも、みんな日常的に感じたり体験したりしているはずだ。日本国憲法で保障されているはずの「言論・表現・思想の自由」は、果たして現在の日本に存在しているのだろうか。「言論・表現・思想の自由」だけでなく、そもそも、そのほか基本的人権や国民主権や平和主義や司法の独立など、憲法の精神や理念は日本社会にきちんと生かされているのだろうか。それらがきちんと生かされていない社会の矛盾に目を向けず、憲法改正に突っ走るのは本末転倒だ。まずは憲法の理念がすべての市民に反映されることが、優先されなければならない。

 朝日新聞はきょう付の紙面で、支局襲撃事件を見開きで特集し、一般記事でも取り上げたほか、憲法関連の記事もたくさん掲載している。「国家主義の空気」に警鐘を鳴らして、覚悟の取材を続ける現場記者の決意も書かれている。それならば憲法記念日などの特別な日だけでなく、日常的にもっと骨のある記事や連載を掲載してほしいと、同業者として自省も込めて苦言を呈したい。支局襲撃事件から朝日は確実にたじろぎ、ひるみ、そして自己規制して腰くだけになったように思えるからだ。先にも書いたように、恐怖を感じてたじろぎ、ひるむのは仕方ないと思う。しかし個人としては弱い存在でも、新聞社という組織であれば強い存在になれるはずだ。弱い個人を守って外圧に屈しないという姿勢を示すのは、組織だからこそできることではないだろうか。会社として無難で当たりさわりのない編集姿勢を見せれば、現場記者も無難で当たりさわりのない取材や記事執筆しかしなくなる。その結果は当然のことながら、無難で当たりさわりのない紙面展開になる。もちろんこれは、ほかのあらゆるメディアについても同じことが言える。でもそれでは、みんなを同じ方向に走らせた戦前の繰り返しになるぞ。

 「お薦め映画」の「転校生」のページに、「『転校生』の音楽について」という短い記事を追加更新しました。


5月4日(金曜日) ドライブ

 山梨方面へ愛車でドライブ。横浜で編集長を拾い、八王子で女性編集者2人と合流して中央高速に入る。一般道はスムーズに流れていたのだが、高速では予想していた通り見事に渋滞にハマった。しかしまあ、昼過ぎには何とか勝沼町に到着。僕はもっぱら女性編集者のナビに従って運転に専念するだけで、実はどこをどう回って遊ぼうというのかよく把握していないのだった。で、女性編集者がガイドブックで見つけたというフランス料理店で昼食。これが実にイケてるレストランだった。民家の応接室と食堂を改造したような造りで、よその家にお招きにあずかったみたいなのだ。アットホームな雰囲気で食事が味わえる。窓からは一面に広がるブドウ畑と南アルプスが一望。この日はたまたま曇っていたが、晴れていれば富士山も眺められるという。料理はめちゃ美味だった。チキンのオレンジソースが味わい深くて絶品。ソースを残してしまうのがもったいないと感じてしまう。サラダのドレッシングも文句なしである。食後のコーヒーも渋さや苦さがしつこくない。ん〜、いくらランチメニューだとは言っても、これで1400円というのは安いと思う。

 続いて、小高い丘のてっぺんにある「勝沼町ぶどうの丘」へ。町のシンボルだそうだ。ワイン貯蔵庫では、勝沼町産のブドウで造られた150種類のワインが試飲できる。もちろん全部を試飲することなんかできないし、僕は車を運転しなければならないので、ほんの何種類かをなめて味わうだけにとどめた。それでも地下の貯蔵庫にいるだけで、酔っ払いそうになる。酔い覚ましと言うと変だが、そのすぐ隣にある勝沼町営「天空の湯」(ぶどうの丘温泉)で一休みする。本物のアルカリ天然温泉で、室内浴場や露天風呂やラウンジなどがある立派な施設だ。その名の通り、温泉に入りながら眼下に広がるブドウ畑と南アルプスの山々が楽しめる。ゆったりお湯につかっていると、体がほぐれてすっかり気持ちよくなった。これで銭湯並みの値段なのである。なかなかやるなあ、勝沼町。

 勝沼町から一般道を通って河口湖へ。だがしか〜し。ここで最悪最低のとんでもない渋滞にハマってしまった。高速道路での渋滞は覚悟していたけど、まさか一般道でこんなことになるとは…。通常ならたぶん30分で行けるところを約3時間かかる。ようやく河口湖にたどり着いた時にはすっかり真っ暗になっていて、ちょっぴり楽しみにしていた「オルゴールの森美術館」はとっくに閉館していた。夕食は河口湖でイタリア料理。ここのサラダや料理もうまい。河口湖から中央高速に入ったら、やっぱり延々と渋滞が続くのだった。東京に着いた時には完全に日付が変わっていた。しかしまあ、連休中のドライブなんだから当たり前か。午前4時半帰宅。


5月5日(土曜日) ソファー

 カウチソファーを買おうか、どうしようかと迷っている。1万円もしない手ごろな価格で、背もたれと肘かけの部分を倒すとベッドにもなるというのがあるのだ。ぐたっと倒れ込んでテレビやビデオを見ながら、だらだらするには最適だろうと思う。お客さんが来た時にも使えるし。徹夜で原稿を書いていて、仮眠したい時にもちょうどいいかもしれないなあ。ベッドに潜り込んで寝ると完全に熟睡してしまうから、あくまでも「仮眠」だけしたい時には、横にごろんとなれるものがいいのである。しかしなあ、いくら小型ソファーでもそんなのを置いたら、ただでさえ狭い部屋がますます狭くなるもんなあ。そう考えるとなかなか踏ん切りが付かない。


5月6日(日曜日) しわ寄せ

 たまっていたメールの返事を一気にだ〜っと書いて、きょうのうちに終わらせなければならない取材電話をど〜っとかけまくる。ふう。それでもいくつか、電話のかけ残しが出てしまった。そう言えば取材経費の計算がまるで手付かずだなあ。取材の「予習」もしなければ。しかしどう考えても「予習」が優先だから、経費計算は後回しだよな。ゴールデンウイークに遊び回っていたわけでは決してないんだけど、そのしわ寄せがなぜかどっと押し寄せてきた。世間が動いていないんだから、取材できないのは仕方がないじゃん…。ああそうか、雑用を地道にこなさないのがよくなかったのか。


5月7日(月曜日) 弁護士費用の敗訴者負担

 保険のおばちゃんに半ば強引に「条件のよい保険」への乗り換えを薦められて、まあ料金もさほど変わらないのならそれもよいだろうと考えて承諾したのだが、一応の手続きとして医師の健康診断が必要なのだそうだ。そんなわけで午前中は近くの医院へ。すぐに終わるからという話だったのに、老人や子ども連れの母親らが次々にやって来て、医院の待合室はたちまち人と子どもの泣き叫ぶ声であふれかえった。検尿、問診、血圧・脈拍・身長・体重測定といった簡単なメニューをこなすのに、1時間近くも費やしてしまう。いやいや、まいったなあ。結果は問題なし。このところ健康診断を受けていなかったから、ま、ちょうどいいかもしれないな。

