●遅々として進まず●「過去雑記の格納庫/2」●出来不出来●東京教師養成塾●「暴言」支持する卑怯な人たち●皇室報道一色●成績評価やっと完了●4等4枚●「言葉の力」●「セカンド」更新●真冬の風鈴●「まぎゃく」って何だ●「まぎゃく」その2●もう花粉?●官製研究報告●一糸乱れず整然と●単行本準備●「出来レース」のオセロ?●威嚇効果●五輪の「日の丸」●「事実確認」をなめるな●●●ほか
2月1日(水曜日) 遅々として進まず定期試験の論文採点がなかなか終わらない。というか進まない。さすがに約150人分の論文を読んで評価するのは大変だ。そもそも僕自身が集中できていないというのも、はかどらない原因ではあるのだけど。だがしか〜し。今週中には採点をすべて終えて、出席点とリポート点を加味した上で成績評価しなければならないので、悠長なことは言っていられない。成績評価したものをマークシートに転記するだけで、えらく時間がかかるのだから…。ああ、アルバイトを雇いたいくらいだよ。ふう。
2月2日(木曜日) 「過去雑記の格納庫/2」「過去雑記の格納庫/2」のページを新設し、「総目次」に掲載していた一覧のうち、2001年1月から2003年12月までの「身辺雑記 INDEX」を収納しました。それより前の初期の「身辺雑記 INDEX」は「過去雑記の格納庫/1」に収納、2004年1月から最近までのものについては「身辺雑記/総目次」のページに掲載しています。
2月3日(金曜日) 出来不出来試験の採点はまだ半分くらい残っている。気分転換のために中央図書館へ。場所を外に移すと能率が上がるだろうと思ったのだが、調べものをしたりコピーを取ったりしているうちに、あっという間に閉館時間になってしまう。ほとんど採点作業が進まなかった。まあ懸案だった雑用がかなり片付いたから、きょうのところはよしとしよう。ところで試験の採点は、ABCの3段階にマルやマイナスの記号(Aだけは二重マルも)を加えた10段階で評価しているのだが、出来のよくない答案を見るとガックリくるんだよなあ。「そんなふうにしか理解していないのか」「そういう表現しかできないのかよ」と考えると、正直言ってかなり落ち込む。教え方が悪かったのか、ちゃんと授業を聞いていなかったのか、その辺はよく分からないけど、情けない思いと虚しさでいっぱいになってしまう。もちろん、とてもよく書けている答案を読むと少し心が癒されるわけで、まあ自分が学生だった時のことを考えれば、そんなに偉そうなことは言えないのだが。ほかの先生はそんなことをいちいち考えたりしないで、事務的に淡々と採点をこなしているのかな。
東京都教育委員会の「東京教師養成塾」第2期生の成果発表会を見学した。小学校教師を志望する大学4年生100人を公募し、1年間かけて「実践的指導力」のある教師を養成する事業で、2004年度からスタート。卒塾者は東京都の教員として採用される。塾生たちの発表会をのぞいた率直な感想を言わせてもらうと、みんなすごく「優等生」だなあということに尽きる。男女とも全員がリクルートスーツをビシッと着こなし、「こんなに学んだ」「これだけ成長した」「とても成果があった」と口々に言い、指導教官から「協力して下さったみなさんに感謝しなさい」と振られると、全員が一斉に大きな声で「ありがとうございましたっ」と頭を下げる。非の打ちどころがない「真面目でひたむきな」先生のタマゴということなんだろうけど、班別の発表会とシンポジウムを通じて、僕はどうにも違和感を感じてならなかった。
それはどこかというと、全員が前だけを見詰めていて、だれ一人として「疑問に思う」ということを感じさせない点だ。素直すぎるところに引っかかったのだった。例えば、教科書や指導書に書かれている算数の式のほかに、子どもが別の考え方をしてもいいはずだと思うのだが、それは間違いだと信じて疑わない。教科書とは違う別の式や考え方は、考えるまでもなく最初から論外なのである。決められたことを期待された通りに、きっちりこなすことは完璧だろう。しかし「枠組みやレールから外れた考え方」なんて、たぶん頭に思い浮かべることさえないのではないか。都教委の理想とする教師はそういうものなんだろうけど、果たしてそれでいいのか。
