●朝日の紙面改革は疑問だ●ネガティブキャンペーンその2●フリーランスの交流●花粉と鼻毛の微妙な関係●「勝てる候補」動き活発に●説明責任●都知事選を振り返る●月刊「創」5月号にルポ●やっぱり大教室だった●国民投票法案が衆院委で可決●説明責任その2●「帰ってきた時効警察」●浅野氏の選挙分析に共感●マジでウザい「迷惑メール」●そろそろ花粉症も終結?●長崎市長銃撃に鈍感な安倍首相●PASMOが届いた●関内で阪神ショップ発見●初めてのパスモ●安倍首相には言われたくない●早朝の取材ヘリ●墓穴を掘る安倍首相●新聞ライブラリー●「セカンド」4カ月ぶり更新●●●ほか
4月1日(日曜日) 朝日の紙面改革は疑問だ朝日新聞が、きょうから新しい紙面をスタートさせた。1面の題字そのものは現状維持だが、題字を置くスペースを横に約2倍広げて、その部分にその日のニュース・インデックスを並べている。2面と3面には「きょうとあすを知って考える」ための特集記事などを掲載し、さらに3面の社説のレイアウトを変更した…とまあ、こんな感じの紙面刷新だ。しかし、担当の整理記者がまだ新しい紙面のレイアウトに慣れていないのかもしれないが、率直な感想を言えば非常に読みにくい。特に1面のニュース・インデックスは、以前の狭いスペースの時の方がむしろ分かりやすかった。2・3面にしても、「きょうがわかる」「あしたを考える」という柱(看板)を掲げているだけで、「時時刻刻」などの記事はそのままだ。紙面が狭くなっただけではないか。社説のレイアウトにしても、変える必要があったのだろうか。大いに疑問だ。
なんだか、無駄なところに精いっぱい力を注いでいる気がする。これじゃあ取材記者も整理記者も、会社の幹部連中の思いつきに振り回されて疲弊するだけだと思うよ。士気がますます低下する様子が目に浮かぶようだ。もっと自由気ままに時間を使わせて、好きなように取材させてあげればいいのに。そういう職場環境づくりにこそ、たくさんの力とお金を使うべきではないのか。そもそも新聞記者っていうのは「放し飼い」にされてこそ、面白い原稿や掘り下げた原稿が書けると思うんだけどなあ。
4月2日(月曜日) ネガティブキャンペーンその2夕方から、東京・四谷の弁護士事務所へ。「日の丸・君が代」強制に反対する教員や市民の会議。3月30日付の「身辺雑記」でも少し触れたが、共産党が推薦している吉田万三候補(元足立区長)と民主党が実質的に支援している浅野史郎候補(前宮城県知事)の対立というか、支持者(支援者)の分裂問題について、どうにかならないものかという提案をめぐって1時間ほど議論になる。
どちらの候補も、「石原都政・東京都教育委員会の強権的なやり方」や「日の丸・君が代の強制」には反対の姿勢を明確にし、「日の丸・君が代」強制を違憲と断じた東京地裁判決に対する控訴の取り下げについても明言している。そうした部分では一致しているにもかかわらず、それぞれの支援者同士が反目し合って非難の応酬に陥っている姿に、心を傷めている人たちもまたたくさんいる。だからこそこんな状況を心配して、「このままでは石原候補が喜ぶだけだ。なんとかならないものか」という提案が出てきたのだ。けれども、「この会議にはさまざまな立場の人が集まっているので、都知事戦については議論すべきでない」といった一般論に加えて、「そもそもなぜ浅野候補なのか、浅野候補と吉田候補を同列に論じること自体がおかしい」という吉田候補支持者からの強烈な反論もあって、「この会議としては都知事戦については何も言わないし何も行動しない」という結論になったのだった。まあ、そうなるだろうなと予想していたけど、やっぱりそういう結論になったか。
