●石原都知事の対抗馬は?●株式会社立の学校と派遣教師●地球温暖化を心配しつつ採点●とりあえず答案評価●処分取り消し訴訟●「父親たちの星条旗」●公教育って●オリコン訴訟●花粉症の季節●不死屋のチョコかよっ!●無自覚な「ネット右翼」の分析●理想と信念●学校に元気がない●高校のミニ同窓会●浅野氏のハートに火はついた?●「民主党の候補者」って?●「君が代伴奏拒否」最高裁が上告棄却●●●ほか
2月1日(木曜日) 石原都知事の対抗馬は?夕方から都内。今春の都知事選で、石原慎太郎知事に勝てる対抗馬を出そうと準備している市民グループの事務局会議に参加させてもらう。「石原都政のひどさは我慢できない」と考える無党派の人たちが集まっているので、石原知事より少しでもマシならいい、6割の満足度でいいから勝てそうな人を、というのが参加者の共通の思いだ。これまでたくさんの名前が上がっているものの、本人の出馬意思や知名度などさまざまなポイントを考えると、候補者選びはかなり混迷している。共産党や民主党の政党候補者ともできるだけ調整をして、統一候補を模索しているというが、これはという決定打となる候補者はまだ見つかっていない。
石原知事の息子の海外出張と公費流用が問題になったり、スポーツ紙や週刊誌では有名人の名前が候補者として取り沙汰されたりしているが、都民の都知事選への関心はいま一つで、盛り上がりに欠るのは気になるところだ。市民運動をやっている人には人気があるが、一般に知られていないといったマニアックな候補者では、石原知事にはまず絶対に勝てない。宮崎県知事選ではそのまんま東氏が劇的な大勝利を収めた。東京の有権者を動かすようなインパクトのある候補者は、果たして出せるのだろうか。「多くの都民は都政の実態を知らない」と市民グループのメンバーは訴える。「石原知事に対抗して戦うことで都民は現状を知ることになる。都知事選を石原都政のひどさをアピールする場にしたい」と話すのだが…。
2月3日(土曜日) 株式会社立の学校と派遣教師午後から横浜市内。県立高校の先生たちの自主的な学習会に参加する。きょうのテーマは、「教育の規制緩和と市場経済化」「株式会社立の中学・高校」について。教育特区に設立されたのは大半が広域通信制高校だが、私学助成や優遇税制がないのでほとんどの学校は厳しい経営状況だという。そうなるとコストダウンのために、人件費を減らす方向に進むことが心配される。クラス担任以外は派遣や請け負いで、多数の短期雇用の教師が授業をするといった学校運営が法的に可能となったからだ。すでに私立高校ではそういう学校も存在している。そのうち、公立学校でも正規雇用の教師が少数派になる日がくるかもしれない。
そもそも一連の「教育の規制緩和と市場経済化」は、学校と教師のあり方、公教育というものをどのように考えるかの問題と言えるだろう。学校選択制と格差社会の問題、教師に対する管理統制や画一化の問題でもある。…とまあ、そんな報告や議論があって帰宅すると、朝日新聞の夕刊は偶然にも「頭打ち株式会社立の中高校/助成なく厳しい経営」という記事が1面トップだった。へえーと思いながら読む。きょうの報告通りの内容だったから復習になったが、しかし朝日の記事では、人件費抑制と教師の雇用形態の変化の問題には全く触れず、経営が厳しいという話に終始していた。突っ込みと掘り下げが甘過ぎると思う。
学習会が終わってから、参加者全員で炭火焼き鳥の店へ。いつものパターンである。新年交流会を兼ねた懇親会という名の飲み会。いろんな種類の焼き鳥が出てきたが、やっぱり焼き鳥はタレよりも塩が好きだなあ。ビールの後の焼酎が美味かった。
2月6日(火曜日) 地球温暖化を心配しつつ採点一年を通して最も寒いはずの2月だというのに、このところ春のような暖かさが続いているが、きょうも4月上旬並みの陽気だそうだ。エアコンをつけっぱなしだった1月に比べて、たぶん電気代はかなり少なくなるはずだから、個人的にはとても助かるんだけど、これってやっぱりなんか変だよなあ。明らかに異常気象だ。ここ数年は世界中で、まともとはとても言えない気候変動が起きているのが無気味だ。地球温暖化の影響について、警鐘を鳴らす番組や記事を目にすることが多いが、決して大袈裟でも何でもないということを実感する。
