身辺雑記 

by totoropen (OOKA Minami)


2006年3月1日〜3月31日

●「ガセネタ」●馴れ合い?●一緒にされては困る●都立高校の卒業式●「時効警察」面白いけど最終回●「それを言っちゃぁおしまいよ!」●「ルポ・ある新人教師の死」●今さら箝口令●花粉が少ないって本当?●アンフェア●確定申告●取材源の秘匿●取材源の秘匿・2●校長の裁量●生徒への「指導」●システムエラー●メール●手付かず●中間層●威嚇効果●●●ほか


3月1日(水曜日) 「ガセネタ」雑感

 きのうの「身辺雑記」に書いた「情報提供やタレコミ」の話の続きである。情報提供やタレコミは、信頼できる取材先や知人だけでなく、見ず知らずの人たちから寄せられることも多い。もちろんすべてに対応できるわけではなくて、時間に余裕がない時やこちらが関心のないテーマは勘弁してもらうことになる。一方、まるであり得ないような荒唐無稽な怪しい話は、最初から相手にしないで放置するのだが、やっかいなのは一見すると筋が通っていて、いかにも真実らしく装われたガセネタだ。

 手の込んだガセネタの場合、ストーリーはそれなりに整っていて具体的で面白いので最初は信じてしまう。ふむふむと耳を傾けているといくつか疑問や矛盾を感じるところが出てくるが、情報提供者に問いただすと一応は辻つまのあった説明をする。事実関係を確認するために現場や関係者を取材してみると、どうにも腑に落ちない点がまた浮かび上がる。するとなぜか説明があやふやになって、そこでやっと「どうもおかしい」と気付くことになる。情報の真偽を確認するのは記者の基本だとして、ガセネタはいくら取材しても記事にはならない。無駄な時間を浪費させられるのが痛い。

 世の中には、まともそうに見えて実はちょっと頭のおかしな人がいるんだよなあ。心の病気で手の込んだいたずらをする人や、わけの分からない妄想に取り付かれているといった人も情報提供してくるのだ。持ち込まれた段階でしっかり見破ればいいのだけど、しばらく気付かずに振り回されてしまうこともある。駆け出しのころと比べると、最近では一べつしただけで情報の真偽がある程度は見分けられるようになってきたが、記事にしようとするならば何はともあれ、しっかりと検証取材をしなければならない。


3月2日(木曜日) 馴れ合い?

 虚しさと脱力感が漂う国権の最高機関。何を根拠に真実と信じたのかさっぱりわからないが、そんないい加減な情報をもとに「送金メール」問題を持ち出した民主党は、国会で追及すべき問題のすべてを無にしてしまうことに大きく貢献した。自民党は怒っているフリをしているだけで、内心では笑いが止まらないだろう。永田議員本人はもちろん前原代表ら民主党執行部は、自民党からこれ以上ないほど感謝されているに違いない。「よくやってくれた。この調子でこれからも頼む。期待しておるぞ」と声をかけられてもおかしくない。議場で小泉首相らと和気あいあいといった感じで談笑する前原代表の姿が、そういう関係を如実に物語っている。まるで時代劇の悪代官と越前屋だ。馴れ合いの出来レースにもほどがある。こんな論外の野党第一党の党首って前代未聞なんじゃないか。自分たちがやったことの重大さを自覚しているのか。有権者を愚弄するのもいい加減にしろと言いたい。


3月3日(金曜日) 一緒にされては困る

 民主党の永田議員に「情報」を持ち込んだのは、「元記者」だとか「フリーライター」だとされている。世の中には、いわゆる「フリーライター」や「フリージャーナリスト」という職業の人が大勢いるが、今回のような事件によって、「フリーライター」がうさん臭い存在に思われてしまうことを危惧する。まあ実際にうさん臭い人もいるのだけど。そもそも、記者(ジャーナリスト)は取材して原稿を書くという作業を通じて、事実や背景を読者に伝えるのが仕事である。国会議員に情報を持ち込むことではない。と言うか、記者はあくまでも第三者の視点で、中立の立場から出来事を観察する責任がある。記者自身が事件の当事者になるとか、ましてや議員や捜査当局と二人三脚するなど絶対にやってはいけないのだ。

