●村山由佳「きみのためにできること」●ある先生の話●ある先生の話・その2●「プロパガンダ教科書」の行方●「開かれた司法」は妄想?●事実の積み重ね●教育委員会と政治●コミュニケーションの基本●「自白の心理学」を読む●「やさしさの精神病理」を読む●催促●反面教師●成田美名子「あいつ」を読む●なぜ靖国神社なのか●デパ地下の弁当は…●ジブリファンの宝物●「因果」な仕事●県立図書館のコピー●「大人社会のゆがみ」描く●「千と千尋の神隠し」を観る●靖国神社ちょこっとガイド?●「千と千尋…」追加雑感●村山由佳「海風通信」を読む●夏バテ?●気骨と誇り●マンツーマン講義●土鈴の音●寝過ごす●携帯電話の複雑操作●三文の得●「心に訴える」ということ●●●ほか
8月1日(水曜日) 村山由佳「きみのためにできること」村山由佳の「きみのためにできること」を読み終える。高校から付き合っているピノコと仕事と女優の鏡耀子との間で、気持ちが揺れる新米の音声技師・高瀬俊太郎の内面を描いた恋愛小説。あの時にはこうするべきだったなんていうのは、いつもずっと後になってから気付くのだが、流れの真っただ中にいるその時には目の前のことにしか頭が働かないものだ。人間というのは大体そうやって、後悔や失敗を繰り返しながら生きているのだろう。俊太郎の焦燥感や居ても立ってもいられない心理状態が、読んでいてストレートに伝わってくる。自分の経験に照らして、もちろんシチュエーションやディテールなんかは全然違うけど、うんうん分かるなあと俊太郎の気持ちに感情移入してしまう。意外にも絶望的な結末にならなかった。むしろ物わかりがよすぎるピノコには少し疑問が残ったが、それはそれで気が滅入るような余韻を引きずらなくてよかったかもしれない。
文庫本でこの小説を読んだのだが、装丁が気に入ったので単行本も買ってしまった。当然だけど文庫本と内容は同じだ。しかし手軽な文庫本とは違うよさが、重厚な造りの単行本にあるのも事実なんだよなあ。まあ必ずしも無駄な出費とは言えないだろう。ちなみにこの本で初めて、音響効果の世界の奥深さを知った。
午後から杉並区の教育委員会へ。教科書採択の審議の際に、教育委員が参考にした選定審議会などの一連の資料について、面倒くさい公開手続きを抜きにして情報提供してもらう。学校現場や審議会が各社の教科書をどのように評価して教委に報告しているのか、すべての資料を見て確かめるのだ。ただし書類の分量が膨大になるので、コピー代金を4千円近く請求される。受け取りに来たのは新聞2社と僕だけだという。ほかの記者はあんまり関心がないのかな。曇っているのに暑くてたまらない。これで太陽が顔を出したりしたらどんなことになるのか、想像するだけでくらくらする。
8月2日(木曜日) ある先生の話友人の編集者から誘われて、夕方から横浜市内の炉端焼き屋で飲む。地元の県立&市立高校の先生や、教育研究集会のために九州から出てきている中学校の先生といった面々だ。それぞれ生徒に対する取り組みや姿勢が全然違っていて、そこがまた面白い。少なくとも無感動な教員ではないところは納得できる。なかでも僕がとても共感したのは、九州の中学校の先生が話してくれた「教員になろうと思った動機」だった。
中学生まではずっと優等生だったその先生は、高校に入ってから成績がガタ落ちした。急に難しくなった高校の勉強に、付いて行けなくなってしまったのだ。物理や数学は百点満点中で一桁の点数しか取れない。成績はクラスで正真正銘のビリである。まるで分からない授業を1時間ずっと黙って聞いているしかない辛さを、この先生は生まれて初めて実感した。さすがにこれはまずいと一大決心をして、職員室に向かった。深呼吸をして職員室の扉を開け、担任の席まで行って「教科書のここが分からないのですが、どうすれば分かるようになるか教えてください」と言った。勇気を振り絞って声に出した一言だった。それに対する担任の言葉はこうだった。「なに、お前はこんなのも分からないのかよ」。職員室中に響き渡るようなでっかい声だった。そして目の前に示された教科書を広げて、周りの教員仲間にひらひらと見せて回ったのだった。
「もういいです」。担任の手から教科書をひったくって、職員室を走り出た。自分が教員になろうと思ったのは、この時からだったという。こんな奴とはまるっきり違う教員になってやる。そう心に誓ったそうだ。ずっと優等生で生きてきた人間だからこそ、ああいう言葉を平気で口に出せるのだろう。落ちこぼれの気持ちが分からないのだ。自分は勉強ができないことの痛みや辛さを味わった。そういう人間が教員になるべきだ、と考えたという。
この先生は「教員は生き方や姿勢を生徒に示すべきで、自分の考えや意見を押し付けてはいけない」と思っている。生徒にしてみれば、教員の考えや意見はいろんな見方の中の一つに過ぎない。伝えてもいいが押し付けはいけない。教員はあくまでも生徒が判断するための材料提供者なのだ。大事なのは自分でどう考えて判断するかということ。慕われていたはずの卒業生からそう指摘されて、先生は目からうろこが落ちたという。そんなのは当たり前の話なんだけど、意外とその当たり前のことを分かっていない教員が多い。取材でいろんな教員と話していて、確かにそうだよなあと僕も思う。
それにしても、優等生のまま就職したという点も含めて教員と記者はとてもよく似ている。落ちこぼれの気持ちが分からない、自分は安全圏にいて偉そうなことを言う…など、そんな人間がどちらの世界にも多い(自分自身も含めてね)。考えるための材料や判断するための材料を提供するのが、本来の仕事であるという点でも両者は共通する。教員の話を聞いていると、実はそれは記者の世界の実態でもあるんだよなあと思うことがよくあるのだった。
8月3日(金曜日) ある先生の話・その2横須賀市内の中学校の先生に、最近の学校状況や「日の丸・君が代」について話を聞く。発言したり考えたりする先生は、職場でどんどん孤立するようになってきているという。ここ2〜3年前から急にそういう状況になってきているそうだから、まさに国旗・国歌法が成立したあたりからだ。この先生は、行事への「日の丸・君が代」が持ち込まれてくる場合に、子どもたちを「利用する」ような形で対応することにはためらいがあると話した。例えば生徒会活動で、子どもたちを自分の思うように動かすのは教員にすれば簡単なことだが、それではみんなを一つの方向に染めようとする教育行政と何も変わらない。子どもたちを前面に押し出して、威勢よくカッコよく「反対」を唱えて「運動」を進めるやり方には違和感を感じると言うのだ。そしてそうやって進んで行った子どもたちを、教員はどこまで支えられるのだろうかとこの先生は思い悩むのだった。とても真摯で正直な苦悩の仕方だなと思う。きのう一緒に飲んで話をした九州の中学校の先生と、考え方など共通する部分が多いように感じる。これは実に深い問題だ。こういう重要なことを、果たしてどれほどの教員が考えているのだろうか。
8月4日(土曜日) 「プロパガンダ教科書」の行方夕方から東京・お茶の水へ。不登校の子どものサポートや人権問題などに取り組む市民グループからお誘いを受けて、納涼飲み会に顔を出す。ほとんど知らない人ばかりなのに、参加していいのかなあと不安に思っていたんだけど歓迎していただいた。翻訳家や米国人の英語教師、専業主夫、出版社員、OLなど、ユニークな顔ぶれだ。チラシを配ってしっかり著書を宣伝したところ、なかなか強い関心を示してくれる。地道な宣伝活動は大切だ。
