●腹痛●結石再発●北朝鮮が地下核実験●記者って何だろう●代理出産●NHKに命令放送?●いじめを隠蔽する学校と教委●教室変更●テレビドラマ「天使の梯子」●都教委の混迷●私語厳禁●受験科目以外はムダ?●日ハムが日本一●ソフトバンクCMは消費者愚弄●教研分科会でメディア論●本庄で教研集会●村山由佳「優しい秘密」●不用意な言葉●●●ほか
10月4日(水曜日) 腹痛朝から激しい腹痛。締め付けられるような重い痛みを右脇腹と背中に感じるが、午後から大学へ。腹痛を我慢しながらなんとか授業をする。話しておかなければならない最低限のことだけ話して、少し早めに切り上げて大急ぎで帰宅。吐き気と寒気もする。もちろん食欲など皆無。とにかく布団にくるまって痛みに耐えるのみで、ほとんど眠れない。これはどう考えても結石の症状だ。
10月5日(木曜日) 結石再発やや症状が落ち着いたので、タクシーを呼んで近くの専門医へ駆け込む。やっぱり尿路結石だった。7年前に同じ症状に見舞われていて気をつけてはいたのだが、いい加減な生活のせいで再発したらしい。医者に薬を処方してもらったものの、とにかくめちゃめちゃ痛くて、結石が排出されるのをひたすら待つだけである。
そんなわけで約1週間は何もできず、ずっとダウン。電話やメールにもほとんど対応できず、久しぶりに受信メールボックスを開いたら、数百通もの未読メール(迷惑メール含む)がたまっていて、茫然としてしまった。
10月9日(月曜日) 北朝鮮が地下核実験北朝鮮が地下核実験を実施したと発表。本当に核実験は成功したのかな。ただの爆薬の大規模爆発という可能性もあったりして。いずれにしても「核実験実施」を北朝鮮が発表したのは事実で、国際社会に対する重大な挑戦であることは間違いない。しかし問題なのは、これが「北朝鮮だから非難」されるべきなのではなく、どこの国であっても核保有と核実験に対しては厳しく非難されるべきだ、ということである。そのことを忘れてはいけない。
核保有国である米国や中国やロシア、英国、フランス、パキスタン、インドといった国が、こぞって「近隣諸国や地域を不安定にさせる」「国際社会の懸念を無視した挑戦的な行為だ」と非難しても説得力は全くない。自分のことは棚に上げて、よその国の核拡散を批判するのは明らかに矛盾している。核保有と核実験をする国に対して正々堂々と批判できるのは、日本をはじめとする核を持たない国だけだ。中でも唯一の被爆国である日本は、核実験に対して正面切って文句を言う権利がある。批判し続ける責任があると言ってもいい。日本にはそういう役回りが与えられているはずだ。
10月11日(水曜日) 記者って何だろう午後から授業。まだ完全復活とまではいかないが、体調はまあまあの状態だ。きょうのテーマは「記者って何だろう」。「新聞記者のあるべき姿」について講義する。7〜8割はどうしようもない志の低い記者で、問題意識のあるまともな記者は1〜2割しかいない──という新聞社の実態は、学生たちにも衝撃が大きかったようだが、記者を支えるのは読者であるという指摘には共感する学生が多かった。僕の話をただ漠然と聴くだけでなく、自分の頭で考えようとする学生が、少しずつ増えてきているのはいいことだ。
10月12日(木曜日) 代理出産代理で妊娠させられる女性のリスクを考えると、代理出産ってひどい行為だと思うんだけどな…。どうしても自分の子どもが欲しいという親の気持ちは、分からないことはない。生まれて来る子どもには罪はないから、出産届をきちんと受理してもらいたいと希望するのも分かる。しかし出産というのは、昔も今も危険で命がけの営みだろう。他人の生命を危険にさらしてまで子どもが欲しいというのは、ある意味ものすごいエゴだと思う。もちろん双方合意のもとで代理出産の契約を結ぶのだろうが、生命倫理や母子の関係なども含めて、いろいろな意味でどうも釈然としないなあ。