 ちなみに、新聞社などの組織に所属する記者は入社試験を受けて社員になるという手続きが必要だが、記者やカメラマンには資格や免許などは必要でないので、「自分はライターだ」「ジャーナリストだ」と名乗った時点でだれでもなれる。そこで問題になってくるのが記者としての姿勢や志だ。実績や経験がものをいうこともあるが、だれもが最初から実績や経験があるわけではない。別の言い方をすれば、どんな姿勢でどんな記事を書いているか(書こうとしているか)が問われることになる。だから、ただ単に「ライター」だとか「ジャーナリスト」を自称しているだけでまともな記事を書かず、情報の垂れ流しや横流ししかしていない人は、「ニセモノ」であってただの「情報屋」と言ってよい。

 そんなうさん臭い「自称ジャーナリスト」と、事実を一つずつていねいに掘り起こして、地道な取材を積み重ねているホンモノの記者(ジャーナリスト)が一緒にされてはたまらない。僕自身も心外だが、多くのまともな記者仲間も苦々しく思っていることだろう。プロとしての誇りが傷つけられるというだけでなく、民主主義社会の発展を願う立場からも、看過できない由々しき話である。


3月4日(土曜日) 都立高校の卒業式

 朝から都立高校の卒業式を取材。昨年は、学校に「日の丸・君が代」を押し付けようとする東京都教育委員会の執拗な「指導」に対し、卒業生が抗議のメッセージを堂々と演説した高校だったが(ルポ参照)、今年は見事なまでにまったく何も起こらなかった。クラス代表が簡単なパフォーマンスをしながら卒業証書を受け取るという「伝統」も、今年は一切影を潜めてしまった。自主自立の自由な校風が都立高校のウリだったのに。「下手なことをすると先生が処分されるかもしれない」と生徒の側が気を遣ったようだが、生徒にそんな気遣いをさせる教育行政の強権体制っていったいなんなのだろうか。これではどっちが大人なんだかさっぱり分からない。「特色ある学校を」「日本人としての誇りを」などと挨拶した都教委の高校教育指導課長の来賓祝辞が、まるで悪い冗談であるかのように浮いていた。式の最後に、高校3年間の思い出のシーンをスライド上映しながら、卒業生全員が「旅立ちの日に」を合唱した。映写スクリーンが舞台正面の大きな「日の丸」をすっぽり隠す形になったのが、唯一の異議申し立てのメッセージのようだった。


3月5日(日曜日) 「時効警察」面白いけど最終回

 テレビ朝日系のドラマ「時効警察」(テレ朝では土曜夜11時15分)が面白い。と言っても今週の放送で最終回なんだけど。時効が成立した事件を「趣味」で捜査して、真相を突き止める総武署時効管理課の警察官・霧山(オダギリジョー)の推理を軸に、人間ドラマを描くコメディーミステリーだ。既に時効を迎えているという気楽さからか、犯人側に切羽詰まった緊張感はさほどない。しかしそれでも、一つ一つ証言や証拠を積み重ねて真相に迫る過程は、推理ドラマとしてよくできているし、それじゃあ正規の捜査班は時効になるまで何をやっていたんだという痛烈な皮肉にもなっている。

 けれども実はこのドラマの最大の面白さは、実は登場人物たちのかみ合わない会話や、時効管理課の「とってもゆる〜い」空気や、しつこく繰り返されるショウモないギャグにあるのだ。シュールで意味不明に思える小さなネタは、見ているこちら側が思わずヘナヘナとなってしまう不思議なおかしさがある。そうしたおかしな演技と演出が、本編の「謎解き」のストーリーに違和感なく組み込まれているところがミソで、たぶんついついハマって見てしまうのだろう。霧山に思いを寄せる交通課の三日月(麻生久美子)や周囲を固める脇役の面々が、素晴らしくとぼけた味を出していて最高だ。毎回、ゲストとして犯人役に有名女優を迎えるのもポイントの一つ。全9回。今週で終わってしまうのが本当に残念だなあ。