 午後から、東京・四谷の出版社で「月刊司法改革」の編集会議。政府の司法制度改革審議会が間もなく最終答申を出して、審議会が終了するとともに、この雑誌もその役割を終えることが決まっている。審議会の有無に関係なく「司法改革」そのものはずっと続くはずだから、発行停止はもったいないと思うけど、出版社の事情もあるわけでまあ仕方ない。それはさておき、最近クローズアップされてきた「弁護士費用の敗訴者負担」の導入について、弁護士や学者に賛成意見が結構多いそうだが、これは正直言って意外だった。少なくとも僕は「敗訴者負担」の導入には賛成できない。「司法改革全体を見れば必要である」というのが推進派の考え方だというが、今現在の司法が「市民の立場に立っているか」と言われれば、どう転んでもそんなことは絶対にないし、これから「大きく変わる」とされている司法制度の中身にも決して期待なんかできないと思われるので、だとするならば「敗訴者負担」の導入は、市民の司法からの疎外にほかならないと思う。実態を踏まえていない議論だ。

 今年2月に取材した集会で、違憲訴訟や住民訴訟を続けている市民グループから、弁護士費用の敗訴者負担についてアピール表明があった。違憲訴訟をやっている市民は次のように訴えた。「弁護士費用の敗訴者負担制度を導入しようとする動きがあるが、この制度が導入されたら経済力のない市民は提訴が困難になる。国や自治体や企業の違憲・違法行為を裁判でただして社会に知らせようと、費用を問題にしない献身的な弁護士の協力で訴訟を続けてきたのに、これでは市民の司法利用を阻むための司法改革だ」──。これが現実の市民の切実な声なのだ。仮に原告と被告の立場が対等であるとするならば「弁護士費用の敗訴者負担」もいいだろう。しかし実際には、原告と被告の立場は対等ではない。公害で苦しみ、一方的に解雇され、情報公開を求め、企業や行政や病院の理不尽さに耐え切れなかった末に、最後の手段として裁判所に訴え出てきた市民・患者・遺族・労働者は、圧倒的な情報量と経済力の差と権力にまず押しつぶされる。そしてその次に、最高裁や行政の顔色をうかがうことに熱心で弱者の訴えに耳を貸そうとしない裁判官によって、訴えを棄却されることが多い。そこに「弁護士費用の敗訴者負担」なんかが導入されたら、社会の底辺でうごめく貧しい庶民はもう怖くて裁判なんかできなくなる。「だれのための、何のための司法改革なのだろう、どっちを向いた改革だろう」と考え込んでしまう。

 四谷三丁目の無国籍居酒屋で、編集者や編集委員の皆さんと飲み食いしながら雑談。難しい話はなしで大笑いした記憶はあるけど、内容は覚えていない。食べ過ぎで苦しい。午前零時帰宅。


5月8日(火曜日) 柴田昌弘「ラブ・シンクロイド」

 5月1日付の「身辺雑記」で書いた柴田昌弘作品について、その後の感想を少し。続いて読んだのは「ラブ・シンクロイド」(全5巻)。コンピューターと一部のエリート階級によって管理・支配される惑星に、無理やりシンクロさせられてしまった地求人の高校生が、レジスタンスと一緒に闘うSF漫画だ。超管理社会を舞台に描かれるドラマは、ジョージ・オーウェルの小説「1984」を彷彿とさせ、人類の未来とあるべき姿について考えさせる。管理されていることに気付かない人々の「平穏な日常」にはぞっとするものを感じるが、中でも一番考えさせられたのは、これまでの支配体制に反旗を翻したはずの革命ゲリラ側が、自分たちのやり方に疑問を感じる人たちを、同じように弾圧して支配する体制を再構築してしまうという問題提起だった。一握りのエリートが支配する科学技術万能の体制に、底辺階層が立ち向かう構図と舞台設定は「未来少年コナン」を思い出させるが、あそこには革命ゲリラ側の市民全員が無条件に一致団結して、支配層を叩きのめしてハッピーエンドになることしか描かれていなかった。「未来少年コナン」は子ども向けの冒険アニメだから、単純明快なストーリーでもそれはそれとして楽しかったからいいと思うが、似たような設定でありながら柴田氏の「ラブ・シンクロイド」では、管理・支配に立ち向かっているはずの革命ゲリラの側にも、わずかな疑問さえ許さない全体主義の発想が出現するのだという指摘がきちんと提示される。「全市民が一丸となって正義のために闘おうというのに…」「ためらったり反対を唱える者はすみやかに排除せよ!」「革命の邪魔以外の何物でもなくむしろ敵よりもはるかに始末が悪い!」「非市民!」という論理で、少し立ち止まって考えようとする者を弾圧することに、みんな何の疑問も持たない。そうしたヒステリックな社会の空気こそ、まさに全体主義が芽生えてくる根っ子にはあるのだろう。思考停止の怖さと本質が見事に描写されているなあと思った。しか〜し。そんな面倒くさいことを考えなくても、十分に楽しめるオススメ作品である。女性がと〜ってもかわいくて色っぽく描かれています。

 あちこちに電話取材するが、どうも成果はいまいち。夕方から中央図書館で閉館時間ぎりぎりまで調べもの。取材とは直接関係ない内容だけど、こっちは予定していた通りの収穫があった。


5月9日(水曜日) ある教諭の逮捕

 千葉県の小学校の男性教諭が校長を車ではねたとして、きのう千葉県警公安3課と四街道署に傷害の疑いで逮捕された事件が、朝刊各紙に出ていた。朝、その件で都内の先生から電話をもらう。

 逮捕された男性教諭は市教委に「不適格教員」と決め付けられ、今年2月から学校現場を外されている。僕はこの男性教諭をテーマにして、「恣意的・意図的な判断での排除を危惧する声もある」という趣旨のルポ記事を「『不適格教員』にされた『金髪先生』の言い分」として、「週刊金曜日」4月13日号に書いた。本人にも脇の甘さや問題行動は確かにあるとは思うけれども、授業内容や管理職とのトラブルなどを理由に「偏向教師」のレッテルを張って、学校現場から排除しようとする意図が、この間ずっと見え隠れしていたのも事実だった。そこにきのうの逮捕である。

 新聞記事や関係者などによると、どうやら事件は「親からの苦情について校長が職員室で事情を聞いていた」「教諭が席を立ち学校敷地内の自分の車に乗り込んだ」「急発進したら車の前に立った校長に当たった」ということらしい。校長に車がぶつかったのか、接触したのか、はねたのか、そのへんの事実関係は今のところ定かではない。校長が車の前に立ち塞がったのか、飛び出して来たのか、校長に向かって車を発進させたのかについても不明である。

 僕が気になっていることは二つある。一つは「親からの苦情について事情を聞いていた」という「親からの苦情」とは、どういうことだろうということ。もう一つは、逮捕の主語が「公安3課」であることだ。通常の交通事故なら取り調べるのは所轄署が当たり前だし、仮に刑事事件であるならば、所轄署か警察本部の捜査課が出てくるのが普通だろう。新聞を普通に読んでいる一般読者は、逮捕主体が公安3課であることなんて気にしなかっただろうが、学校敷地内のトラブルによる接触事故に、「公安3課」が登場してくるのは異常である。つまり千葉県警は今回の事件と逮捕を「思想事件」であると判断しているのだろう。「すべて最初から事件として用意されていた疑いが強い」と指摘する人もいる。う〜む、すごい世の中になってきたなあと絶句するしかない。