10月14日(土曜日)NHKに命令放送?菅総務相は、NHKの短波ラジオ国際放送で、北朝鮮の拉致問題を重点的に扱うように命令する方針を固めたという。災害などの緊急性がある場合に、公共放送であるNHKに放送を要請するならまだしも、こんな政治的な問題で放送を命じるなんて信じられない。NHKを国営放送と位置付けて、政府の宣伝機関と認識しているからにほかならない。放送内容への不当な政治介入であり、報道・表現の自由を脅かすことになる。常規を逸しているとしか言いようがない発想だ。NHKが自主・自立の独立したまともな報道機関であるならば、こういう動きは断固としてはねつける(あるいは正面から批判する論陣を張る)べきではないか。ただでさえ政権政党との距離感がなさ過ぎると批判されているNHKが、もしもこうした命令を唯々諾々と受け入れるようでは、自立した放送局としてまさに自殺行為となるだろう。そうなれば視聴者の信頼は確実に失うことになり、取り返しのつかない禍根を残すに違いない。
10月16日(月曜日) いじめを隠蔽する学校と教委北海道滝川市と福岡県筑前町で、小6女子児童と中2男子生徒がいじめを苦に自殺する事件が相次いで発覚した。問題なのは、学校や教育委員会が「いじめ」の事実を必死になって隠そうとしていること、遺族や生徒に対して真摯に向き合おうとしないことだ。「いじめはなかった」「いじめがあったとは知らなかった」などと言い張ること自体が、教育に携わる人間の認識としておかしいし、そもそもそんなことはまずあり得ない。もしも教師が「いじめの事実」を把握していなかったとすれば、それはそれで「指導力不足」であり「不適格教員」と言われても仕方ないだろう。
調べればすぐに分かるのに、それでも「いじめはなかった」としてシラを切り続けるのは、自分たちの保身を最優先しているからにほかならない。おまけに福岡の事件では、担任教師自身が生徒への「いじめ」を率先してやっていたというから、もう呆れてものが言えない。さらに学校は、こうした教師が犯した過ちの事実さえも隠蔽しようとする。もはやこれは「教育」とはかけ離れた世界だ。しかし今回の事件は決して特別な事例ではなく、氷山の一角に過ぎない。学校や教育委員会の多くは、すぐにばれるようなウソを平気で公言し、調べればすぐに分かる事実までも「なかったこと」にする体質がとても強いのが実態だ(参照:ルポ「葬られた作文」)。
日常的に子どもたちを説教し指導している立場の人間が、こういう反社会的なことを平然と繰り返しているところに、この国の教育の救いようのなさがある。どこを向いて教師をやっているのか、だれのための教育だと考えているのか、自覚がなさ過ぎるとしか言いようがない。そしてこういう事件を、不必要な「管理と統制」を進める口実として利用し、ここぞとばかりに教育現場に介入しようとする政治家が出てくるのが、これまた始末に負えなかったりするのだ。日本の未来は暗澹(あんたん)としているよね。
10月18日(水曜日) 教室変更午後から授業。受講生が多くて教室から溢れる状態だったので、教務に頼んで今回から一回り大きな教室に変更してもらった。履修登録している学生だけで200人以上いる。もちろん全員が授業に出てくることはないのだが、人が多過ぎて教室に入れないとか、もしくは入れても満席状態で圧迫感を感じるというのはまずいだろう。そんなわけで、大きな教室に移ったことで空間に少し余裕が生まれた。ところが今度はマイクにトラブル発生。マイクの調子がイマイチで、ハウリングを起こしてどうもやりにくいのだ。教員の声がきちんと伝わらないと、学生の緊張感と集中力は確実に低下する。しかも前の教室が横長だったのに比べて、今度の教室は縦長だということもあって、後ろの席の学生がざわついている。困ったもんだ。とりあえずマイクの調整を教務に依頼しておいた。ちなみに、きょうの講義のテーマは「被疑者の人権、被害者の人権」だった。