3月7日(火曜日) 「それを言っちゃぁおしまいよ!」

 午後から東京・神保町。出版社で単行本の打ち合わせ。編集者と話をしていてナルホドと思ったのは、映画「男はつらいよ」の寅さんの「それを言っちゃぁおしまいよ!」というセリフだ。

 これまでに何回か書いたことがあるが、インターネットの世界では差別意識や偏見を丸出しにした言葉の暴力がまかり通っている。「匿名」という場所から放たれるそうした無責任な発言は、身もふたもない露骨な表現で平然と他人を傷つける。攻撃の対象となるのは、障害者、外国人、事件や事故の被害者、あるいは加害者、または弱い立場の人たちだ。発言者たちにすればそれらの言動は「偽善を排した本音」なのかもしれないが、世の中のすべての人にとっての「本音」では必ずしもない。しかも普通の人には「本音」とともに、いくばくかの「良識」や「良心」や「思いやり」の心が備わっている。別の言い方をすれば「想像力」というものが働く。知的で教養のある人間は、心の中に浮かんだことをそのままストレートに表現するなどということはしない。相手の立場に自分を置き換えて考えてみるとか、相手の心情や事情を推察するとか、あれこれ思案を巡らす。それが「想像力」というものだろう。

 そこで冒頭の寅さんのセリフが登場する。まともな社会生活や人間関係の中では、言っていいことと悪いことがある。相手の存在を全否定するような罵声、生身の人間関係の中では決して口にしない差別的な言葉…。「それを言っちゃぁおしまいよ!」という最低限のラインを破ってしまうと、対話も議論も何もできなくなってしまうだけでなく、口にした本人の人間性まで問われかねない。だから良識ある人間はそんな恥ずかしい発言はしないのだが、残念ながら最近の日本は、このような「それを言っちゃぁおしまいよ!」が通じない社会になりつつあるのだろうか。

 文部科学省を訪問したフィギュアスケートの荒川静香選手に対して、小坂憲次文部科学相が「人の不幸を喜んではいけないが、ロシアのスルツカヤ選手がこけた時は喜んだ。これでやったって」などと発言し、6日後の昨日になって荒川選手とスルツカヤ選手におわびする談話を出したという。荒川選手を応援している日本人が、外国人の上位選手が転倒する場面をテレビで見て「これで荒川選手が金メダルだ」と思ってしまうのは自然な感情だ。普通にそう感じても無理はない。しかしほとんどの人は、心の中でその一瞬喜ぶだけだろう。結果としてロシア人選手が転倒してしまったが、荒川選手の演技は上出来だったのだから。そもそもテレビカメラの前で、しかも荒川選手本人に「ライバルが転倒してよかった」なんて言うこと自体どうかしてる。これほど失礼なことはないだろう。少しくらいものを考えてから発言できないのか。


3月8日(水曜日) 「ルポ・ある新人教師の死」

 きょう発売の雑誌「世界」4月号(岩波書店)に、ルポを書きました。「ルポ・ある新人教師の死」。埼玉県内の公立小学校で、赴任してわずか3週間の新任教師が自殺した事件を通して、多忙な中で分断され孤立化する教師たちの姿を描いたルポです。雑務に追われ、仲間や後輩の悩みに耳を傾けるだけの余裕がない学校現場の実情と、その背景にあるものを検証するとともに、「教師を育てる」ために必要なこととは何かについても考えました。ぜひ読んでみて下さい。全国の書店で発売中です。