そんなことを考えながら、僕はと言えばひたすら試験答案の採点をするのだった。昨年提出させたレポートの採点も実はまだ残っていて、それに出席状況を加味して点数化し、今週中に200人分の成績評価(と単位認定)をしなければならないのだ。締め切りは目前に迫っている。う〜ん、かなりしんどい。
2月8日(木曜日) とりあえず答案評価定期試験の答案はなんとか全部読んで評価した。あとは残っているレポートをチェックして点数を付けないと。そんでもって、それらを一人ずつ履修者名簿に転記して、さらにその上で、出席点を加味した独自の計算式に当てはめて計算し、S・A・B・C・D(不可)にランク付けする。そして、その成績をマークシートの採点簿に清書するのだ。200人分ってまじで手間がかかります。
午後から東京・霞が関の司法記者クラブ。「日の丸・君が代」処分取り消し訴訟原告団の記者会見。卒業式や入学式などの国歌斉唱の際に起立やピアノ伴奏を拒んだとして、東京都教育委員会から戒告や減給の懲戒処分をされた都立高校の教職員ら173人が、東京都に対して処分の取り消しと1人当たり55万円の損害賠償を求める訴訟を、東京地裁に起こした。国旗国歌をめぐる教職員の処分の取り消しを求める訴訟では最大規模だ。原告らは処分を不服として東京都人事委員会に審査請求していたが、都人事委が教育長の証人尋問を拒否するなどしたため、「公正な審理は到底期待できない」として、人事委の裁決を待たずに提訴した。
原告の教職員は「懲戒処分は思想・良心の自由を侵害しており、教育基本法が禁止する『不当な支配』に当たる」などと主張し、処分取り消しを求めている。原告弁護団は、「官公庁や企業だけでなく家庭にも日常的に日の丸・君が代が強制されようとしている。学校の中だけの問題ではない。広く国民全体にかかわる精神の自由の問題だ」と訴えるとともに、「国家の意思・決定がすべての教職員と教育現場を縛り、教育内容を決めることができるというのは、戦前の発想と全く同じだ。憲法や教育基本法の枠組みを超えた法令・通達や職務命令はあり得ないし、抗力はない」と話している。
学校での「日の丸・君が代」については、都立高校の教職員ら約400人が起立や斉唱の義務のないことの確認を求めた訴訟で、東京地裁(難波孝一裁判長)が昨年9月、「懲戒処分をしてまで起立や斉唱、ピアノ伴奏をさせるのは、思想・良心の自由を侵害する。都教委の通達や職務命令は違法。いかなる処分もしてはならない」とする判決(9月21日付「身辺雑記」参照)を言い渡している。
2月10日(土曜日) 「父親たちの星条旗」午後から東京・有楽町マリオンの朝日ホール。知り合いの女性に誘われて、キネマ旬報ベスト・テン「第1位映画観賞会と表彰式」へ。いろいろ観たかったのだけど時間の都合で、外国映画第1位の「父親たちの星条旗」(クリント・イーストウッド監督)だけを観る。硫黄島での日米の激戦を舞台にして、戦意高揚のために「戦場での英雄」がでっち上げられていく様がリアルに描かれる。そんな薄っぺらな「ニセモノの愛国心」のために、大勢の若者の生命が奪われていく無惨さと愚かさを、イーストウッド監督は淡々とフィルムに刻んでいくのだった。おいしい思いをして大儲けするのは、いつの時代も裕福な支配層の連中だ。そしてボロ雑巾のように扱われて使い捨てされるのは、いつの時代でも最前線の弱い立場の人間たちだ。会場はぎっしり満員。僕は立ち見だった。エンドロールが終わって幕が降りると場内から拍手が起きた。
夕方、東京・中野へ。教育の自由と「日の丸・君が代・愛国心」を考える市民集会を取材する。保護者や生徒、教員、元校長らがそれぞれの立場から、閉塞感でいっぱいの学校への思いを発言。小森陽一さん(東大教授)と鈴木邦男さん(新右翼・一水会顧問)の対談は面白かった。鈴木さんは「強制されるのは生徒も教師も嫌だろうが、嫌々ながら歌って起立して、日の丸や君が代にしてもかわいそうだ。写真を撮って声量測定までするところがあるというが、起立や斉唱をチェックしている奴が歌っていない、それこそ一番の非国民ではないか。形式だけにこだわっているのは失礼だろう」と述べて強制や義務化を真正面から批判し、「愛国者と言ってる奴は信用できない」と斬って捨てた。愛国心教育についても、「学生時代から右翼運動を40年続けてきて、君が代を4千回以上歌っている自分でも、愛国心を教えることなんてできない。愛国心を学校でどのように教えようというのか」と疑問視した。「みんな同じ考えでなくてもいい。保守派や右翼といってもいろいろ。自分たちだけが正しいと思わず、いろいろな考えを聞くべきだ」という指摘にはナルホドなと思った。
