身辺雑記 

by totoropen (OOKA Minami)


2008年2月1日〜2月29日

●日教組教研の全体集会中止●日教組教研の分科会●神奈川県教委が答申無視●「不起立」再雇用拒否に賠償命令●リアル「反面教師」●痴漢冤罪で教員免職●「頭を冷やすための靖国論」●レジュメ作成●イージス艦の傲慢さ●格差社会を実感●三浦和義さん逮捕●「遺族の声」の伝え方●また今年も花粉の季節●関西取材●●●ほか


2月1日(金曜日) 日教組教研の全体集会中止

 日本教職員組合(日教組)があす2日午前に都内で開く予定だった教育研究全国集会(教研集会=全国教研)の全体集会は、グランドプリンスホテル新高輪が「右翼団体の妨害活動による影響」を理由に会場使用の契約解除を通告したことで、中止されることになった。東京地裁と東京高裁は日教組側の主張を認めて「会場を使用させよ」とする仮処分決定をしたが、ホテル側は裁判所の決定を無視して会場使用を拒む姿勢を崩さなかった。1951年に始まった日教組の教研集会は、毎年のように右翼団体の妨害活動(街宣行動)が行われ、警備の警察官が大量動員されるなどの事態となっている。これまでにも会場使用をめぐってトラブルが起きているが、全体集会が中止にまで追い込まれたのは過去に例がない。教研集会には全国から3000人近くの教師が参加。分科会は都内の各会場で予定通り開催される。

 関係者によると、会場使用の契約は昨年5月に成立したが、11月になってホテル側から日教組側に一方的に解約が伝えられた。

 契約解除の理由について、グランドプリンスホテル新高輪は「日教組側から集会の開催状況や影響について説明を聞いた内容と、私たちが調べた結果に大幅な差があった。右翼団体の街宣車が来ることで、警察の警備や検問や道路封鎖などによって、ホテルのお客さまや周辺に多大な迷惑がかかる。お客さまの安全と安心を守るというホテルの使命が果たせなくなるので解約した」と説明する。

 また、東京地裁だけでなく東京高裁も「会場を使用させなければならない」とする仮処分を決定し、日教組側の主張を認めたことに対して、ホテル側は「裁判所の判断は重大なことと受け止めているが、あくまでも仮処分であり、極めて短い時間で決定され十分に審議されていないので決定には妥当性がない。決定に従わなくても法令違反には当たらない。正当な解約であるとの私たちの主張は変わらない」としている。

◇◇

 暴力的な示威行動や妨害行為・脅迫などによって集会の自由や表現の自由を奪うのは、民主主義と基本的人権を否定する行為であって、法治国家では絶対に許されないことだ。自分たちとは考え方や立場が違う人たちであっても、意見表明や議論する場を保障することこそが、民主主義の基本だと言ってもいい。それだけに、「右翼団体の妨害活動の影響」を理由に、いったんは契約した会場使用が一方的に解約され、集会が中止に追い込まれるという事態は、民主的な社会を根底から揺るがす大変な問題である。あまりにも社会的な影響が大き過ぎる。

 グランドプリンスホテル新高輪は、こうした問題点をどこまで認識しているのだろうか。「ホテルのお客さまや周辺に多大な迷惑がかかる」というのは、日教組の責任ではない。「迷惑がかかる」ことの原因をつくっているのは、街宣車を繰り出して騒音をまき散らしながら妨害活動する右翼団体だろう。警察や関係機関と十分に相談して、「迷惑がかかる」原因を排除することこそが、ホテル側の果たすべき責任ではないか。どうして毅然とした態度が取れないのだろう。会場使用を断るのは、右翼団体の妨害活動に屈するばかりか、妨害活動に手を貸すことにほかならない。

 「会場を使用させなければならない」とした裁判所の仮処分決定を、一方的に無視するホテル側の態度も理解し難い。東京地裁だけでなく東京高裁までもが、ホテル側の正当性を否定しているにもかかわらず、「あくまでも仮処分だから決定に従わなくても法令違反には当たらない」などと主張する。そんな理屈が法治国家で通ると考えているのだろうか。社会的責任と信用がある一流ホテルの姿勢だとは、どうしても思えない。

