身辺雑記 

by totoropen (OOKA Minami)


2011年6月1日〜6月30日

●引き続き風邪●菅おろしに狂奔するバカ議員たち●不快指数が急上昇の午後●今年初めてのG●風邪でダウン●延期●きょうは立派に「ホーホケキョ」●咳がきつい●なんとか授業●典型的な流れに●熱く語る●思い込みのメディア批判●ツイッターとFBとミクシィ連携●取材資料の一部を処分●カビ発生で処分即決●不思議な「法則」●地デジ対応のケーブル工事で●終わるの早すぎるよ学食●被災地の子どもたちの笑顔●猛暑日に真夏日に●「原発反対ならエアコン使うな」って●無理な節電は必要ない●終了合図はケータイでトトロ●「刑事コロンボ」死去に合掌●王様は裸じゃないと言う勇気●カビ布団を粗大ごみ搬出●思い込みによるマスコミ批判●追加挿入●●●ほか


6月1日(水曜日) 引き続き風邪

 今朝も引き続き不調。たっぷり寝たので少しは楽になった気がするけど、のどの痛みと鼻水は変わらない。頭痛と悪寒は治まったみたいなので、どうやら改善の兆しはあるようだ。毎週のように寝不足(徹夜)のまま大学に出かけて、教室で大きな声で授業をやったりしているから、のどにくるんだろうなあと反省する。


6月2日(木曜日) 菅おろしに狂奔するバカ議員たち

 なぜ今この時期に内閣不信任案を提出しなければならないのか、さっぱり分からない。菅首相が指導力を発揮して、完璧に仕事をこなしているとはもちろん思えないが、深刻で危機的な状態にある原発事故を目の当たりにすれば、だれが対応したとしても右往左往するだろう。そもそもそんな危険なものを、安全だと言いながら一貫して推進してきたのは自民党政権だったわけで、その尻拭いをさせられていると言ってもいい。とにかく今は、単に大地震と大津波の被害だけでは済まない重大な危機に直面しているのだ。原発災害への対応が最優先であることを認識する必要がある。

 新聞報道からピックアップするだけでも、菅首相批判と内閣不信任案提出に浮かれている国会(自民党の多くと民主党の小沢グループの議員)に対して、世論は批判的だ。<不信任案提出に被災地から怒りの声。「そんなことしてる場合なのか」「何がしたいのか分からない」>(毎日)、<自民党の中堅・若手からも不満の声。石破政調会長「なぜ出すのか、なぜ今の時期か」>(読売)。国会の大半のバカ議員どもには、まったく理解できないかもしれないだろうが、国民感情はこれに尽きるだろう。

 それに、菅首相を引きずり降ろした後で、いったいだれが指導者となって政権を引き継ぎ、どのような政策を示して原発事故を収束させ、どうやって震災復興への道筋をつけるのか、エネルギー政策はどうするか、まるで何も具体案を提示していないではないか。それで内閣不信任案を突き付けるというのでは、あまりにも無責任すぎはしないか。まるでなんらの受け皿も展望もないまま、いったい何がしたいのか。まさに「政局ごっこ」そのものではないか。

 情けないのは民主党の議員連中だ。小沢グループや鳩山前首相が造反して内閣不信任案に賛成するのは自由だが、だったらきちんと離党するのが筋だろう。不信任案が可決されたら(されなくても)民主党は分裂するかもしれないが、それはそれで当然の帰結だと思うし、むしろその方がすっきりする。しかし今そんなことをやってる場合なのか。だれが原発震災を解決し、どうやって着地させるのか。展望がまったくない。せっかく政権交代したのに、今こそ脱原発に大きく政策転換するチャンスではないのか。

 この期に及んでもまだなお原発建設推進を続けたい連中が、脱原発に(ほんの少しだけど)舵を切りそうになっている菅政権を、必死になって引きずり降ろそうとしている。そんな構図にしか見えないんだけどなあ。少なくとも僕はそのような動きにしか思えない。原発利権の実態と原子力行政の責任を、うやむやにしたいだけなんじゃないのか。

 内閣不信任案に対する衆院での賛成討論。自民党幹事長の石原伸晃議員の発言を聞いていると、要するに菅首相が原発を止めたことが気に食わないってことじゃん、やっぱりなあと思った。内閣不信任案提出の本音が出まくってるよなあ。

 そして永田町劇場はいつものように終演。内閣不信任案は大差で否決。いつも通りの配役でいつも通りに演じきってくれた。何の意外性もない役者陣の演技と演出だった。政局ごっこの茶番劇なんだからこんなものだろう。しかしそもそもこんなことをやってる場合じゃないんだから、さっさと原発対応に取り組んでくれ。こうやっている間にも、日本の国土と周辺海域は放射性物質によって汚染され続けているのだから。事態は待ったなし。一刻を争う危機的状況なのだ。菅首相が必ずしもいいとは思わないが、しかし菅おろしに狂奔しているバカ議員連中の方が、国民にとってはよほど害悪をまき散らす存在だと思わざるを得ない。


6月3日(金曜日) まだまだ風邪

 風邪はだいぶ落ち着いてきたようだが、のどが痛いのと頭痛に加えて咳がたまに出るし、お腹の調子もイマイチだ。今日と明日を乗り切ればとりあえずゆっくり休めるので、とにかく頑張ろう。


6月4日(土曜日) 不快指数が急上昇の午後

 今週もやっぱり徹夜で作文添削を終える。のどが痛くて体もだるい状態は変わっていないけど、ここは踏ん張って登校するしかないよなあ。昼休みに会議があったがそっちは時間の余裕がなかったのでパスさせてもらう。レジュメや資料を印刷して午後から授業。学園祭準備のために今週だけ8号館の教室に変更。えらく狭いので圧迫感がある。おまけに3講時のクラスには屁理屈と詭弁だけは一人前で、扱いにくい受講生が2人いるんだよなあ。

 およそまともに授業を受けるという態度ではないばかりか、ほかの学生たちのようにまともなコミュニケーションさえ取れないのには閉口する。唖然呆然。奇々怪々。普通は教員に注意されたら恐縮するものだと思うが、恐縮どころか反省する気配のかけらもなく、逆に開き直って意味不明の詭弁を弄して言い返してくるので、不快指数と憤りの感情だけが急上昇させられるのだ。これまでこういうのにはちょっとお目にかかったことがない。そのうちの1人ときょうは授業中に一悶着あった。まじめに授業に参加している多くの学生に悪影響を与えかねないので、どうしたものかと思案している。ほかの先生方に相談したら、「それはひどいね、なんとかした方がいい」と一様に心配してくれて、いろいろとアドバイスをいただいた。対策を講じよう。