休憩時間に会場の書籍販売コーナーで、僕の新刊「教育の自由はどこへ」を販売する。持参した梱包は完売。感謝。
【おことわり】2月6日付から2月10日付までの「身辺雑記」をまとめて更新しました。
2月12日(月曜日) 公教育って午後から都内。都立学校の保護者の集まりを取材。今春から都立高校で導入される「奉仕」の時間に対する疑問や不安、「中高一貫校」への不信感、PTA活動の問題点、どんどん窮屈になっていく学校への戸惑い…などが話題になる。家庭だけでなく学校間でも生じている格差の問題をベースに、そもそも公教育はどうあるべきなのか、公教育に対する認識の違いについても意見が交わされた。
2月13日(火曜日) オリコン訴訟午後から東京・霞が関の東京地裁。前日から徹夜で、その前の日もほとんど寝ていない状態なので、眠くて眠くてたまらない。
音楽ヒットチャート集計で有名な「オリコン」が、雑誌取材に対して集計データを疑問視するコメントを述べた元朝日新聞記者のフリージャーナリストに、名誉を傷つけられたとして5千万円の損害賠償を求める訴訟を起こし、それに対し、ジャーナリスト側も「オリコンの提訴は訴訟権の乱用だ」として反訴した裁判を傍聴取材する。「オリコン」は雑誌の編集・出版元である出版社を訴えず、電話取材に答えてコメントが掲載されたジャーナリスト個人のみを高額訴訟の対象としている。消費者金融の武富士が、同社の批判記事を書いたフリージャーナリスト個人を訴えたケースと同じだ。このためメディア関係者の間では、「批判的な取材・表現活動」を封じる「脅迫」にほかならない、などと問題になっている。
この日の第1回口頭弁論でジャーナリスト側は、「オリコンの訴えは損害賠償請求の名を借りた言論妨害であり、自分に不利と考える言論を封じることを目的としている。記者個人に高額の損害賠償を求めることによって、経済的に抹殺し、記者を委縮・疲弊させることになるだろう。憲法で保障された報道・言論の自由を侵害する行為で、訴えそのものが不法だ」などと意見陳述した。ジャーナリスト側の弁護団は閉廷後、取材に集まった記者たち(大半はフリーランス)に対して、「記者を組織から切り離して個人を訴えることが可能になれば、委縮効果ははかりしれない。新聞社やテレビ局など大手マスコミの社員記者のほか、インターネットで企業批判をする草の根ジャーナリストも標的にされることになる」と訴えた。
日比谷公園内の喫茶店で、法廷に集まったフリー記者や編集者らと雑談。ほんの少しのつもりが2時間以上になってしまう。四谷の出版社に寄って、パソコンを借りて資料集めや電話取材など。その後、編集者と代々木の居酒屋へ。午前零時過ぎ帰宅。だからものすごく眠いんだって。
2月14日(水曜日) 花粉症の季節先週から鼻がむずむずして、目がしょぼしょぼする。そう、花粉症の症状である。我慢できなくなってきたので、今週から鼻炎の薬を飲み始めた。とはいっても薬を飲むと猛烈な睡魔が襲ってくるので、規定の分量の半分にセーブして、なるべく飲まないようにはしているのだが、薬なしではかなり厳しい状態だ。やれやれ、まったく憂鬱な季節だよなあ。
2月15日(木曜日) ウェブ出稿一昨日のオリコン訴訟の関連取材がようやく終わって、雑感原稿を出稿。初めてのウェブ出稿なので勝手がよく分からないけど、なんとか編集部には届いたようだ。
【おことわり】2月12日付から2月15日付までの「身辺雑記」をまとめて更新しました。
2月16日(金曜日) 不死屋のチョコかよっ!大阪のレイザルさん(仮名)から、2日遅れのバレンタインデーのチョコレートが届いた。不死屋のチョコとミルキーでした。どうもありがとうございました…って、殺す気かよっ!(笑)
近所のコンビニで見つけたそうだが、つーか、まだ不◯家の製品を売ってるところあるんやね。別の意味で「ドキドキ」しましたやん。でもって、これはどう扱えばいいんでっしゃろ?