都知事戦の結果がどうなるにせよ、最も恐れるのは、両候補の支持者がお互いに不信感を募らせ、さらにそれだけでなく、相手に対して嫌悪感や憎悪の気持ちを抱いて分裂・分断してしまうことだろう。だから3月30日付の「身辺雑記」でも僕は「ネガティブキャンペーンは止めた方がいい」と書いたし、きょうの会議でもそのような趣旨の発言をしたのだが、対立と亀裂の根っこは想像以上にかなり深く複雑なようで、もうどうにもならない段階にまできているようだった。あーあ、まったく無駄なところに力を使ってるよなあと心から残念に思う。朝日新聞の紙面改革と同じだね(苦笑)。
【おことわり】「身辺雑記」の更新でミスがあったので、修正しました。4月1日付でアップした「沖縄戦住民自決に検定意見」は3月31日付とし、新しく4月1日付として「朝日の紙面改革は疑問だ」をアップしました。ちなみに、この修正はエイプリルフールの行事とは全く関係ありません。
4月3日(火曜日) フリーランスの交流夕方から東京・新宿。フリーランスの記者やカメラマン十数人が集まって飲み会。インターネット新聞の編集者にお招きをいただいた。中堅やベテランが中心だった。フリーで活動している記者同士が日ごろ顔を合わせることはあまりないので、このような交流の機会をつくってくれるのはありがたい。それぞれ得意とする分野が異なる人たちと情報交換できるし、いろいろ雑談する中で刺激も受けて、取材や企画のヒントなども得られる。編集者からは「こんな原稿だとか、あんな原稿も書いてよ」と尻を叩かれた。初対面の人が多かったが、4時間近く楽しい時間を過ごさせてもらった。
4月4日(水曜日) 花粉と鼻毛の微妙な関係真夏のような暑さになったり、真冬並みに寒くなったりと、このところの目まぐるしい気温の変化は、どんな格好で外出すればいいのか判断に迷ってしまうので困る。きょうは都内には出かけなかったのだが、都心では19年ぶりに「4月のみぞれ」が観測されたとか。ちなみに横浜では降らなかったけど(たぶん)。
それはともかく、気温の激変よりももっと困るのが、だらだらといつまでも続く花粉の飛散である。もうそろそろ花粉症も落ち着いてくれよと言いたい。そして微妙に悩むのが、実は「鼻毛の処理」だ(爆笑)。これは僕だけじゃないと思うんだけれど、この季節になると鼻毛の成長がものすごく早くなる。大気汚染がひどい地域では、鼻毛の伸びる速度が早いと聞いたことがあるが、たぶんそれと同じで、花粉などの遺物の侵入に敏感に反応して、伸びるのが早くなるのだろう。だから、少しでも花粉を体内に入れないためのフィルターの役割を果たしてくれていると思えば、カットしたいけどなるべく切らない方がいいのだろうか、などとしばし思案することになるのだ。みなさんはどうしていますか?