 ちなみにもう1人は3週間ほど前の授業終了後、宿題も出さず出席もしないのに、すぐにばれる嘘八百のわけのわからない言い訳を平然と展開し、そのうちまるで僕の方が悪いかのような屁理屈を主張し始めたので、努めて冷静に淡々と、理詰めで徹底的に論破してあげたら来なくなった。うんうん、まじで迷惑だから来なくていいよ。いいんじゃないかな自己責任で。大学は義務教育じゃないんだから。僕は全く困らないし。学ぼうとする意欲のある人には最大限のサポートをするつもりだが、そうじゃない人のフォローは最低限しかするつもりはない。そもそもまともな会話が成り立たない人の相手をするほど暇じゃないんだよ。

 4講時のクラスでは私語のたぐいはほとんどなく、講義を聴きながらノートやメモを取っている学生も多い。学生が書いてくる作文を見ていると、文章表現力や構成力の伸びがきわめて大きくて驚かされる。3講時のクラスの学生も成長していることでは同じだが、4講時のクラスはその何倍も伸びているのが手に取るように分かるのだ。クラス全体の空気や雰囲気といったものに、教育効果は大きく左右されるんだなあと考えさせられる。

 夕方から講師陣の打ち合わせ会議。終了後、駅前の居酒屋へ。今週もやっぱり生ビールだ。よく冷えたサッポロ生ビールで乾杯だ。くぅぅぅーーっっ。いやあ、たまらん。美味しいなあ。おいおい、風邪の具合は大丈夫なのか。


6月5日(日曜日) 今年初めてのG

 今年になって初めて自宅の部屋でGを目にした。それほど大きくはなくて、体長3センチほどの中くらいだった。ここ数年は姿を現していなかったのに…。餌になるような食べ残しのたぐいは、部屋からすべて排除するように気を付けているんだけどなあ…。

 視界の片隅に飛び込んできたその瞬間、文字通り全身が凍り付いた。しばらく目が釘付けのにらめっこ状態が続く。そっと押し入れを開けて、常備してあるスプレー式の殺虫剤を取り出し、狙いを定めてすかさず噴射。やばっ。外れたかっ。逃げ込んだと思われる物陰に向かって第2射を噴射する。しばらくすると、姿は見えないがガサガサと動き回っている音が聞こえて、静かになった。じっと息を潜めて周囲を観察すると、障子の向こうでぴくぴくと動く物体を見つけた。任務完了。それにしても凄まじい威力だな。ほっと安堵して力が抜ける。息詰まる闘い。冷や汗たらりの時間だった。


6月6〜7日(月〜火曜日) 風邪でダウン

 油断して無理をするとてきめんに体調に悪影響を及ぼす。風邪がまたぶり返した。のどが痛くて咳が出て苦しい。ただただひたすら爆睡する。きのうときょうは完全ダウン。2日間ともたっぷり10時間以上の睡眠を取ったらかなり楽になった。風邪薬のたぐいはほとんど飲まないんだけど、やっぱり薬の力を借りるのがいいかなと考えを改める。医者に診てもらうほどではないと思うので、ちょっと調子がよくなったのを機に薬局に出かけて、薬剤師さんお薦めの総合風邪薬を買ってきた。薬を飲んでとっとと寝よう。


6月8日(水曜日) 延期

 あすの某誌の編集会議は延期(というか中止)だとか。決まったのなら連絡くらいきちんと迅速に寄越してもらわないと困るが、風邪ひき状態がまだ続いているので、都内まで出かけなくてよくなって正直なところ助かった。遅い晩ご飯を食べたら、薬を飲んでおとなしく寝よう。咳が出るとなかなか熟睡できないのが辛い。


6月9日(木曜日) きょうは立派に「ホーホケキョ」

 自宅裏の雑木林でいつも鳴き声を披露しているウグイスが、ようやく一人前の音色を響かせるようになった。1週間くらい前にやって来たばかりのころは、「ホーーーーッ、ホ……」「ホーーホホ、ホーーーッキョ」といった感じで、何回やってもうまく鳴けなかった。「ああっ、あとちょっとなのに」「今のは惜しいな」と聞いているだけでなんとももどかしい。それでも繰り返しけなげに発声を続ける様子が、いじらしくも微笑ましかった。練習の甲斐あって、きょうはちゃんと立派に「ホーーーッ、ホケキョッ」と、気持ちよさそうに鳴いている。どこか誇らしげでもある。毎年この時期になると、ウグイスがやって来て素敵な音色を披露してくれる。心が穏やかに幸せな気分になれるさえずりに感謝。春が終わって初夏の訪れをしみじみ感じさせてくれる大切な贈り物だ。


6月10日(金曜日) 咳がきつい

 咳とずるずるの鼻水が間断なく襲ってくるので、うとうとしたと思ったらすぐに目が覚める。のどにきてるなあ。ぐっすり寝ることができなくて辛い。それでも少し落ち着いた明け方あたりから、昼過ぎまでとにかくぼんやりしながら寝る。


6月11日(土曜日) なんとか授業

 午後から授業。咳と鼻水ですぐに起きてしまうので仮眠もままならず、結局はいつものように宿題の作文添削をだらだら続けて、徹夜になってしまった。風邪で体調は最悪だったけどなんとか2コマやり遂げる。「マジできょうは調子が悪いから大きな声は出せないんだけど、早めに切り上げようと思ってる」と冒頭で告げたが、みんな集中して聴いてくれて私語もなく反応もよかった。沖縄の米軍基地や原発事故の話も食い付きは悪くなかったし、熱心にノートも取ってるし。女子学生の反応がよかったので気分が良い(笑)。もちろん男子学生も熱心だったけど。

 授業態度が不真面目でやたら反抗的な学生はきょうは欠席。そもそもほかの学生にとっても迷惑なんだよなあ。来たくなければ来なくていいんじゃないかな。大学は義務教育じゃないんだから自己責任で頼むよ。先週にも書いたけど、大事なことなのでもう一度書いておく。学ぼうとする意欲のある人には最大限のサポートをするつもりだが、そうじゃない人のフォローは最低限しかするつもりはない。こっちはそんなに暇じゃないんだよ。


6月12日(日曜日) 典型的な流れに

 昼間は割と落ち着いているのに、夜中になると激しく咳き込むんだよなあ。熟睡できず朝方までそんな感じが続いて、そのあと夕方までひたすら寝るというパターン。布団の中には15時間以上いるのに、実質的には8時間くらいしか眠れていない。もっとたっぷりしっかり眠らなくちゃいけないのに。熱は全く出ないけど、のどにきて咳が激しくなる、という僕のいつもの典型的な風邪の流れにはまってしまった。それなのにあしたも授業か。憂鬱だ。