で、サンケイ教科書が話題になったが、その中で米国人の話が印象的だった。「自分の国に誇りを持つために歴史を学ぶだなんて、アメリカではそういうのをプロパガンダって言うんだよ。いいところも悪いところも学んで、それを教訓にするのが歴史というものだろう」。まったくその通りだ。東京都杉並区で先月、教科書採択を審議するための教育委員会が開かれ、区役所前に500人を超える市民が心配して詰めかけた時に、中学1年の女子生徒が同じようなことを訴えていた。彼女は集まった大人たちに向かってこう述べた。「(扶桑社の)新しい教科書は日本をいいようにしか書いていないけど、日本のいいところも悪いところも全部知りたい。そのうえで悪いことは二度としないようにして、日本をいい国にしていきたいと思います。すべて事実を書いてほしい」──。
きのう発売の「週刊金曜日」に特集記事が掲載されているが、杉並区をはじめとして全国の教育委員会は軒並み、サンケイ教科書にノーを突きつけている。実際に教科書を使って教える教育現場の声を棚上げして、今年から教育委員に採択権限を集中させるように制度が変わったこと自体に実は問題があるのだが、しかしさすがに全国各地の教育委員も「こんな教科書は使えない」と判断するしかなかったのだろう。ところが東京都教育委員会は、都立養護学校の一部でサンケイ教科書を使う方針を固めたという。絵本や図鑑を教科書として使っている養護学校で、サンケイ教科書をあえて使わせるように都教委が採択するのはいかなる理由からなのだろうか。それでなくてもサンケイ教科書は分かりにくいとして、公立中学校で拒否されているのだ。障害のある子どもたちのための選択でないことは明らかだし、障害者に対するあからさまな差別意識に基づく選択であるとしか言いようがない。イシハラ都知事の強い意向を受けている都教委は、二重にひどいことをしようとしている。
8月5日(日曜日) 「開かれた司法」は妄想?きょうの横浜は涼しかった〜。そよ風まで吹いちゃったりして。いつも留守がちで迷惑をかけている新聞の集金のおばちゃんも、なんだか気分よさそうな表情でお金を受け取って帰って行った。そんなわけで、千葉地裁で7月27日に開かれた「金髪先生」の初公判の法廷運営などについて、このほど千葉地裁総務部から質問に対する回答があった。暑さのせいか「身辺雑記」で報告するのをすっかり忘れていたんだけど、涼しくなって思い出したので、回答要旨を書いておく(内容のある回答ではないが記録の意味を込めて)。
まず、傍聴席がわずか18席しかない小さな101号法廷を使ったことについては、「どの法廷を使うのかを決めるのは、裁判体(裁判官)の判断事項である」とだけ答えた。次に、法廷の廊下側に設けられている「のぞき窓」がガムテープで閉ざされたことについては、「法廷の審理がスムーズに穏やかに進むように、裁判体の判断で決めた。当日は法廷前の廊下で、抽選で入れなかった人の何人かが、小窓を頻繁に開け閉めして、被告人の名前を大声で呼んだりした。法廷内の静謐(せいひつ)を保つために閉めた」と説明した。最後に、記者席の数については、「傍聴席は全部で18席。記者席をいくつ設けてもらえるかを裁判体に問い合わせたところ、6席の許可があった」としている。以上が、千葉地裁としての公式見解だそうである。「そもそも101号法廷のような小さい法廷を使ったから傍聴希望者があふれて、そのために『小窓を頻繁に開け閉め』するようなことが起きたのではないのか?」ということも聞いてみたのだが、「裁判体の判断に及ぶことなので、これ以上はお答えできない」とのことだった。応対はとても丁寧だったが、回答そのものは、ほとんど木で鼻を括ったような内容だ。
要するに、法廷の運営は裁判官の判断と決定がすべてであって、「日本では公開裁判が原則ではないのか」とか「法廷の様子をなるべく見せたくない、聞かせたくない、知らせたくないとでも考えているのか」などと批判されようが、あるいは「開かれた司法に逆行するのではないか」と疑問視されようが、そんな市民の声なんてものはどうでもよいということなんだろう。政府の司法制度改革審議会ももう終わっちゃったしな。う〜む。さすがは雲の上の職業裁判官さまだ、シモジモの者なんか相手にしないんだ、なんてことを言われてもこれでは仕方あるまい。次回公判でもやっぱりまたあんな狭い法廷をわざわざ選んで開廷して、大量の傍聴希望者を締め出すなどという暴挙を繰り返すつもりなのだろうか。ひょっとして「公安事件」だからどんな訴訟指揮でもありってことなのかな。
8月6日(月曜日) 事実の積み重ねジャーナリズムの意味や役割というものを全く理解しないで、記事を批判する人がたまにいるんだけど、そういうのを見かけると心底ぐったり疲れてしまう。市民運動をやっている人に多いんだよなあ。「これではなまぬるい」とか「われわれはほとんど知っている内容だ」なんてことを言われたことがあるが、冗談じゃない。機関誌などで憶測を交えながら、感情的に言いたい放題を書いているのとはわけが違う。どこかのタカ派で保守的な週刊誌のように、意図的な取材で一方的な主張を展開するのでもない。一つ一つ事実の裏付けを取って、いろんな立場の人たちの言い分を丹念に聞いて、それでようやく記事という形にまとめることができるのだ。「公正な取材」というのは、そんな面倒くさい作業の繰り返しである。だからこそ、さまざまな立場の読者が読んでも説得力のある記事になるのだ。同じようなことを書いていたとしても、そこに行き着くまでの過程が天地ほどに違うのだから、事実関係の正確さや説得力は比較にならないと言ってもいいだろう。少なくともそういう努力の積み重ねを記者はしている。
言うまでもないが、「公正な取材」をしているからと言って、そこに記者の視点や立場・考え・切り口・判断・論理・問題意識がまるで差し挟まれていないかというと、決してそんなことはない。視点や立場のない表現なんてものはあり得ないわけで、そのテーマや事実を選んで取材して記事にするという行為そのものが、既に何らかの意味を持っているのだから。問題はどういう料理の仕方・描き方をするかという方法論であって、ストレートに記者の主張が前面に出ているか、そうでないかの違いである。ちなみに僕の好みのスタイルは、事実の積み重ねを通して問題点を描くというものだ。何が問題なのかを読者に判断してもらいたい、そのための材料を提供したい、と考えるからだ。もちろんそうした事実や判断材料を積み重ねていくのは僕なのだから、文章をよく読めば何を言わんとしているかは分かると思う。それを「なまぬるい」などと言われると、もうスタンスの違いと言うか、ジャーナリズムの在り方や存在意義に対する見解の相違だとしか言いようがないだろう。
そもそもジャーナリストは運動家ではない。取材対象やテーマへの共感性や問題認識という点では、一定方向に同調するような記事内容になる場合は確かにあるが、それはあくまでも事実の積み重ねによって導き出された結果だ。ジャーナリズムは特定集団の宣伝や利益のために存在しているのではない。そんなことをしたら、不特定多数の読者の信頼を失ってしまうだけだろう。それにむしろそんな宣伝臭がしない記事の方が、不特定多数の人たちに対して説得力があるはずではないか。そういう基本的な常識が分かっていない人が多いんだよなあ。記事のテーマが理解できずに、ピントのずれまくった批評をする人もいるしなあ。
読解力や理解力のある読者からのまともな論評は、たとえ自分と考え方が違っていても大いに参考になるが、まるで見当違いのピントのずれた批評を目にするとさすがに落ち込んでしまう。記者として無力感を感じるからだ。だけどそういう時には、なぜかまともな反応も返ってくるものらしい。真っ当な激励の手紙やメールをいくつかいただいたほか、月刊誌に掲載されていた激励メッセージなども送ってもらった。ちょっとと言うか、かなりほっとする。