 プリンスホテルは、「西武グループの企業倫理規範」としてコンプライアンス(法令順守)の推進を掲げており、同社のサイトでも「経営の最重要課題としてコンプライアンス体制を確立し、その精神を浸透、定着させる」と明記している。さらにグループ企業の行動指針として、「私たちは、反社会的勢力および団体に対しては毅然とした対応をし、これらの勢力の活動を助長するような行為は一切行ないません」との決意も表明している。プリンスホテルの言う「コンプライアンス」とは、いったい何なのか。

 日教組に対しても言いたいことがある。都心のど真ん中で教研集会の全体会を開くことで生じるさまざまな影響は、確かに地方都市や郊外で開催する場合とは比較にならないだろう。その点で、グランドプリンスホテル新高輪が、多くの不安を抱えて苦慮した事情は十分に理解できる。どうして日教組は、都心のど真ん中のホテルを会場に選んだのだろうか。2001年に東京で開催した際は、会場は湾岸地区の有明コロシアムだった。「3000人を収容できる会場はなかなかなくて会場確保には苦労する」(日教組)ことはよく分かるが、それでも「ホテルのお客さまや周辺に多大な迷惑がかかる」などと言わせないような場所を選ぶ努力は必要だ。

 しかし今回のことで、これから教研集会が開けなくなってしまう事態だけは、絶対に避けなければならない。暴力的な示威行動や妨害行為・脅迫を続ければ、会場が使用できなくなって集会は中止になる、といったことが悪しき前例となれば、それはもう民主主義の死を意味することになる。そもそも教研集会は、全国の教師が教育現場での実践を報告し合って、共有財産とする貴重な場であり、教職員組合にとって最も重要な活動の一つのはずだ。そんな大切な機会がなくなるのは、日本の教育にとって大きな損失だ。どんな形でもいいから続けてほしいと切に願う。


2月2日(土曜日) 日教組教研の分科会

 午後から、日教組の教育研究全国集会(教研集会=全国教研)の分科会を取材する。都内13カ所の会場で計26の分科会が開かれているが、とりあえず東京・千駄ヶ谷の「平和研究」の分科会をのぞいてみた。

 全体集会が中止された「会場問題」をめぐって、分科会は開会直後から大荒れになった。まず冒頭に日教組本部からこれまでの経緯が説明され、「日教組史上初めての全体集会中止に至ったことをお詫びします」などとする森越康雄委員長のメッセージと、「プリンスホテルの会場使用拒否の姿勢は変わらず、中止の決断をせざるを得なくなった。裁判所の決定を無視した態度は、司法制度の根幹を揺るがす暴挙であり、法治国家においてあるまじきことだ」などと訴える抗議決議の文書が参加者に配られた。

 しかし分科会参加者からは、日教組本部の姿勢に対する批判の声が続出。「昨年11月にホテル側から契約解除を通告してきたというが、一般組合員には全く知らされていなかった」「そもそも会場設定に無理があったのではないか。なぜホテル開催なのか。予想された事態に対して本部の読みが甘いのではないか」「明らかに日教組の教研活動や平和教育をつぶす意図が見える。絶対に許さないというアピールを出して、中止された全体集会をきちんと開くことを強く要望する」といった意見が相次いだ。

 分科会終了後の夕方から渋谷へ。「日の丸・君が代」問題を討議する「自主教研」を取材。ここでも全体集会中止の問題が取り上げられる。さらに、分科会のレポートをめぐって日教組本部から提出を拒否されたとして、組合員3人から抗議の報告が行われた。おいおい、大丈夫なのか日教組。外からも内からもパンチを食らってボロボロじゃないか。どこを向いて、だれのために、何を守ろうとしているのか。姿勢に一貫性がなくあまりにブレまくっているから、一般組合員の間に不信感が広がっている気がする。