6月13日(月曜日) 熱く語る

 午後から授業。体調はそんなに辛くない状態だ。きょうはオムニバス形式の講義の「平和研究」。今週と来週の2回が僕の担当だ。教室に出向いたら受講生は20人ほど。前の方の座席に座るように指示してマイクなしで話をした。これは授業がやりやすい。ジャーナリズムはそもそも何のために存在しているのか、権力を監視して主権者に判断材料を提供するのが本来やるべき仕事なのだが、その役割を果たしていないのが問題であって、情報を鵜呑みにするのも危険だけど、メディアを全否定するのも間違っている、というようなことをとにかくひたすら熱く語った。原子力発電所の事故と原子力行政のウソ八百を具定例に、授業の半分近くを費やし、市民とメディアと国家権力と知る権利の関係について、裏付けを取って事実確認する取材の大切さについてこんこんと述べた。

 授業が始まって30分も経たないうちに、全員の目と耳が完全にこっちに向けられているのがはっきりと認識できた。だれ一人として居眠りする学生はいなかった。いやあ、自分で言うのもなんだけど、きょうの講義の完成度はきわめて高い。会心の出来だったな。「とても分かりやすくて面白い授業でした」「授業が始まった最初はすごく眠かったのに、話に引き込まれて目がすっと覚めました」といった感想がいくつも寄せられてうれしい。分かりやすいと思ってもらえて興味を持ってくれたら大満足。これほど記者冥利に尽きるお褒めの言葉はない。


6月14日(火曜日) 思い込みのメディア批判

 脱原発や反原発について熱心にインターネットで発信している人たちを見ていると、思い込みや先入観や決めつけに基づく発言が、ものすごく気になるんだよなあ。とても危なっかしいものを感じてしまう。「メディアは本当のことを伝えない」「ウソしか言わないに決まってる」と、事実関係を確認もせずに平気でデタラメを書いているのだ。確かに納得いかない不快な報道もあるだろう。でも全部がそういうものばかりじゃない。情報を鵜呑みにするのは危険だけど、全否定するのも間違い。メディアを批判するのは結構だが、まず事実関係を確認してから批判するのが大前提だろう。

 例えば、有名な音楽評論家・作詞家は、ツイッターでこんな発言をしている。<きょう会った友人2人に、11日は日本全国で大きな脱原発を訴える市民デモがあったのよと言った時、「へぇ〜、そんなの知らなかった!」と言われて、やっぱりねぇとがっかり。どこもちゃんと報道しない怖さ、恐ろしさ。その主張が論理的であろうと無かろうと、ごく一般の善良な国民の声なのに…。> ご本人とその友人2人が新聞をまともに読んでいない(読む習慣がない)ばかりか、テレビのニュースもろくに見ていないだけではないのかとしか思えない。

 この音楽評論家は次のような発言もしている。<あれだけの大きなデモなのに、どうして報道はあんなに小さいのでしょう。これも記者クラブが…> 小さく扱うところもあれば、大きく扱うところもあるだろう。1面の左肩と社会面にカラーとモノクロの写真2枚を使って伝えるなど、かなりの紙面を割いて大きく報道している新聞も複数あった。不当に扱いの小さな新聞や意図的にニュースを黙殺するような新聞は、個別にピックアップして批判すればいい。そもそも記者クラブは関係ないと思うが、なんでもかんでも記者クラブのせいにすればいいものでもなかろう。

 そしてほかの人が、<朝日新聞は、パリの中心部で行われた脱原発デモには数千人が集まったと書いているが、日本での人数は書かれていません> と発言し、それを見た別の一人が、<しっかり事実を伝えて欲しいですね> と書き込むと、先ほどの音楽評論家・作詞家は、一連のやり取りをそのまま公式引用して発信した。別の有名なラジオパーソナリティーも同じように公式引用した。ところが実際の朝日新聞の記事には、日本でのデモの参加人数はしっかり書かれていた。つまり事実に基づかないデタラメな内容が、次々に拡散されていったことになる。

 ろくに調べも確認もせず、十把一からげで「報道は」「マスコミは」と決めつけて悦に入るのでは、単にメディアを叩いて欲求不満を解消するだけの自己満足にすぎないのではないか、と思われても仕方ないだろう。ちゃんと確認してから発信すればいいのにそれをしないで、いい加減な思い込みだけのデタラメを垂れ流せば、脱原発の主張そのものがうさんくさく見られることになる。迷惑だ。

 「メディアが伝えているのか伝えていないか」と主張したいのであれば、まず事実をしっかり確認するのが大事。思い込みや決めつけだけでありもしない話を広げるようなことをしたら、信用も共感も連帯もすべて得られなくなってしまうことに気付いてほしい。東電や原子力安全保安院じゃないんだから。メディアが本来の役割を果たしていないことは問題だけど、事実に基づかないデタラメを根拠に、メディアを全否定するだけでは何も生まれない。


6月15日(水曜日) ツイッターとFBとミクシィ連携

 ツイッターに書き込んだ発言(ツイート)を、フェイスブックやミクシィにも転送して表示させる「発言連携」の機能があるというので設定変更してみた。何回か書き込みテストをしたのだが、う〜ん、さっぱり分からん……。しばらく様子を見たけどなかなか反映されないし、設定変更した後にツイッターから3件ツイートしたはずなのに、2時間ほどしてミクシィに反映されたのは1件だけだ。フェイスブックにいたっては全く反映なし。わけワカメ。

 複数のネットサービスに、同じような内容を書き込む手間ひまと面倒くささを少しでも軽減しようと思って、発言を連携させる機能があるなら利用しようと企んだのに、ほとんど役に立ってないじゃん(泣)。おまけにいつの間にか、ミクシィのページレイアウトや機能も使いにくく変更されてるし……。ますますわけワカメ!