塾生たちに対して、「学校の中だけでなく社会の出来事に関心を持ちなさい」と都教委は指導する。本当に関心を持ったら教育行政のあり方に批判的になることだってあり得ると思うが、とても素直で疑うということを知らない純朴な教師たちは、そういう疑問や問題意識を持つことはないだろう。決められた枠から踏み出すことを知らない教師に教わって、子どもたちはどんなふうに育っていくのか。残念ながらあまり明るい未来は見えてこないように思う。
2月6日(月曜日) 「暴言」支持する卑怯な人たちビジネスホテルチェーン「東横イン」の西田憲正社長の記者会見は、なかなか笑える猿芝居だと思った。「すみませんでした」「本当に申し訳ありません」「私が悪いんです」「直させて下さい」などと、泣きながら(?)ひたすら繰り返すだけの光景を見て、見事な「大根役者ぶり」にある意味で感心した人も多かったのではないか。本心からの「謝罪」でないだろうことは、会見のやり取りを見れば一目瞭然だろう。記者からの質問に対してほとんど何も答えていない有り様は、記者会見の意味をまるでなしていないのだから、これほど馬鹿馬鹿しい茶番もない。
いったん造った障害者用の駐車スペースや客室をつぶして、違法無断改造を続けていた責任などについて、「1年に1〜2人しか使わないし」「怒られたら謝ればいいか」「まあいいかなと思っていた」などと当初は開き直ってみせた記者会見から一転。その豹変ぶりも興味深いが、ここまでウソくさくて芝居なのが見え見えの「謝罪」を平気でやってのける神経は、呆れるというよりはもう完全に「お笑い」の域である。本当に「謝罪」するなら、きちんと質問に答えて経緯などを説明するはずだ。それをしないで「すみません、すみません」と言うだけなのだから、だれだって「またまた心にもないことを」と吹き出すのが普通だろう。
しかしそれよりも気になったのは、東横インの不正が公になった当初から、インターネットの掲示板に予想通り、「本音で話す社長に好感を持った」「障害者を甘やかすな」「オレが障害者だったら社会に迷惑をかけたりしない」「偽善者が正義をふりかざすな」といった書き込みが目立ったことだ。東横インを批判することは「偽善」なのか。自分が「さもしい人間」だからといって、世間一般も同じように「さもしい心」を持っている人間ばかりだと勝手に決めつけないでほしい。掲示板で差別的発言をしている人たちが、東横インの社長と同じような利益優先で弱者排除の思想を抱いているからといって、世間の圧倒的多数はそういう考え方にくみしたりはしない。むしろ強く反発するだろう。東横イン社長の一連の発言は、世間一般では「本音」ではなく「暴言」と言うのである。東横インの弱者を排除する経営姿勢に疑問を感じるのは、「偽善」ではなくむしろ健全な「想像力」が育まれていることの証明だ。
だれだって、事故や病気で障害者になる可能性はある。だれしもいつか必ず老いる。「自分が弱者の立場に立ったら」とか、あるいは「排除された弱者がどんな気持ちになるか」といったことを想像する力が欠如している哀れで寂しい人たちが、インターネット上にはあふれている。始末に負えないのは、彼らが自分の愚かさと哀れさをあたかも世間一般の常識であるかのように吹聴する点だ。まさに「詭弁による暴言」そのものである。普通ならマトモに相手にされない「暴言」がまかり通っているのは、インターネットの「匿名性」に隠れて発言しているからに過ぎない。日本の社会全体が、このような「暴言」を容認して共感しているわけでは決してないだろう。本当に自分が正しいと思って発言しているのなら、それこそ東横インの社長のように、堂々と実名で「本音」を語ればいいではないか。自分の所属するコミュニティーや隣近所の人たちに、顔と名前をさらして「障害者を甘やかすな」と訴えかけてみてはどうか。それができずに「詭弁による暴言」をこそこそと振りまくのは、哀れな卑怯者であることにほかならない。