2月4日(月曜日) 情報収集

 午後から都内。教研集会の分科会を取材。さまざまな立場の関係者から、教研集会をめぐる背景や裏話を聞いて情報収集する。一方には組合内部のあれこれがあって、もう一方には会場問題に対する大きな力があったため、今回のようなことになったらしい。「大きな力」については今のところ裏付けがないけど、なんとなく流れはつかめた。それにしても分科会の「共同研究者」って千差万別というか玉石混交だなあ。討議の中で興味深い分析や指摘をしていた人は、会場外での会話も勉強になるし面白い。反対に、討議の発言が何を言ってるのかさっぱり分からなかった人は、会場外でもやはり思い込みだけで説得力がない。一方的な話を聞かされるのは苦痛でうんざりだった。第一印象には意外と外れがない(苦笑)。


2月5日(火曜日) 神奈川県教委が答申無視

 国歌斉唱時に起立しなかった教職員の氏名などを、神奈川県教育委員会が校長に報告させていた問題で、県教委は4日の教育委員会定例会で氏名収集の継続を決めた。県個人情報保護審議会は1月に氏名収集は「不適当」と全会一致で答申したが、教育委員6人は全会一致で、「不起立などをされては学校運営に支障が出る。指導のため氏名の把握は必要」とする県教委の説明を承認した。

 県個人情報保護審査会が昨年10月に「氏名情報は条例が取り扱いを禁止する個人の思想信条に該当する」と認定したため、県教委は条例の「例外規定」適用を求めて審議会に諮問したが、ここでも収集は「不適当」と判断された。今回の県教委の方針決定は、行政自らが設置し諮問した第三者機関の度重なる答申を一方的に無視するもので、神奈川県では前例のない異常な結果となった。

 自分たちの意に沿わない都合の悪い答申には従わない、などという身勝手な理屈がまかり通るなら、審査会や審議会の存在意義はなくなってしまう。審査会や審議会は、行政の意向にお墨付きを与える追認機関でありさえすればいいということなのか。教育現場や関係者からは、個人情報保護条例や審議会制度の形骸化だと反発する声が上がっている。日教組教研集会の会場使用をめぐり、裁判所の仮処分決定を無視して一方的に契約解除したグランドプリンスホテル新高輪の思考パターンと全く同じだ。

 県教委の氏名収集継続の決定は、5日に横浜地裁(吉田健司裁判長)で開かれた裁判でも取り上げられた。神奈川県立学校の教職員168人が国歌斉唱時に起立・斉唱義務がないことの確認を求めた訴訟の口頭弁論で、県教委の下山田伸一郎・学校教育担当部長の証人尋問が3時間半にわたって行われた。

 県教委が自ら諮問した審議会答申に従わないことについて、下山田証人は「審議会諮問は一つの手続きだ」とした上で、「粘り強い指導とは広い意味で職務命令。不起立が度重なれば妨害行動として懲戒処分する可能性はある」と証言した。県教委が審議会に提出した文書では「命令違反をただちに処分することはない」としていたが、氏名収集は処分のために必要であることを法廷ではっきり認めたことになる。証人尋問では、国旗掲揚や国歌斉唱を命令する根拠が学習指導要領のどこにあるのか、指導と命令の違いは何か、などの質問に対して下山田証人は明確に答えられず、矛盾した証言に裁判官らが苦笑する場面が何回も見られた。


2月7日(木曜日) 「不起立」再雇用拒否に賠償命令

 都立高校の卒業式などで国歌斉唱時に起立しなかったことを理由に、定年後に嘱託職員として再雇用されなかったのは違法だとして、元教員ら十三人が都に損害賠償を求めた訴訟の判決が七日、東京地裁であった。中西茂裁判長は「裁量を逸脱している」として、再雇用された場合の一年間の賃金相当額約二百十万円を原告それぞれに賠償するよう都に命じた。

 その一方で中西裁判長は、起立を命じた校長の職務命令は「思想・良心の自由」を保障した憲法に反するとは言えないと判断し、教員の処分や東京都教育委員会の通達についても「不当な支配」に該当するとは認められず、違法ではないとした。

 しかし、不起立を理由に都教委が再雇用を拒否したことについては、「積極的に式典の進行を妨害するものではなく、起立しなかったこと自体が採用を否定すべき行為というのは疑問だ。都教委がこのほかに、勤務成績に関する事情を総合的に考慮して判断した形跡は全く見られない」と指摘し、「客観的合理性や社会的相当性を著しく欠く」と批判して、不採用は「裁量を逸脱して乱用した不法行為」と結論付けた。