今世紀最初の広島原爆の日。コイズミ首相は、まじで靖国神社を公式参拝するつもりなのだろうか。だれを、何のために、どういう意図で奉ってある場所なのか、そのことを分かっていて「戦争で亡くなった祖先の霊に祈りたい」などという詭弁を弄しているのだとしたら、本物のファシストだよなあ。
きょうも横浜は涼しくて過ごしやすい。来週あたりから目いっぱい取材する予定なので、大学ノートをたくさん購入する。ノートの類はパック詰めのものをスーパーで買うのが正しい消費者の姿である、ということをしっかり学習した。実用的なデザインしか置いてないが、デパートや文具店とは値段がかなり違う。
8月7日(火曜日) 教育委員会と政治依頼しておいた資料を文部科学省でもらってから、四谷の出版社へ。編集部の窓から、ビールや料理を食べながら神宮の花火大会を見物する。大輪がいくつも重なって広がる光景もいいけれど、光の束がしずくのようになって流れ落ちるシダレ柳の花火が、一番きれいで夏らしいのではないかと個人的には思う。
帰宅してからメールをチェックすると、予想していた通り、東京都の教科書採択に関するメールがあふれかえっていた。東京都教育委員会がきょう午前中の臨時会で、都立養護学校の一部でサンケイ教科書の採択を決定したからだ。もちろん教科書関係以外のもあるが、私的なものや複数のML(メーリングリスト)など全部で50通以上のメールが到着していて、ざっと読んで分類整理するだけでえらく時間がかかってしまう。言うまでもなくどれもみんな、理不尽で政治的で不透明な都教委の決定に怒っていて、イシハラ都知事と役人たちの横暴さを厳しく批判していた。ここで重要なのは、教科書を採択する権限が教育委員にあるということ、都教委の6人の教育委員のうち3人がイシハラ都知事の就任後に任命されたということ、その3人は極めて保守的な人物であるということ。つまり、どのような人物が教育委員に選ばれるかによって、政治の力で教科書採択の内容が左右されてしまうのである。教育の政治からの独立という観点から考えればおかしなことなんだけど、そういう仕組みになっているのだ。有権者がどういう人間を首長に選ぶか。民意が問われている。
8月8日(水曜日) コミュニケーションの基本夕方から東京・有楽町のドイツ居酒屋で、言論・ジャーナリズム系のML(メーリングリスト)のオフ会に参加する。旧知の人たちがいる一方で、ネット上の文章は何回も読んでいるけど顔を合わせるのは初めてという人たちも多い。ほとんどは普通の会社員や学生や教員の集まりだが、新聞記者やルポライターなど、マスコミ関係者も何人か参加している。ちょうどMLやその他で話題になっていたこともあって、「差別と表現の自由」だとか「内心の自由を尊重することの意味」といったテーマで熱い議論が展開される。ああ、そういう見方や考え方もあるのかと、なかなか勉強になった。相手の顔をきちんと見ながら面と向かって話をするのは、お互いに信頼関係や理解を深めるうえでとても大切な作業だ。やっぱりコミュニケーションの基本だなあと改めて思う。
前にも書いたと思うが、記者としてどこまで冷静に取材対象を観察して記録するべきか、どこまで取材対象に共感して一緒に行動するべきか、といった「線引き」は実はものすごく微妙で難しい課題だ。冷めた視線と熱いまなざしという矛盾した行動が、記者には求められる。真摯な姿勢で取材に取り組んでいる記者ほど、このことで悩んでいる人は多いのではないかと思う。残念ながら記者職でない人には、この微妙な感覚と苦悩はなかなか分かってもらえない。きょうは記者仲間とそんな葛藤について、少しだけだったけど話ができて、同じように悩んでいることが分かってほっとした。
二次会は普通の和風居酒屋。と思いきや、なぜか店の中にアコーデオン奏者が控えていて、今月が誕生日の客のために「ハッピー・バースデー・トゥーユー」の曲を、何回も何回も繰り返して演奏してくれる。居合わせたすべての客が全員で手拍子と拍手喝采で応じるので、店内は異様な連帯感で盛り上がるのだった。おまけに、うちらのグループはシャンソンをリクエストして、フランス語で歌い出したりする。う〜ん、まるで国籍不明だ。午前2時半帰宅。
「自白の心理学」を読む 浜田寿美男「自白の心理学」(岩波新書)を読み終える。なぜ人は、自分が身に覚えのない犯罪を自白してしまうのだろうか。本当に潔白で何もやっていないのなら、どんな状況に追い込まれたとしても「うその自白」なんてするはずがないだろうと、世間一般の人たちは考える。しかし周りのみんなが何も疑わずに犯人だと決め付けて突っ走る状況のなかでは、あらゆる証拠や証言が一つの結論に向かって一気に集約され、そしてそこには「犯人に仕立て上げる」ための磁場が形成されていく。根拠のない疑惑は、いつのまにか確信となってその場を支配してしまう。犯人とされた無実の人はいくら弁明しても通じない無力感にさいなまれ、肉体的な拷問がなくても、そのうち「犯人になる」ことを選ぶしかなくなるのだ。
さまざまな冤罪事件を実例に挙げながら、著者は取り調べの過程を細かく分析し、無実の人が「うその自白」を語る心理的メカニズムを検証する。さらに、取調官が相手を犯人だと確信して、執拗に自白を迫る実態にも鋭いメスが入れられる。「被疑者は無実かもしれない」(推定無罪)という可能性を少しでも考えていれば、無実の人の「うその自白」はチェックできるはずだが、追及する側の警察官は犯人であることを確信しているので、まったく聞く耳を持たない。そうやって、被疑者と取調官との合作による犯行ストーリーが展開されていくのだ。冤罪が作られていく過程がとても分かりやすい。まさに「目から鱗」の納得のいくテキストである。
8月9日(木曜日) 「やさしさの精神病理」を読む大平健「やさしさの精神病理」(岩波新書)を読み終える。今年2月に読んだ同じ著者の「純愛時代」の前作である。「純愛時代」では、「運命」の出会いとか「純粋」な関係にこだわって心を病んでいく若者像を描いていたが、この「やさしさの精神病理」で精神科医の筆者は、「やさしい」とか「やさしさ」といった言葉の意味が変化してきている背景を探りながら、「やさしい関係」にこだわる若者の心の中を分析していく。
新しい「やさしさ」の世界に住む人たちは、相手を傷つけたくないと考えて葛藤する。そうした「やさしさ」はたぶん、自分が傷つけられたくないという気持ちの裏返しなのだ。そのために自分は相手の心の内面に立ち入ろうとしないし、自分の心の内面にも立ち入らせない。「熱い気持ち」を共有するなんてもってのほか。「熱い気持ち」を伝えたり、伝えられたりするのは好まないのである。旧来のように、相手の気持ちを先回りして察したり、時には相手の心の中に土足で上がり込むことまでして自分のことのように考えたりする関係は、もはや「やさしい」ことにはならないのだった。
人と人との強い結び付きを意味する「絆」には、一方でお互いの自由を「束縛」する関係も伴う。だからこそ、綱引きや葛藤がそこに生まれるのだ。ところがこのごろは、束縛しないように・束縛されないように、あるいは傷つけないように・傷つけられないようにと、極めて慎重な人間関係を模索するようになってきている。熱い気持ちを投げかけるようなホットな関係では、傷つけ傷つけられる恐れが強いので、相手の内面に踏み込まないウォームな関係へと向かうのだろう。それが新しい「やさしさ」であるらしい。う〜む。分かったようでいて、よく分からないところもあるんだけど、傷つきたくないという気持ちを最優先するのならば、ホットな関係を避けようとする方向にベクトルが向くのもよく分かる。熱血とか根性とか「家族のような」とか「ムラ社会」とか、そのようなウエットでホットな雰囲気が心地よい場合も確かにあるけれども、行きすぎると息が詰まるような閉塞感を感じるからなあ。閉塞社会への反動から、サラサラした関係に傾いているのかもしれない。