2月7日(火曜日) 皇室報道一色「秋篠宮妃の懐妊」が伝えられ、皇室報道一色になったのはマスメディアのいつもの悪弊だが、ほかのすべてのニュースが吹き飛んで一番喜んでいるのは政府自民党だろう。米国産牛肉の輸入、耐震設計偽装、ライブドア、防衛施設庁談合の問題について、まさにこれから国会で追及されるというタイミングだったのに、ことごとく霞んでしまったのだから。さらに興味深いのは、皇室典範の改正をめぐる問題だ。秋篠宮の第三子が男か女かで状況が変わってくるとして、改正が先送りになりそうなのがツマラナイ。自民党内が激しく対立して、面白い展開になると思っていたんだけどな。
ちなみに皇室典範を改正すべきかどうか、「女性・女系天皇」を容認するかしないかという論争は、言ってみればディベートのようなものだろう。「天皇制をどうやって維持するか」の立場が違うだけの話で、主張しようと思えばどちらの側からでも意見を展開できる。「万世一系」の維持が日本の伝統を守ることになるとか、現状のままでは天皇制が成り立たなくなる恐れがあるとか。もちろん皇位継承が難しくなるような状況を望むのなら、またそれなりの眺め方もあるわけだが、メディアではあくまでも「天皇制の維持」が大前提なので、そのラインに沿った話だけしか流れない。僕は正直なところどうでもいいと思っているので、興味津々で高見の見物をするのだけど、皇室報道によってほかの重要ニュースが小さく扱われるのは大問題だ、ということは強く主張しておく。
2月8日(水曜日) 成績評価やっと完了やーっと定期試験の採点を終えて、成績評価の作業が完了した。とんでもなく時間を費やしてしまったよ。今年からAの上にSというのが加わって、S・A・B・CとF(不可)の5段階評価となった。定期試験の点数(5割)のほかに、授業の出席点(3割)とレポート点(2割)を加えて総合的に評価する。まじめに出席している学生は、レポートも試験答案もよく書けているんだよなあ。文章もしっかりしていて理路整然としている。ちなみに定期試験を受けた学生のうち、ちょうど2割を「不可」とした。試験の出来が悪くても、そこそこ授業に出席してレポートも出していればなんとか救済のしようもあるが、どれもダメなものはとても考慮の対象にはならないよ。レポートも出さず授業にも出て来ないのに、試験だけ受けに来る学生の度胸は買うけれども、当然のことながら試験答案もちゃんと書けていないとなるとフォローするのは無理です。自己責任なので文句を言ってこないように。
2月9日(木曜日) 4等4枚お年玉付き年賀はがきの当選賞品を郵便局で引き換えた。もちろんいつものことながら上位賞品が当たるわけはなく、今年も当たったのは4等の切手シートだけだった。いただいた150枚ほどの年賀はがきのうち4枚(ちなみに昨年は3枚)。まあ、こんなものだろうけど、たまにはせめて3等の「地域の特産品小包」でいいから欲しいよなあ。見本写真を見てるだけでよだれが出てきそうだ。…って昨年もそんなことを書いたな。富山市ではわずか18枚のお年玉付き年賀はがきの中から、1等が2枚も出たという。運が強い人というのは確かにいる。たぶん宝くじもそうだろうけど、当たる人は何回も高額賞金が当たったりするのだろう。僕はくじ運は全くよくないです。商店街の抽選でもらうのはいつもティッシュだし。
2月11日(土曜日) 「言葉の力」「思想・信教の自由を守る」ための横浜集会が、近くの日本基督教団の教会で開かれていたので顔を出した。日本書紀の神話に基づいて「建国記念の日」が制定されたのを契機に、戦前のように歴史が神話化される時代や自由な宗教活動が弾圧される時代が来ないように、各地で続けられている集会の一つだという。小泉首相の靖国神社参拝が外交問題になり、メディアが皇室報道一色に塗りつぶされている状況を受け、戸惑いと危機感を抱いた発言が目立った。とりわけ印象に残ったのは、「言葉の意味や受け取られ方が変わってきている」という指摘だ。例えば「民主主義」「人権」「自由」といった言葉の持つ価値や重みに大きな変化が生じているし、事象の根幹に触れようとすると、はぐらかされてしまうというのである。なるほど確かに表層的な部分だけしか見ず、想像力を働かせて歴史的意味や背景を考えることをしない人たちが目立つ。言葉が軽くなり不用意な発言がまかり通るようになっている。しかしそんな時代だからこそ、僕たちは「言葉の持つ力」を改めて信じて発言していかなければならないのだろう。自立した市民として。「話さなければ、書かなければ、伝わらない」のだから。