 二〇〇六年九月に東京地裁(難波孝一裁判長)は「都教委の通達や職務命令は違憲・違法」と判断したが、〇七年二月に最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は「君が代」のピアノ伴奏を命じた校長の職務命令を合憲と判断している。今回の判決は最高裁判例に沿った形となった。しかし今回の中西判決は、最高裁判例に沿って職務命令を合法としつつ、不採用の裁量逸脱と損害は認めた。〇七年六月に東京地裁(佐村浩之裁判長)が「職務命令は合憲。不採用は正当な人事裁量権の行使」として教員側の請求をすべて棄却した判決とは、決定的に異なる判断を示したと言える。

 原告の新井史子さん(62歳)は、「まじめに授業をしてきた経験を生かす機会が、たった一回の不起立で奪われた。職場復帰は果たせず都教委通達や職務命令の違法性が認められなかったのは残念だが、再雇用拒否が裁量逸脱だと認められたことで、今後に与える影響は大きい」と笑顔で判決を評価した。


2月8日(金曜日) 仕込み取材

 あっちこっちに電話をかけまくって仕込み取材。成果はあったような、なかったような…。うーん、なんかビミョーだな。夕方から横浜市内の図書館で調べもの。


2月9日(土曜日) リアル「反面教師」

 午後から横浜市内。高等学校教職員組合の支部教研(教育研究集会)で話をする。引き続き分科会にも参加。興味深い話が聞けて勉強になった。終了後、横浜駅近くのフランス料理店で懇親会。外は雪が本降りになっているが、居酒屋に場所を移して2次会。

 懇親会の終わりごろになって、隣の席に座っていた中堅の男性教師から、不毛な議論(議論にもなっていない難くせ)を吹っかけられて閉口した。その教師は「不勉強で薄っぺらな記者だというのが講演を聴いてよく分かった」と言うので、「そう感じるのは自由だけど具体的にどこが?」と尋ねると、「新聞の朝刊と夕刊を読みさえすれば社会の現実が分かると言ってるところだ」と断定的に決めつけてくる。はあ?そんなこと一言も口にしてませんけど…。

 「教師自身が社会や世間の現実を知ることが大切。その上で生徒に自分で考えて判断する材料を示すのが教育の役割では」という趣旨のことは言ったけどなあ。読解力がまるでないのか、それとも意図的に事実をねじ曲げてイチャモンを付けているのか知らないが、ご本人はさぞかしよく勉強していて素晴らしい教育実践をなさっているのでしょう。さらにこの教師は「新聞記者は大嫌いだ」「教師はバカばかりだ」ともおっしゃる。新聞記者や教師にもいろんな人がいるだろうに、十把一からげで断言してしまうところがなんともスゴイ。こんな自意識過剰で思い込みの激しい教師に教わっている生徒はかわいそうだなあ。心から同情する。まあ「反面教師」を実践してるのかもしれないけど。


2月12日(火曜日) 痴漢冤罪で教員免職

 午後から横浜市内。痴漢冤罪で逮捕され懲戒免職になった男性教師から話を聞く。以前に何回も教育問題の取材でお世話になったことのある先生なのだが、同僚教師や教え子らが組織する「冤罪を晴らす会」の総会で話をしてほしいという連絡をいただくまで、うかつにも逮捕されたことさえ知らなかった。まずは不明を大いに恥じる。それにしても、そもそも痴漢をするような人物にはとても思えないが、2時間ほど話を聞くにつれてその思いはますます強くなった。具体的で詳細な状況説明や科学的実証の結果などからも、冤罪であることを確信するに十分な心証が得られた。