4月5日(木曜日) 「勝てる候補」動き活発に午後から横浜市内。しばらく手付かずで、原稿の締め切りははるか彼方に過ぎてしまっている単行本について、担当編集者と打ち合わせをする。というか原稿の催促をされた。可及的すみやかに前向きに善処して、真剣に鋭意努力したいと考えています(汗)。
◇◇ 東京都知事選挙もいよいよ佳境に入ってきたが、ここにきて「石原都政はもう勘弁してほしい」と考える人たちの動きが活発になってきた。あっちこっちで開かれている「勝手連」の集会はどこも大いに盛り上がり、街頭で配るビラも足りなくなるほど反応はいいという。「石原都知事に勝てる可能性がある候補者」の一人に票が集中し始めた、との情報もある。だとすれば、ようやくこの期に及んで、「どの候補に投票すれば石原都政にストップがかけられるか」「よりましな選択をするにはどうすればいいか」を、有権者一人一人が真剣に考え始めたということかもしれない。
このほか、「石原都政の転換を訴えるメール」の転送やブログへの転載を呼びかける勝手連の「落選運動」も始まった。このチェーンメールは、「もしかしたら石原知事を落選させることができるかもしれない情勢です。無党派の人々が動けば結果に結びつきます。一人が5人に転送してくれれば、9ステップ目で東京の人口を超えます! このメールの転送の輪が広がり、そして一人一人が投票所でなすべきことをすれば、石原を落選させることができます」(抜粋要約)などと訴えかけ、次々に詳細な関連情報を加えてバージョンアップしながら、ネットの世界を駆け巡っている。
ついでに、読売系の「スポーツ報知」までが石原都知事をたしなめ、揶揄するような記事を掲載しているのは注目だ。なかなか面白いので紹介しておく。
(ここから引用) <慎太郎知事 ヤジにブチッ「うるさい、黙ってろ!」…8日都知事選>
石原慎太郎都知事(74)が4日、ついに爆発した。再開発計画を巡って物議を醸している下北沢の駅前で街頭に立ったが、開発反対派からの猛烈なヤジにヒートアップ。当初は柄にもなく?謙虚な姿勢を見せていたが、我慢も限界だったようだ。
下北沢の駅前で「安心と安全」をテーマに「ここも救急車や消防車が入れるような開発をしないといけません」と再開発の必要を訴えていた石原氏。最初はヤジにも「黙って聞きなさいよ」といなしていたが、聴衆から「住民感情を排除している」などの声を浴びてついにキレた。
「うるさい、黙ってろ!」と一喝。「(再開発について)いろんな意見を出してもらいたい。それを区長に取り次いでですね、当たり前の手順を踏んで、民主的にやるんだよ! 物事は多数決なんだから!」と怒りまくった。
今回の選挙では、選対本部長の佐々淳行元内閣安全保障室長が「失言ブレーキ係」を自任。告示日の3月22日には「皆さんのお力を貸してください」と殊勝に訴えたり、同30日の会見では「説明不足だった」「謙虚にならざるを得ない」などと“らしからぬ”休火山ぶりをアピールしていた。
しかし選挙戦が進むにつれ徐々に本領を発揮。同31日には、銀座の街頭で、ヤジを飛ばす男性を「静かにしなさい」と一喝している。ここにきて陣営では過去にあった数々の失言が街頭でも飛び出すのではないかとヒヤヒヤしているという。
この日は演説が進むうちに雨が本降りに。石原氏が噴火すると、頭上では雷鳴がとどろいた。下北沢をめぐっては、対立候補の浅野史郎氏(59)が、告示前の3月10日に、再開発反対派の住民の案内で視察。それもあってか、400人以上の聴衆を前に、SPもピリピリムードだった。
演説後は、開発反対派と石原氏に同調する人たちが入り交じって一触即発に。土砂降りの中で「石原帰れ!」コールがこだましていた。
(2007年4月5日06時04分スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20070405-OHT1T00108.htm