ん〜、本ばっかり読んでいるみたいだけど、そうではない。電車や喫茶店などで少しずつ同時並行で読んでいた本が、たまたま立て続けに読了になったというだけだ。必ずしも原稿を書くのをサボっているというわけではない(ちょっとはそーゆー現実逃避の側面もあるかも…)。なんだか言い訳がましいな。
8月10日(金曜日) 催促終日、取材のまとめなど。某誌の原稿執筆に手間取っていて、押せ押せになっている。本当はきょうが締め切りだったのだけど…。でもって、待ち構えていたように、別の2社の編集者から「そろそろこちらの取材に取りかかるように」と催促の連絡がくる。確かにそういうスケジュールになっているんだから、本来の進行状況から考えて、編集者が先回りして筆者を押さえておくというその姿勢は実に正しいっす。とりあえず週末のうちに懸案原稿を仕上げなければ、まじで段取りがめちゃくちゃになってしまう。やばやば。
8月11日(土曜日) 反面教師普通の会話でもあるいは議論や論争でも、相手との対話や言葉のキャッチボールがあってこそ、初めてコミュニケーションというものは成り立つはずだろう。いくつかのML(メーリングリスト)に参加しているのだが、そのなかに、自分の言いたいことを一方的に書きまくって、次から次へと何通も送り付けてくる人がいるんだよなあ。まるでストーカーのようだ。最初はすべての内容に目を通したりもしていたんだけど、あまりのしつこさにいい加減うんざりしてきて、そのうちにその人物の名前を見ただけでもうメールを開くことさえしなくなった。即座にごみ箱行きである。同様の対応をしている参加者も少なくないらしい。そもそもピントがずれまくっているので議論にならないし、しかも論理的でなく、一面的な主張の繰り返しに辟易(へきえき)するという具合なのだ。
これでもか、これでもかと、自分の言い分を大量に書き連ねて送信する労力は大変なものがあると思うし、たぶん本人はそれで議論の相手を完全に打ち負かしたと考えているのだろう。ところが、送られてきた文章は読まれてもいないのだから、これはもう「心に届く、届かない」という以前の問題である。目に触れたくもないと思わせるほどの拒否反応を起こさせるというのは、なかなかできることではない。なんだか、哀れでかわいそうな人だなあと同情してしまう。しかし僕としては、得がたい反面教師とさせてもらった。こういう議論(にもなっていないと思うが)の仕方をすると、話がかみ合わないどころか、対話そのものを拒絶されてしまうことがよく分かったからだ。
それにしても、こういう人ってほかのMLの参加者にもいるんだよね。ホームページや記事を読んだという人からも時々、同じように「対話が成立しない」メールが送られてくることがある。こちらからの応答に、まともな返事が返ってこないものも含めれば、言葉のキャッチボールの仕方を知らない人がたくさんいるということになるんだろう。ネットの世界だけのことか、それとも現実の世界でも同じなのだろうか。検証してみるのも面白いかもしれない。
8月12日(日曜日) 成田美名子「あいつ」を読む終日、原稿執筆など。だがしか〜し。途中でちょっとばかり漫画文庫なんか読んでしまった(おいおい)。成田美名子「あいつ」。自宅のすぐ隣のあばら家に、高校3年の秀才男子2人組が引っ越してきたことから、一変する高校1年の泉みさとの生活。将来の夢を実現させるために家を出てアルバイトする親友2人組に、知らず知らず影響されていくみさとは、自分自身で考えて判断すること、自分の夢を見つけて進むことの大切さを知るのだった。小さい時に思い描いていた夢や希望は、いつの間にかあらかじめ敷かれたありきたりのレールに置き換えられてしまうものなのだろうか。この作品からは「そんなことはない、忘れたり諦めたりしているだけで、自分自身の意思の問題だよ」というメッセージが強く伝わってくる。天文学という自分の夢を見つけて大学進学を決意したみさとと、シルクロードへ旅立とうとしている秀才2人組。物語はそこで終わっているのだが、その後の話をぜひ読みたいと思わせる後味のよい作品だ。1980年の正統派の少女漫画だからこそ、少年漫画にはない心の動きや日常生活が、ていねいに描かれていると言えるのかもしれない。…って、おーっとこんなことを書いている場合じゃなかった。さっさと仕事に復帰せねば。完全原稿に仕上がるには、もう少しばかり手を加えなければならないのだった。ほかにもまだもう一つ原稿があるし。う〜ん、このまま徹夜かな。
8月13日(月曜日) なぜ靖国神社なのか先日、髪の毛をカットしてもらっていると美容師さんから「靖国神社の参拝って何が問題なんでしょう」と聞かれた。う〜ん…。しばし考え込んでしまう。参拝に賛成する人たちのように「戦没者に感謝して慰霊するため」と一言で分かりやすく説明できればいいのだが、さまざまな問題を含んでいるからこそ、簡潔明瞭に一言の説明で済ませるのは難しい。実はそうやって単純明快な言葉で済ませてしまうところこそが、まさにファシズムの面目躍如たるところなんだけどね。で、髪の毛をカットしてもらいながら説明するのだから、やはりなるべく簡潔に説明しなければならないわけで、頭の中で思考波を数秒ほど駆け巡らせる。「軍国主義や天皇のために戦って死んだ人が、神様にされてしまうところだから…。それに憲法違反の疑いもあるから問題になっているみたいですよ」。一言では説明できなかったけれど、二言でポイントだけは簡潔に言えたかもしれない。たぶん半分くらいは分かってくれたんじゃないだろうか。美容師さんはそんな顔をしてうなずいていた。
コイズミ首相が夕方、靖国神社を参拝した。談話の中でコイズミ首相が述べた「悔恨の歴史を虚心に受け止め、戦争犠牲者の方々すべてに対し、深い反省とともに、謹んで哀悼の意を捧げたい」というその気持ちはよく分かるが、しかしそこには「なぜ靖国神社なのか」という問いに対する答えと視点が、すっぽり抜け落ちている。中国や韓国など近隣諸国への配慮ということが報道でも何回も繰り返されているけど、問題の本質は「なぜ靖国神社なのか」ということだ。純粋に戦争犠牲者に祈りを捧げるのなら、靖国神社にこだわらなくてもいいはずなのに、軍国主義と国家主義と皇民化のシンボルである靖国神社にあえて参拝するのは、つまるところ「軍国主義と国家主義と皇民化」(ファシズム)を肯定しているということだろう。公人として参拝しようが、私人として参拝しようが、その人の本質的な姿勢はどちらでも同じだ。だって純粋に戦争犠牲者をまつった施設ではないんだよ。軍国主義と天皇に命を捧げた人だけを「軍神」として合祀し、ことさら別格扱いしているのが靖国神社なのだから。しかも神様としてなんかまつられたくないと遺族が主張しても、一方的にA級戦犯もろとも一緒に奉られてしまっている。それこそ軍人も民間人も含めて戦争で亡くなった人たち、すべてに対する冒涜(ぼうとく)だと思う。
かなり長めの原稿は何とか書き上げて、朝一番で無事送信。それからちょこっと仮眠。午後2時半ごろ、コイズミ首相が3時ごろには靖国参拝をするらしいという情報が入ってきて、シャワーを気持ちよく浴びて出てきたところで、しばしテレビの報道特番に見入ってしまう。そのまま次の原稿執筆に取りかかればいいものを、なぜかドラマの再放送やら夕方のニュース番組やらを見続けるのだった(おいおい)。すると友人から電話がかかってきてしばらく雑談。そんなこんなで仕事再開は午後7時過ぎから。でもちゃんと原稿は締め切り日に書いて送信したぞー(当たり前だっつーの)。