 もう一つ気になっていた「親からの苦情」について。けさ電話をくれた先生はこう言うのだった。「あなたと教諭が一緒に保護者の家を回ったの? そのことで学校に苦情があったと知り合いの新聞記者が話していたよ」。ええ〜っ。そんなことはないよ。男性教諭にはもちろん取材をしたし、市民の家に一緒に行って話を聞いたことはあるけど、保護者を取材するのに当事者と一緒に行くなんてことはない。参考意見は聞いたが単独取材だ。で、結局、校長が何を事情聴取していたのか、「親からの苦情」とは何かは現段階ではよく分からなかったが、とにかく公安3課が出てくる騒ぎになっているのだから、電話をくれたその先生は「あなたも気を付けてくださいね」と僕のことを心配してくれた。過去も現在も、僕は記者として正当で公正な取材業務をしているだけである。法律を犯すようなことはもちろん、後ろめたい取材は何一つしていない。でもまあ、何があってもおかしくない社会になりつつあるみたいなので、行動には注意しておいて損はないように思う。いやはや、まったく…。


5月10日(木曜日) 司法と医療の座談会

 きのうからずっと、情報収集や確認やインタビュー取材などのために電話をかけ続けている。一つのテーマでなく複数項目にわたっているので、頭の切り替えがうまくいかなくて混乱しそうになる。そこを何とかこなして、ゲラのチェックなどをしつつ、さらに調べものもするのだ。ふう〜。夕方から東京・神田へ。医療専門雑誌の編集部で「司法改革で医療裁判は変わるか」をテーマにした座談会に参加する。出席者は大学医学部の法医学の教授と、医療裁判に詳しい弁護士、それにジャーナリズムの立場から僕の3人だ。あろうことか僕が司会役と発言者を兼ねて進行する。実は昨晩はこのための「予習」も同時並行でやっていたので、頭の中はかなり飽和状態なのだった(汗)。法医学の教授はその道のいわば大家なので、医療界を代表する強力なパワーに圧倒されてしまい、僕と弁護士さんはかなりタジタジである。しかし弁護士さんもさすがにベテランなので、すかさず適切な発言でフォローしてくれたので助かった。なかなか勉強になったというか、まだまだ修行が足りないなと反省するばかりである。終わってからお二人の先生にご一緒して、秋葉原駅前の居酒屋で飲む。岩手出身者が経営している店だそうで、岩手びいきの教授は店の中にすっかり和んでいる。ホヤ、里芋の煮っころがし、子持ち昆布、竹の子の煮つけ、タラの芽の天ぷらなど、場末の居酒屋(失礼)だというのに、どの料理もうまい。すきっ腹に生ビールを飲んだのだけど酔っ払わなかった。午前1時帰宅。

 きのうの「身辺雑記」で少し触れた「金髪先生」の逮捕が、だんだん大騒ぎになってきたみたいなので、当該ルポを急遽アップすることにした。本当はまだしばらくは、インターネット上に流すつもりはなかったんだけどなあ…。そんなわけで、「セカンドインパクト」のルポルタージュのページに、新しく「『不適格教員』にされた『金髪先生』の言い分」を追加更新しました。


5月11日(金曜日) 続・ある教諭の逮捕

 学校敷地内の車の「接触事故」で校長にけがをさせたとして今月8日、千葉県警公安3課と四街道署に、傷害の疑いで逮捕された千葉県の公立小学校教諭(金髪先生)の話の続きである。

 今回の「事件」を伝える新聞各紙の記事を読んでみたが、どれも警察発表(公安情報)をうのみにして、そのまんま垂れ流すだけのひどい内容だった。特に、朝日新聞のあまりにも問題意識のない一方的な垂れ流し記事には、思わず絶句してしまった。社会面も千葉版もどちらもひどい。警察発表を基にして逮捕事実や前後の様子などを書いて、さらにそれだけでなくサイド記事は「独自取材」もしたうえでまとめているように見えるのだが、実際には、校長や市教委の主張を何の疑いもなく何の裏付けもなくそのまま書いている。だから結果的には、警察発表を無批判にただ垂れ流しているのと同じか、かえってそれよりも始末が悪い記事になっているのだ。

 例えば、これまでに男性教諭は停職処分などを受けていたとか、地域から男性教諭の解任を求める陳情書が提出されていたとか、男性教諭の問題は市議会で何度も取り上げられているとか、市教委は「指導や命令を繰り返し、本人に改善を促す努力をしてきたが、服務態度が一向に改まらず憂慮している」などと答弁したとか…、もう書きたい放題である。確かに男性教諭にも脇の甘さや、いくつかの問題行動はあったと僕も思う。しかしよく考えてみたら、地域ぐるみや市議会の場で、たった一人の教員をそこまでしてつるし上げるなんてまともなことだろうか。そもそも、なぜ「公安3課」が逮捕したのかなと、記者がほんの少しでもいいから疑問に思えば、男性教諭が市教委から何回も処分や指導を受けていたその背景に思い至るはずだろう。授業内容や「日の丸・君が代」をめぐって、市教委や管理職との対立や確執がずっと続いていたことが問題の背景にはある。別の角度から少し取材すればすぐにわかることだ。だが残念ながらこの記事を書いた記者には、そういう問題意識が完全に抜け落ちている。警察発表や校長らの言い分を「変だな」なんて感じる感覚は、まったくどこにも働いていない。

 読売新聞が比較的トーンを抑えて書いていたのが、少し意外な感じだった。発表をそのまま書くのなら、発表をなぞることだけに徹して、「警察はこういう内容を広報した」という事実を淡々と書けばそれでよい。余計なことを書かなかったという意味では、読売の記事はまだ潔くて冷静だと思った。サンケイがいつものように意図的に、悪意全開で「問題教師」と決め付けているのは、そういう媒体なのだから別に今さら何も言及することはない。あれは新聞という分類には入らないので。

 男性教諭逮捕の関係だとか、ほかの教育問題や司法改革のこと、取材依頼、私的なことなど、きょうは朝から電話やファクスが次々に入ってくる。僕の方からも電話であちこちに問い合わせや確認や情報収集をするといった具合で、一日中ずっと身動きが取れない状態が続いた。ふう〜。そもそも体は一つだけなんだから、やりたい取材とかやるべき取材のテーマはたくさんあっても、全部をこなすなんて物理的に無理だよ。あ〜、取材助手みたいなのがいればいいのになあ。いや、もちろんそれは冗談で、自分自身がそんな助手を使うほどの大層な記者ではないし、お金を払う余裕なんてどこにもないです(汗)。要するに猫の手を借りたいほど忙しいけど貧乏だというわけなのだ(笑)。


5月12日(土曜日) こってり系しつこいラーメン

 JR根岸線の磯子駅周辺や国道16号の沿線には、「うちこそ本物の味だ!」という煮えたぎるような自信を持っている(と思われる)ラーメン屋が、あちこちにたくさん点在している。さらに環状2号の道路沿いにも、最近はそういうマニアックなと言うか、こだわりを持ったラーメン屋が次々に営業を始めた。で、きょうは磯子駅から少し離れた京急・屏風ケ浦駅の近くのラーメン屋に入った。こってり味のとんこつラーメンの店だという。実はそういうこってり系を僕はあまり好まないので、いつもは避けるのだけど、きょうは何となくこってり系が食べたい気持ちだったのだ。