(ここまで引用) いやはや、きょうは何とも情けなくもみっともない「小心者の醜態」というやつを、取材で目の当たりにさせてもらった。こちらとしては、いいとも悪いともまったく一切の価値判断を示さず、事実関係について説明を求めているだけなのに、「どこも何も悪いことはない、何が問題なのか」と一方的にまくしたてるのだ。よほど後ろめたい気持ちがあるからこその反応だろう。明らかに動揺している様子が手に取るように分かる。社会的に信頼されている組織の責任ある地位にあって、それなりの覚悟を持って意思決定しているはずなのだが、実際には責任を引き受ける覚悟も度胸もなく、まともに説明責任を果たすことさえできない。こういうシビアな状況になると、人間の器の大きさが露呈されるんだなあ。精いっぱいの虚勢を張っているのがとってもカッコ悪い。そもそも取材に対する組織のトップの応対としても0点だね。さて、これからどんな対応をしてくれるのか、ある意味すごく楽しみである。いずれにしても僕は記者として、事実をありのままに伝えるだけだ。
4月8日(日曜日) 都知事選を振り返る東京都知事選は、石原慎太郎氏が3選を決めた。世論調査や各種情報の分析などから考えれば、予想通りの結果と言えるだろう。残念だけど。しかし石原氏が300万票近くも得票し、ここまで圧勝するというのは意外だった。現職に「勝てる可能性がある」唯一の候補者とされた浅野史郎氏(前宮城県知事)の敗因としては、1)浅野陣営の選挙活動があまりにもお粗末だったこと、2)吉田万三氏(元足立区長)を推薦する共産党のネガティブキャンペーンの影響が大きかったこと、3)現職の石原氏が役者として2枚も3枚も上手だったこと──、以上の3つが考えられる。
浅野陣営は選挙戦の終盤になって、ようやくビラやポスターを一新したが、それまでに配っていたビラやポスターがあまりにもひど過ぎたのは、やはり致命的だった。3月30日付の「身辺雑記」でも書いたように、どこの候補者のビラなのか、何を訴えようとしているのか、そういう基本的なことが有権者に全く伝わらない選挙のビラなんて、普通に考えてありえないことだろう。そんなものを何十万枚配ったところで意味も効果もない。どこのだれがビラを作って選挙戦の指揮を取っていたのかは知らないが、浅野陣営の支持者たちは、そういう何の宣伝効果もないビラを一生懸命に配るという無駄な努力を、1週間も続けていたことになる。これは痛い。
そしてその間、吉田氏を支援する共産党は、浅野氏に対する非難や悪口雑言を、石原都知事に向ける批判よりも大量に流し続けた。これに石原陣営から浴びせられる浅野批判を合わせると、浅野氏のダメージは相当なものだっただろうと考えられる。浅野氏が政策や人柄を訴えるよりも前に、マイナスのイメージが有権者にインプットされてしまえば、浅野氏の訴えはなかなか届かない。選挙戦とはそういうものだとはいえ、有権者の判断はシビアである。
一方、石原氏は選挙戦の最初から低姿勢を崩さなかった。いつもの傲慢で不遜で高圧的な態度はすっかり影を潜め、告示前の公開討論会に登場した際にも開口一番、「喉を傷めていてね、本当は裕次郎くらいいい声なんですけどね」などと発言するあたりは、自分を売り込むポイントを心得た役者ぶりを見せつけた。そして記者会見や街頭演説でも、「説明が足りなかった」「反省してる」「再起動します」と頭を下げた。「あの石原さんが謝っている」「いじめられてかわいそう」という意外性に、多くの都民は惹き付けられたのだろう(大いなる勘違いなんだけど)。そこで石原氏はすかさず、「みんなで夢を見ようじゃないか」「安心安全な街づくりを」などと訴えて、頼れるカリスマ都知事をアピールするのだ。だれの演出かは知らないが、石原氏は役者として2枚も3枚も上手だった。
石原氏には選挙戦で示したその謙虚な態度を、3期目の都政で実践してほしいと願うばかりだ。それは無理な注文か。
4月9日(月曜日) 月刊「創」5月号にルポ4月7日に発売された月刊「創(つくる)」5月号に、都立高校の卒業式ルポを書きました。「日の丸・君が代」の強制は違憲とする東京地裁判決が昨年9月に出されてから、初めての卒業式シーズンを迎えた都立高校の現状を描いたルポである。ただしこのルポには、「不当な弾圧にも負けないで闘っているぞ」などと威勢よく抵抗のポーズを示す教師の姿は、ほとんど出てこない。日ごろから生徒たちに教師がどのように向き合ってきたか、生徒に何を伝えてきたか、そういう教師の姿勢や教育実践が生徒にどんな影響を与えたか(あるいは与えなかったか)に力点を置いて描いたルポだ。