8月14日(火曜日) デパ地下の弁当は…しばらく会っていない友人と夕飯でも食べようと思って電話したら、もう食べてしまったけどコーヒーなら付き合うとの返答。まあ久しぶりだからそれでもいいかと思って待ち合わせ場所に行くと、デパートの地下で弁当や惣菜を買って待っていた。でもって「お前の家に行って食おう」と言う。貧乏な僕のために食料を買ってくれたんだなあと、ありがたく(?)いただくことにした。でもよく考えたらそれって、コンビニ弁当を買って食べているいつものパターンと同じじゃないか。もちろんデパ地下の弁当だから、それよりもグレードが高いということはあるけど…。引っ越しをしてからうちに来るのは初めてなので、友人はもの珍しそうに室内を見物している。う〜む、しかしなるほど確かに味の方は、おかずのハンバーグも焼き肉も唐揚げもかなりうまい。感謝。車でファミレスへ。コーヒーを飲みながらしばし雑談。同じ記者仲間なので、取材論や表現手法などについて延々と話し込んでしまう。いろいろ話した中で、特に一つだけメモしておきたいのは「取材相手が自分自身でも気付かなかったようなことを引っ張り出してきて、的確に表現してみせる記事を書いていこう」ということ。それって記者の重要な仕事の一つだし、そのためには深い問題意識と観察力と分析力と洞察力と取材力が要求されるよなあ。「私ってこういうことを考えていたんですね、自分自身でも気付かなかったけど、記事を読んでみて初めてなるほどなあって整理できました」。例えばそういう反応が返ってくるようなものを、できるだけたくさん書けるように精進しようということだろう。何回かそんな反応をいただいたことがあるが、これはなかなか難しい。午前4時半帰宅。
8月15日(水曜日) ジブリファンの宝物昨晩と言うよりもきょう未明に帰宅してから、ほんの半時間もあれば簡単に完成すると思って取りかかった原稿が、データ部分を検証してみると総ざらいする必要が生じ、とんでもなく難航して昼近くまでかかってしまう。文部科学省に確認したり、教職員組合や教育委員会にも問い合わせたりしなくてはならず、お陰で当然のように徹夜である。まさか、こんなことになるとは…。予定がすっかり狂ってしまった。今世紀最初の終戦記念日。正午の黙祷の時間は、テレビ中継を見ながら朝食をもぐもぐ食べていた。取材に行くはずじゃなかったのかよ(おいおい)。
6月の末にローソンで限定予約注文した「ナウシカ&ラピュタのガイドブック2冊セット」と、それから「ナウシカ・ラピュタ・トトロ」それぞれの映画パンフとポスターのセットを受け取る。すべて完全復刻版で、きょうが受け渡し日だったのだ。薄っぺらなパンフやガイドブックだから大した荷物にはならないだろうと軽く考えていたら、これが大間違いだった。パンフとポスターのセットは、それぞれが25センチ×50センチほどある段ボール箱に厳重に格納されているのだ。ものすごくかさばる。店員さんが事務室から運んできた段ボール箱を見た時には、その中から映画パンフを1冊だけ取り出すのだと思っていた。「まさかそれ全部…。そんなに大きいんですかあ…」と絶句していたら、女性の店員さんも「私もびっくりしましたよ」と驚きながら笑っている。せっかくの貴重な完全復刻版だから、折れ曲がったりしないようにという版元の配慮なのだろう。まあ、中身は本当にパンフとポスターだけなので、いくらそれだけの大きさの段ボール箱が3つもあっても軽いもんだ。少し離れたところに車を止めたので、運びにくくて大変だったけどね。
まだざっと見ただけだが、ジブリファンにとってはかなりうれしい内容だ。公開当時の映画パンフはずっと見たかったものだし、宮崎駿監督ら制作スタッフのインタビューや制作秘話などもたくさん載っているので、どのような雰囲気で作品が作られていったか、という現場の一端に触れられるのはわくわくする。じっくりと時間をかけて少しずつ読んでいこうと思っている。楽しみだ。
8月16日(木曜日) 「因果」な仕事テレビのニュース番組で、あるキャスターがこんなコメントをしていた。「どんな報道の仕方をしても、反日だとか、あるいはその逆だとかいろんなことを言われる。でもまあ、われわれがやっているのはそういう仕事なんです」。そうなのだ。そんなことは、新聞記者1年生の時から身をもって学習してきたはずで、よく分かっていたはずなのだ。それなのに、あまりにもピントのずれた批判や読解力のない的外れな意見を目のあたりにしていると、ついつい記者としてのよって立つ基盤まで見失ったように感じてしまうことがある。そういう理不尽な反応が重なると、自分はいったいだれのために、何のために苦労して取材しているのだろうと、呆れ果てると言うよりもむしろ空しさを覚えてしまうのだ。こんな言い方は極めて不適当で間違っていると分かっているんだけど、こんな人たちのために、よりましな社会を目指して取材して記事を書いているのかと考えると、気力や意欲や志が萎えてしまったりする。
しかし当然のことながら、きちんと仕事を見てくれている人は必ず存在しているのだ。愚痴を聞いていた友人からも「見ている人はちゃんと見ているのだから心配することはない」と指摘された。僕の書いた記事によって励まされ、勇気付けられ、考えるきっかけになって、それが変革の力になってほんの少しでも社会が動く一助になることも確かにあるに違いない。実際にそのような反応もたくさんいただいている。だけどもともと小心者なものだから、どうしても「さまざまなご意見」に直面すると、ついつい原点を忘れて弱気な気分や投げやりな気持ちになってしまいがちなのだった。よく考えてみれば、そもそもみんなが納得して拍手喝采するような、そんな万人に都合のいい記事なんて存在するわけがない。それこそファシズムだ。それに世の中にはいろんな人がいるのだから、みんながみんなきちんと記事を読み取ってくれるなどということを期待するのが無理ってものだろう。
そう考えれば、気持ちがかなり楽になった。う〜ん、まだまだ修行が足りないよなあ。そうだよ、いろいろ突っ込んで取材して記事を書いたり発言したりすれば、さまざまな反応やリアクションが起きるのはごく普通のことなのだ。波風が立たないような当たり障りのない表現をすることこそ、記者として恥ずべきことなのだ。よく分かっているはずのことをすっかり忘れていた。もちろん言うまでもないことだけど、事実の積み重ねによって、記事を書いたり発言したりするのが大前提である。
8月17日(金曜日) 県立図書館のコピー精力的に取材しようと思っていたのだが、面倒くさい雑用が山のようにたまっていることに気付いて、せっせと片付けた。資料の整理とか取材経費のまとめとか…。どーでもいいことなんだけど、しかし定期的にやっておかなければならないことなので、こればっかりは放置しておくわけにはいかない。ふう。デスクワークのついでに、これから取りかかる予定の取材計画をまとめる。この人物とあの人物にまず会って、そこから協力者をさらに紹介してもらって…などと、取材すべき人々のアウトラインをメモしていくのだ。もちろん取材網は次々に広がることになるのだが、何事にも取っ掛かりやキーパーソンは重要なのである。結構時間がかかる。う〜ん、楽な作業とゆーのは何一つとしてないもんだなあ。