 聞くところによると、最初のうちは書き込みがすぐに反映されないことも多く、翌朝になってから反映されたこともあったという。どうやら試運転期間はじっと我慢と忍耐をするしかないようだ。ちなみにこのサービスはあくまでもツイッターが中心で、「ミクシィとツイッター」「ツイッターとフェイスブック」の双方向のリンクがそれぞれ成立する。つまり、「ミクシィ⇔ツイッター⇔フェイスブック」という関係になっているわけで、ミクシィとフェイスブックは直接連携していない。


6月16日(木曜日) 取材資料の一部を処分

 取材資料の一部を思い切って処分することにした。大きな手提げの紙袋8つほど。一応は取捨選択して、どうしても必要だと判断した資料は手元に残すことにしたが、そのほかは紙袋にぎゅうぎゅうに詰め込んでビニールひもで十字に縛って、さらにでっかいレジ袋に押し込んだ。横浜市ではこういう文書類はすべて、燃やすゴミでなくて資源ゴミになるらしい。知らなかったよ。分別が細かくなって複雑で分かりにくいなあ。リビングがちょっとすっきりした。よしよし。だがしか〜し。ついつい油断していたら、困ったことに仕事部屋の書類の山が増えているではないか。うーん。


6月17日(金曜日) カビ発生で処分即決

 押し入れの壁の一部にカビが大量発生しているのを発見。全体に広がる前なのでまだなんとかなりそうではあるが、まるで「エヴァンゲリオン」の使徒襲来だよ。古着や古い布団など収納物の一部にも被害が及んでいたので落ち込む。しかしよく考えれば、こんなの二度と着ることも使うこともないだろうというようなものばかり。即断即決ですべて処分することにした。まあプラスに考えれば、思い切って捨ててしまえというきっかけになったとも言える、かな。それにしてもまいったなあ。


6月18日(土曜日) 不思議な「法則」

 午後から授業。学生の作文の出来がイマイチなので、あまり気分が乗らない。思わずうなるような、感心するような、びっくりするような、感動するような文章を読むと、やはり指導する側としても高揚する。「これはいいものを読ませてもらった」と幸せな気持ちになってテンションが上がるのだ。一方で、出来のいい作文を書いた学生本人がその日の授業を欠席していると、これは逆にテンションが下がることになる。せっかく褒めてあげようと意気込んで教室に向かったのに、肩透かしを食らったような感じになるからだ。しかもいつもはきちんと出席しているのに、なぜかそういう時に限って珍しく休むんだよなあ。1人や2人でなくて結構ある。どうしてなんだろう。謎だ。そういう「法則」でもあるのかな。


6月19日(日曜日) 地デジ対応のケーブル工事で

 地元のケーブルテレビ会社が、地デジ対応の配線工事にやってきた。うちのマンションはランドマークタワーの影響で、電波障害対象地域に入っているので、テレビの視聴はもともとアンテナによる受信ではなくケーブル回線を利用している。このケーブル回線を地デジ対応に切り替えるために、引き込み端子を交換する必要があるのだという。それだけなら15分もあれば終わるだろうと思っていたら、作業員が端子交換の作業に取りかかると、すかさず営業マンが「BSやCSはもちろん、電話回線もインターネットも利用できる大変お得なサービスがありまして」と説明を始めた。

 きたよきたよ。やっぱりそうきたか。「テレビの受信機が壊れているのでまずそれを買い替えて、とりあえずは従来の地上波放送が視聴できればと考えているのですが」と応じると、「こちらのマンションは古い回線を使っているので、しばらくの間は地デジが受信できますがそのうち映らなくなります」と断言した。おいおい映らなくなるって、それじゃあ地デジ対応の端子に交換する意味そのものがないじゃないかよ、と思いながらも「はあそうなんですか」と適当に相づちを打つ。すると営業マンは「当社のサービスを契約いただければ100以上のチャンネルが好きなだけ見られます」とか「高速インターネット回線が快適に利用できます」などとあれこれ宣伝した挙げ句、「専用の回線を引き込む工事をするには契約をいただく必要があります」と言う。

 「その契約っていくらなんですか」とたずねると、月々5000円ほどだという。それは高い。そんな余計なお金を払うのなら、美味しいものを食べたり映画を観たりした方がよほどいい。そもそも100以上もチャンネルがあっても見ないから意味ないよ。「新しい回線を引き込まずにこれまでの回線を利用して、きょう交換工事していただいた端子にテレビを接続しても、従来の地上波放送は見られるんですよね」と再度確認すると、営業マンは「映ることは映りますが、回線レベルが低いのでそのうち受信状態が悪くなる可能性があります」と答えた。あれれっ、言い方が微妙に変わったな。さっきと少しニュアンスが違うじゃないか。

 電波障害対策のために敷設されているケーブル回線を利用して、地デジ対応の端子からテレビ放送を受信することが、もし本当に将来的にできなくなるのだとすれば、何のための端子交換なのかという疑問がわく。そもそもそれって電波障害対策そのものを否定することにならないのか。ケーブルテレビ会社とチャンネルサービスの契約を結ぶのは、あくまでも任意のはず。ところが、「しばらくは地でジ受信ができてもそのうち受信できなくなる」と説明し、途中で映らなくなることを避けるためと称して、ケーブルテレビ会社との契約を迫るのは、かなり問題があるのではないか。消費者を錯誤させ誤解を与えることにはならないのか。営業マンに対してそんなことまでは言わなかったけど、いろいろと質問をしていると、そのうち最後に営業マンは、「これまでのケーブル回線からでも地デジの放送はちゃんと受信できます。それは大丈夫です。もしかしたら受信状態が悪くなることがあるかもしません」と断言した。最初に断言したのとは、まるで違う言い方になっていた。

 僕は大人だから、当然のことながら詰問調やけんか腰で営業マンに対応はしない。最初から最後まで「ふむふむなるほど」とうなずきながら、必要に応じてにこやかに質問もする。疑問に感じたことや矛盾に思ったことをぶつけていけば、おのずと事実に反した言葉は修正されることになる。つまりいつもやっている取材活動と同じだ。地デジ対応の端子の交換工事をしてくれたこと自体は、感謝すべきだと思うから、「とりあえず新しいテレビ受信機を買った場合はしばらく様子を見て、受信した映像に満足できないようであれば改めて契約の連絡をします」と返答したら、営業マンも納得してくれた。さて、新しくテレビを買い替えるかどうかだな。かなり安くなっているみたいだから検討してみるか。


6月20日(月曜日) 終わるの早すぎるよ学食

 午後から「平和研究」の講義の2回目。NHKに対する政治介入の問題と、団結して権力監視すべき記者クラブが本来の役割を果たしていない問題の2つに焦点を絞って、情報操作・情報統制されるメディアとジャーナリズムのあるべき姿について話をした。女子学生から「きょうの授業を楽しみにしていました」との感想が寄せられた。すごくうれしい。去年、僕の別の授業を受けた学生も何人かいたようだ。

 夕方6時ちょっと前に学生食堂に行ったら、「今春からは5時半にオーダーストップで、6時には営業終了になったんだよ」と、食堂のおばちゃんに告げられた。はやっ!しかも7月になると3時で終わりなんだとか。ええっ、まじっすか。「社長が決めたことなんでね、そういうことなんですよ」と申し訳なさそうな顔で説明するおばちゃん。指で示された方に目を向けると、「節電に協力するために食堂の営業時間を…」などとうんたらかんたら書かれた紙が、確かに壁に張り出されている。節電だからといって学食を早めに閉めたても、あまり意味がないと思うけどなあ。そもそも庶民が節電なんかしなくても、電力不足にはならないと思うけどなあ。

