「新世紀エヴァンゲリオン」
村上龍の小説「愛と幻想のファシズム」は、弱者と軟弱な民主主義を徹底的に否定し、独裁・ファシズム社会の確立を目指す政治結社「狩猟社」の「活躍」を描いた「SF政治経済小説」だ。世界恐慌という危機を迎え、極度の閉塞感に覆われた日本を舞台に、政治結社「狩猟社」は公然・非公然の謀略と暴力、テロの限りを尽くす。「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督は、この小説から登場人物の名前のいくつかを借りたと、各種インタビューなどに答えている。しかし小説を読んでみると、登場人物の名前だけでなく、ものの見方や考え方、小道具、場面設定まで、庵野監督は「新世紀エヴァンゲリオン」を作るに際して、この小説から相当な影響を受けていることが分かる。
ここでは、この小説が「エヴァンゲリオン」にどんな影響を及ぼしているかを考えてみるとともに、「愛と幻想のファシズム」という作品そのものについても考察してみたい。
政治結社「狩猟社」は、ハンターの鈴原冬二をカリスマ的な党首に、相田剣介(ゼロ)が代表になって組織された強大なファシスト集団だ。小説も「狩猟社」も、この2人が出会ったことからスタートする。エヴァに出てくる鈴原トウジ、相田ケンスケの名前は、もちろんこの2人の主人公から取られている。このほか、狩猟社ブレーンの洞木紘一、最初のスポンサーだった時田史郎の名前も、エヴァの脇役陣に使われている。だが、それだけではない。小説には、エヴァの底に流れる大きなテーマの一つである「父親を乗り越える」というエピソードが、繰り返し提示される。そもそも、小説の舞台設定として問題提起されているのが、「日本という国の在り方」そのものであって、「米国という強い男にいいように蹂躙(じゅうりん)されている弱々しい女。それが、戦後から現在までの日本の姿だ」と冬二たちは考える。そして、そんな国で日本人はプライドを持って生きていけるのかとの強い思いが、「狩猟社」に集まるナショナリスト、ファシストたちの原動力になっているのだ。彼らにとって米国はまさに「強大な父親」である。父性の象徴だ。強大な米国の存在を乗り越えなければ日本の自主・独立はない、との信念が「狩猟社」を支える。
一方、革新政権を樹立した首相の万田正臣に、冬二は父親、族長、王の姿を見る。「お前は何をあきらめたんだ?」と冬二は万田に問いかける。「巨大な敵と戦うことをあきらめて薄笑いを浮かべている父親には、恥の兆候が顔を覆っている、それがお前だ」と冬二は感じる。プライドをコントロールできない父親は刺殺されるのを待っている、分かり合うことなどできない、肩を抱くか殺すしかない、というのだ。冬二は「ギリシャ悲劇だ。母なる日本を犯して、父を殺すんだ」と決意する。まるで、「エヴァンゲリオン」の碇シンジだ。「父さんなんか嫌いだ」という気持ちと「父さんにほめられたい、分かってほしい」という願いと。シンジが父親のゲンドウに対して抱く複雑な感情を、そこに見る思いがする。
余談だが、万田が冬二に対してこんなことを言う。「君には磁力のようなものがある。君は人間を魅きつけるだろう。だがきっと君のところへ集まっている連中はみなクズ、カスだ、それは君自身が一番よく知っているはずだ」。これって実は、「特務機関NERV」を指揮して「秘密結社ゼーレ」と対峙する碇ゲンドウの気持ち、心情そのものではないかとも思った。ゲンドウは内心ではだれも信用していないし、作戦本部長の葛城ミサトはもちろん、科学者の赤木リツコ、その母の赤木ナオコ両博士、さらには右腕である副司令の冬月コウゾウ、息子のシンジさえも、将棋の駒程度にしか考えていないのではないかと思えるからだ。ただ一人、亡き妻の碇ユイを除いては。まあ、これは余談である。
こうした大きなテーマのほかに、小説のキーワードの一つとして何回も出てくる言葉が「シナリオ」だ。「全部シナリオ通りか?」「シナリオにはないな」「シナリオは変えない」…。「狩猟社」の謀略や破壊工作のすべては、綿密に練られた「シナリオ」に従って進められていく。シナリオと情報によって、暴力行為が遂行されるのだ。「エヴァンゲリオン」も「シナリオ」が重要なキーワードの一つと言っていい。「ゼーレ」のシナリオに従っているふりをしながら、ゲンドウにはゲンドウなりのシナリオが実はあって、ゲンドウは結局は自分のシナリオ通りに事を進めようとするのだが。
もう一つ見逃せないのが、「他人の中の自分」という概念、イメージだ。小説では「他人の中にしか自分は見つけられないんじゃないかって、最近思うのよね」「あなたが知っているゼロと、あたしが知っているゼロと、それとゼロ自身と、ゼロは3人いるわけでしょ?」などとゼロの恋人のフルーツが、冬二に言う。他人(第三者)の意識の中に存在する自分という像はいくつもあって、それぞれがみんな違うんじゃないか、という問いかけである。「エヴァンゲリオン」にも何回も登場した。シンジが自分の内面を探究して試行錯誤を重ねていく場面に出てくる台詞だ。こんなところにも、小説の影響が強く出ている。