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを」というどこかの新聞のキャッチコピーを思い出した。まったくその通りだと思うし、その姿勢と心意気は新聞人として真っ当であり強く支持する。ぜひとも原点に立ち返って、「ジャーナリスト宣言」を実践してほしいと切望する。ただ問題なのは、現場記者がこの志を真摯に実行しようとした時に、本当に自由に振る舞えるだけの社内体制が整っているか、そうした記者の思いを受け止める度量がデスクや部長ら管理職にあるかどうかだろう。その辺はちょっと疑わしい気がする。こういう時代状況だからこそ、率先垂範して頑張ってもらわないと困るのだけど。
2月12日(日曜日) 「セカンド」更新「セカンドインパクト」を更新。「ルポルタージュ」のページに記事紹介(見出しのみ)を追加しました。月刊「創」に掲載された「『つくる会』教科書採択の舞台裏」というルポです。「新しい歴史教科書をつくる会」が主導する扶桑社の歴史教科書を採択した東京都杉並区。教科書採択の舞台裏ではいったい何があったのか、その背景と問題点をルポにまとめました。とりあえず見出しと小見出しだけの掲載です。ご了承下さい。
2月13日(月曜日) 真冬の風鈴冷え込んだ夜道を歩いていると、近所のマンションのベランダから風鈴の音色が聞こえてくる。この家では一年中、ベランダに風鈴をぶら下げっ放しにしているのだ。夏だけじゃない。雨の日も大雪の日も、思わず震えがくるような音が風鈴から響いてくる。凛とした音色によって涼しさを感じさせるのは、古くからの日本人の素晴らしい知恵である。暑い夏の日の風鈴は人々の心を和ませてくれるが、しかしいくらなんでも真冬の風鈴はないだろう。音を耳にするだけで寒々とした感じが倍増する。勘弁してもらいたい。たぶん風鈴をぶら下げ続けているこの家の住人は、音色の持つ意味や効用についてはもちろんのこと、真冬の風鈴が周囲をどんな気持ちにさせるかを全く理解していないのだろう。「想像する」ということをしない人なのだろう。通りすがりの人間が文句を言うわけにもいかないしなあ。隣の家の人は注意してあげないのかな。
2月14日(火曜日) 「まぎゃく」って何だ近ごろ耳にする気持ち悪い言葉に「真逆(まぎゃく)」というのがある。テレビでタレントが口にするのを、昨年あたりから何回か聞いたことがある程度だったが、定期試験の答案論文で堂々とこの言葉を使っている学生がいたのには唖然とした。そんな単語は初耳だったので「なんだそりゃ」と思ったのだが、前後の文脈から「正反対」という意味で使っていることは理解できる。しかしこれまで「まぎゃく」なんて単語は日常会話で使ったことはないし、活字の世界でも目にしたことがなかったぞ。僕が無知なだけかもしれないと思ったので調べてみたら、「真逆(まさか)」の誤読による新語らしいことが判明した。「まさか、そんなことはないだろう」という時の「まさか」だ。しかも数年前から使われているという。えええっ、それってマジっすか。
もともと日本語に「正反対」という分かりやすい言葉が存在し、日常生活で普通に使われているのに、どうしてわざわざ「真逆」なんて言葉を使うのか理由が分からない。カッコイイからか。どう考えてもカッコイイとは思えないけどなあ。むしろアホっぽいし、言葉の響きからして「まぎゃく」という発音はとても違和感がある。「マジ」とか「ありえねー」といった言葉なら面白く感じるし、会話で使うのにも違和感はないんだけどなあ。耳にして意味がすぐ理解できるかどうかも、不快感を覚えるか否かの要因の一つかもしれない。だけどまあ、「まぎゃく」なんて気持ち悪い言い方が、現時点ではさほど広がっていないのはせめてもの救いだ。少なくとも最低限の社会常識として、答案やレポートみたいな公式文書では、そんな「ありえねー単語」は使ってくれるな…と言いたい。