3月9日(木曜日) 今さら箝口令

 雑誌「世界」の「ルポ・ある新人教師の死」の記事は、いろいろ話題になっているらしい。地元の教育委員会からは「記事で指摘されていることを今後の参考にさせていただきたい」と連絡を頂戴した。教職員組合は勉強会で記事の読み合わせをしたという。その一方で新任教師が亡くなった小学校の校長は、「外部に情報を漏らさないように」と職員会議で教職員全員に釘を刺したそうだ。そういう問題じゃないと思うんだけどなあ。頭と力を使う方向がずれまくり。それにどうして今さら箝口令なんだ。情報は必ず漏れるという真理が理解できていないのではないか。箝口令が教育委員会の「指導」だとすれば、なかなか裏表のある対応で興味深い。


3月10日(金曜日) 花粉が少ないって本当?

 「今年は花粉の飛散量が少ない」というのは本当なのか。とてもそうは思えないぞ。鼻はむずむずして目も痒いし、鼻炎の薬を飲まないとやってられない。かといって薬を飲んだら飲んだで猛烈に眠くなるばかりか、労働意欲が著しく減退する。ただでさえ労働意欲に欠ける怠け者に(おいおい)、どないせえっちゅうんや。家の外では今年も、ウグイスが長閑な鳴き声を披露してくれている。せっかく春がすぐそこまで来ているというのに、憂鬱な季節としか思えないんだよなあ。なんとも冴えない話である(トホホ)。

 日本テレビ系でジブリアニメ「耳をすませば」、続いてテレビ朝日系でドラマ「時効警察」を見る。「耳をすませば」は近藤喜文監督作品(宮崎駿は脚本・絵コンテを担当)だが、大好きなジブリ作品の一つだ。背景も風景も人物描写も物語もすごくていねいな仕事ぶりで何回見ても飽きない。ちなみに、1995年公開の「耳をすませば」以降のジブリ作品は、残念ながらどれも今一つピンとこなくて期待外れである。ワクワク感やドキドキ感が得られないんだよなあ。「時効警察」は今夜で最終回。相変わらず無意味な会話と小ネタギャグが炸裂して、頭をからっぽにして見ることができた。


3月13日(月曜日) アンフェア

 ワールドベースボール・クラシック(WBC)の日米戦で、三塁走者・西岡選手のタッチアップが早過ぎたとされて、本塁生還の判定が覆ったシーンをテレビで見た。だれがどう見たって、野手が捕球してから西岡選手は三塁ベースを離れている。実際最初に二塁の塁審はセーフのジャッジをしている。それなのに米チームの監督から抗議を受けて、球審が判定を覆すという異例のジャッジを下したのだ。同点8回に一死満塁で迎えた日本チームの絶好機だった。それだけに見ていて唖然とした人は多かっただろう。

 どう考えてもおかしな判定だ。しかも米側の抗議で判定を変えてしまう異常さ。さらに米国人審判ばかりが顔をそろえる不公平さ。いくら何でもひどすぎる。これでは観客もプレーしている選手もシラケてしまう。フェアプレーがスポーツの基本だろう。公平で公正なジャッジが保障されていなければ、真剣に競い合うことなどできない。サラリーマン風の男性が「朝から嫌なものを見てしまった」と答えていたが、まったく同感だ。一方この判定について、テレビは別として米国各紙は批判的に伝えているという。そのあたりはさすが米国だなとも思わされる。


3月14日(火曜日) 確定申告

 午後から税務署で確定申告。項目ごとに細かい計算をするのは面倒くさくてたまらないけど、前年やった通りにパターン化して淡々と準備作業を進めたら、半日もかからないで申告書を書き上げることができた。源泉徴収票などの必要書類をまとめて持参。申告会場はそこそこ混んでいたが、事前に書類を整えて出向いたこともあって、わずか20分ほどですべての手続きを完了する。ちなみに去年の申告時に当たった担当係員は、ものすごく横柄で態度もでかくて実に不愉快だったが、今年の担当係員は親切ていねいな対応で好印象だった。帰途、にわか雨ならぬにわか雪が降ってきた。寒さのせいか花粉症の症状はさほどではない。