神奈川県立図書館で、過去数年分の政府刊行資料を書庫から出してもらってコピーを取る。利用者の責任でコピーするシステムの市立図書館と違って、県立図書館ではいちいち名前や住所を書いて申請しなければならない。著作権保護のためだというが、だれが何をコピーしたかという情報の保護は大丈夫なのかな。でもって、最新号に掲載されている記事のコピーはダメだというのだ。ほかの週刊誌や月刊誌などの雑誌類もすべて、次号が出るまではコピー不可だという。ええ〜っ、そーなんだ。でもさあ、一般雑誌の場合なら趣旨としては理解できるけど、政府機関が公表して掲載しているデータが、著作権保護のためにコピーできないという扱いは納得できないんだけどなあ。そんな調子だから、県立図書館は不人気なんだろう。暗くて汚れていて職員も無愛想だし。だがしか〜し。ここにしかない資料もあって、それが何とも困ってしまうのだ。
一昨日から3夜連続で放送されているNHKのドラマスペシャル「少年たち2」を見る。3年前に放送された作品の続編で、今夜が最終回。家庭裁判所の広川調査官の仕事ぶりを通して、子ども(少年)たちの非行や事件の原因が、いかに親や家庭にあるかを真摯に訴えるドラマだ。親としての責任をきちんと果たさない、あるいは子どもにどう対応すればいいかが分からない、そんな親のもとで愛情を十分に注がれずに育った子どもたちは、とても孤独で不安定な状態に置かれる。子どもたちの心に、親の愛情不足がどれほど大きな傷や悪影響を及ぼすか…。広川調査官は地道な調査と聞き取りと面接を積み重ねて、子どもたちの向こう側に横たわる「大人社会のゆがみ」をていねいに解きほぐし、子どものための解決策を導こうとする。3年前のシリーズよりも内容が少し複雑になっているが、最後にはそれがきちんと一つに結び付いて、見る者をぐいぐいと引き込んで見せるのは見事な構成だ。そのためにも、広川調査官に理解を示し、やりたいように調査活動をさせる支部長裁判官の役どころが重要になってくるのだ。だけど広川調査官のような調査官はいたとしても、こんな裁判官は現実にはいないと思う。あるべき裁判官像というか、こんな裁判官がいたらいいのにという願望のようなものかもしれない。出演は広川調査官に上川隆也、支部長裁判官に山崎努、ほか。どの役者もなかなかの熱演だが、これだけ力の入った原作と演出を前にしたら熱演せずにはいられないだろう。ちなみに3年前にも感じたことだが、広川調査官のような「取材」を記者もしなければと改めて痛感させられた。
コオロギやスズムシといった虫の音が聞こえてきて、季節はいつの間にか秋になろうとしている。少しひんやり風が漂い始めて、寂しいような気もするけどなかなか気持ちがよい。
8月19日(日曜日) 「千と千尋の神隠し」を観る東京・新宿ビレッジ2で、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を観る。たぶん混雑しているだろうとの先見性でもって、女性編集者と上映開始30分前に待ち合わせたというのに、窓口には「立ち見でも満員です」の看板が出ている。え〜っ、まじかよ…。文化シネマ系列の2館で上映しているのだが、もう一方も「立ち見です」の表示だ。仕方ないので次の回に向けて並ぶことになったが、そちらも次から次へと観客の行列が増えていくのだった。しかしまあ、とにかく座って見ることができた。さて作品は──。
前作の「もののけ姫」はかなり説明的で説教調に感じたので、僕は少し苦手だったのだが、今回の「千と千尋の神隠し」は単純明快なストーリーと設定で、純粋に楽しめる作品になっていた。「天空の城ラピュタ」と「魔女の宅急便」の中間のような展開と言っていいかもしれない。物語は、10歳の少女・千尋と両親が引っ越し先の家に向かう途中で、不思議な温泉町に迷い込んでしまうところから始まる。豚にされてしまった両親の魔法を解いてもらい、元の人間世界に戻るために千尋は、神様や化け物たちが疲れを癒しに来る湯屋で働きながら悪戦苦闘する。最初はやる気がなさそうで、つまらなさそうにしていた千尋が、次第に自分の意思や目的や気力みたいなものをはっきりと自覚していくのだった。ひよわでちっともかわいくない千尋が、物語後半あたりからはたくましく成長し、それにつれてかわいらしく「思えてくる」から不思議だ。でも正直なことを言うと、例えば「トトロ」のサツキとか「ラピュタ」のシータのようにもう少し表情豊かで、冒頭から感情移入できるようなヒロインにしてほしかったなあ。ススワタリは別の意味で、とてもかわいらしくて愛らしく描かれていた。実はこの作品の中で一番のお気に入りである。
ところで千尋は、この世界の支配者に「千尋」の名前を奪われて「千」と名乗らされるのだが、本当の名前を自分自身が忘れていくことに気付くというエピソードは、この作品の根底をなすテーマを考える上で実に興味深い。「自分自身が忘れてしまう」のは、奪われて支配されるよりも始末が悪い。意思や主体性や、自分というものをなくしてしまうことを意味するからだ。自分自身を放棄するに等しいからこそ、千尋たちは自分の名前(存在)を取り戻そうとするのだろう。千尋に付きまとう妖怪カオナシは、まさに「自分」という存在を喪失した者の究極の姿のように思える。
でもって、ちょっとマニアックなコメントかもしれないけど、千尋の味方になって助言してくれる少年ハクって、囲碁漫画の「ヒカルの碁」に出てくる塔矢アキラ(ヒカルのライバル)にそっくりだと思うんだけどなあ…。
8月20日(月曜日) 靖国神社ちょこっとガイド?夕方、東京・九段の靖国神社をちらりと見物してから、歩いて水道橋の編集部へ。知り合いの編集者数人と雑談。続いて四谷の編集部で2時間ほど電話取材などして、帰り道に秋葉原をぶらつく。いつも行列ができている九州ラーメンの店をのぞくと、なぜか運よくすんなり入れた。かなり遅い時間だったからかもしれない。初めての入店である。狭くて落ち着いて味わえない雰囲気なんだけど、味はあっさりしていて麺はシコシコで、そこそこイケる。
そう言えば、コイズミ首相が靖国神社を参拝したのは、ちょうど1週間前のこのくらいの時間だったはず。境内には若者の参拝者が結構多い。年配者よりもむしろ若者の姿が目立つくらいで、カップルもたくさん来ている。大学生らしい2人組は、きちんと「2拝2柏手1拝」の神道作法に則って参拝している。女子高生のグループは「ここだよここ、コイズミ首相が来たんだよ」と言いながら、菊の紋章を見上げていた。う〜ん、神社本来の趣旨からは大きく外れて、受験の神様か恋愛成就の守り神のように扱われている気がしないでもないんだけど。すっかり市井の人々の日常に溶け込んで原宿化しているふうにも見えるが、どんな形であってもまずは広く受け入れられることが重要だと神社側はひそかに考えていたりして。あるいは市井パワーで「おもちゃ扱い」されるうちに、雲散霧消してしまうという考え方もありかもしれない。しかしそうは言っても境内で「教育勅語」のプリントが無料配布されていたり、さらによく見ると随所に「英霊」だとか「かく戦えり」などの勇ましい言葉が散りばめられていたりするのが、この神社の本質であることに変わりはない。そして、高さ25メートルを誇る大鳥居である。「英霊をなぐさめる」ために黒々とそそり立つその姿には、どうしても威圧感と恐怖感とを感じてしまうのだった。稲荷神社や氏神様の赤い鳥居はいつどこで見ても、とても親近感を覚えて心が安らぐんだけどなあ。そう言えば靖国神社の境内では、真っ白なハトがたくさん舞っているのがとても珍しい。営団地下鉄東西線の九段下駅下車徒歩5分。ん〜、何だか「靖国神社ちょこっとガイド&こぼれ話」みたいな内容になってしまった…。