 地デジ対応のケーブル端子に交換する工事は終わって、さてこれからどうするか。壊れて映らないテレビ受信機を新しく買い替えるかどうするか、安くなっているみたいだし検討してみようかと、近くの家電量販店をのぞいてみた。でも、何インチくらいの大きさにすべきなのか、どこのメーカーを選べばいいのか、録画機能は必要なのかなど、よく分からん。

 オススメ2つ。自販機で初めて買って飲んだ「アイス抹茶ラテ」(ポッカ)が美味しかった。くどくなくて、ほんわかあっさり目の甘さが広がって飲みやすい。もう一つは「キャラメルコーン」のバニラアイス味。これも抑制された上品な甘さで、ふんわり口の中でとけて広がる。甘さがしつこくないのがいい。期間限定だとか。

 【訂正】商品名の訂正です。「アイス抹茶オレ」でなく、正しくは「アイス抹茶ラテ」です。恥ずかしい。すんません。というわけで、きょう21日もまた買ってしまった。近くの自販機だと100円で安いんだもん(汗)。


6月21日(火曜日) 被災地の子どもたちの笑顔

 巨人のアレックス・ラミレス選手が、1日だけの休養日を利用して被災地の宮城県女川町を2回にわたって訪問し、小学生らと野球教室などで交流。メーカーなどの協力で用意した約2000枚のオリジナルTシャツや野球道具一式をプレゼントしたほか、最初の訪問の際に撮影した集合写真をパネルに入れて一人一人に手渡した。ラミレス選手は「子どもたちのうれしそうな顔を見られてホッとしたよ」「自分は日本の文化で育ててもらった選手。だから今こそ恩返しがしたいんだ」と笑顔を見せたという(報知新聞から)。

 ラミレスいい奴だなあ。僕の友達にも、被災地を何回か訪問して大道芸で子どもを楽しませているのが1人いる。「ムンドノーボぽこブヨ〜ダン」を主宰する木村元(きむらげん)。千葉県の県立高校の美術教師を辞めて現在は大道芸人。南相馬、釜石、陸前高田、仙台、気仙沼などの避難所や、保育所、託児所、小学校の校庭をオンボロの車で駆け巡り、手作りの人形劇団を使ってパレードのような音楽パフォーマンスを披露する。

 本人のホームページに、<被災地訪問レポート>が掲載されているが、子どもたちの笑顔や食い入るように見つめる真剣なまなざしを見ると、こういう活動の大切さがよく分かる。掲載写真に添えられたコメントにはこう書かれている。「震災後初めてこんなに笑う子ども達を見た、と言われれば…これに勝る歓びなし」。この言葉に尽きるんじゃないかと思った。お疲れさまです。「ムンドノーボぽこブヨ〜ダン」の被災地公演はこれからもまだまだ続く。


6月22日(水曜日) 猛暑日に真夏日に

 マジで暑い夏至だった。既に昨晩から寝苦しかったのだが、おまけに近くの中学校では朝早くからスポーツ大会をやっているのか、のべつまくなしに延々とがなり立てる校内放送がうるさくて、惰眠をむさぼることすらできない。気温はぐんぐん上がって、関東や東海の各地で気温が35度以上となる猛暑日を記録。気象庁によると横浜市の最高気温は32・2度の真夏日だった。すんまへんずっと我慢していたんですが、あまりの暑さに耐えられなくなって、夕方に30分だけエアコンを稼働させてしまいました(汗)。もちろん原発なんかなくても電力不足に陥ることはないと考えているけど、そもそも無駄に電気を浪費してきたこれまでの生活を見直すのは大切だし、何よりも個人的な「節約」にもなるので、できるだけエアコンは使わないようにしてみようかなと。「原発がないと困るだろう」と世論誘導する東電の節電PRに乗せられて、「節電」の努力をしているわけでは決してない。でもって冷えたお茶もしこたま飲んで、買い置きしてあったアイスクリームも食べた。うまっ。


6月23日(木曜日) 「原発反対ならエアコン使うな」って

 きのうの「身辺雑記」やツイッターなどで、「あまりの暑さに負けてエアコン稼働。原発なんかなくても電力不足にはならないと思うけど、電気を浪費する生活を見直すのは大切だし、個人的な節約にもなるから、できるだけエアコンは使わないつもり。『原発がないと困るだろう』と世論誘導する東電の節電PRに、まんまと乗せられたわけではない」と発言したら、原発肯定派の友人から「原発に反対する人間はエアコン使うな」と一方的に非難された。だぁからぁ、原発の電気なんか使ってないし、原発がなくても電力不足にはならないし、そもそも電力不足の解消と節電とは関係ないんだってば。

 これに対して友人は、「東電の電気を使っているなら、君は柏崎刈羽の4機分が発電した電力が混ざったものを使用している」と主張するので、「柏崎刈羽の4機分が稼働しなくても電力不足にはならないんだよ。つまりそれは余分な発電ということ。よって原発による電気は消費していない」と説明してあげた。

 そしたら友人は、「柏崎の4機を止めると使用率は97・5%。あとちょっとで大停電だ。君が暑さに負けて使ったクーラーが原因かもしれない。余分だから使ってないなんて言わせない」と責め立ててきた。えーっとちょっと待って。「柏崎の4機を止めると使用率は97・5%」って、それなら原発がなくても大丈夫じゃないのか。うーん、わけが分からん。

 前にも書いたと思うが、2003年4月に東電の原発で事故隠しが発覚し、すべての原発を一斉停止する事態になったが、電力不足にはならず停電もしなかった。それでは電力需要の大きい夏場はどうなるのか。「原発が止まると停電する」との東電の主張については、平日の業務需要や大規模工場の操業を調整すれば問題ない、という調査結果がある。実際、大手自動車メーカーでつくる業界団体などは、既に業界として操業調整することを決めている。

 すると友人はこう言い放った。「それだけ東電を批判するなら暑さに負けてクーラー使うな。たらいに水張って足を突っ込んで我慢しろ」

 んんーっとそうすると、原発を批判する者はエアコンを使うな、電気も使うなということなのですかね。あるいは例えば、原発を批判する高齢者は、エアコンを使わず熱中症で死ねばいいということでしょうか。つまりその理屈だと、「原発を批判する者はエアコンを使う権利はない」となるのだけど…。

 いきり立った友人は、「幼児や老人が冷房使うなら分かるが。まだ6月ですよ。真夏はどうなる。五体満足で健康な者が暦も6月だというのに冷房かけてどうする」と畳み込んでくる。友人の理屈はこうだ。「原発批判していて原発停止せよと言いながら、この程度の暑さに負けてクーラーに頼るのが情けない。そこまで発言するなら発言に責任を持ってほしい。クーラーのスイッチを入れる時に、福島第一原発で防護服を着ながら作業している人を思いうかべてからスイッチを入れろと言いたい」