◯二家の対応は消費者を愚弄してると思うので、同社の製品は一切、口にしないようにというのが、死んだばあちゃんの遺言なんですわ(←うそです)。不二◯レストランも20年前に1回入ったきりで、おそろしく不味かったから、その後は2度と行かなかったりするんだけど(これはホント)。
確かにこの時期に、不◯家のお菓子は「レアもの」ではあるけれど、食べ物なので記念品みたいにしてずっと置いておくわけにもいかんしなあ。この「身辺雑記」の読者で「ほしい!」という方にでも、読者プレゼントとして放出しますかね。で、応募がないようであれば、賞味期限(!)が過ぎた時点で処分しちゃうとか。ちなみにチョコもミルキーも、どちらもまだ賞味期限内です。
「処分するなら引き取りたい!」(笑)という方は、ご希望の商品(チョコかミルキー)を明記して、
ookaminamiあっとまーくyahoo.co.jp
まで、ご連絡ください。応募者多数の場合は抽選になります(んなことになるわけないじゃん)。
2月19日(月曜日) 無自覚な「ネット右翼」の分析いわゆる「ネット右翼」と呼ばれている連中の特徴は、詭弁を平然と繰り返すこと、事実をねじ曲げて論点をそらすこと、ものごとの本質や背景や意味というものに対する認識がない(あるいは無知である)こと──の3点に尽きると言っていいだろう。そして、なによりも決定的なのは、自分自身のこうした言動や思考パターンについての自覚がまるでないということである。
別の言い方をすれば、彼らには「想像力」が見事なまでに欠けているとも言える。自分自身は、支配され、虐げられ、差別され、利用され、迫害され、殺されたりする側では決してないと、彼らは信じ込んでいる。だからこそ、国家や政府(公権力)の代弁者であるかのように振る舞うし、国家の意思や施策に異議を唱える言動については、敵意をむき出しにして排除しようとするのだ。本当に自分自身が「支配する側」にいるのであるのなら、その権益や特権を守るためにあらゆる手段を弄するというのも分からないでもない。むしろそれも論理的には当然だろうと思う。しかし、そんな根拠や裏付けはどこにもないのにもかかわらず、なぜか自分自身は「支配する側」にいると思い込んでいるのがなんとも哀れである。
想像力が欠如しているからこそ、歴史認識についても無知なばかりか、他者の痛みや、ものごとの本質や背景や意味というものを理解することができないのだ。さらには自分自身がひどい目に遭わされていたとしても、想像力や自覚がないからこそ、むしろ管理や統制をする(される)ことを好むのだろう。そうして無意識のうちに(あるいは意識して)、差別的な言動を平気で繰り返すのである。まあ、いつの時代でもどんな国家体制の下にあったとしても、「いいように利用される人たち」とはそういうものなのだろうけど。
それでは、想像力を働かせて感性を磨くためには、何が必要なのだろうか。それは、さまざまな視点から深く考えることだ。ジャーナリズムと教育はそのためにあると言っていい。考えるための材料をたくさん提供して、都合のいいように操られたりしないような批判精神をはぐくむのが、ジャーナリズムと教育の大切な役目ではないかと思う。もちろん一方的な情報を垂れ流すことによって、これらが逆に作用する力があるのは歴史が証明している事実なわけで、ジャーナリズムと教育の二つを押さえれば、情報操作や世論誘導は難なく進む。だからこそ権力者は例外なくジャーナリズムと教育を取り込もうとするし、支配しようとする。すべての記者と教師は、常にそういう自覚と責任と危機意識を持って仕事をしなければならない。
ちなみにここで言う「ネット右翼」とは、組織化されているとかいないに関係なく、右翼的・国粋主義的・復古主義的・差別的な考え方に基づく発言を、インターネットの掲示板やブログなどに書き込む連中の総称である。本人たちには、自分が「ネット右翼」あるいは「右翼」と称される政治的思想の持ち主であるという自覚はないらしい。また、そのように呼ばれることを極度に嫌う傾向があるようだ。まあ、想像力が欠けているんだから仕方ないよね。