10月22日(日曜日) テレビドラマ「天使の梯子」テレビ朝日系でドラマ「天使の梯子」を見る。公開されたばかりの映画「天使の卵」(村山由佳のデビュー作)の続編にあたる同名小説をテレビドラマ化。映画で本編を見るよりも先に、テレビドラマで続編を見るという人がほとんどの気がする。大好きな作家の作品なので、僕も映画の前売り券は購入したがまだ見ていない。先に続編ドラマを見てしまった一人だ。しかも「天使の梯子」の小説も忙しくてまだ読んでいないんだよなあ。「天使の卵」は読んでいるから話にはついていけるけど、ファンとしては「天使の梯子」は読んでおくべきだった。小説も映像も全く初めてという人は、きょうの続編ドラマが初見でも戸惑わないのだろうかと、少し気になる。それはさておきテレビドラマだが、夏姫の恋人役(歩太)の俳優に違和感があって感情移入できなかった。それ以外は、まあ普通にドラマとして可もなく不可もなくといった感じだったけど。
10月23日(月曜日) 都教委の混迷某都立高校の校長から緊急の呼び出し電話。どうしても会って話したいことがあるとのこと。夕方、某所で2時間ほど話を聞く。ここではまだ書くわけにいかないのだが、教育委員会の混迷ぶりを象徴するような話だった。都教委はどのように事態を収拾するつもりなんだろう。いずれにせよ生徒不在の混迷であることは確かだ。しばし推移を見守りたい。
10月25日(水曜日) 私語厳禁午後から授業。マイクの調子はすこぶるよい。ハウリングも一切なし。はるか彼方の後ろの席の学生にも、僕の声はしっかり届いているようだ。それはいいのだけど、繰り返し注意しても私語を止めない学生がいて、これはどうしたものだろうと考えている。居眠りしても授業を欠席しても、それは本人の責任だから別に構わないのだが、私語は周りの学生が迷惑することになる。僕の話が聴きたいと思って授業に参加している学生や、授業を楽しみにしているという多くの学生の権利を、私語をする学生は侵害していることになるだろう。そんなことは絶対に許されない。実際、授業後に書かせている意見・感想には、「私語がうるさくて先生の話が聞こえにくくて困っています」という苦情を複数の学生が書いている。
「居眠りするのは個人の自由だが、私語は許さない。他人の権利を侵害するなら退場させる」と何回も明言したため、このところ私語はほとんどなくなった。最近は居眠りする学生もなぜか激減している。しかしそれでも、後ろの方の席の一部では、馬耳東風で私語を続ける学生がいるようだ(はるか彼方の後ろなので、僕の位置からは把握しにくいこともある)。時間がもったいないしお互い気分も悪くなるだけだから、こんなことはいちいち口うるさく言いたくないが、ほかの学生の権利を侵害しているとなると、放置するわけにもいかない。できればやりたくないけど、強制退場という実力行使も必要なのだろうかと思案する今日このごろだ。ちなみに、きょうの講義テーマは「整理部記者って何?」でした。
10月26日(木曜日) 受験科目以外はムダ?高校の必修科目の履修不足が全国に広がっている。履修すべき科目を意図的に履修させず、高校卒業に必要な単位が足りないことが発覚した高校がどんどん増えているのだ。その理由は「大学受験科目じゃないから」。だったら高校なんか行かないで、予備校に行けばいいじゃん。受験に必要な科目だけ勉強すればいいとするなら、文系は文系科目だけ、理系は理系科目だけでいいってこと? 芸術や保健体育といった科目も、芸術系や体育系の大学に進学する生徒以外は必要ないの? ──もしも高校のカリキュラムがそんなふうになれば、公教育は完全に崩壊するだろう。高校は完全に予備校化することになる。でも本当にそれでいいのか。