 豚の背油がたっぷりのスープはなかなか落ち着いた感じで、それほどくどくはないかなと思って食べ始めた。麺はしこしこと弾力があっておいしい。チャーシューがとろけるような柔らかさで、まるで太肉(ターロー)みたいだ。そして、これもまた柔らかいゆで卵の黄身が半熟になっている。とろっとしていて味わい深い。ん〜、これで600円だったら安いよなあ…なんてことを考えながら食べていると、そのうちだんだんと全体がくどく感じ始めてきたのだ。まだ半分くらいの麺が残っているのに、スープの油っぽさとしつこさに辟易し始めたのである。や、やっぱりこってり系とんこつラーメンだ。とてもじゃないがこれ以上、このとんこつスープを飲むなんて芸当は僕にはできない。周りの客を見ていると結構みんな、半分以上もスープを残して店から出て行くではないか。そうだよなあ、本当においしいスープだと思わず底の方まで飲んでしまうけど、こんなにもこってりしたスープだと、仮にいくらおいしくてもとても飲めないよなあ。たぶんこの店ではもう食べないと思う。

 まあ、人それぞれの好みというものが、もちろんあるとは思うけどね。とんこつラーメンでおいしいと僕が感じたのは、これまでに1軒だけしかない。前に「身辺雑記」で、「唐辛子をつけて食べさせる水餃子がうまいラーメン屋」というふうに書いたことのある店だ。同じ国道沿いにあって、今でも時々食べに行く。ここのラーメンは同じとんこつ系でも、あっさりしていてしかもコクがあるという素晴らしいスープなのである。きょうは残念ながら、そっちの店は閉店時間を過ぎていたのだった。


5月13日(日曜日) 放送メディア

 メジャー系FM局のBSデジタル放送からの依頼で、1時間のインタビュー番組に出演することになった。僕の本を読んでくれた番組スタッフが「今の時代状況」に関心を持っていて、ゲスト出演の運びになったそうだ。いろんな人が読んでくれているんだなあと感激する。スタジオでの収録はまだ先だけど、まあ取材の背景や感じたことなどを、質問に合わせて答えていけば何とかなるだろう。

 ほかのメディアとの絡みで言えば、例の「金髪先生の逮捕」は、いくつかのテレビのワイドショー番組でも取り上げられたらしい。僕は見ていないけど、関係者が教えてくれた。実を言うと僕のところにも出版社の編集部を通じて、あるテレビ局から取材依頼があった。「教諭と交流があったそうなので話を聞かせてほしい」ということだったが、忙しくてそんな暇がないこともあって丁重にお断りした。そもそも教諭とはあくまでも取材記者と取材対象者という関係なのであって、そこのところを誤解されては困る。僕自身のことについて話すのとは違うのだから、べらべらと何でもしゃべるわけにはいかない。テレビ局には編集部デスクから「伝えるべき内容はすべて記事の中に書いたので、そちらを読んで判断してほしい」と応答してもらった。ちなみに今週発売の「週刊金曜日」に短信だけど、逮捕事実やその意味などを続報として突っ込む予定だ。


5月14日(月曜日) 小泉答弁の詭弁

 小泉内閣の支持率がまたまたぐんとアップして、民放テレビ局が週末に実施した世論調査ではついに91%を超えたそうだ。ん〜、だけどなあ、国会答弁で「靖国神社公式参拝のどこが宗教上の問題があるのか」などと大声で反論しているのを見ていると、やっぱりかなり不安な気持ちにならざるを得ない。代表質問や予算委員会の質疑にしても、用意した答弁書を見ないで身振り手振りを交えて自分の言葉で答えるのは、靖国神社の問題をはじめ郵政民営化や構造改革など自分の土俵の上の話だけじゃん。ほかは答弁書を棒読みしている。中でも僕が引っかかったのは、郵政民営化について質問されて、小泉首相が「国鉄が民営化されて電車がなくなりましたか。電電公社がNTTになって電話がなくなりましたか」などと得意気に答弁したところだ。そのまま聞いていると納得させられそうになるが、そんな乱暴な反論の仕方はないだろう。国鉄民営化で、赤字ローカル線は次々に廃線になったではないか。採算を度外視してでも過疎地域の住民の貴重な足を確保できたのは、国営だったからこそだ。それが福祉や行政の役割というものだろう。山手線や中央線は走っているけど、なくなった路線(電車)はたくさんある。しかも大量の鉄道員たちが解雇されて今も裁判で闘っている。郵便局が国鉄と同じことにならないという保証はないと思う。そんなわけだから、小泉首相の主張は何となく信用できないんだよなあ。

 暑〜い。このところ首都圏はすっかり初夏の陽気だ。首都圏に限らず全国的にそんな感じらしいけど、そろそろシャツの長袖を腕まくりするのは止めて半袖シャツにした方がいいかな。ユニクロで初めて買い物をした。買ったのはそんなわけで半袖シャツである。1着の値段は1900円と安い。それなりに気に入ったデザインのものがあったのでついつい2着も買ってしまうが、それでも消費税込みで4千円に届かない。問題は着心地だよな。まあ、それはこれから判断だ。しかしこれだけ売れているのだから、ただ安いというだけではないのだろう。久しぶりに近くのインド料理専門店で、カレー&ナン&バーベキューのお得なランチセットを食べる。食欲をそそるメニューで、しかもボリューム満点なので満腹である。よし、この勢いで仕事をやるぞっ。少し労働意欲が萎えていたところだったので、自分で自分に喝を入れるのだった…。


5月15日(火曜日) 「切ない系・時間モノSF」

 僕が好きなドラマや漫画や小説のジャンルの一つとして、どうやら「切ない系・時間モノSF」というものがあるらしいことに、最近気が付いた。そんなの今ごろになって気付くなよって声もあるだろうが、でも実際にそうなのだから仕方がない。例えばきのう、本屋でたまたま表紙とタイトルが気に入ったので買った「ボクらがここにいる不思議」(流星ひかる、ワニブックス)というコミックスが、まさにそういう内容だった。表題作はこんなふうに始まる。図書館で知り合った一つ年上の少女と受験勉強をするうちに、少年は次第に少女にひかれていく。しかしその少女は、実際にはこの世には生まれていなかった。後に少年と友達になるもう一人の少年の、双子の「姉」になるはずだったのだ。双子の「弟」が事故で意識不明になっていたわずかな時間に、成長した少女として「この世界で少しだけ遊ばせて」もらっていた…と話は続くのである。出会っていたその瞬間には確かに2人の心はしっかり通い合っていたはずなのに、もう二度と再び一緒に話すことができない遠い存在になってしまうという展開に、胸がきゅんと締め付けられるような気持ちになって思わずうるうるしてしまう。

 異空間や時の流れを超えたところで登場人物たちは出会い、そして強い結び付きが生まれ、でも「住む世界」が違うことから最後には永遠の別れが待ち構えていて、しかしその大切な思い出は何らかの形で心の中にしっかり刻み込まれている…。というのが、たぶんこのジャンルの話の基本設定だろう。そこに時間の流れなどをテーマにして、人間関係だとかドラマ・事件などが複雑に絡み合って話は進んでいくのである。そう言えばNHK総合で、夕方に連続放送していた「少年ドラマシリーズ」にしても、そういう展開の作品が多かったのではないだろうか。「タイムトラベラー」(原作はもちろん筒井康隆の「時をかける少女」)なんかその典型例で、ただただ切ない気持ちにさせられる。村山由佳の「もう一度デジャ・ヴ」や、今月読んだ柴田昌弘の「ラブ・シンクロイド」も同系統の小説や漫画だ。最終的にはハッピーエンドになるので、読者としてはかなり安心させられるのだけどね。映画「転校生」も考えてみれば、ある意味でこの系統の変形作品と言えなくもないよなあ。