 どういうことだ。わけが分からなくなってきたな。1)「原発批判するなら発言に責任持つべきで、だから電気(エアコン)を使うな」という理屈がまず意味不明。そもそも原発による発電は余分な電力なんだから、エアコンを使うことと原発批判の発言をすることとは矛盾しない。2)暑さをどう感じるかとか体力は人それぞれ。我慢するかしないかも人それぞれだろう。「この程度の暑さ」に負けるな我慢しろなどと、一方的に指図されるいわれはない。ずいぶんと傲慢不遜な言い方ではないか。3)真夏日や猛暑日となる気温を記録した実際の状況を把握することなしに、「暦ではまだ6月だというのに冷房を入れるのはけしからん」と主張するのは、あまりにも現実からかけ離れた意味のない精神論としか思えない。4)そもそも「電力不足にはならない」という前提で話をしているのに、どんどん話をそらしていないか。

 「原発(東電)を批判するならエアコンも電気も使うな」「エアコンや電気を使っているのに原発(東電)を批判するな」というのは、原発肯定派・原発推進派の典型的な主張や理屈だが、これほど真正面から披露されたことに驚いている。生活を営む上で電気は使わざるを得ないし、使わないという選択は考えられない。使っているからこそ批判するのだし、生命に関わる問題なのだから批判する権利が当然すべての国民にはある。電力事業を独占して選択の余地を奪い、情報公開もせず国民の耳目をふさいでウソ八百を並べ立てておきながら、問答無用で批判の声そのものを封じ込めるなど、決して許されるものではない。まさしくファシズムの手口そのもののようなこうした乱暴な屁理屈が、この期に及んでもなお日本社会でまかり通っていることを深く憂慮する。

 外野席のギャラリーからは、こんなフォローが入った。「暦では6月でも7月中旬の暑さだからね。無理し過ぎないほうがいい。暑いのに大丈夫と思って我慢して、そのまま脱水症状になって熱中症になって亡くなる事例もある。無理するな。無理強いするな。そんな感じ。必要と思ったら使う。今後の猛暑のピーク時に備えて体力を温存しておくためにも、この時期からバテる訳にはいかないですからね」「東電の責任と東電の職員や作業員を同義に考える必要はないと思います。原発は絶対安全だと言いながらあの大事故を引き起こした東電の責任は、だれからも非難されて当然。今でも嘘をつき続けているし」。的確なフォローに感謝したい。

 念のために書いておくと、節電するに越したことはない。節電したほうがいい。「原発なんかなくても電力不足にはならないと思うけど、電気を浪費する生活を見直すのは大切だし、個人的な節約にもなるから、できるだけエアコンは使わないつもり」と冒頭で引用しているように、できるだけエアコンは使わないつもりだ。繰り返すようだが、世論誘導する東電の節電PRに乗せられているわけではない。


6月24日(金曜日) 無理な節電は必要ない

 節電するのを当然であるかのように他人に強要し、節電しない奴は非国民だと言わんばかりの風潮がとても嫌だ。暑さに対する耐性や体力や事情は人それぞれなのだから、どうしても暑くて我慢できなければ、無理せずにエアコンを使えばいい。熱中症で命をなくすよりずっといい。

 節電して健康を害したり死んだりしたらそれこそ本末転倒だ。夏本番はまだまだ先であったとしても、暦の上では5月だろうが6月だろうが、そんなことはまったく関係ないし意味がない。形式的なお役所仕事をやってるわけじゃないんだから。6月でも真夏以上に蒸し暑い猛暑日はある。

 「みんなが節電に協力しているのに何事か」と居丈高に非難するのを見ると、戦前の町内会や婦人会の面々か軍人さんかと思ってしまう。そんな声をいちいち相手にする必要などない。自分自身の健康と体調を考えて、臨機応変に判断して自由にエアコンを使えばいい。自分自身の命と体を守るためだ。他人にとやかく言われて指図されるような話ではない。

 ましてや、「原発事故のため電力供給に支障が出ないように」と称し、「原発が稼働しないと困ったことになるよ」とまるで脅すかのようにして、節電への協力を呼びかける東電の宣伝活動(世論誘導)に従う必要などさらさらない。東電の節電PRを鵜呑みにしてはいけない。原発が稼働しなくても電力供給量は十分ある。埼玉県熊谷市で39・8度(6月の国内最高気温)を観測するなど、関東各地で35度以上の猛暑を記録した6月24日も、東電管内の電力需要はピーク時の約9割だった。

 無駄な電気を浪費することはもちろん慎むべきだが、最小限度のやるべき節電だけをきっちりやってこの夏場を乗り切れば、原子力発電なんかなくても、火力発電と水力発電だけあれば電力は足りていることの証明になる。そういう意味でも、無理な節電をわざわざする必要はないのだ。暑さにどうしても耐えられなければ、むしろ我慢しないでエアコンを使ったほうがいい。遠慮はいらない。


6月25日(土曜日) 終了合図はケータイでトトロ

 午後から授業。もう土曜は徹夜明けで授業に出るのが当たり前なんだと、悟る(あきらめる)ことにした。学生の作文を添削してたら、どうやっても結局は朝になってしまうんだよなあ。ほかのことはほとんどできないし、毎週これじゃあへろへろで体が持たない。もっと手を抜けばいいのかもしれないけど、なかなかそういうのができない損な性格だったりする。適当にあれこれ話をするだけならラクチンで、大して負担にもならないが、土曜日のこれは普通の一般的な講義とは違うんだよな。もちろんその分、学生にとっては得るものが大きいし、大学全体としても実は計り知れないメリットがあるはずなんだけど。とりあえず早いところ前期が終わって、この講座から解放されることを祈るしかない。

 宿題として作文提出させるのは先週で終わらせて、今週からは授業中に時間を決めて書かせる「実作方式」に切り替えた。入学試験や入社試験では、一定の時間内に規定の字数を書かされるのが当たり前だ。よーいドンで一斉に書く際の練習にもなるし、ほかにもいろいろと考えるところがあって、残りの授業ではその場で実際に書かせる「実作方式」を採用することにした。50分で800字。時間がきたら「となりのトトロ」のメロディーが流れるように、ケータイを設定しておいたらちょっと学生に受けた。来週以降は毎回違うメロディーを流すことにしよう(笑)。

 講義が終わって、ほかの先生たちと駅前の居酒屋へ。よく冷えた生ビールがとにかく美味しい。くーったまらん。豚キムチ炒め、鳥の手羽先揚げ、ソース焼きそばなど、定番の安っぽいつまみのラインナップも文句なしだ。