2月15日(水曜日) 「まぎゃく」その2昨日の「身辺雑記」で書いた「真逆(まぎゃく)」について、映像のお仕事をされているという方から、「私の撮影現場では十年以上前から普通に、撮影時にメインの被写体が完全な逆光状態である時に、『ああ、真逆だ』というように使っていた」とのメールをいただきました。昨日の本欄で指摘した「真逆」は、例えば「〜というのとは真逆だ」とか「それは真逆の立場だ」といった言い方をすることに対する違和感であって、いただいたメールのケースはどうやらそれとは使い方が違うようですが、そうなんですか、撮影現場でそういう言葉遣いをしているというのは初めて知りました。
「逆光」の状態を指して「真逆だ」と言われたとしても、この場合は違和感はあまり感じませんね。「光の入ってくるべき方向と被写体の位置関係が逆になっている」という意味が分かるし、それに「逆光」の言葉にも対応しているので、さほど不自然さを感じさせないのでしょう。また、限られた職域で使われている「業界用語」「専門用語」という前提があることから、「その世界ではそんな言い方をするんだ」とすんなり受け入れられるのかもしれません。貴重な情報をありがとうございました。
2月16日(木曜日) もう花粉?昨日は4月下旬のぽかぽか陽気だったのに、きょうは一転してどんより曇った空模様。気温がぐっと下がって寒い一日となった。寒暖の差が激しすぎると体調を崩してしまいそうだ。そう言えば今年もまた花粉が飛び始めたのか、鼻がむずむずしてくしゃみが出るようになってきた。今年の花粉の飛散量は例年よりかなり少ないらしいので、ちょっと期待しているんだけどな。
2月17日(金曜日) 官製研究報告午後から東京・目黒の東京都教職員研修センターへ。教育委員会の教員研究生による「研究報告会」をのぞく。この日のテーマは、都立の「中高一貫校」における教科カリキュラム開発、2007年度から都立高校で必修化される「奉仕体験活動」の授業研究など。官製の研究報告がどれだけの課題や問題点を提示できるのかと思っていたが、教育行政の方針をそのまま垂れ流す研究発表ばかりではなく、中にはそれなりに傾聴すべき内容のものもあった。やはりどんな現場であっても、実際に足を運べば何かしら収穫はあるものだ。何を今さらという感じだけど、記者の基本だよな。
例えば、社会科と理科の融合によって「技術革新の歴史と科学者の責任」を考えさせる新しい授業の提案は、すごく面白い試みだと思った。原子力開発や耐震設計偽装といったトピックを通じて、技術者のあるべき姿に切り込むことになる。まさに今の社会のあり方を問題提起する授業だ。知識偏重の偏差値エリート養成とはひと味違い、生徒の問題意識を育てる興味深い授業になり得るだろう(教える側にそれだけの力量と裁量権があればの話だけど)。
一方、賛否両論ある「奉仕体験活動」については、こんなことは小学生が地域の子ども会あたりでやればいいではないか、という思いがますます強くなるような研究発表内容だった。ボランティアや奉仕活動の強制に「懐疑的な生徒」を、どのようにフォローするかという視点はどこにもなかったし…。教員の負担が際限なく広がりそうなこと、成績の評価基準が何もないことはよく分かった。そういう意味では、問題点を浮き彫りにしてくれたとも言える。
朝から東京・水道橋。「東京教師養成塾」(2月4日付「身辺雑記」参照)の修了式をのぞいた。式場には言うまでもなく舞台正面に「日の丸」が掲揚され、式典の冒頭では「国歌斉唱」。もちろん全員が起立して、背筋をピンと伸ばして大きな声で歌っていましたとも。しかしそれよりもっと驚かされたのは、ことあるごとに司会者から「一同起立」「一同礼」という号令がかけられ、そのたびに全員がザザッと立ち上がって、斜め45度の角度で3秒ほど揃って身をかがめることだった。一糸乱れず整然と。そんな光景がもう何回も何回も繰り返されるのである。見事に「調教」されているなあ。さすがです。そして極め付きだったのは、挨拶や報告のために登壇するすべての人が、舞台正面の「日の丸」に向かって必ず深々とお辞儀すること。壇上の右側の席にペコリ、左側の席にペコリ、演壇の教育長にペコリ。それに加えて「日の丸」に最敬礼で頭を下げるのだ。ただ一人の例外もなく。「そんなにペコペコせんでも」と思うのだが、軍隊なんかでよくある様式美というやつですかね。みなさん本当に真面目なんだなあ。心から感心させられました。