5月16日(水曜日) デスクワーク

 先週やった「司法改革と医療裁判」の座談会のゲラが上がってきたので、内容のチェックと赤字入れ。それにしても上手にまとめてくれたものだ。担当ライターさんのご苦労がしのばれる。そのほか電話取材などをしつつ、今週末に頼まれている講演のレジュメを作成して主催者にファクス送信。まあこの事前の構成準備さえしっかりできていれば、当日は何とかなるだろう。僕の場合は面白おかしく話を盛り上げるタイプではないので、問題点を整理しつつ取材を通じて感じたことを訴えかければ、たぶん聴いてくれている皆さんも納得してくださると思う。もちろん会場が盛り上がるように努力はするけれど…。ん〜、きょうはデスクワークばっかだな。


5月17日(木曜日) 外野勢力

 原稿の執筆依頼がいくつか。締め切りが立て込んできて、またまた綱渡り状態になりそうな予感がする。でもそれは、記者としてはとってもありがたいことだから、私的な時間も確保しつつ、きちんと仕事をこなさなければならない。だがしか〜し。ここにきて外野勢力がいろいろとうるさい(らしい)。まだしてもいない講演内容に対して「嫌な動き」があるという情報が、関係者などからいくつか寄せられている。え〜っ、うっとおしくて嫌だなあ。このほか、いつも「一方的で意図的な悪意のある記事」を出すことで知られている出版社から、既に僕が発表した記事に対して、意味不明の質問と取材の申し込みがきたりもしている。そんなのさあ、ちゃんと記事を読めば分かることじゃん。本当は「同業者」だなんて思いたくもないんだけど、一応は「同業者」だというのなら、もう少し説得力のある文章を書いてほしいんだけどなあ。読解力とか理解力がないのか、それとも、わざとそういうフリをしているのかな。いずれにしても、そういうのに構っている暇なんてないっつーの。適当に面白がっていればいいのだろうけど、不愉快な気持ちになる方がまだ強いみたいだ。ん〜、まだまだ未熟者だな。


5月18日(金曜日) 時代への不安

 夕方から、横浜で開かれた「日の丸・君が代」の強制に反対する市民集会に顔を出す。右翼団体から会場に対して嫌がらせがあったということで、会場側の職員やガードマン、主催者側スタッフらが大勢で警戒している。緊張した雰囲気が漂っていたが、プログラムは滞りなく進行して集会は無事に終了した。しかし、一時は嫌がらせを受けた会場側が貸し出しの取り止めを言い出すなど、憲法で保障されているはずの「集会の自由」が否定されるような事態に発展しかねない状態だったのだという。自主規制、委縮、過剰反応、そして物言わぬ人々…。たぶんこうやって、一歩ずつ時代はよからぬ方向に進んでいくのだろう。そうしてふと気が付いたら、自由に発言したり集会を開いたりすることが厳しく制限されてしまうというような、そんな取り返しのつかない社会が現実のものになってしまうのかもしれない。「そんなことあるはずないよ」「何でも自由に話せるじゃん」と思っていたら、いつの間にか時代は大きく旋回していたなんてことも十分あり得ることで、決して考えすぎではないように思う。あまりに近視眼的で平面的なものの見方しかできない人たちや、やたらに管理・統制を好んで逸脱を許さない場面を目にする機会が多いからだろうか。最近取材していて、そうした「時代の予感」みたいなものを強く感じてとても不安になる。

 ともあれ、安堵感と拍子抜けした空気のまま、関係者とともに近くの居酒屋へ。金曜日だからものすごく混んでいて、なかなか落ち着いて話ができない。高校の先生グループと話がしたかったんだけど、あいさつ程度で終わってしまったのが残念。午前零時帰宅。

 「サードインパクト」のフロントへのアクセスが、きのうは一日に千件以上あった。全体のアクセス状況を見たところ、「トトロのページ」に2千件を超える訪問があった影響のようだ。いつもの5倍のアクセス数である。どうやら、クイズ番組で「トトロ」に関することが出題されたためらしい。う〜む…。


5月19日(土曜日) 絶妙な質疑応答

 午後から藤沢市のカトリック教会へ。「『日の丸・君が代』の強制を地域から考える市民集会」の講師を頼まれたので、1時間ほど話をする。インターネット上で個人情報を出して中傷したり、個人宅や職場に脅迫電話をかけたりすることで知られている右翼(自慰史観グループ)の連中が、教会や主催者に嫌がらせをしていると聞いていたので心配したのだが、きのうの横浜の集会と同じように、こちらも何事もなく平穏無事に終了。頭のイカレた人たちが会場までやって来たら嫌だなあと思っていたので、正直言ってほっと一安心である。やっぱり、そういう面倒な連中とはできればかかわりを持ちたくないもんなあ。いやでも、そうやって「面倒にはかかわりたくない」と委縮したり逃げたりするのが、私たちの大切な「言論の自由」を失ってしまうことにつながるのだから、ここは毅然とした姿勢を堅持しなければならない。発言すべき時にはきちんと発言しなければならないのだ(←カッコつけすぎ)。

 会場には結構ぎっしりと人が入っていて、やはり大勢の前で話をするのは緊張する。時間が少なかったので話を少し端折ったこともあるんだけど、きょうの自己採点は赤点ぎりぎりといったところかな…。質疑応答は会場とうまくキャッチボールができて、そこそこよかったんじゃないかと思う。その中で「ここにきて若い世代を中心に、どうして国家主義の動きがこんなに広がっていると思いますか」「森内閣の超低支持率が小泉内閣で超高支持率になるというような、急激に上下する民衆の意識のブレをどう見ますか」という2つの質問は、ポイントとタイミングが絶妙なとてもいい問いだなあと思った。話が足りないところをうまい具合に補足してもらったようで本当に助かる。質問者に感謝である。

 それにしても、教員はさすがに話がうまいなあと改めて感心させられる。第2部で数人の方が「現場からの報告」ということで発言されたのだが、学校の先生が立て板に水のように話すのだ。思わず聞き入ってしまった。集会終了後、その「立て板に水のように」話した高校の先生と近くの海鮮居酒屋へ。きょうの集会内容の反省などをしつつ、「足元をすくわれないためにはどうすべきか」というような話で盛り上がる。例の「金髪先生」に絡んでくる話題でもあるのだけど、これがなかなか奥の深い話なのだった。


5月20日(日曜日) 二足のわらじ

 出版社の宣伝部に勤める知り合いが都内でイラスト展を開いていて、見に来ませんかと案内のはがきをくれた。いわゆる「二足のわらじを履く」というやつである。動物や魚などをテーマに、なかなか味わい深いタッチの作品を描いている人だ。面白そうだし生原画を見たことがないので出かけようと思っているんだけど、一人でぶらっと見に行こうかな、それともだれかを誘って行こうかなあ。

 爆睡。寝すぎたというのもあるが、寝入りばなに電話で起こされたのと、風邪気味なのとで体調はいまいち。それでも原稿執筆。う〜ん、気合いを入れてちゃんと書き上げなければ…。


5月21日(月曜日) 納得いかない原稿

 きょうが締め切りの原稿をどうにか書き上げて送信する。しかしだなあ、予想以上に四苦八苦して手間取ったうえに、予定の時間をはるかに超えてしまった。おまけに、いまいち出来上がった原稿がしっくりこない。う〜ん、たぶん書き出しがピタッとこなかったものだから、そのままずるずると最後までぎくしゃくして、挙句に満足できないまま最終ラウンドまで行き着いて、行数だけはつじつまを合わせたのだろう。一応、段落の入れ替えとかやってみたんだけどな。ん〜、それでもやっぱり納得いかない。あしたもう一度、原稿を読み直して、おかしかったら修正することにしよう。眠い。