 有罪判決を言い渡した裁判官の訴訟指揮の様子などをうかがいながら、捜査当局の調書だけを鵜呑みにする裁判官の「推定有罪」の体質が、これまでどれほどの冤罪や誤判を生み出してきたことかと改めて強く感じる。逮捕から一貫して無罪を主張してきた男性教師は、「可能性論と推論だけで被告・弁護側をばっさり切り捨てる裁判官に憤りを覚えた」と訴えた。そりゃそうだろう。被告人・弁護側の主張にはまるで耳を貸そうとせず、「最初に結論ありき」で有罪を言い渡されたりしたらたまったもんじゃない。頼まれた講演では、そんな日本の裁判の現状について話をするつもりだが、何らかの形で記事にもしなければと考えている。教育委員会による一方的な不当処分の撤回と職場復帰を目指す先生の厳しい闘いは、これからもまだまだ続く。


2月13日(水曜日) 寒波襲来

 家の中は暖かくて快適なんだけど、ドアを開けて一歩外に出ると寒いのなんの。冷蔵庫の中にいるような気温だ。たまらん。雪が降らないだけマシと言うべきか。エアコンはずっとフル稼働しっぱなし。今月の電気代はかなりの金額になるだろうな。


2月15日(金曜日) 下調べ

 都内。四谷の出版社でデータベースを拝借して、取材の下調べをさせてもらう。ほかの出版社の雑誌に書く記事なんだけど、親しくしてもらっている編集者はそんなことはまったく気にしないで、いろいろと適切な助言までしてくれた。すごく参考になった。足を向けては寝られない。感謝感謝です。


2月16日(土曜日) 「頭を冷やすための靖国論」

 ちくま新書「頭を冷やすための靖国論」(三土修平著)を読み終えた。著者ご本人から「ぜひ読んでみて」と勧められ、昨年から電車の中で少しずつ読んでいたのだが、このごろは電車内では睡眠不足を補うことに力を注いでしまうことが多くて、今ごろになってようやく読み終えることができた。

 「靖国問題は決して外交問題などではなく、戦後改革がはらむ矛盾が少しずつ顕在化した結果に起きた国内問題だ」との認識が、本書のベースになっている。その姿勢と問題意識は一貫している。靖国神社の賛成派と反対派それぞれの主張や歴史背景を整理して分析しながら、戦後改革の意味と今後について考えさせる内容だ。

 「一方的なプロパガンダ本ではないか」などと保守派から反発されることに配慮したためなのか、前半は靖国神社賛成派にかなり気を使ったような表現が見受けられる気もする。しかし賛成派と反対派のどちらの立場の主張も感情的で、必ずしも客観的にはとらえられていないと指摘した上で、靖国問題の「割り切れなさ」にも言及する著者の視点は貴重だ。さらに、占領軍によって政教分離を内容とする神道指令と宗教法人令が出される経緯の紹介と解説は、本書の中でもとりわけ興味深い部分だと言える。

 そして、占領軍の国家神道改革に対する靖国神社側の矛盾した姿勢が、「私的な民間の宗教法人なのか、公共的な施設なのか」を自らあいまいにさせることになり、そうしたあいまいさを許した当時の日本政府の対応が、現在までの「戦後の靖国神社のあり方」をめぐる矛盾につながっていることが一気に明らかにされる。まさにそれこそが、「超国家主義的かつ軍国主義的組織や運動が、宗教の仮面の背後に隠れる」ことを許してしまったと言えるのだろう。右派から左派までさまざまな立場を公平に分析した上で、戦後改革の本質をとらえ直す一助となる一冊だ。


2月19日(火曜日) レジュメ作成

 頼まれている講演3つのレジュメをまとめて作成。テーマは「日本の裁判制度」(冤罪事件)、「記者という職業について」(高校生の進路対策)、「市民運動の今後のあり方」(市民グループ)とバラバラなので、どれも同じようなパターンにしてお茶を濁すというわけにはいかない。これまでほかの場所で話をした内容を参考にしながら、新しい情報なども加味してなんとか完成させた。行き当たりばったりとか、ぶっつけ本番で演説できるような才能はないので、話の内容や項目を箇条書きにした「目次」みたいなものを事前に作っておかないと安心できないのだ。ほとんど準備もしないで上手に話ができる人は天才だと思う。演説が重要な仕事の一つである政治家は、その意味ですごい才能の持ち主だよなあ。それはともかく、どういうわけか同じ時期に原稿の締め切りも重なってしまって大ピーンチである。取材にも四苦八苦している。