2月20日(火曜日) 理想と信念TBS系のテレビドラマ「華麗なる一族」の中に、「あなたには理想と信念がない」というセリフがあった。銀行の利益と存続を目的として権謀術数をめぐらすだけで、銀行家として企業を育てようとする理念も志もない阪神銀行トップの父親に対して、次男の銀平が投げかける言葉である。「理想と信念」あるいは「理念と志」。これは、僕も最も大切にしたいと思っている言葉の一つだ。ともすれば大きく立ちふさがる現実の壁を前に妥協を重ねて、さらにはいろんな理屈や言い訳を並べて、思い描いていた理想や志をなかったことにしてしまう。それが人間の弱さでもあるのだが、しかし本来のあるべき姿や理想を信じて信念に基づいて行動しなければ、ただのロボットや歯車の一つで終わってしまうだろう。
人としての生き方の問題でもあると思うのだが、理想や信念や理念や志といったものは、高く掲げ続けていることにこそ意味があるのではないだろうか。最初からそんなものはないという人間には何も言うべき言葉は持たないが、少しでも理想や信念や理念や志を抱いたことのある人は、「ありえないような理想論ばかり言ってるんじゃねーよ」などとニヒリズムに逃げたりしないで、たまにはそういう原点とも言える気持ちを思い出してほしいと思う。
きのう付の「身辺雑記」で「ネット右翼の分析」を書いていて、そう言えば彼らは「理想や理念」といったものについても、異様なまでの嫌悪感を示すよなあというのを思い出したので、ちょっと雑感風にまとめてみました(笑)。ちなみに大学の授業でこういう話をすると、学生の反応は結構いいんだよね。
2月21日(水曜日) 大量花粉?花粉の飛散量が多いようで、目が痒くて、くしゃみも連発。たまらず鼻炎の薬を服用するが、眠くて仕方がない。
2月22日(木曜日) 学校に元気がない一昨日から取材のための「事前仕込み」の電話を、あちこちにかけている。仕込みがうまくいけばその後の取材も大体スムーズに進行するわけで、成果はまあまあなんだけど、電話しながら教育現場に沈滞ムードが漂っているのを実感する。外野席から見当外れに叩かれて、教育行政から無意味に締め付けられて、疲れきって無気力になっているのだろう。先生たちだけでなく生徒も保護者も元気がない。こういう空気は初めて感じる。安倍政権のやろうとしている「教育改革」の将来像(結末)が見えてくるようだ。ピントのずれまくった「教育再生」会議の議論を聞いていると、日本はもうダメかもしれないなあと絶望的に思えてくる。
2月24日(土曜日) 高校のミニ同窓会夕方から東京・新宿。和食ダイニングの店で高校時代の友達とミニ同窓会。9人(うち女子5人=この歳で女子って言うのもなんだけど=笑)が集まった。生徒会や部活関係のグループで、1年下の後輩が2人と1年上の先輩1人が参加。あとは同期生である。それにしてもどいつもこいつも、風貌が高校の時とあまり変わっていないのが驚きだ。中学時代の友達の中には、思わず「あんただれ?」と言ってしまうくらい、体型も髪の毛も大変身を遂げたのがゴロゴロいるというのに、それに比べたらかなり画期的な状況だろう。高校生の息子から定期券を借りて来たという「母親」がいて、確かにそれで違和感がないところがスゴイと思った。みんなからは「お前が一番変わってないよ」と突っ込まれたけど。
近況報告を兼ねて、僕の新刊「教育の自由はどこへ」のチラシを配布。「本屋さんになかったら注文してね」とアピールする。なんといっても僕たちは都立高校の卒業生なわけで、単行本には都立高校の現状をたっぷり取材したルポも収録しているんだし、みんなやさしいからたぶん買って読んでくれるだろう。よろしくね(笑)。話題が教育から都知事にシフトしたところで、今春の都知事選について、「前宮城県知事の浅野史郎氏が無党派候補として出る可能性がかなり高いよ」と最新の裏情報を流す。「へーっ、そうなんだ」「浅野氏は断ったんじゃないの?」「黒川紀章が出るんだよね」。都知事選に関心があるんだかないんだか、イマイチよく分からない反応だなあ。
2次会はカラオケへ。同世代の集まりだから、知らない曲はまず出てこない。定番の「青春ソング」は安心して歌えていいよね。だれが曲を入れたのか知らないけど、「宇宙戦艦ヤマト」のテーマソングが流れてきたら、みんなで大合唱しちゃったよ。あっという間に時間が過ぎる。午前1時半帰宅。