夕方から横浜で飲み会。テニス教室仲間だった女性と◯年ぶりの再会。どこの職場でも心に病を抱えている人が、急増しているという話に改めて考えさせられた。ストレスに耐えられず辞めていく人も多いという。仕事に出てこられる人はまだマシなんだろう。外出すらままならない人も大勢いると聞く。深刻な社会問題であるはずなのに、世間の関心はまだまだ足りなさ過ぎる。
2月19日(日曜日) 単行本準備「そろそろ単行本の原稿を」と編集者から催促がきている。久々のルポの単著。そうだよな、そろそろまとめて出稿しなければ。原稿そのものは雑誌掲載時のものが揃っているんだけど、一応読み直して手を加えたりしないと。「週末くらいをめどに努力する」と応じたが、まだ目次も作っていなくて、それが一番の問題だ。ほかにも別の出版社から2つほど単行本企画が入っている。しばらくそっち方面に力を注ぐことになるかも。
2月20日(月曜日) どうやら花粉症雑誌のゲラのチェックなど。朝から冷たい雨がずっと降り続いているので、家の外には出ないことにする。天候によって行動が左右されるというのもどうかと思うが、まあそこが生活リズムを自由に決められるフリーランスのよいところだ。天気といえば、どうやら花粉が飛散を始めたらしい。鼻がぐずぐずしてきた。
【おことわり】4日分の「身辺雑記」をまとめて更新しました。
2月22日(水曜日) 「出来レース」のオセロ?民主党の前原誠司代表と小泉首相の党首討論にはあきれた。ライブドアの堀江貴文前社長が自民党の武部勤幹事長の次男への送金を指示したとされる「メール問題」について、永田寿康議員が指摘したことの「正当性」を主張しながら、党首討論で取り上げるのを後回しにしたのだから。それだけ自信があるのなら、党首討論のすべての時間を使って切り込めばいいではないか。追及できるだけの事実の積み重ねがないから、最後にちょろっと「メール問題」を持ち出してお茶を濁したのだろう。裏付けを取っていないのがあからさまになってしまった。そもそも、国会で質問してから裏付けを取るなんて、常識で考えてあり得ない話だ。本末転倒としか言いようがない。ひょっとしてこれって出来レースなのか。
民主党議員の言動は、ちぐはぐなものばかりが目立つ。せっかく自民党の失態や不正を追及できる材料が山のように用意されているというのに、裏も取れていないような話を持ち出すことで、すべてを台なしにしてしまうというのは理解できない。米国産牛肉、ライブドア、耐震設計偽装、防衛施設庁談合といった問題は、もちろん党利党略のためではなく、どれも有権者としてきっちりと国会の場で追及してもらいたいテーマだろう。にもかかわらず、いつの間にかこれらの全部がうやむやにされてしまいかねない勢いになってしまった。オセロの白黒逆転。大どんでん返し。まるで民主党執行部が政府自民党とつるんで、わざと国会審議を混乱させて、自滅に導いているのではないかとさえ思いたくなるような展開である。
2月23日(木曜日) 威嚇効果都内の弁護士事務所。都立高校の先生たちの裁判会議。卒業式や入学式の「国歌斉唱」の際に起立しない教員に対し、東京都教育委員会が繰り返す厳しい処分は、学校現場に相当な威嚇効果となっているようだ。その時のたった1回の「不起立」がとがめられるだけでない。たった1回でも都教委の命令に逆らえば、定年後に再び教壇に立つことは一切認めないという重みは、はかりしれないものがある。もちろん2回3回と「不起立」を重ねると、さらに重い処分が待っている。思想・良心の自由に照らし合わせて内心では「おかしい」と思っていても、こうした処分を突き付けられると、教員の多くは黙って命令に従ってしまうというのである。一人一人の人間は弱い存在だから、弾圧に身をすくめざるを得ない心情は分かる。しかしそれでも心の中では、みんな「おかしい」「嫌だ」と思っているのだ。そういう人たちに対して、無理やり「立て」「歌え」と強制することの異様さ。まるで戦前とそっくりな状況だ。