6月26日(日曜日) 「刑事コロンボ」死去に合掌

 朝からマンションの管理組合総会。早すぎる(涙)。きのうが徹夜明けだったからもっと爆睡したかったのに。3時間ちょっとしか寝てない。まあ1年に1回か2回だし、みなさんも忙しいだろうから仕方ないけど。補修工事計画とその予算、地デジ対応についての報告など。思ったよりも早く終わってよかった。

◇◇

 「刑事コロンボ」役のピーター・フォーク氏が83歳で亡くなった。晩年は認知症で、自分がコロンボを演じていたことも覚えていないほど、アルツハイマーの症状が進んでいたという。そんなコロンボの活躍や往年の名場面、シリーズの背景、余人をもって替え難い演技の妙などを、今朝の朝日新聞の「天声人語」はなかなか味わい深い筆致で描いてみせた。懐かしさと感慨もあって、思わず切り抜いてしまった。


6月27日(月曜日) 王様は裸じゃないと言う勇気

 「王様は裸じゃない」と言う勇気。言うべき時に言う作家の責任といったものを感じる。アニメーション監督の宮崎駿が、菅直人首相を支持するような脱原発のビデオメッセージを発信したのに続いて、作家の矢作俊彦がツイッターで、脱原発のために菅直人首相を支持するというメッセージを綴っている。以下、長文なので一部を抜粋して紹介する(矢作発言のまとめサイトはこちら)。

◇◇

 「今のこの国では、王様が裸だと言うより、王様は裸じゃないと言う方が、よほど勇気が必要らしい。おかげで今まで言いそびれていた」「日本中が王様は裸だと言っている。しかし、私にこの王様は裸に見えないのである。パンツぐらいははいている」

 「王様は自らの延命のために法案を通そうとしていると皆が言う。それが必要かつ有用な法案であるなら何のためであっても、今この際かまわないではないか。王様を玉座から引きずり下ろそうとしている連中と、王様の法案は大筋似たりよったりだ」

 「王様と臣や敵軍にはただ一点、違うところがある。原発に対するスタンスである。彼だけが再生可能エネルギーへの転換と原発の(段階的)廃止を主張している。そして──ここが肝心だ。彼がそれを言いだしたとき、家臣と敵軍は王様を玉座から下ろそうとし始めた」

 「私たちは無能の首相に何度もつきあわされてきた。菅は無能かもしれない。いや、きっと無能なのだろう。しかし、それにしたって前の前のあの人や、ことさら前のあの人に較べたら、マシではなかろうか。ことに前のあの人、震災時、あの人が首相でいたらと考えただけで恐ろしい」

 「名のある政治家で、東京電力から献金を受けていないのは菅直人と小泉純一郎だけだと聞いた。原発を推進し電力会社と大変親密な関係を築いたのは、中曾根康弘と田中角栄である。中曾根には主義主張があった。田中は金だ。その金脈が小沢一郎刑事被告人へ受け継がれていないわけがない」

 「その小沢被告が拳を振り上げたのも、発送電分離が聞こえ始めた直後だった。今ひとつ呼吸は合わなかったものの、例の不信任決議では自民党と小沢被告の間に連携があったのは、見てのとおりである。彼らに理由などない。何がなんでも菅を引きずり下ろす。それ自体が目的だ」

 「『無能』で『性格が悪い』わが首相は市民運動出身の素人あがりだった。私は、その菅を支持する。少なくとも権力の間近にあって、東京電力と原発について、言葉を濁すことなく、まともなことを言っているのは彼と小泉純一郎と河野太郎だけだから。その中で、菅のみが権力中枢の、それもトップにあるからだ」

 「自民党の誰それ、小沢被告一味の誰それが言う通り、彼は延命のためならなんでもする。(世間の言いぐさを踏襲するなら)延命のためにのみ、原発をひとつ止められたのである。あと150日延命できるなら、全部止めるかもしれない」「ゆえに支持する。一切に鼻をつまんで」

◇◇

 菅直人首相は無能かもしれない。でももっと無能な首相は過去に何人もいて、それに比べたらまだマシではないか。菅首相がほかの政治家と大きく違うのは、原発に対するスタンスだ。菅首相だけが原発の段階的廃止をはっきり主張している。菅首相が脱原発にかじを切り始めたとたん、与党も野党もよってたかって首相から引きずり降ろそうとする動きが始まった。無能で性格が悪いかもしれないが、東電と原発について、菅首相はまともなことを言っている。菅首相は延命のためなら何でもするし、必死で政権にしがみつくだろう。そのためにすべての原発を止めるかもしれない。だから菅首相を支持する。

 ──とまあざっくりまとめると、つまり、矢作俊彦が言わんとするのはそういうことだが、まったくもって同感。メディアも含めて世間では、政権の座にしがみついて必死に延命工作を図っている菅首相が、あたかも震災復興の障害になっているかのように非難されているが、ではほかにだれが政権の座について、その後はいったい何をどうするというのか、原発とエネルギー政策の見直しをどうするつもりなのか、まるで見えてこない。菅首相は無能かもしれないが、これまでと比べて最低だとも思えない。

 少なくとも脱原発の姿勢や方向性が(今のところ)はっきりしているだけ、まだマシのように思える。福島原発の事故に恐れおののいて逃げ出そうとした東電本社に乗り込み一喝したことと、浜岡原発を停止させたことだけでも評価できるし、ほんのわずかかもしれないけれど希望は持てる。「王様は裸じゃない」と言う勇気、言うべき時に言う作家の責任と心意気を感じる。僕も王様は裸に見えないんだよなあ。

◇◇

 そしてもう一人。赤川次郎にも「作家魂」を感じる。鋭い筆致の連載コラムに、これまたまったく同感だ。

 「危険な浜岡原発を停め、発電と送電の分離を分離を口にしただけで、日本では首相が引きずり下ろされそうな気配である。数十年後のこの国を本当に考えているのは誰なのか、見きわめることこそ求められている」(朝日新聞夕刊6月24日付)=抜粋

 前回の赤川次郎のコラムも的確だった。これもまったくその通りだと思う。もっともな意見だ。

 「福島の人々への謝罪もせずに政府の対応を批判する自民党の議員を見ていると、暗たんたる気分になる。ただし、河野太郎氏らは反省を明言しているが」中略「今、責任を明らかにしなければ、必ずうやむやのままに終わる」(朝日新聞夕刊6月17日付)=抜粋

 毎週金曜日に掲載されている連載コラム「三毛猫ホームズと芸術三昧!」の中で、言うべきことを明確に指摘し、メッセージを発信し続けている姿勢に共感する。政治や宗教の話題は避けるという人もいるが、責任ある立場にありながらきちんと主張しないのは、市民社会を支える一人としても無責任だと思う。宮崎駿、矢作俊彦、赤川次郎の各氏のスタンスを全面的に支持する。