2月25日(日曜日) 浅野氏のハートに火はついた?夕方から東京・八重洲のホテル。前宮城県知事の浅野史郎氏に都知事選出馬を求める市民グループの集会を取材する。約300席の会場は満席。各局のテレビカメラ10台以上がずらりと並び、政治部や社会部の報道記者も多数詰めかけるなど、注目度の高さを物語っていた。浅野氏への出馬要請は、石原都政に疑問を感じる都民の声を背景に、草の根の市民グループが勝手連的に行っている活動だ。地方分権や情報公開、障害者福祉に力を注いできた浅野氏こそ、新しい都知事に最適任だとして、石原都政に終止符を打つための無党派の統一候補としての擁立を目指している。浅野氏は民主党からの出馬要請を断っているが、市民グループの熱いラブコールに対しては、必ずしも拒否の姿勢は見せていない。このため市民グループは「脈あり」と判断して、この日の市民集会を開いた。
「浅野史郎さんのハートに火をつける会」と題する集会に、浅野氏は開会から30分ほどして顔を見せ、立候補を求める大勢の市民の訴えにじっと耳を傾けた。「東京の教育現場には自由がありません」「大型再開発による環境破壊を止めてほしい」「東京から地方自治を変えましょう」といったアピールが続き、市民の熱い思いを伝えるバレンタインデーのチョコレートが手渡された。
浅野氏は「びっくりして感激しました。出ないのは礼儀にかなわないし、ちょっと話を聞いてみたいと思ったので来ましたが、こんな会とは思わなかった」と挨拶。「いつもよくしゃべる私と違って(驚きと感激で)言葉が出ません」とだけ述べて、出馬の意思については明言しなかったが、市民グループの役員らは「集会に出席してくれたということは、意思がまったくないわけではないと思う。大いに期待できる」と話した。また、呼びかけ人の一人で法政大学教授の五十嵐敬喜弁護士は「メラメラと燃え盛ったかどうかは分からないが、ハートに火はついたのではないか」と語り、浅野氏出馬に自信をのぞかせた。
◇◇ どんな候補者が出てくるにせよ、党派や組織に縛られない一人ひとりの市民が、「この人に出てもらいたい」と思える人物を勝手に担ぐといった盛り上がりがなければ、都知事選で石原慎太郎氏には勝てないだろうなと思う。そもそも国民主権や民主主義とはそういうものであるはず(べき)なんだけど。そういう意味でも、浅野氏をめぐる一連の動きはなかなか興味深い。
2月26日(月曜日) 「民主党の候補者」って?都知事選をめぐる一連の報道の仕方に違和感がある。前宮城県知事の浅野史郎氏に対する出馬要請の動きにしても、テレビや新聞はどうも政党の枠組みでしかとらえていないし、伝えてもいないようだ。例えば、「民主党の都知事選の候補者選びが難航」とか「民主党は浅野氏の動向を注視している」といった具合である。
しかし、この間ずっと熱烈なラブコールを送って、浅野氏を都知事選に立候補する気にさせようと「勝手に」動いているのは、特定政党(民主党)ではなく、「石原都政に終止符を打ちたい」という思いだけで集まった無党派の草の根の市民グループだ。浅野氏が市民グループの求めに応じるかどうかは分からないけれども、もし浅野氏が出馬の意思を固めたとしても、それは「民主党の候補者」ということでは決してないだろう。石原慎太郎氏に代わる都知事を選択しようという時に、「政党の候補者」や「政党の推薦」などはむしろ邪魔なだけではないかとさえ思える。
というか、そもそも民主党が都知事選の候補者を立てなくても別にいいじゃないか。宮崎県知事選でも和歌山県知事選でも、民主党は候補者を立てなかった(立てる気がなかった?)のだから。何を今さらという気がする。面子と辻褄を合わせるためだけに候補者を立てようとしているように見えて、ものすごくみっともない。本気で都知事を代えたいと考えているとは、とても思えない。
午後から東京・水道橋の東京都教職員研修センター。初任者教諭の育成に関する研究発表を聞く。疑問に感じること多数あり。1時間ほどで切り上げて大急ぎで移動し、最高裁判所へ。都内の市立小学校の入学式で、「君が代」のピアノ伴奏をしなかったとして戒告処分された音楽専科の女性教諭が、東京都教育委員会に処分の取り消しを求めた訴訟(君が代伴奏拒否訴訟=ピアノ裁判)の上告審判決言い渡しを取材する。
◇◇ 最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は、「君が代のピアノ伴奏を命じた校長の職務命令は、思想・良心の自由を定めた憲法19条に反しない」として、一審・二審の判決を支持し、教諭の上告を棄却した。「日の丸・君が代」をめぐって、最高裁が憲法判断をしたのは初めて。判決は5人の裁判官のうち4人の多数意見。藤田宙靖(ときやす)裁判官は、「公的儀式で斉唱への協力を強制することが、当人の信念・信条そのものに対する直接的抑圧となることは明白である。思想・良心の自由とその制限要因としての公共の福祉・公共の利益について、より詳細かつ具体的検討がなされるべきである」と反対意見を述べた。