8月21日(火曜日) 「千と千尋…」追加雑感天気予報に反してきのうは台風の影響など全く感じられなかったのに、きょうの横浜はさすがに、強い雨が降ったり止んだりといった感じでぐずついた天気だ。こういう日は外に出ないことに決定。終日、取材準備とアポ取り電話に専念する。あすは首都圏を台風が直撃して暴風雨圏に入るらしいので、あすもやっぱり外出しない方がよさそうだと判断して、取材の約束は入れないようにした。日程的にはとてももったいないんだけど…。
「千と千尋の神隠し」の追加雑感。知り合いの男性編集者とこの作品について話をする機会があったのだが、彼もやはり「千尋がかわいくないので感情移入しにくい」みたいな感想を漏らしていた。「少女がだんだん意欲的になっていくという演出から、わざとかわいらしく描いていないのは分かるんだけど…」。それにしても主人公なんだから、もう少し魅力ある少女に描いてもいいじゃないかと言うのである。僕も同じように思う。いかにもヒロインらしく描かれていたとしても、内面の成長過程は十分に伝えられるだろうし、宮崎駿監督ならそんなことはお茶の子さいさいに違いない。だからこそあえてそうは描かなかったのかもしれないが、ある意味でファンタジーなんだから、表情豊かで感情移入しやすい主人公であるに越したことはないのではないかなあ、と感じるのだった。
8月22日(水曜日) 台風一過ひたすら取材準備とアポ取り電話。めちゃくちゃ疲れるが、それなりの成果はあった。それにしてもアポは相手の都合があってのことだから、なるべく無駄のないスケジュールにしたいと考えていても、必ずしも思っている通りにはいかないんだよなあ。日程調整は難しいのである。首都圏は午後遅くになってから台風一過。まだ空はどんより曇っていて「抜けるような青空」とはいかないけど、たぶんあすは晴れるだろう。セミが再びやかましく鳴き出した。
村山由佳のエッセイ「海風通信〜カモガワ開拓日記」を読み終える。この人の小説は大好きでいつも読んでいるけど、エッセイを読むのは初めて。軽快でやさしい文章についつい引き込まれてしまった。村山由佳と夫のM氏が千葉・房総半島の鴨川に移り住んできてからの毎日が、写真や自筆イラストを織り混ぜて実に楽しげに綴られている。東京から車で2時間のところに広がるきれいな海に魅せられて、鴨川に住むことにしたという。ログハウスの裏の荒れ地を切り開いて、手塩にかけて育てた味の濃い無農薬野菜をたっぷり食べる毎日。安くて活きのいい魚も食べ放題だし獲り放題。しかもおいしい野菜や魚が手に入れば、持ってきてご馳走してくれる近所の気のいいおじさんだとか、買った以上の骨董品を惜しげもなくプレゼントしてくれる骨董品屋だとか、地元の名物や料理を親切に教えてくれる土地の人たちだとか、そんな人情味あふれる人たちに囲まれていい雰囲気なのだ。豊かな自然があふれているということはタヌキやイタチや野猿が闊歩していて、マムシもスズメバチもアブもいるし、不便なこともたくさんあるのだけど、だからこそ魅力的なんだと言える暮らしぶりが描かれる。南房総の気候風土のせいもあるのだろうが、とにかくのんびりしていて楽しくて、そしておいしい生活を満喫している姿がうらやましくなってくる本だ。
というわけで、村山由佳の小説の舞台としても登場してくるこの鴨川に、ぶらりと遊びに行こうと思っていたのだが、どうやら取材予定が立て込んでいて今月は無理そうだ。う〜む、ぜひとも夏の間に行きたかったんだけどなあ。
8月24日(金曜日) 夏バテ?朝から慌ただしく電話で仕込み取材やアポ取りなどを目いっぱいやって、午後からは東京都内で教育委員に関しての取材を始動。渋谷でコミックスや小説などを買い込む。だがしか〜し。この前から探している本はまるで見つからず。困ったな、こいつは取材で必要な本なんだけどなあ。いっそのこと書店で注文して取り寄せた方が早いかもしれない。あるいは市立図書館にあるのは分かっているので、そっちで調達するかな。クーラーをつけたまま寝たのでちょっと風邪気味。帰りの電車の中では、睡眠不足もあって横浜まで完全爆睡。記憶が全くないくらい眠りこけてしまった。夏バテというよりは、不規則な生活だから体調がイマイチのような気がする。自業自得か。とっとと寝て、きょうの取材のまとめは、朝起きて「ちゅらさん」を見てからやることにしよう(おいおい)。
8月25日(土曜日) 気骨と誇り栃木県下都賀郡の国分寺町へ。サンケイ教科書を逆転不採択にしたことで、全国的に一躍有名になったあの地域だ。横浜から往復すると約5時間。さすがに遠い。今夏に引退した前町長さんから、この間の経過やご自身の思いなどをいろいろとうかがった。もともとは保守系の政治家なのだが、戦争体験に裏打ちされた歴史認識には確固たるものがあって、太平洋戦争は無謀な侵略戦争だったという反省で一貫している。だからこそ「戦争や特攻隊を美化するような内容の教科書は許せない」とはっきり主張するのだろう。それでいて町民や議会から親しみと共感を持って受け入れられるのは、まさにこの方の人間性というか人徳そのものに違いない。文芸・文化にも造詣が深く、万葉集の話になると顔がぱーっとほころんで、本当にうれしそうに笑った。エッセイ集を2冊いただく。人口2万人足らずの小さな町ではあるけれども、気骨と誇りを感じた。
宇都宮線の電車の中では、行きも帰りもひたすら爆睡。…と言いたいところだが、椅子は固くて座り心地が悪いし、同じ姿勢で座っているとお尻が痛くなってくるしで、なかなか気持ちよくは寝られない。まあ、鈍行列車なのだから仕方ないか。帰りに秋葉原で途中下車。トトロのスタンプを買う。
8月26日(日曜日) マンツーマン講義土砂降りの雨が降っているみたいだなと、明け方ごろに布団の中でぼんやり感じていたのは記憶に残っているのだが、朝起きて外を見るといつの間にやらカンカン照り。灼熱地獄の状態である。再び「暑い夏」が戻ってきた。あ、でももう残暑か。そう言えば、残暑お見舞いの返事を書かなければならないのに、まだ全然書いていないんだよなあ。暑中見舞いの返事はイラスト入り官製はがきの「かもめ〜る」で出したのだけど、そんなものは当然のことながらもう売り切れてしまっているみたいなので、絵はがきを買ってきて切手を張って出さなければならない。これは割高だ。う〜ん。
午後から都内で、大学の教育行政法の先生に話を聞く。教育委員の中立と独立性について、これまでの経緯や問題点をわかりやすく説明してもらった。だがしか〜し。大学教授だけあって話し始めると止まらない。幅広く奥深くという具合に、話がどんどん広がっていくのだ。喫茶店で延々と5時間。教授がトイレに立った数分を除いて休みなし。言ってみれば大学の講義を3コマぶっ通しで、しかもマンツーマンで受けているようなものである。さすがに疲れてへとへとになった。もちろん教授の説明は懇切丁寧で無駄なものは何一つなく、まさに五臓六腑に染み渡るような内容だったことは言うまでもない。むしろ僕自身がどれほど消化できたか心もとないんですけど。不勉強な記者のために、教授はわざわざ時間を割いてくださっているわけで、たぶん伝えたいことがたくさんあると思われたのだろう。本当にありがとうございました。
8月27日(月曜日) 土鈴の音出稿済みの原稿に大幅加筆。チェックしたゲラとともにあわただしく送信。午後から横浜・高島屋へ。知人が「かながわ名産展」に出展しているので、少しだけ顔を出す。この知人は文筆業から転身して小さな工房を立ち上げ、3年前から土鈴(素焼きの鈴)作りを始めた。「社会に対する私たちの声の上げ方は、これまで通りのやり方でよかったのでしょうか。全く違う表現方法をしようと思ったのです」と話す。なるほど。土鈴には、説明を印刷した紙片が添えられている。「…耳もとで振ると、ころころ響いてくる土の音。おとなもこどももなんだか忙しい日常に、ふと立ち止まって自分の心の声を聞いてみる。そんなきっかけになればいいな、という願いをこめて、ひとつひとつ手作りしています…」と記されていた。「短い文章の中に自分なりのメッセージを盛り込んだつもり」と言って笑う。どっこい、文筆家の魂は今も健在だ。同じフロアで「千と千尋の神隠し」展をやっていた。ジブリグッズのコーナーで、性懲りもなくトトロのピンバッジを買ってしまう。