2月20日(水曜日) 取材

 午後から都内。冤罪事件や裁判の支援をしている全国組織の責任者から、無実を立証する運動がいかに大変かについて話を聞く。夕方、都内の法律事務所へ。親しくしてもらっている弁護士にいろいろと取材資料を提供してもらって、参考意見やアドバイスなどを拝聴した。とても参考になったが、しかしそれでも取材対象の全容はまだ見えてこないなあ。ちょっと焦り気味である。


2月21日(木曜日) イージス艦の傲慢さ

 千葉県の房総半島沖で、海上自衛隊のイージス護衛艦「あたご」と民間漁船「清徳丸」が衝突した事故は、防衛省側の出す証言や情報が二転三転したり矛盾していたりして全く信用できず、隠蔽工作や証拠隠滅や情報操作の疑いが強まるばかりだ。しかしこの事故の最大のポイントは、そもそも衝突回避のためにイージス艦側は最初から何もしようとしなかった、ということだろう。

 イージス艦は漁船などはなから相手にしていなかったし、眼中になかったと思われる。イージス艦はひたすら突き進むだけ。ぶつかりそうだと思ったら相手の方が避ければいい(避けるだろう)。むしろ相手が避けるべきだ、と確信していたのかもしれない。いずれにしても、イージス艦は最初から避ける気などなかったのだ。「国民を守る」はずの自衛隊がどこを向いているのか、自衛隊の傲慢さと一方的な思い込みが象徴されているように思えて仕方ない。

 福田内閣メールマガジンの最新号の冒頭に、福田康夫首相のメッセージとして、「経過はどうであれ、国民の生命を守るべき自衛隊が、結果として、このような事態にいたったことが、とにかく悔やまれてなりません」と書かれていた。「経過はどうであれ」「結果として」という言葉遣いに、「なんだかよくわからないけど結果的にぶつかっちゃいました」といったニュアンスを感じてしまう。あまりにも他人事のような表現ではないか。当事者としての責任感のなさと自覚のなさが如実に表れている。


2月23日(土曜日) 格差社会を実感

 発達した低気圧の影響で強風が吹き荒れて、しかもとてつもなく寒い。夕方から東京・青山の洒落た酒場で、高校時代の男女の友達9人が集まって少し遅い新年会。最近はだいたい1年に1回くらい集まっている。今年はわざわざ京都からの参加もあった。2次会は近くのダイニングバー。階上のロフトが隠れ家的な造りになっていてカッコいい。白ワインが美味かった。3次会は男性陣だけで六本木へ。テレビドラマ「黒革の手帳」の舞台のような高級キャバクラに連れて行かれた。きれいな女の子はいるがたいした会話や飲み物もなく、わずか1時間ほどでウン万円もの請求に唖然とする。最初からあまり気が進まなかったのだが、やっぱりなあという感じだ。しかし同級生の何人かは、こういうところに週に何回も足を運んでいるらしい。さすが羽振りのいいヒルズ族の生活は違う。それはそれでいいんだけど、格差社会の一コマを実感しました(苦笑)。


2月24日(日曜日) 三浦和義さん逮捕

 いわゆる「疑惑の銃弾」(ロス疑惑)事件で警視庁に逮捕され、1審で無期懲役、2審で逆転無罪判決となり、最高裁が上告を棄却して無罪判決が確定した三浦和義さんが、殺人などの容疑で米国の警察にサイパンで逮捕された。刑事事件としては完全に終わったものだと思っていたが、事件発生から27年が経った今ごろになって、どうして米国の警察が逮捕したのか意図がよく分からない。そして何よりも危惧するのは、メディアによる一方的で断定的な「犯人視報道」がまた再び始まることだ。

 三浦さんをめぐる一連の「疑惑の銃弾」報道は、マスコミの事件報道のあり方を見つめ直すきっかけともなった。新聞・テレビ・雑誌の洪水のような断定的な報道に対して、三浦さんは拘置所内から名誉毀損の訴訟を次々に起こし、その大半で三浦さん側が勝訴判決を得ている。さらにその後も講演会やシンポジウムなどで、三浦さんは「報道被害の実態」や「事件報道のあり方」について発言を続けてきた。僕も何度かお会いして話をうかがったことがあるし、編著書に文章を書いていただいたこともあり、年賀状も毎年のように頂戴している。それだけに今回の逮捕には驚かされた。それにしても、ロス市警はなぜ今この時期に逮捕したのだろう。