ところで、鈴原冬二と「狩猟社」が世の中に出てきたきっかけとなったのは、CF(コマーシャルフィルム)だ。「残像」を表現したアニメーションを、コンピューターグラフィックスを使って約11分にまとめたビデオ「狩猟人」。ゼロはこのビデオを編集して、ファッションメーカーのテレビスポットCFに使う。先進国で民間銀行が倒産し、企業倒産も連日続く世界恐慌に、人々の不安が高まる中でCFは流されるのだ。CFで鈴原冬二は繰り返し訴え続ける。「世界は強い人間のものだ。団結しなければならない…」と。経済パニックに対して、何の解決策も持たない無能な政府に苛立つ財界は「強い信念と意志のある政治が今必要なのは、だれの目にも明らかだ。強い指導力と団結は、今の日本に何よりも必要なのだ」と、冬二が語りかけるCFを擁護する。そして、強い嫌悪と熱狂的な支持に迎えられて、冬二はカリスマ性の強いスターになる。CFイメージの戦略といい、経済危機の状況といい、現在の日本を予見したかのようなリアルな設定だ。(この小説は1984年1月から1986年3月まで「週刊現代」に連載され、1987年8月に単行本化、1990年8月に文庫本化されている。)
この小説の最大のポイントは、政治経済についての豊富なデータと専門性に基づいたリアリティーさであると言っていいと思うが、「狩猟社」が次々と繰り出す謀略・秘密工作・テロの現実的な怖さもまた、読者を引き付けて止まない「魅力」の一つだ。
まず、「狩猟社」を襲撃した左翼過激派と右翼暴力団の組織を、爆破や殺害という計画的なテロでつぶす。続いて左翼陣営を混乱させるために、社会新党の国会対策委員長を暗殺する。いずれも、実行部隊は「狩猟社」の地下組織、私設軍隊「クロマニヨン」だ。さらに、「狩猟社」から離れたがっている時田にはトリプタミンという精神病の薬を飲ませ、錯乱状態にした上で廃人にしてしまう。これには、シンパの精神科医が全面的に協力する。しかも、時田の全財産は「狩猟社」が合法的に押さえてしまう。バイオ食品工場のストライキを指揮する実直な労組委員長には、さも友好的な関係を築くかのように接しておきながら、労組決起集会で演説する直前に精神異常を発現させる向精神剤を飲ませて発狂させる。そうやって指導者不在の混乱状態を計画的につくってから、強圧的・暴力的に労働者のストライキをつぶしてしまう。スキャンダル雑誌を乗っ取るために編集長を事故死に見せかけて消し、左翼テロ組織の指導者には情報を取るために自白剤で尋問してから殺害する。そして、革新政権の首相にも病原薬剤を注射して痴呆にしてしまうのだ。
このころには、徹底的な暴力装置としての「狩猟社」「クロマニヨン」の力はもう、日本中に広く知られて恐れられている。「狩猟社」に楯突くジャーナリストや労組活動家、政治家のいったい何人が脅され、殺され、廃人にされていったことか。恐怖・独裁政治の地ならしは着々と進められていくのだった。
物語を読み進めるにつれて、背筋に冷たいものが流れ落ちる。とにかく、テロや拷問の過程が微に入り細に入り、しかも具体的に描写されるのだ。特に「狩猟社」にとって不用・邪魔であるとされた人間が、薬で発狂させられる場面では、人間ってこんなに簡単に精神崩壊させられるものなのか、と心底から怖くなる。
小説を読んでいて感じるのは、「傲慢さ」と「強者の論理」に基づいて、人間をいとも簡単におもちゃにしようとするファシストたちの「作業」に対する不快感、嫌悪感、恐怖だ。だが、彼らファシストたちがじわじわと勢力を拡大し、既存の常識とシステムを破壊していく描写に、何ともいえない興奮と興味をかきたてられ、わくわくしながら読み進めていったのも否定し難い事実である。どうやって人間を屈服させて支配させていくのだろう、どういう手法で国民の心をファシズムに集めていくのだろう、という強い関心だが、これは怖いもの見たさなのだろうか。それとも、自分の中に実は無意識のうちに、ファシズムへの期待感があるというのだろうか。「狩猟社」の「作業」には確かに猛烈な不快感、嫌悪感、恐怖を感じるのではあるが、彼ら(鈴原冬二)がやろうとする「米国に蹂躙される日本の見直し」という主張には、説得力もあるのである。もちろん、そのやり方にはまったく共感できないが。
「プライドが違う。誇りを持っている」。この台詞に代表されるように、小説には「プライド」という言葉が何回も出てくる。これも間違いなくこの物語のキーワードの一つだ。人間が誇りを持って生きるためには、何が必要なのか。「愛と幻想のファシズム」は「ファシズム」という政治形態とその考え方を信奉する人間の行動を通して、「人間の生き方はどうあるべきか」を読者に問いかけている。