3月15日(水曜日) 取材源の秘匿

 読売新聞の記者が民事裁判で、取材源について証言を拒否したことに対して、東京地裁(藤下健裁判官)が「取材源が国家公務員など守秘義務違反になる場合には証言拒絶権は認められない」とする決定を出した(朝刊各紙)。とんでもない司法判断だ。民主主義の根幹をなす「取材・報道の自由」の前提である「取材源の秘匿」を真っ向から否定する暴論であり、藤下裁判官の憲法感覚と民主主義に対する認識を疑う。最高裁の判例からもおかしい。この決定の論理だと、役所や警察が広報を通じて発表した情報だけを取材して報道しろということになる。そんな暴論が正当化されれば、ジャーナリズムなどというものは必要なくなってしまう。「大本営発表」だけを伝えるのは広報であって報道ではない。公権力や公的機関の隠している情報を明らかにし、メディアが広く伝えようとするのは公益性のためで、公務員の守秘義務よりも「市民の知る権利」の方が社会的に重要だと判断されているからだ。内部情報を公にするために取材源の秘匿は欠かせない。情報提供者を守るのは記者にとって基本的な職業倫理である。仮に自分が逮捕されても、取材源を守り通す覚悟が必要なのは言うまでもない。取材源の秘匿はそれほど重いものなのだ。


3月17日(金曜日) 取材源の秘匿・2

 取材源に関するNHK記者の証言拒否について、東京高裁(雛形要松裁判長)が取材源秘匿による証言拒絶を認める決定をした。読売新聞記者の証言拒否を認めなかった東京地裁(藤下健裁判官)決定を否定する内容だ。東京高裁決定は「取材源が秘匿されなければ取材活動は著しく困難になる」「取材源に国家公務員法違反の行為を求めたとしても取材活動は違法とはならない」などとして、藤下決定の論理を全面否定した。至極当然の決定である。民主主義を支える「知る権利」と「取材・報道の自由」の意味を十分に理解した司法判断だと思う。藤下裁判官はこの雛形決定を100回以上熟読して、自身の愚かさと反社会性を深く反省してもらいたい。


3月18日(土曜日) 校長の裁量

 午後から藤沢市内。県立高校の先生の自主研究会に参加する。この日のテーマは「校長のリーダーシップと職員会議」。自主的で特色ある学校教育活動が展開できるようにするという理由から、校長の裁量が拡大され、職員会議が校長の補助機関とされて、職員室から自由闊達な議論が消えていく過程が報告された。しかし実際には校長の裁量はきわめて限定されていて、むしろ教育行政の命令通りに動くロボットと化し、教育行政が教育内容にまで介入しつつあるのが現状だ。その際たるものが東京都教育委員会の暴走であり、都立高校など学校現場に対する「日の丸・君が代」の異常な強制だろう。夕方から駅前の居酒屋で飲み会。花粉症の薬が効かなくなると悲惨なので、アルコールはセーブして旨い肴に重点を置く。


3月21日(火曜日) 生徒への「指導」

 午後から某所。卒業式・入学式の「日の丸・君が代」強制問題などをめぐって、現役の都立高校の校長と情報交換する。国歌斉唱の際の起立について、東京都教育委員会が「生徒への指導を教職員に徹底するように命じる通達」を出した経緯などを聞いた。定時制高校の卒業式で、国歌斉唱時に大半の生徒が起立しなかったことを受け、校長の責任で指導を徹底しろと命じたのである。3年前に教職員に起立やピアノ伴奏を義務付ける通達を出した都教委は、都議会での教育長答弁を経て、いよいよ最終目標とする生徒への「指導」に乗り出してきたわけだ。これまでにもう何回も書いていることだが、「日の丸・君が代」は強制されるものではない。歌いたい人は歌えばいいし、歌いたくない人は歌わなくていい。旗や歌に直立不動の姿勢で忠誠を求められるなんて、時代錯誤も甚だしい。ましてや憲法に明記されている「内心の自由」について、教師が生徒に説明することを職務命令で禁じるなんて、都教委は気が狂っているとしか思えない。すべての公務員には憲法の順守義務があるんだよ。生徒に憲法の精神を具体的に教えたら教師が処分されるって、どう考えたっておかしいだろう。そんなとても正気の沙汰とは思えないようなことが、東京の公立学校ではまかり通っている。