 日曜夕方のニュース番組のトップ項目は、どこのテレビ局も三浦さんの逮捕だった。硬派で知られるTBS「報道特集」も1時間を通して三浦さんの逮捕を扱っていた。海上自衛隊イージス艦の衝突事件や沖縄駐留の米兵による中学生暴行事件といった不祥事は、はるかどこかに飛んで行ってしまったかのようだ。ワイドショー的に面白おかしい目先の出来事に食いつくのは、マスコミや視聴者(大衆)の性だとは言え、見事なまでに野次馬根性を発揮している。唐突な感じが拭えない三浦さんの逮捕は、まさかそれが狙いではないだろうな、などとついつい勘ぐってしまう。


2月25日(月曜日) 「遺族の声」の伝え方

 三浦和義さんの逮捕について、殺害された元妻の一美さんの母親は事態の急展開に「(一美さんの)誕生日前に光が差した」と語って捜査進展への期待を寄せ、「顔も見たくないからテレビも見ていない」と「悔しさをにじませ」たという。母親が無念の思いをあれこれ口にするのはもちろん自由だし、遺族の気持ちとしても理解できるが、それをそのまま報道することには大いに疑問がある。

 「犯人はこの男だ」との前提で、遺族が感情を吐露するのは分からないでもない。しかし近所の井戸端会議などで個人的に述べる範囲では個人の自由として許されても、それを公共の電波や活字媒体で不特定多数に流すのは問題があるだろう。「犯人に違いない」という遺族の声を伝えることで、多くの人に予断や偏見や先入観を持たせてしまって、視聴者や読者を煽ることにつながりかねない。これは情報を伝えるメディア側の姿勢の問題だ。

 記者が遺族から話を聞くのは当然だが、逮捕されただけでまだなんの結論も出ていない段階で、それをそのままストレートにニュースとして流してしまうのはあまりにも無責任過ぎる。取材したことをすべて報道すればいいというものではない。メディアは過去の失敗からしっかり学んで、「伝えることの意味と影響」をもう少し考えるべきだ。まさかメディアの側が「こいつは犯人に違いない」と実は決めつけていて、遺族の声を意図的に利用して伝えている、なんてことはないとは思うが。


2月26日(火曜日) また今年も花粉の季節

 いよいよ花粉症の季節が今年もやってきたようだ。先週から吹き荒れている強風の影響で、花粉が飛び始めているらしい。体は敏感に反応する。くしゃみや鼻水の症状はまだ本格的ではないが、しかしそれでもきのうは我慢できずに、とうとう鼻炎薬を1カプセルだけ飲んでしまった。薬を服用すると頭がぼーっとして猛烈に眠くなるから、できれば飲みたくないんだけどなあ。きょうはなんとか持ちこたえている。なんとも憂鬱な季節の到来だよ。


2月27日(水曜日) ポイント

 あっちこっちに電話取材。原稿として書けそうなエピソードを、ようやく一つだけど聞くことができた。霧がほんの少し晴れて、漠然としていたテーマのポイントが見えてきた。労働意欲も上向いてきたような気がする(たぶん)。


2月28〜29日(木〜金曜日) 関西取材

 夕方、東京駅で「冤罪File」の編集者と待ち合わせて、新幹線で大阪へ向かう。翌日の午前中は大阪拘置所へ。上告中の被告人に接見。思ったほどものものしい雰囲気はなく、手続きも拍子抜けするほど簡単だった。接見時間は10分とされていたが15分ほど話が聞けた。午後から兵庫・姫路。国選弁護人の話を聞く。熱心な弁護活動だった様子が誠実な説明からもうかがわれた。うーん、しかしこれは記事にはできそうにないなあ。裏付けを取るとはこういうことだし、そもそも取材に徒労は付き物だから仕方がない(以下略)。


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