教師が自分の権利を全面に押し出して、主張して闘うのももちろん大事だとは思う。しかし教師であるならば、まずは生徒の権利や人権を守ることを最優先に掲げてこそ、教師本来の努めを果たせるはずだと僕は思う。そのためには、日々の学校生活や授業を通して生徒にきちんと向き合うことが必要だ。生徒の自主性を支え、生徒自身に考えさせるような教育を教師はしているだろうか。卒業式や入学式の時だけ「日の丸・君が代」の強制反対を唱えても説得力がないし、それでは生徒も保護者もだれも共感しないだろう。
処分を振りかざして「日の丸・君が代」を強制する東京都教育委員会の強権的な手法は、当然厳しく批判されなければならないが、教師が「処分の不当性」を懸命に訴えても世間に支持がなかなか広がらないのは、多くの教師が伝えるべきことを伝えず、生徒にしっかり向き合ってこなかったからではないかと思えてならない。どんな授業をしてきたのか、生徒に何を話してきたのか、考えるための材料をたくさん提示する努力をしてきたのか、生徒とどんな会話を交わしてきたのか。そういうことを抜きに、「日の丸・君が代」強制や都教委の姿勢を批判しても世論の支持は得られないだろう。今回の都知事選でも、本当ならば大きな争点になるべきだった「日の丸・君が代」強制の問題が争点にならなかったのは、このあたりに原因の一端があるのかもしれない(もちろんメディアの責任もあるが)。このルポでは取材による事実の積み重ねをもとに、生徒と教師の思いが具体的に伝わるように描いたつもりだ。ご一読を。
4月10日(火曜日) やっぱり大教室だった都知事選で落選した浅野史郎氏は、きょうからもう大学講義の初日なのだそうだ。大変ですね。でもって僕はというと、前期の講義は6月から「総合講座」がいくつかあって、メインの「現代ジャーナリズム」は後期の9月スタートである。それまでは、できるだけ取材活動と原稿執筆に集中しなければ。ちなみに「現代ジャーナリズム」は、いつも200人〜300人の受講生が履修登録するのだが、今年から「受講者制限科目」となったらしい。
受講生が多すぎると教室の雰囲気は落ち着かず、授業に集中しにくくなって学生も居心地がよくないだろうけど、授業をする側にしても、レポートの採点や出席チェックに費やす時間が増えて負担が大きくなる。そうなれば、レポートの回数を減らさざるをえなくなるなど、結局は授業の質の低下につながりかねない。たくさんの学生に話を聴いてもらうのはうれしいが、大教室で大人数に一方的に話す授業というのは、本来は好ましいことではないのだ。
そういうことを大学が考慮してくれて、「受講者制限科目」とやらになったのかなと思っていたら、予定されている教室はこれまでと同じように、200人くらい入る大教室だった。なんだ、やっぱり大教室で授業をするのかあ。人数的には変わらないんやね。本当はゼミみたいな少人数の授業もやってみたいんだけど、まあいいか。ジャーナリズムについて考える材料や面白いネタはたくさんあるから、たぶん今まで以上に興味深い授業にはなると思う。メディアを主体的に見る目を養うとともに、ジャーナリズムの「あるべき姿」を考えるのが目的なので、内部告発的な生々しい話も積極的に伝えていくつもりだ。…ってそんなに煽って受講希望者があふれたらどうするんだよ(笑)。
憲法改正の手続きを定める国民投票法案(与党案)が、衆院特別委員会で自民、公明党の賛成多数で可決した。十分な審議を尽くしたとは言い難い強行採決だ。安倍政権での憲法改正を前提とした法案だから、改憲したい側が有利な(改憲しやすい)内容になっている。問題点はたくさんあるがその中でも、公務員と教育者の「地位を利用した運動」を禁止している点と、「有効投票総数の過半数の賛成」で成立するとされている点が、特に問題だと思う。