2月24日(金曜日) 五輪の「日の丸」トリノ冬季五輪の女子フィギュアスケートで、荒川静香選手が日本人初の金メダル獲得。表彰式で「日の丸」をバックに「君が代」が流れると、じーんとくるものがある。心から「よかったなあ」と感じる。ここで強調しておきたいのは、これは僕の自由意思によるものであるということだ。五輪に登場する「日の丸」と「君が代」は決してだれかに無理強いされるものではない。日本と日本人を代表する「しるし」として、自らの意思としてそれぞれが向き合えばいいものだ。自分と同じ国に住む仲間が、あるいはよその国の選手が、精いっぱい頑張って素晴らしい成績を残したことをたたえて、または誇りに思って、自然な感情でそれぞれの旗や歌に向き合えばいいのであって、それ以上でも以下でもない。もちろん旗や歌を拒みたい人は、それぞれの意思に従って拒む自由がある。さまざまな理由や立場によって拒めばいい。これが重要なポイントだ。
旗や歌が人の心情を一方的に縛るなどというのは、どのような思想や立場からも到底許されるものではない。これまで「身辺雑記」やルポや単行本「日の丸がある風景」などでも何回も書いてきたことだが、一方的に「強制すること」が問題なのである。どんな旗でも(国旗でも組合旗でも)、どんな歌であっても(国歌でも社歌でも)、旗や歌が人間を超えて存在することなどあってはならない。グループの「しるし」がグループを構成する生身の人間よりも上位に立つなんて、本末転倒だろう。
2月25日(土曜日) 花粉!今年初めて花粉症の薬を飲んだ。くしゃみと鼻づまりでギブアップして仕方なく服用した。例年に比べて花粉の飛散量は少ない…はずなんだけどなあ。薬を飲むと眠くなって労働意欲はまるでなくなるのだが、頼まれていたボランティア原稿があったので、どうにかこうにか書き上げる。自分で自分を褒めてあげたい。
【おことわり】またしても4日分の「身辺雑記」をまとめて更新しました。最近とてもいい加減な更新態度ですみません。
2月27日(月曜日) 打ち合わせ午後から銀座。喫茶店で編集者と法律関係の単行本の打ち合わせをしてから、共著となる弁護士の法律事務所へ。話が分かりやすくて気さくな人なので、効率的で実のあるディスカッションが楽しくできた。取材に取りかかるのは4月以降になる予定だが、執筆の段取りや全体のアウトラインが見えてきた。夕方から神保町。別の出版社の編集者と喫茶店で、ジャーナリズム関係の単行本(単著)の打ち合わせ。まだ企画段階で具体的な話はこれからだが、これまでに書いた散文やコラム原稿をもとに、記者の現状やジャーナリズムのあるべき姿と問題点をまとめようという話になっている。授業でも使えるような内容にしたい。
2月28日(火曜日) 「事実確認」をなめるな「送金メール」問題についての民主党・永田議員の記者会見をテレビで見たが、どうしようもなくお粗末だなと思った。説明内容や謝罪の仕方が中途半端で論外なのは言うまでもないけど、そもそも事実確認に対する姿勢がまるでなっていない。いい加減すぎる。どうして疑問点や矛盾点の検証もしないで、持ち込まれた情報をそのまま信じてしまうかなあ。しかも国会で質問までするなんて。よくそんな怖いことができるな、というのが率直な感想だ。
情報提供やタレコミは、新聞社やテレビ局などの組織に寄せられるだけでなく記者個人にも届く。これは新聞記者だった時もフリーランスの今も変わらない。連絡手段は電話や郵便やメールなどさまざまで、いかにも怪しそうな情報から理路整然とした本当っぽいものまで玉石混交だが、記事にする場合はすべてきちんと事実関係を確認するのは基本中の基本だ。どんなに親しくて身元のしっかりした人の話でも、ほかの複数の関係者に確認し、疑問を感じれば別の角度から調べて裏付けを取る。そうして初めて「この話は真実と信じるに足る」と僕自身が納得することができるのだ。そうしないと怖くて原稿なんて書けない。事実誤認や勘違いということはだれにでもあるし、不確かな伝聞をそのまま無責任に耳打ちされることもある。だから「確認する」という作業が大切なのだ。「事実を伝える」ためには不可欠な基本動作である。