6月28日(火曜日) カビ布団を粗大ごみ搬出

 押し入れの壁の一部に大量発生したカビの被害が、収納してある古い布団にも及んでいるのを発見したと、6月17日付の「身辺雑記」で書いたが、ようやく布団を粗大ごみとして搬出した。市の資源循環局に連絡してから待つこと約10日。指定された回収日がついにやってきた。コンビニで手数料を納めてシールをもらい、ひもで縛った布団にぺたっと張り付ける。きちんと手順通りにやらないと回収してもらえない。慣れていないコンビニの店員がシールに収納印を押し忘れているので、再度確認してもらうとか、布団カバーは外して家庭ごみとして分別し、掛け布団と敷き布団は重ねてひもでしっかり縛るとか、とにかくとっても神経を使う。掛け布団と敷き布団を重ねてみたら、思っていたよりも結構大きかった。これは確かに「粗大ごみ」だなあと納得。布団を運び出すと、押し入れの壁面をよく拭いて、アルコール成分の除菌スプレーを何回も吹き付けた。これを何回か繰り返してみるつもりだ。押し入れの空いたスペースにものを収納するのは、しばらく様子を見てからだな。


6月29日(水曜日) 思い込みによるマスコミ批判

 けさの朝日新聞は、「脱原発宣言のわけ」のタイトルで、城南信用金庫理事長の吉原毅さんへのロングインタビューを、3分の2ほどのページを割いて掲載した。なかなか読みごたえのある特集記事だった。ところがこの記事に対して、「この朝日記者の底意地の悪さはどうなの? こんな質問しか出来ない脳味噌しか持ち合わせて居ないらしい(爆笑)」などと批判するコメントがインターネット上に出回っているのを目にした。

 底意地の悪さ? こんな質問? そうかなあ。疑問点を過不足なく質問し、返ってきた的確な答えをそのまま掲載していて、文句なしのいい記事だと思うけどなあ。コメントの発信者にそう書いて送信したら、「感じ方の違いですね」と返ってきた。

 どうやらこの人は、「時流に乗った側面はありませんか」「収益アップを期待したのでは?」「脱原発によるエネルギー不足や経済活動への影響は心配しないのですか」「信金だから好きなこと言えるのではありませんか」といった朝日記者の質問が、「悪意が感じられて、上からの物言いで、初めからバイアスがかかっている」と決め付けているらしいことが分かった。しかしそれこそ、初めから結論を決め付けて、悪意と予断と偏見を持って、バイアスがかかって見ているように思える。

 この朝日新聞の記事は、明らかに城南信金を擁護する記事だ。原発推進派は、「脱原発宣言」をした城南信金を不快に思っているだろう。否定的にとらえたくて仕方がないことはまず間違いない。そういう人々の存在に対抗するためにも、記者が一つ一つあえて厳しく質問して答えさせることで、城南信金の正当性を際立たせる記事になっている。そういう構成だと考えるのが普通ではないか。それなのにまったく正反対の読み方をする人が存在することに、むしろ驚いて愕然とした。

 取材相手をヨイショし、先方が気持ちのいい質問をすることだけが、応援の意図を含んだ取材・記事になるとは限らない。そのことは知っておいてもらいたい。朝日を特に弁護したくて言ってるわけではなく、取材と記事についての一般論としてだ。

 もちろん城南信金の理事長は、たぶんそんなことは分かって答えていると思う。取材記者を信頼して取材意図を理解しているからこそ、きちんと取材に対応したのだろうと、少なくとも僕は今朝の朝刊を読んでそう感じた。しかしどうやらこの人は、とにかく底意地が悪くて悪意のある質問ばかりで、上から目線で城南信金をおとしめて、こんな記事を書く朝日の記者はけしからん、という先入観と思い込みに支配されているようだった。

 それを裏付けるように、次のように反論してきた。「ではこの記者は東電や経産省に対しても、こういう質問をしているのか。朝日でそういう記事を読んだことはない。大企業や官僚に対する時と地方信金に対する時と違いが見えて不快だ。上からの物言いをしていないか」

 大企業や官僚には、「本音をぽろりと吐露させる」ために、あえてにこやかに質問した方がいい場合が多い。権力者(だけではないが)には、とにかくしゃべらせることが重要だからだ。相手から言葉を引き出すことが取材の基本なのだ。初めからけんか腰で詰問口調で攻撃的に迫ったりしたら、得るものはむしろ少ない。

 そういう現場記者の取材手法や苦労や葛藤、取材から原稿までの流れなどを知らず(知ろうともせず)、一方的な思い込みによる新聞社(メディア)と記者のイメージがあって、マスコミ全般に対するステレオタイプのイメージがあらかじめ出来上がっている。現実に目を向けず、勝手な想像と思い込みだけ。事実をもとに論じていないので、あっけにとられるような荒唐無稽な方向に話が向かっていく。やり取りを通じて改めてそう感じた。

 例えば、それまで原発に批判的だった新聞社内の空気が大きく変化し、社論として原発容認を掲げるようになって、現場の記者たちの多くが追随するようになっていく──。元記者が書いたそんな内部告発の文書《ある元朝日新聞原発担当記者の回想》を手にすると、まるで鬼の首でもとったかのように勝ち誇って、「これが◯◯新聞の現実。ほかの新聞も似たり寄ったりだろう。だからマスコミは信用できない。記者クラブ支配によって都合のいいことしか書かない」とマスコミを全否定する。

 話はそんなに単純ではない。会社の上層部と現場は必ずしも一致しないんだけどなあ。十把一絡げに論じられても戸惑うばかり。そう感じてる現場記者は少なくないんじゃないか。必死に頑張って取材してる人間もいるのに、「マスコミは」「◯◯新聞は」と全部一緒くたに批判・非難されたら、現場は委縮して孤立するだけだ。それでまともな取材が停滞して原稿が出てこなくなったら、結果として市民にとっても大きな損失となるだろう。

 会社上層部(幹部)と現場との認識や志の違い、それこそが大きな問題であることが少なくない。大事なのは、志のある現場記者を孤立・委縮させないことだ。不正や社会の矛盾をただしたいという素朴な正義感や使命感を原動力にして、取材活動を続けている記者を委縮・孤立させてはいけない。


6月30日(木曜日) 追加挿入

 きのう6月29日付「身辺雑記」の「思い込みによるマスコミ批判」の記事に追加。「元記者が書いたそんな内部告発の文書」という文章の後に、《ある元朝日新聞原発担当記者の回想》の文言をリンク先のアドレスとともに挿入しました。


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