5月22日(火曜日) 雑用こなしデー

 朝起きて、きのう出稿した原稿をもう一度、読み直してみる。そんなにひどい構成ではなかった(ように思えた)が、いくつかおかしな文章や表現があったので部分修正する。差し替え原稿として送信した。ん〜、まあいっか。でもって、きょうは完全に「雑用こなしデー」である。取材写真をスピード現像に出す、行政サービスセンターで住民票を取る、郵便局で郵便物を投函、家庭用の市販薬をマツモ◯キヨシで購入、ティッシュペーパーやシャンプーなどの日用雑貨をダ◯エーで買い求める、図書館で必要な新聞・雑誌記事を探してコピーする…などなど。どれも一つ一つは大したことないんだけど、やることだけはたくさんあるので、紙に書いておかないと忘れてしまう。まるで子どものお使いだ。ポケットに入れたメモを見ながら順番にこなしていくのだった。え〜っと、やり残したことはなかったかな。メモをチェックしていったから、どうやら漏れはないようだ。書評を書くのに必要な漫画の単行本を探して、いくつか書店を見て回ったが、残念ながら横浜では見つからなかった。あすは都内に出かけるので、たぶんなんとかなるだろう。それにしても、まじで半日つぶれちゃったよ。とほほ。


5月23日(水曜日) 番組収録

 午後から、東京FM系列のBSデジタル放送の番組収録。東京・外苑前にあるスタジオで、著書「日の丸がある風景」と取材活動などをテーマに、1時間半ほどインタビューを受ける。こじんまりしたスタジオは、高校の放送室みたいな雰囲気があって懐かしさを感じるが、実はかなり緊張していて高校時代を懐かしむどころではなかったりするのだった。ん〜、何だか空回りしてしまったような気がする。あんなのでよかったのかなあ…。うまく編集してくださいとお願いするしかない。番組は音楽を1曲ほど挟んで1時間。ゲスト出演者の僕へのインタビューだけで構成されるという。6月9日が本放送で、翌日と翌々日に再放送があるそうだ。BSデジタル放送を聴くには特別なチューナーが必要なんだけど、残念ながら僕はそういうのは持っていない。後ほどダビングしたテープをいただけるとのことだが、たぶん恥ずかしくて聴けないだろうな…。

 四谷の出版社に顔を出して雑談。ちょうど大阪から面白い教育関係者が上京して来ているとのことで、女性編集者に紹介されて、3人で四谷で飲む。なるほど確かに面白い人だった。メディアの問題にもかかわっている人で、関西を中心に広くネットワークを構築しているそうだ。今後ともよろしくお願いしたい。午後11時帰宅。それから午前1時半近くまで電話取材。そんな夜中に…と普通ならひんしゅくものだが、本日中に打ち合わせが必要なものだから、無理を言って長々とお話を聞かせてもらった。

 ハンセン病訴訟判決と控訴断念 ハンセン病患者に対する隔離政策など国の責任が問われた国家賠償請求訴訟で、熊本地裁(杉山正士裁判長)が今月11日に言い渡した判決は、患者の人権を著しく侵害した国の政策は違憲であると明確に判断し、国会の立法不作為も含めて国側が全面敗訴するという画期的な内容だった。司法が、行政・立法の責任と違憲性をかつてないほどまでに厳しく批判したという点で、まさに司法の正義と独立性をはっきりと示したと言える。特に相手が国や行政や大企業である場合に、どっちを向いているのかまるで分からない判決を出すことの多かった司法が、珍しく本来あるべき姿を全面に出してしっかりとその機能と職責を果たしたのだ。この判決に対して、控訴する姿勢を示していた政府がきょうになってようやく「控訴断念」に転じた。90年以上の長きにわたって差別と偏見を強いられてきた元患者らにしてみれば、政府の「控訴断念」はあまりにも当然の話だろう。高齢化している元患者らの立場を考えれば、とにかく「控訴断念」でほっとされたことと思う。とにかくまずはよかった。しかし、判決からここに至るまでが約2週間。そもそも政府は最初から判決が言い渡されてすぐに、憲法違反の非を素直に認めて心から反省して謝罪すべきだったのである。小泉首相がそれまでの控訴姿勢を土壇場でひっくり返して、控訴断念の「決断」をしたのが演出効果を狙ったものなのかどうかは知らないけれども、そして確かに結果としてはオーライではあるのだけれども、それにしても判決から2週間もずるずると控訴をちらつかせて、元患者たちの心を翻弄したのはやっぱり納得がいかない。「だったら最初から素直に謝ればいいじゃん」と、僕なんかはその行動をむしろマイナスの目で見てしまうのだが、逆にそうではなくて「土壇場で決断したのはさすがだ」とプラスに見る人の方が多いのだろうか。そうして91%の内閣支持率はさらにアップして、95%とかに跳ね上がっていくのかなあ。う〜ん…。

 政府の「控訴断念」は当然の結論だった。そもそも熊本地裁の判決こそ賞賛されるべきものなのだ。かつてないほど司法の存在意義と原告側の正義をはっきりと示したのだから。これは繰り返し強調しておきたい。無謬性、面子、国の権威…そんな観念に支配された官僚の抵抗があったのは分かるが、だからこそ余計に残念に思うのは、だったら最初から控訴断念を打ち出して明確に謝罪していたらよかったのに、ということなのだ。そうしたら小泉首相の改革姿勢への評価は、また違うものになっていたんだけどなあ。

 しかしここで、もう一つ別のおかしなものが登場してくる。「控訴断念」とともに出された「政府声明」である。これは一体なんなんだ。「司法がそのチェック機能を超えて…過度に制約…三権分立の趣旨に反する」「法律論としてはこれをゆるがせにすることはできない」とはどういうことだ。熊本地裁の判決は、これまで裁判所が長らく放棄していた司法のチェック機能や違憲立法審査権を、まさに国民の立場に立って正当に行使したのではないか。この噴飯ものの「政府声明」は、全面的に断罪された国の責任を少しでも薄めるために、司法の「姿勢」に責任を転嫁しようとしていて、見苦しいというよりも醜悪である。論点をはぐらかそうとしているのが見え見えで、盗人たけだけしいことこのうえない。公害や戦後補償の問題などほかの多くの国家賠償請求訴訟を審理している裁判官の皆さんは、こんないかがわしい「声明」にひるむことなく、憲法と法律と良心のみに従って毅然とした判決を出すことで、司法の正義と独立を示してほしい。


5月24日(木曜日) 発言者として参加

 夕方から、東京・多摩市で開かれた「教育の自由を考える市民集会」へ。およそ言いがかりのような理由で、教育委員会から処分されようとしている中学校の先生の問題を考える集まりである。自由な教育、自由な学校とは何かが問いかけられたのだが、雨の中を大勢の市民や保護者が集まった。きょうの僕の立場は取材記者ではない。これまでの教育問題の取材を通じて、何がどう問題であると感じたかをコメントする発言者としての参加だ。それとともに、当事者の先生にインタビュー(質問)する形で話を聞き出すという役割を頼まれた。みんなが聞きたいことを素朴に聞いて、それに対して答えてもらうことで、問題の所在や背景を知ってもらおうという構成である。僕はこの問題についての取材はほぼ終わっているので、すでに聞いて知っていることをもう一度おさらいするような感じで聞くことになる。こういうふうに集会を進めていく方法もあるんだなあと少し感心したりして。この問題については来週発売の「週刊金曜日」に、ルポ記事が掲載される予定だ。集会終了後、近くの居酒屋で保護者や市民、関係者らと2時間ほど歓談。午前1時帰宅。すっごく眠い。あすは朝が早いんだよな…。


