身辺雑記 

by totoropen (OOKA Minami)


2014年3月8日〜3月9日

●●福島原発事故3年目の被災地●●


3月8〜9日(土曜日〜日曜日) 原発被災者の過酷な現状

 神奈川高教組の福島視察ツアーに同行し、原発事故から3年目の被災地の現状を取材した。訪れたのは、福島県いわき市、楢葉町、富岡町、川俣町、浪江町、二本松市など。地震や津波の被害だけでなく、放射能汚染から逃れて避難生活を強いられている住民の多くは、地元に戻りたくても戻れないのが現実だ。

 帰還困難区域と居住制限区域に指定されている地域では、部分的には除染が進められているが、大部分は手付かずの状態。地震と津波の被害がそのまま放置され、生活基盤が根こそぎ破壊されたままになっている。避難生活は苦しい。原発事故の賠償金や生活補償は不十分な上に、仕事もままならない人が多い。

 地元では米も野菜も自給自足。家族団らんの幸せがあった。狭くて寒い仮設住宅の生活は過酷で厳しい。出費だけがかさむ。復興事業は名ばかりで、地域がまとまって生活できるような新しい住宅地建設は一向に進まず、住民はバラバラに分断されつつある。展望が見えず、このままでは心も体も持たないという。

 いわき市では避難者への心ない差別や嫌がらせ、排除の動きも出始めた。「仕事もせずに遊んでいる」などと非難され、「早く帰れ」と落書き。仮設住宅内に駐車している車のガラスが割られたほか、仮設住宅にロケット花火が打ち込まれる事件も。避難生活が長引けば長引くほど、地域住民との確執や対立が生じるという。

 避難者の受け入れ先の住民も震災の被災者であり、程度の差はあっても同じく原発事故の被害者であるはずなのに。典型的な「ムラ社会」の排除の構図だが、しかし住民同士が敵対し対立して喜ぶのは政府と東電だけだ。そのことだけはどうか忘れないでほしいと心から願う。

 田畑を耕して孫の子守りをする、といった日常のささやかな喜びや支えが、東日本大震災で消えてなくなってしまった。地震と津波の被害だけなら、まだ頑張って復興することもできるが、原発事故による放射能汚染はそれを許さない。元の生活を取り戻したくても、それを阻む壁が大きく目の前に立ちふさがっている。

 帰れるのか帰れないのかはっきりしないから、前に進むことも退くこともできない。新天地に移る展望もない。気持ちの整理がつかないまま投げ出され、過酷な避難生活をずるずると強いられ続ける原発事故の被災者たち。不誠実な政府と東電は無責任過ぎる。原発の罪深さを改めて痛感する。

 震災から3年経っても、地震と津波による被災地域が手付かずで放置され、被災者が何の展望も見出せずに避難生活を強いられているのは、原発事故の放射能汚染で地元に帰れないからだ。放射能汚染がなければ事態は全く変わっていただろう。地震大国の日本に原発は要らない。原発再稼働なんてとんでもない。改めてそう思う。

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【原発事故から3年/写真1】いわき市中央台のいわきニュータウン。道路を隔てて、仮設住宅(=写真)と高級住宅地が対照的な姿を見せる。住民同士の確執や対立も生じているという。=2014年3月8日

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【原発事故から3年/写真2】いわき市中央台のいわきニュータウン。道路を隔てて、高級住宅地(=写真)と仮設住宅が対照的な姿を見せる。住民同士の確執や対立も。=2014年3月8日

【原発事故から3年/写真3】除染で生じた放射能汚染ごみ(フレキシブルコンテナバッグ)が、田畑に山積み。こうした仮置き場が楢葉町のあちこちにある。=2014年3月8日