女性教諭は1999年4月、東京都日野市立小学校の入学式で校長から「君が代」のピアノ伴奏を命じられ、職務命令を拒否したとして戒告処分を受けた。校長はあらかじめ用意してあったテープによる伴奏し、入学式は問題なく進行した。
卒業式や入学式での「日の丸・君が代」をめぐっては、都立高校の教職員ら約400人が起立や斉唱の義務のないことの確認を求めた訴訟で、東京地裁(難波孝一裁判長)が昨年9月、「懲戒処分をしてまで起立や斉唱、ピアノ伴奏をさせるのは、思想・良心の自由を侵害する。都教委の通達や職務命令は違法。いかなる処分もしてはならない」とする判決(9月21日付「身辺雑記」参照)を言い渡している。被告の東京都は控訴しており、6月には東京高裁で控訴審の第1回弁論が開かれる予定だ。横浜地裁でも神奈川県立学校の教諭らが提訴した同様の訴訟の審理が続いているほか、起立や伴奏を拒んで処分された教職員が処分の取り消しを求めて訴える(2月9日付「身辺雑記」参照)など、多くの裁判が起こされている。今回の最高裁判決は、国旗・国歌法や都教委通達が出される前の「ピアノ伴奏」に限定した判断だが、これら下級審で審理中の裁判に少なからず影響を与えることになりそうだ。
第三小法廷は、「君が代」のピアノ伴奏を求める職務命令について、(1)「君が代は過去の日本のアジア侵略と結びついている」「君が代が果たしてきた役割などの歴史的事実を教えず、子どもの思想・良心の自由を保障する措置を取らないまま君が代を歌わせるという人権侵害に加担することはできない」とする女性教諭の「歴史観・世界観・社会生活上の信念」を否定するものとは認められない、(2)「君が代」のピアノ伴奏は音楽専科教諭などに通常想定され期待されるものであって、特定の思想を持つことを強制し禁止するものではなく、特定の思想の有無の告白を強要するものでもなく、児童に一方的な思想や理念を教え込むことを強制すると見ることもできない、(3)公務員は全体の奉仕者として公共の利益のために勤務しなければならず、法令や上司の命令に忠実に従わなければならない立場にあり、ピアノ伴奏の国歌斉唱は学習指導要領などの趣旨にかなう──などと述べた。
一方、藤田裁判官は、「君が代に対する評価に関し国民の中に大きな分かれが現に存在する以上、公的儀式で斉唱を強制すること自体に強く反対する考え方もあり得る。ピアノ伴奏を命じる職務命令と思想・良心の自由との関係に慎重な検討が加えられるべきだ」と指摘するとともに、「公務員の基本的人権の制限」について、「公共の利益の具体的な内容は何かが問われなければならず、思想・良心の自由の保護との間で慎重な考慮がなされなければならない。多数意見の思考は、あまりにも観念的・抽象的に過ぎる」と述べて、「原判決を破棄し、差し戻す必要がある」と主張した。
また、那須裁判長は補足意見で、「学校の儀式的行事において信念に反して君が代の伴奏を強制されるのは、心理的な矛盾・葛藤を引き起こし伴奏者に精神的苦痛を与えることは容易に理解できる」としながら、「思想・良心の自由を理由にして職務命令を拒否することを許していては、職場の秩序が維持できない」と述べ、「校長の裁量権と秩序維持」を強調した。
◇◇ 最高裁第三小法廷の一般傍聴席47に対して、傍聴整理券は67枚が配布された。相変わらず最高裁の姿勢は権威主義的だった。さんざん傍聴者を待たせた挙げ句、判決言い渡しは「本件上告を棄却する」などとわずか10秒。判決理由も述べずに、5人の裁判官は無表情のまま足早に引き上げていった。法廷内には各社のテレビカメラがずらりと並んだが、法廷の外にも報道陣が多数詰めかけた。女性教諭の同僚や支援者らによって「不当判決を許さない」の垂れ幕が大きく掲げられる。
二審判決を見直すための弁論が最高裁で一度も開かれなかったことから、教諭側の上告棄却という結論は分かっていたが、問題は判決理由の中味だ。約1時間後の記者会見までのわずかな時間に、弁護団と女性教諭らは大急ぎで判決理由を読んで内容を検討しなければならない。「一緒に行きますか」と声をかけていただいたので、僕も弁護士の車に同乗させてもらって東京・市ヶ谷の弁護士事務所へ。判決検討会の場に同席した記者は僕だけだった。