3月24日(金曜日) システムエラー

 パソコン(eMac)のシステムがクラッシュした。先週の後半に初めてフリーズ。再起動してからメールソフトが不安定になり、さらにインターネット接続ブラウザも起動しなくなった。音楽ソフトのiTunesやワープロソフトのアップルワークスは問題なく動くのだが、IE、ネスケ、サファリの3つのブラウザはどれも何回やっても「予期しない理由で終了しました」とエラーメッセージが表示されて、全く起動できない状態が続く。MacOS9も起動できない。いろんなデータをパソコン内に大量にため込んでいたのが原因だろうか。理由は良く分からないけれども、システムに異常が発生したのは確かなようだ。となるとシステムソフトウェアを再インストールして、パソコンを購入時の状態に復元するしかないという結論にたどり着いた。ええーっまじかよ(泣)。しかし全てをリセットするとなると、できるだけデータのバックアップを取る必要がある。そこでとりあえず新しいMOを1パック購入し、重要なデータやソフトを大急ぎでコピーしたのだが、バックアップ作成に2日間もかかってしまい、それからようやくシステムソフトをインストール。基本情報を残してシステムソフトをインストールする方法もあったのだが、それは何回試みてもエラーが出る。結局はすべてをリセットする方法でしか、インストールできなかったのだった。

 というわけで、eMacに入っていたすべてのデータとソフトはきれいさっぱりと消去されてしまった。大量に残していた送受信メール、ウェブサイトのブックマーク(お気に入り)、iTunesの音楽データ、住所録、原稿や画像データなどなど…。余計なものから必要なものまですべてが見事に消去されたので、パソコン操作が軽いこと軽いこと。とにかくものすごくスムーズに動くので快適だ。こういう非常事態でもなければ、たぶん自分でデータを整理消去することはできなかっただろう。一部バックアップできなかったデータは、涙を飲んであきらめるしかないけど、まあ絶対に必要なものは保存できているからよしとしよう。ただエラーメッセージがたまに出て、まだ一部のシステムが不安定なのが気になる。少しずつ落ち着いてきているが、とりあえず不要データはこまめに消去して、できるだけハードディスクに残さないようにしようと思う。データやソフトの詰め込み過ぎのほかに、パソコンに負荷をかけ過ぎたのも原因かもしれない。ちなみにMac OS X(10.2.8)だが、これだと古いということなのかな。

 それにしてもとんでもない目に遭った。そんなこんなで、3月15日付から3月24日までの「身辺雑記」をまとめて掲載しました。かなり日付が飛んでいますが(汗)。本日付の内容はこの期間のまとめ的な状況報告です。


3月25日(土曜日) メール

 メールの返事をまとめて書いて送信。しかしここ最近のシステムエラーとソフトの再インストールの影響で、どうも一部のメールが届いていない可能性があるみたいだ。あるいは届いてはいたけれども、メールの環境設定をやり直したために「迷惑メール」フォルダの中にまぎれて、読まずにゴミ箱に入れてしまった可能性も考えられる。「今月になってメールを出したのにまだ返事が届かない」という方で、この文章を読んでいらっしゃいましたら、申し訳ありませんが再送信して下さい。よろしくお願いします。


3月27日(月曜日) 手付かず

 午後から横浜市内。本を出したいという方に助言などをする。まずだれに何を伝えたいかをまとめて、その次に伝えたい内容を小見出しで書き出して…なんて偉そうに説明したのはいいけど、そもそも僕自身が出す予定の本の目次と原稿が、まだ全然できていないんだよなあ。努力目標として編集者に示した日程を大幅に過ぎているのに、何も言ってこないというのが逆に怖い。今月中になんとかしなければと思っているのだが。