東京・新宿のヨド◯シカメラで、きのう契約した新しいPHS電話機を受け取る。通話状態があまりよくないので思いきって電話会社を変更した。機種も折り畳み式にした。電話番号変更の連絡が終わるまで、しばらくは2台を並行して使うつもりだ。まあ、僕はそんなに携帯電話には依存していないから、電話番号を知っている人も限られているんだけど。
夕方から四谷で弁護士を取材。限られた時間の中で、要領よく聞けたのではないかと自画自賛。その足で近くの出版社へ。単行本の編集会議。渋谷でベルギービールを飲む。午前零時半帰宅。
【訂正】8月19日付「身辺雑記」で「千と千尋の神隠し」を観た映画館は「新宿文化シネマ」ではなくて「新宿ビレッジ2」の誤りでした。変更になったのを忘れてそのまま書いてしまった。こっそり直しておいてもよかったんだけど、どこでだれがチェックしてるか分からないので正直に申告しておきます(笑)。
8月28日(火曜日) 寝過ごすやっぱり「連投」と睡眠不足で、疲れがピークに達していたんだろうな。さすがに2時間だけの仮眠では起きられず、知らないうちに目覚まし時計を止めてしまい、昼近くまでぐっすり眠りこけていた。目覚ましが鳴った記憶なんて全くないよ。出版社からたまたま問い合わせ電話があったからよかったものの、そうでなければたぶんまだ寝ていたと思う。寝ぼけ眼で時計を見たら、出かけなければならない時間を過ぎているではないか…。というわけで、大慌てで栃木県下都賀郡へ。かなり遅れることを電話連絡。夕方から用事があるという教育長に無理を言って、30分だけ時間を割いていただいた。ポイントを押さえて要領よく応じてくれるので、短時間だったけど内容の濃い話が聞けた。あ〜、それにしても失敗したな。反省。あすは取材予定が入っていないので、しっかり休もう。
8月29日(水曜日) 携帯電話の複雑操作爆睡するほどは休めなかったけど、時間に追われることはない一日だった。午後からアポ取りの電話をあちこちにかけ続ける。勝率5割といったところで、何となくすっきりしないが、イチローよりは高い「打率」だから、まあいいか。
新しく買った携帯電話(PHS)はメールの送受信もできる多機能型なので、説明書がものすごく分厚くて操作も複雑だ。説明を読んで理解して、使い方を覚えるだけでも大変な努力が必要である。慣れてしまえばたぶん、大したこともないんだろうけど。とりあえずはオンラインサインアップで、携帯電話専用のメールアドレスを取得する。続いて説明書をひっくり返しながら、自宅のパソコンにテスト電文を送ってみたら、ちゃんと届いているので感動する。逆に自宅パソコンから携帯電話にもテスト送信すると、こちらも無事に受信できた。きちんとできて当たり前のことなんだけど、携帯ではこれまで電話の機能しか使ってこなかったから、ちょっと新鮮な驚きがあるんだよなあ。女子高校生やOLが電車の中などでカチャカチャと、休む暇もなくメールを打っている姿を日常風景として見ているわけだが、いつもこんなふうにデータのやり取りをしているんだと実感できて感慨深い。僕はたぶんそういう使い方はしないだろうけどね。それからさらに電話帳機能にデータを登録して、留守電モードの設定をするなどの作業をひたすらこなす。なかなか大変だ。それにしても、本当にこれだけの複雑な操作を全部覚えられるのか。使いこなせるか心配になってきたぞ。
NHKの「ためしてガッテン」で、普通の携帯電話は医療機器に深刻な影響を与えるが、PHSを医療機器に近付けても全く影響がないことを実験報告していた。それだけ両者は電波の出方が違うというのである。だから病院内で医師や看護婦が連絡を取り合う時には、PHSを使っているのだという。なるほど。PHS派としては何となくうれしい。まさにガッテンである。
8月30日(木曜日) 三文の得午前中は東京地裁で刑事事件の傍聴取材。終了後、一緒に傍聴した司法試験受験生と、日比谷公園内の野外レストランで昼食。タイ料理の鳥肉そぼろかけご飯を食べる。独特のピリ辛が食欲をより一層そそってうまい。予定していた時間がぽっかり空いたので、神保町の書店を散策したらいくつか収穫があった。だがしか〜し、このところずっと探している岩波書店の本だけはどうしても見つからない。どうやら事実上の絶版状態らしい。最後の手段で、前に僕の本を担当してくれた編集者に電話で聞いてみたら、本社にも編集部用の予備があるだけだという。う〜ん。仕方ないのでコピーさせてもらうことにして、本社を訪ねると「編集部に3冊残っていたので1冊差し上げます」。感謝感激である。あきらめないで聞いてみるものだなあ。おまけに、次回作の出版まで強く勧められた。来年あたりを目標に、企画を煮詰めておかなければ。ラッキー。きょうは早起きして動き回ったから「三文の得」があったのかもしれない。
8月31日(金曜日) 「心に訴える」ということ東京・霞が関の弁護士会館で、弁護士から裁判官の在り方について話を聞く。夕方からネット友達と秋葉原で待ち合わせて飲む。冷えた生ビールがうまい。脂の乗った一夜干しサンマの開きもなかなかよい。僕はどちらかというと生のサンマより、開きの方が好きなのだ。だがしか〜し。大根おろしが付いていないではないか。まさに画竜点睛を欠くというものである。サンマつったら、やはり大根おろしでしょう。できればそこに、半分に切った徳島名産のスダチが添えられていれば申し分ないのだが、しかしまあ、場末の居酒屋でそこまで期待する方が無理だっつーの。ちなみに添えられていたのは、ものすご〜く薄っぺらいレモンだった。でも、サンマそのものの味はそこそこよかったから許す。その後、九州ラーメンを食べて、別の店でカクテルを一杯飲んで解散。午前1時帰宅。
…って、これだけじゃあ、飲んで食っただけみたいだよなあ。人間の生き方やジャーナリズムの今後について、などという真面目な話もしたのだけど、その中で特に印象深かったテーマを一つ挙げるとすると「イデオロギーとヒューマニズムの関係」についてかな。社会問題に関心がある人はたくさんいるけれども、そこには思想にしか関心のない人と、人間の生き方やドラマに関心のある人とがいて、同じ記事を読んでも、前者は登場人物(人間)の生き方やそこに描かれている心の内面などについて、理解することはたぶん絶望的にないだろう。両者はもちろん重なっている層もあるだろうが、むしろ重なっていない部分の方が多いのではないか…。とまあ、そんなふうなことを話し合った。たまたま友人も僕も、同じようなことを考えていたのだった。友人は「心に訴える」という作業を音楽の道で模索したいという。で、僕は今さらながら「ドラマを描くことで読者の心に訴えかける記事の大切さ」を感じている。そもそも僕が自分の書くルポの中で強調したいのは、人間の生き方や矛盾や葛藤や苦悩みたいなものだ。それを訴えるためにも事実に基づいた人間ドラマを描きたいと考えてきた。でもそういうものって、最初からイデオロギーにしか関心のない人には、理解もできないし理解する気もないし、だから心に伝わることは決してないのだろう。そう考えれば、その手の人たちが誤読したり読解力不足だったりしても、無意味にがっかりする必要もないのかもしれない。目からうろこの落ちるような意味のある雑談を、飲みながらしたのだな。