判決理由の多数意見は空疎でとんでもない内容だったが、それに対して藤田宙靖裁判官の反対意見は、実に誠実で論理的に書かれていた。女性教諭も「私の気持ちをしっかり受け止めてくれている」と、感激した面持ちで食い入るように読み進める。当初の憤まんたる表情が少しずつ和らいでいくのが見て取れた。「この反対意見を引き出したのは大きな成果です。会見ではそこのところを強調しましょう」と主任弁護人の吉峯啓晴弁護士。「多数意見と藤田裁判官の反対意見を比べて読めば、どちらが説得力があるか一目瞭然ですね」と若手のエース高橋拓也弁護士もほっとしたように同調する。その間、記者会見で配る教諭声明と弁護団声明の文言を一部差し換えて、事務所のスタッフが印刷作業に奔走した。
女性教諭や弁護士と一緒に虎ノ門の記者会見場へ。狭い室内は既に記者と支援者らとカメラの放列で立すいの余地もない。女性教諭は「人の心を束ねるために歌わされる君が代を私は弾くことができませんでした。体調を崩して退職も考えましたが、子どもたちと楽しい音楽の授業をしたい、教育や音楽を政治の具にさせてはならないと、思想・良心の自由を問う裁判に踏み切りました。卒業式・入学式が目前に迫ったこの時期に、思想・良心の自由を認めない判決が出されたことに政治的意図を感じ、大きな憤りと司法への不信を隠せません」と述べる一方、藤田裁判官の反対意見の一部を読み上げて、「最高裁に上告してよかった。藤田裁判官がこんな意見を書いてくださったからです」と涙声で語った。
吉峯弁護士は「多数意見は論理的でなく、なぜそうなのかという納得のいく理由や説明が全く述べられていない。事実認定の部分についても意図的としか思えない事実誤認がいくつもある。一方、藤田裁判官の反対意見は具体的できわめて論理的だ。最高裁にこういう裁判官がいるというのは、下級審の心ある裁判官に大きな励ましを与えたと思う」と最高裁判決を分析した。全く同感。
要するに多数意見には、「組織の秩序維持のために校長が決めたことには黙って従え。秩序維持のためには思想・良心の自由は制約される」という乱暴な結論だけしか書かれていない。けれどもそもそも、全体の奉仕者である公務員ならば、どんな職務命令にも従わなければならないのか。理不尽で不当な命令にも従えというのは論理の飛躍ではないか。藤田裁判官が指摘しているように、「公共の利益の具体的な内容は何か」こそが問題にされるべきなのである。「君が代」のピアノ伴奏は必要不可欠な職務であり、テープ演奏では「子どもたちの学習意欲を高める格好の機会」や「子どもたちが修得すべき教育上の諸利益」を害することになる……などとは到底思えない。ところが多数意見や補足意見には、そんな乱暴で杜撰なことが堂々と書かれている。
記者会見と報告集会の取材を終えて、東京・四谷の別の弁護士事務所へ。「日の丸・君が代」強制に反対する教員らが、起立や斉唱の義務のないことの確認を求めた訴訟(予防訴訟)の会議。きょうの最高裁判決の報告など。会議が終わってから、最高裁判決の影響などについて弁護士から1時間ほど話を聞く。弁護団事務局長の加藤文也弁護士によると、「ピアノ裁判は、校長の職務命令と職務命令違反による処分が、憲法19条の思想・良心の自由に反しているかどうかが問われた。予防訴訟では、学習指導要領の国旗国歌条項を根拠に出された東京都教育委員会の通達と、それに基づいて出される校長の職務命令の効力が争われており、憲法19条のほかに、学習指導要領の法的拘束力(旭川学力テスト事件最高裁大法廷判決=旭川学テ判決=1976年)と教育基本法10条の『教育への不当な支配』が論じられている。昨年9月の東京地裁判決(難波判決)でもその点について言及されている。そういう意味では、今回の最高裁判決の影響はさほどないとも考えられる」ということだった。なるほど。
きょうはかなり東奔西走したなあ。ああ疲れた。午前零時半すぎ帰宅。なんとか「デスノート」の放送には間に合う。取材メモ代わりにあれこれ書いていたら、なんだかえらく長文の「身辺雑記」になっちゃったけど、まあ、いっか。
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