僕だって、理数系の科目は苦手だったし、文系だったから理数系の科目は受験に関係なかったし、できれば勉強したくなかった。だけど、必要ない科目だとは思わなかったけどなあ。社会科の科目にしても、日本史も世界史も地理も政治経済も倫理社会も、僕の学校ではすべて履修したが、それが無意味だったとは思わない。もちろん、受験科目に集中して時間を注ぎたいと考えるのは、受験生としては当然のことだろう。しかしだからといって、「受験に関係ない科目はムダ」「受験に関係ない科目は必要ない」と切り捨ててしまう高校生や保護者、そして学校関係者の感覚はやっぱりおかしいと思う。学校は受験のためだけに存在する予備校ではないはずだ。自分の受験科目以外を(嫌だなと思いながらでも)学ぶことは、幅広い教養(の一端)を身に付けることになるのではないのか。それが公教育と予備校との違いだろう。
進学実績だけが価値基準とされ、高校が進学競争のベルトコンベアに有無を言わさず乗せられている現状では、「受験に関係ない科目は必要ない」という考え方がまん延するのは必然だったのかもしれない。学校5日制が導入されて、授業時間数が削られる一方で、進学実績を競わされて高校がランク付けされるという矛盾。学校選択制の導入など、安倍内閣や自民党が進めようとしている「教育改革」は、こうした矛盾に拍車をかけようとするものだとしか思えない。それで、本当にバランスの取れた教養豊かな日本人が育つことになるのだろうか。今回の必修科目の履修不足問題は、今の教育行政のゆがんだ実態をはからずも浮き彫りにしたと考えられる。
日ハムが日本一 プロ野球の日本シリーズで、日本ハムが中日を4対1で下して4連勝。対戦成績4勝1敗で日本一になった。試合の一部始終を見ていたわけではなかったが、なかなか感動的な優勝シーンだった。この日で新庄剛志選手が引退した。それも含めて感慨深い日本シリーズだったと思う。そもそもぶっちゃけたことを言うと、最近まではパ・リーグに全く何の関心も興味もなかったという人が多かったんじゃないかと思うんだけど(僕もその一人なんだけど)、新庄が日ハムに入団してから、いろんなパフォーマンスを繰り広げたことで、「おっ、面白そうなことやってるじゃん」とパ・リーグに目が向いたのは事実だ。スポーツニュースのパ・リーグの対戦成績など見向きもしなかったのに、一瞥(いちべつ)をくれるようになったのは新庄効果が大きい。中でも日ハムの動向には多少関心を払うようになり、少なからず応援するようになっていたのだから、これは驚くべきことではないだろうか。だってそれまでは全く関心がなかったのだから。ちなみに僕は、日本シリーズでは日ハムを応援していました(笑)。高校野球では駒大苫小牧が活躍したし、北海道の皆さん本当によかったですね。心からおめでとうと言いたい。もちろん来年は阪神優勝である(爆)。
10月27日(金曜日) ソフトバンクCMは消費者愚弄携帯電話の「番号持ち運び(ポータビリティー)制度」の導入に伴って、ソフトバンクモバイルが流している「通話料、メール代、¥0」というテレビCMは、かなり問題があるんじゃないか。テレビ画面の下にさまざまな条件や制限事項が書かれているが、表示されているのはものすごく小さい文字で、しかも画面に写し出される時間はわずか1秒もない。あんなものをだれが判読できるというのだろう。恐ろしく動体視力が優れていたとしても、あそこに書かれている内容を瞬時に読み取るのはまず不可能だ。
つまり、無条件に「通話料もメール代も0円」ではないのに、ソフトバンクモバイルの携帯電話にすれば、あたかも「通話料もメール代も0円」になるかのような「事実に反した情報」を、あのテレビCMは消費者に垂れ流していることになる。これではほとんど詐欺まがいのCMではないか。少なくともそのように誤解させるおそれが強い。JARO(社団法人・日本広告審査機構)が言うところの「紛らわしい広告」「大げさな広告」「ウソの広告」であるのは明らかだ。消費者を馬鹿にしたこうしたCMを、大量に平然と流す感覚がそもそも理解できないし、そんな企業は到底信用することができない。経営姿勢と倫理感と社会的責任を疑う。