3月29日(水曜日) 中間層

 夕方から都内の弁護士事務所。「日の丸・君が代」の強制に反対する都立高校の先生たちの裁判会議。裁判をリードしている主任弁護士の現状報告と解説は、聞いていてとても分かりやすい。いくつもの裁判が並行して進んでいるが、それぞれの相互作用と関連性がよく理解できた。世論に理解を求めるためのチラシ作りの議論でしばし紛糾。「国旗・国歌がどんなに大切でも、強制・監視・処分から愛国心は生まれません」という文章が叩き台として出されたのだが、「愛国心」についてチラシで触れることには抵抗感があるとの意見が大勢を占めた。また、園遊会での「天皇発言」に触れることにも拒否反応が強かった。その気持ちは分からないでもないが、それで広範な世論に共感の輪は広がるだろうか。叩き台を作った提案者は、圧倒的多数の「中間層」に対して「強制のおかしさ」を訴えるために、「強制から愛国心は生まれない」と表現したのだろう。「日の丸・君が代は断固拒否する」「愛国心など欠片もない」「天皇は認めない」と考える人の支持が得られればそれでいい、というのなら話は別だ。しかしそうではない人たち、「日の丸・君が代は嫌いじゃない」「だけど強制するのはおかしい」と思っている圧倒的多数の人たちを味方にすることを重要視するのなら、もう少し柔軟に考えてもいいのではないか。「愛国心」そのこと自体が問題なのではないと思う。100人いれば100通りの「国の愛し方」や「国への向き合い方」があっていいはずで、その中身や方法について他人や国家権力から指図され強制されるいわれはない。国と個人との関係について「統制されること」が問題なのだ。「国旗・国歌に従うのは当然」「逆らう連中は処分されて当然」と確信している人たちに訴えかけるのではないのだから、最大公約数に対応した訴え方というのがあってもいいんじゃないかなあ。


3月31日(金曜日) 威嚇効果

 午後から都内。卒業式の国歌斉唱の際に起立やピアノ伴奏をしなかった都立高校の教員ら33人に、東京都教育委員会が懲戒処分を発令。教員側による集会と記者会見に出席する。一番重い処分は停職3カ月1人(中学)で、次が停職1カ月1人(高校)、さらに減給10分の1(1カ月)10人(高校)、戒告21人(小学校、障害児学校、高校)と続く。このほか、卒業式の式場で「不適切な説明をした」との理由で司会者に文書訓告が出された(高校)。不起立などを重ねるにつれて処分が重くなるのが東京都の特徴だ。ほかの自治体はそこまで乱暴なやり方はしない。処分による不利益を恐れて委縮し苦悩する教員は多く、2004年3月の卒業式では約200人が処分されたが、昨年の卒業式での処分者は約50人に減少した。都教委の見せしめ処分は相当な「威嚇効果」となっている。

 夕方から日比谷の野外音楽堂。教育基本法の改悪反対の全国集会を取材する。まるで真冬みたいに底冷えする寒さだというのに、会場はぎっしり満杯。主張がどれも毎回同じような内容なのは仕方ないにしても、集会終了後の午後8時から国会までデモ行進してどんな意味があるのだろう。そんな時間にシュプレヒコールして練り歩いて、いったいだれに向けて何を訴えかけるというのか理解に苦しむ。やっぱり仲間同士の結束を確認して、連帯感を強めるのが最大の目的なのだろうか。「広範な世論」を訴えかける対象としてあまり意識していないのだとすれば、「運動の成果」はほとんど期待できないような気がするんだけどなあ。

 あまりに寒いので集会取材は途中で切り上げて、大阪から「集会のついでに法事に」じゃなくて「法事のついでに集会に」やって来た(本当はどっちなんだよ=笑)というR氏と、有楽町駅前の喫茶店へ。熱々のホットチョコレートが身も心も癒してくれる。いやいやホンマに凍え死にそうでしたわ。


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