【原発事故から3年/写真4】地震と津波で駅舎が崩壊したまま放置されているJR常磐線の富岡駅。避難指示解除準備区域。=2014年3月8日

【原発事故から3年/写真5】富岡町の一部は「帰還困難区域」として封鎖されている。通行制限中の看板とバリケード(その1)。=2014年3月8日

【原発事故から3年/写真6】富岡町の一部は「帰還困難区域」として封鎖されている。通行制限中の看板とバリケード(その2)。=2014年3月8日

【原発事故から3年/写真7】富岡町の一部は「帰還困難区域」として封鎖されている。通行制限中の看板とバリケード(その3)。=2014年3月8日

【原発事故から3年/写真8】「帰還困難区域」として封鎖されている地域から、桜並木で有名な夜ノ森の方向を見る。=2014年3月8日

【原発事故から3年/写真9】宿泊レストラン観陽亭(津波に襲われ閉鎖)が建つ富岡町小浜の高台から、南方向を見る。富岡漁港の先に福島第二原発の建屋が見える。=2014年3月8日

【原発事故から3年/写真10】山積みになった放射能汚染ごみ(フレキシブルコンテナバッグ)の仮置き場。=2014年3月9日、浪江町

【原発事故から3年/写真11】浪江町の「帰還困難区域」に入るための検問所。=2014年3月9日

【原発事故から3年/写真12】「帰還困難区域」に立ち入る全員に、身分証明書の提示が求められた。=2014年3月9日

【原発事故から3年/写真13】「帰還困難区域」の浪江町に入ると放射線測定器の数値は急上昇。案内してくれた地元住民の実家の庭先では、47・99マイクロシーベルト/hを示した。積雪がなければ空間線量も高い数値になるという。これでは帰還などできるわけがない。原発の罪深さよ。=2014年3月9日

【原発事故から3年/写真14】「帰還困難区域」にある浪江町役場。=2014年3月9日

【原発事故から3年/写真15】「帰還困難区域」。地震で崩れたまま放置された民家。=2014年3月9日、浪江町

【原発事故から3年/写真16】津波で壊滅した浪江町請戸地区など海岸線の集落。帰還困難区域。3年経っても、荒れ果てた光景がずっと続く。その1。=2014年3月9日

【原発事故から3年/写真17】津波で壊滅した浪江町請戸地区など海岸線の集落。帰還困難区域。3年経っても、荒れ果てた光景がずっと続く。その2。=2014年3月9日

【原発事故から3年/写真18】津波で壊滅した浪江町請戸地区など海岸線の集落。帰還困難区域。3年経っても、荒れ果てた光景がずっと続く。その3。=2014年3月9日

【原発事故から3年/写真19】津波で壊滅した浪江町請戸地区など海岸線の集落。帰還困難区域。3年経っても、荒れ果てた光景がずっと続く。その4。=2014年3月9日

【原発事故から3年/写真20】津波で壊滅した浪江町請戸地区など海岸線の集落。帰還困難区域。3年経っても、荒れ果てた光景がずっと続く。その5。=2014年3月9日

【原発事故から3年/写真21】津波で壊滅した浪江町請戸地区など海岸線の集落。帰還困難区域。3年経っても、荒れ果てた光景がずっと続く。その6。=2014年3月9日

【原発事故から3年/写真22】津波で壊滅した浪江町請戸地区など海岸線の集落。帰還困難区域。3年経っても、荒れ果てた光景がずっと続く。その7。=2014年3月9日

【原発事故から3年/写真23】津波で壊滅した浪江町請戸地区など海岸線の集落。帰還困難区域。3年経っても、荒れ果てた光景がずっと続く。その8。=2014年3月9日

【原発事故から3年/写真24】浪江町の250人が生活する二本松市安達運動公園の仮設住宅。子どもたちとお年寄りが太鼓演舞を披露。避難者の顔が思わず和む。=2014年3月9日

【原発事故から3年/写真25】二本松市安達運動公園の仮設住宅集会所で、神奈川県立高校の教員らが歌を披露し避難者と交流した。=2014年3月9日


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