5月25日(金曜日) 拘置理由開示公判

 睡眠不足のまま早起きして千葉地裁へ。「金髪先生」の拘置理由開示公判(白川敬裕裁判官)を傍聴取材する。「金髪先生」は今もずっと四街道署の「代用監獄」に拘置されたままの状態に置かれているのだが、なぜ逮捕・拘置される必要があるのか、その理由を裁判官が被疑者・弁護人に開示(説明)するのが拘置理由開示公判である。傍聴席は全部で18席あって、一般も報道もすべて公平に先着順で傍聴券が配られた。法廷に現れた「金髪先生」は元気そうに見えた。裁判官は、警察の調書に書かれた内容をそのまま一方的に容疑事実として述べ、そのうえで「罪証隠滅(証拠隠滅)の恐れがある、逃亡の恐れがある」などと拘置理由を説明した。もちろん被疑者・弁護人がそれで納得するわけはなく、弁護人は「証拠隠滅の恐れがあるとはどういうことなのか、どこに逃亡する恐れがあるというのか、具体的に説明してほしい」と食い下がった。また、被疑者である金髪先生本人は次のように意見陳述した。「朝のうちに四街道署に電話し、任意出頭して事情聴取に協力までしたのに、聴取を終えて警察署を出ようとしたところでなぜ逮捕されなければならないのか。(被害者とされている)校長は自分から車に当たって転んだのである。事件はでっち上げだ。校長に押されて転び、学校教育課長からも手をねじ上げられて負傷した私の方こそ被害者だ」。しかし、裁判官はいずれの主張もすべて一切はねつけ、ただ「証拠隠滅の恐れがある、逃亡の恐れがある」と繰り返すだけだった。校長と「金髪先生」の言い分は完全に食い違っている。

 「拘置理由開示公判」というのはどれもこんなもので、言わば形式的なものに過ぎないのは知っていたが、しかしここまでひどいのかと改めて驚かされてしまった。身柄拘束するための合理的・具体的理由は、見事なまでに何一つとして説明されないのだから。記者としていくつもの法廷を傍聴取材したけど、これほどまでに一方的で高圧的な姿勢を裁判官が示すのは、やはり「拘置理由開示公判」という特別な法廷だからこそなのだろうか。だとしたら、まさに制度そのものの不備が問われなければならないだろうし、警察の取り調べ内容をうのみにするだけの仕事しかしない裁判官の姿勢が、厳しく問われるべきだと思う。これでは、司法としての機能を果たしているとはとても言えないだろう。「拘置理由開示公判」というものの実態が、今さらながらよく分かった。被疑者が逮捕されてから公の場所で意見陳述する初めての機会が与えられて、そして元気そうな姿(あるいは弱っている様子)を見せる、本当にただそれだけの場所でしかないんだなあということだ。

 せっかくわざわざ千葉まで来たのだから、千葉県教委や教職員組合などを取材。その後、東京・秋葉原を散策して回る。いろいろと収穫あり。夕方から、品川で「日の丸・君が代」強制反対の市民集会を取材する。卒業式で「国歌斉唱」の際に起立しない来賓は式に招かない、と区教育長が議会説明したことについて討議。教職員組合、生徒、国会議員、弁護士などの立場から多様な主張があった。内心の自由とは、憲法は、そもそも来賓とは…など面白い内容だった。終わってから関係者と居酒屋で懇談。午前零時過ぎ帰宅。


5月26日(土曜日) 公園の犬

 うちの近くにはかなり大きな公園があって、ベンチや芝生で寝転んで昼寝したり、釣りや散歩を楽しんだりと、老若男女がそれぞれのんびりした時間をゆったり過ごしている。で、たぶん一番多いのが、公園周辺のあちこちからペットの犬を連れて遊びにやって来る人たちだろう。ゴールデンレトリーバーもいれば、シベリアンハスキーもダックスフントもいるし、柴犬などの日本犬もいる。「公園に犬」の風景はもう「欠かせないお約束」だが、それにしても犬を飼っている人がこんなに大勢いるというのは驚きである。犬を連れて散歩する姿や、広場に集まってそんな自分の愛犬自慢をしている一群を目にすると、とても楽しそうで、犬を飼いたいなあとうらやましく思う。でもまあ、うちは集合住宅だから大型犬を飼うのは無理だし、小型犬であっても世話をするのが大変だから、やはり野望は野望でしかないのかもしれない。猫なら大丈夫そうにも思えるけど、これもやっぱりきちんと世話ができるかどうかを改めて考えてみると、なかなか自信が持てない。てゆーか、部屋の中をめちゃくちゃにされそうでそれが怖い。


5月27日(日曜日) 事実の積み重ね

 初校ゲラを細かくチェック。微妙な部分が多い原稿なので(それは今回に限らずいつものことだけど)、事実関係を再度確認するためにあちこち電話したり、そのほか入念に裏付けを取ったりという作業に時間をかける。記事の種類としては「事実に基づいたルポや調査報道」に該当するので、いろんな立場や考え方の読者が読んでも説得力があるように、事実を積み重ねて書くのが鉄則だ。立場を明確にして主張や評論を全面展開した方が、そりゃあ気楽なものだし、しかも同じ考え方をする人々には「受け」がよくて分かりやすいかもしれないけれど、それでは反対の立場の人や無関心層や中間層の人たちには受け入れられない。もちろん記者としての確固とした姿勢や考え方は持っている。しかしなるべくそういうものは表には出さないでうちに秘めておいて、こんな事実やあんな証言やこういった背景があるんですよ…などと事実をいくつも並べて示したうえで、読者に判断してもらえるように書くのが、最も説得力がある報道の形だろうと僕は思うのだ。まあ、時には立場や考え方を出しながら主張する形の記事にすることもあるが、僕の場合について言えばそれはあくまでも例外と考えている。純然たる評論記事やコラムはもちろんこの限りではない。


5月28日(月曜日) 低所得者!

 市民団体の事務局長と久しぶりに会って話をした。新聞社を辞めて以来の再会である。「どう、ちゃんとやっていけてるの?」と聞かれたので、僕は「ええ、低所得者ですが、まあ何とかぎりぎりです」と返答した。だってそれが事実なんだから仕方ないよな。「お陰さまで高額納税者なんですよ」なんて答えてみたいもんだが、でもそうしたらせっかくの高額納税が軍事費や機密費などに使われてしまうのも不愉快なので、だったらむしろ低所得者である方が、今の世の中ではいいポジションなのかもしれない。それに消費税は所得の高低にはまるで関係なく、すべての市民が一律平等に納めざるを得ないわけで、消費者である限りみんな立派な納税者なのだ。ん〜、ここでそんなことを威張ってもしょうがないか。「ペンだけで食べていくのは大変だろう」とよく言われるが、確かに大変ではあるけれども、まがりなりにもペンだけで何とかやっていけているのは恵まれていると思う。できれば原稿料と印税ががっぽり入ってきて、左うちわで取材活動ができれば言うことないんだけどなあ。