10月28日(土曜日) 教研分科会でメディア論午後から横浜市内の県立高校へ。高等学校教職員組合の教研集会の「平和教育」分科会にパネリストの一人として招かれ、「マスメディアは信じられますか」をテーマに討論。僕は現場での取材経験を踏まえて、メディア(記者)と権力との距離感がなくなっている実情を報告するとともに、メディアと市民との関係などについて問題提起した。日ごろ考えたり話したり書いたりしていることを、コンパクトにまとめて示せばいいだけのことなんだけど、限られた短い時間にあれもこれもと詰め込むわけにもいかず、でも話したいことは山のようにあるわけで、そのへんの欲求不満と葛藤しながらの約3時間だった。まあ言ってみれば、それだけメディアは課題をたくさん抱えているということでもある。
教研終了後、横浜駅前の居酒屋で飲み会。分科会参加者だけで飲み始めたはずなのに、次から次にどんどん人が増えてきて、いつの間にか奥座敷は満杯に。しかも集まってくる先生は、どれもこれも濃い目のキャラクターの人が多い。本編の分科会に引き続いて、なかなか楽しい時間を過ごさせてもらった。
10月29日(日曜日) 本庄で教研集会ちょっと早起きして、湘南新宿ラインの特別快速に飛び乗る。教職員組合の教研集会で講演を頼まれて、埼玉・本庄市へ。横浜から乗り換えなしの直通運行なのは便利だけど、在来線で2時間近く座りっぱなしというのは結構辛いかも。で、読みかけの文庫本を読み終わってから、うとうとと居眠りをしていると、下車すべき本庄駅で電車のドアが閉まったところで目が覚めた。やっべ。駅に出迎えの車が来てくれているはずなのに……。慌ててケータイで連絡したら、次の駅で降りて待っていて下さいとのこと。ホントに間抜けでご迷惑をおかけしてスミマセン。講演はなんとか無事に終わった。テーマは「ある新人教師の死」。小学校の新任教師が自殺した事件の背景を解説し、教育現場を取り巻く問題について考察する。現場の先生たちにとって切実な問題だということもあって、すごく熱心に聴いてくれた。質疑応答も活発。好評だったのでホッとした。
村山由佳「優しい秘密」 村山由佳の小説「おいしいコーヒーのいれ方」シリーズの第8弾「優しい秘密」を読み終える。集英社文庫版。自立した生活への新しい一歩を踏み出そうとするかれん。その一方で恋人の勝利は、自分に思いを抱き続ける星野と距離感を保つのに苦労する。バイト先の喫茶店「風見鶏」での大失態も含めて、かれんに話しておくべきことなのに何も話せていない、といった内容が展開される。しかしこれって黙って秘密にしておくべきことなのか、後になってボタンのかけ違いが大きく膨らんでしまうことにならないのか…。ちょっと苛立つというか、2人のこれからの関係が心配される展開になってきた。そんな気がする。
10月30日(月曜日) 不用意な言葉夕方から横浜市内。障害者団体の学習会に講師として呼ばれる。国会で審議されている教育基本法改正案が先取りされる形で、「管理と統制」が進む教育現場の実態と問題点について話した。これまでにいろんな集会で話す機会があったけど、たぶん最も少ない参加者数だったと思う(苦笑)。話し手としてはすごく複雑な心境。それはまあいいんだけど、言葉を大切に扱うべき仕事をしている人間として、大失敗をしてしまった。目の不自由な方を前に、使うべきではない単語をついうっかり使ってしまったのだ。口に出した瞬間に「あっ、しまった」と思ったけど後の祭り。慌てて、「いや、そういう言い方はまずいですね」と取り消してから、別の表現で言い直して話を進めたが、いったん口から出してしまった事実は消せない。みんな完全にスルーしてくれたが、なんて無神経な言葉遣いを不用意にしたんだろうと激しく自己嫌悪に陥る。猛反省。
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