 この「身辺雑記」は原則として、寝る前にその日の雑記を書いて更新することにしているのだが、このところしばしば睡魔に負けて寝てしまい、起きてから更新することが時々ある。そんなわけで本日も、たまっていたメールのチェックをして返事だけ書いて寝てしまったので、起きてからこうして更新している。だけど、やっぱりこういうのって寝る前に勢いで書かないとダメだよな。よほど眠い時でない限り、その日のうちに書くのが原則だ。以上、言い訳。


5月29日(火曜日) メディアの危機

 東京・新橋の映像調査会社に立ち寄って録画ビデオを受け取ってから、霞が関の弁護士会館へ。東京の三つの弁護士会主催の「報道被害を考える」シンポをのぞく。ロス疑惑の三浦和義さんやキャスターの鳥越俊太郎さん、桶川ストーカー殺人事件の被害者代理人の弁護士らがパネリストである。「メディアは平気で嘘をつく。誤報とやらせを延々と流す。なぜ個人を特定して報道しなければならないのか。それで救済手段があるのか。冤罪や報道被害で苦しんでいる人が今もいることを分かってほしい」などと訴える三浦さんの発言は、聞いていて耳が痛くなることばかりだが、具体的でとても説得力がある。「新聞の在り方を検討する委員会が各社にあるが、委員は高名な学者や弁護士ばかりだ。少なくとも一人ぐらいは、実際に報道被害に遭った人が委員として入ってもいいのではないか」という提案ももっともだと思った。一方、鳥越さんは現場の経験が長いだけに話が分かりやすい。「報道被害者を作ったのもメディアであり、報道被害者を救うのもまたメディアである。取材・報道する者の人格にかかわる問題であって、システムの問題ではない。心の痛みや悲しみを受け止めて理解することができるかどうかということだ」という発言は、まさにその通りである。メディアの人間たち一人一人の感性や問題意識の在り方が問われているのだ。しかしテレビのワイドショー番組などは、みんなが心の中に多少は持っている「他人の不幸をのぞき見したい」という気持ちに焦点を合わせているわけで、鳥越さんの言うように、残念ながらこれは「国民のレベルに合った内容」なのだろう。「人権侵害された人が自ら声を上げるしかない」という指摘もまた現実だ。

 弁護士会館に来たついでに、すぐ隣の裁判所の記者クラブに詰めている司法担当記者の友人を呼び出して、近くの料理屋に飲みに行く。今春の異動で関西から東京に戻ってきたばかりの友人は、司法担当の大変さを楽しんでいるようにも見える。最初はそういう取材のあれこれを話していたが、次第に話題は最近の若手記者の実態へ。本多勝一や鎌田慧を知らないなんて序の口で、東山魁偉も知らない、ベトナム戦争はどことどこが戦ったのかも知らない。そしてまるでたちの悪い冗談のように、なんと「馬耳東風」という四字熟語も知らないときたので、なかなか見事なオチが付いたなあと感心していたら、これはすべて実話だというのだ。ああ…。おまけに、記者会見に出たら、会見者の主張を鵜呑みにして疑問も持たずに丸投げするというのだから、権力監視の在り方がどうのとか報道倫理がどうしたなんて議論する以前の問題だ。どうやらメディアはどこも、そんな深刻な事態に直面しているらしい。記者の資質とか感性の問題を超越している。しかしどうしてそんな人間を採用するかねえ。さきほどのシンポの内容と合わせて、まさにメディアは危機的状況だ。午前1時すぎ帰宅。


5月30日(水曜日) 「思想検事」

 荻野富士夫「思想検事」(岩波新書)を読み終える。戦前の厳しい思想・言論弾圧と言えばすぐに特高警察を思い浮かべるが、実は特高と並んで抑圧装置として機能したのが思想検事だ。法律の制定と実際の運用を担って、弾圧の最前線に立ったエリート検事たちの実態が、分かりやすくまとめられている。治安維持法の運用・適用範囲がどんどん拡張され、次々と取り締まりの対象が広げられていく実態が恐ろしい。こじつけとしか思えない詭弁のような論法を平然と繰り出し、強引で一方的な法律解釈によって、弾圧は社会民主主義、民主主義、自由主義、新興宗教へと進む。とにかく「国体」を否認する者や、政府や戦争に批判的・非協力的な言動は徹底的に排除されていくのだ。読みながら「ちょっと待てよ」と思った。ここに書かれているのは1930年〜1940年代の話だが、この社会状況はまるで今と同じではないかと感じたからだ。

 例えば、ただ旗と歌を規定しただけの「国旗・国歌法」や、教育目標と指針を定めただけに過ぎない「学習指導要領」が、どんどん拡大解釈されて、いつの間にやら「君が代」は「起立して心を込めて歌わなければならない」ことになっている。そういう指示に従わない教員や、あるいは子どもたちを指導しない教員は処分され、下手をすれば分限免職(懲戒免職)されてしまうところまで来ている。これってどういうことなんだろう、というのが取材を通じて感じる僕の率直な疑問だ。まず手っ取り早く教育現場から「思想改善」「思想統制」を図ろうとするのならば、それはなかなか目の付けどころとしては鋭いと思う。そして、着実にその企みは成果を上げている。教育の現場は今、管理と抑圧で息の詰まるような状況にあり、無気力・無力感に覆われているからだ。そういったところも、まるで戦前と同じようである。

 そしてもう一つ、戦前と今とがダブって見えるのが、主体的判断を放棄したかのような裁判官の姿勢だ。「よく分からない時には検事の意見に従う方が正しいと思う」などと平然と言ってのける裁判官の姿は、現在の刑事裁判で検察側の主張をうのみにするのと、何ら変わるところがない。司法が独立して思想検事をチェックするのではなくて、むしろ積極的に思想弾圧の推進役になろうとしていたその姿に、背筋の寒くなる思いがした。

 原稿執筆の準備をしつつ、山のようにたまっていた取材経費の計算をする。このところ手付かずだったので、何が何やら…。たっぷり6時間もかかってしまった。やはりスクラップと経費計算はため込んではダメだ。その場でさっさと片付けるのが基本だろう。


5月31日(木曜日) 金髪先生が懲戒免職

 雑誌記事や「身辺雑記」でも何回か書いている「金髪先生」は、拘置期限ぎりぎりできのう起訴されたが、何と間髪入れずに本日付で懲戒免職になった。「信用失墜行為」に該当するというのが処分理由である。しかし事件の「被害者」とされる校長と「金髪先生」の言い分は、真っ向から食い違っている。「金髪先生」本人は容疑を否認し事実関係について争いがあるのに、しかもこれから刑事裁判が始まるという段階で、一方の主張だけをもとに処分が決定されたことに対し、関係者の間からは疑問と怒りの声が上がっている。起訴されることは予想していたが、まさか即座に懲戒免職になるとは考えもしなかったので、千葉県教委の対応の「迅速さ」(拙速との声もある)には驚きを隠せない、というのが正直なところだ。いや、やはりこれはあまりにも「拙速」な判断だろう。一部マスコミによる一方的な「発表垂れ流し報道」の責任も大きいと思う。

 そんなわけで「金髪先生」の逮捕とその後について、まとめようとしていた原稿の構成やディテールを、大幅に変更しなければならなくなった。とりあえず県教委や関係者・弁護士などに、前後関係や背景などを確認取材する。余裕しゃくしゃくの原稿執筆だなあと思っていたのに、夜遅くまで電話が手放せない。ふう…。ちなみにこの原稿は、再来週発売の「週刊金曜日」に掲載の予定だ。


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