公務員と教育者の「地位を利用した運動」とは具体的にどういうことを指しているのか、判断基準が極めてあいまいだ。教育者が授業で憲法を教えることは大切な仕事だが、それもダメということになりかねない。実際問題として例えば東京都教育委員会は、「日の丸・君が代」を強制する通達を2003年に出してから、都立高校の教師が生徒に憲法の「思想・良心の自由」を教えることを制限している。それ自体が教育内容への不当な介入だが、既にそういうデタラメがまかり通っているのである。
そもそも学校教育は、命令や指示されたことに黙って従う従順な人間を育てるのが目的ではないはずだ。自分で考えて判断して疑問に思えば従わない、そういった自立した人間を育てることこそが学校教育の役割であり責任だろう。そのために教師は材料をたくさん示して議論させ、生徒が自分で考えるような授業をするべきだし、社会問題や憲法を教えるのはむしろ教師の大切な仕事なのだ。都教委は「日の丸・君が代」強制を通じて、命令や指示に黙って従うロボットみたいな人間を育てたいのかもしれない。だから教師が生徒に憲法を教えてはいけないなどと馬鹿げたことを言うのだろうが、国民投票法案(与党案)が「教育者の手足」を縛ろうとしているのは、「自分で考えて行動する自立した有権者」が育つのを恐れるからではないのか。都教委の発想にそっくりだ。
もう一つの「有効投票総数の過半数の賛成で成立」は、最低投票率の規定がないのが大問題だ。「有権者の過半数」ではなくて「有効投票総数の過半数」では、もし投票率が50%だったら有権者のわずか4分の1の賛成で憲法改正が成立してしまうことになる。国の最高法規が、そんな少数の意思で左右されていいのか。民主主義の根幹にかかわるだけでなく、改憲のハードルが極めて低く設定されてしまうことにもなる。国民投票法案があるほかの先進国では、最低投票率があらかじめ定められているが、民意をきちんと反映させるには最低限の取り決めだろう。こういうことすら取りこぼしておいて強行採決とは、「美しい国」が聞いてあきれる。
米・大リーグの松坂とイチローの対決は面白くて興味があるし、中国の温家宝首相の国会演説は大きなニュースだから、テレビや新聞が大きく扱うのは分かるけど、その陰で国民投票法案の強行採決が霞んでしまったのはいかがなものかと思う。テレビ朝日の「報道ステーション」が、英国人女性教師の殺害事件をトップ項目で延々と流していたのには、がっかりというか唖然とした。
ある組織の責任ある立場の人に対し、説明してほしい問題があったので取材を申し込んだのだが、いろいろあって(4月6日付「身辺雑記」参照)最終的には広報を通してくれということになり、文書で質問を提出することになった。その後の取材はすべて「会社として」対応するので、広報の名で文書によって回答されるのだという。それならばと僕の方もしっかりと、質問項目を詰め将棋のように順序立てて論理的に並べて先方に送ったのだが、もしも誠実に応じようとすれば答えに窮するだろう。もちろん事実関係を確認するのが目的なので、どれも必要不可欠な質問ばかりだ。
でもって、こちらが回答期限として設定したきょう、広報担当者から文書で回答が送られてきた。そこには、ほとんど予想していた通りの「木で鼻を括ったような」回答が書かれていた。それでも回答のあちこちで論理は破たんしており、説明に矛盾が露呈されていたので、取材としてはこれでも十分な成果があったと言える。取材への対応ぶりを含めて、回答内容をそのまま「事実」として原稿にするだけだ。あとは記事を読んだ読者が判断してくれるだろう。僕は記者として公正に言い分を聞こうとしているのに、先方がきちんと説明しようとしないのだから、その通りに伝えるしかない。
実はこのある組織というのが、まがりなりにも報道機関を名乗っていたりするのだが、よそから取材された時のこういう対応って、自分たちが取材相手にいつも求めているものと矛盾しているとは感じないのだろうか。取材対象にはできるだけ直接会って、説明や主張をしっかり聞くのが記者の基本動作だ。相手が公人(公的な組織や団体も含む)であれば取材に応じるように厳しく迫り、説明責任があるはずだとして誠実な対応を求めるだろう。他者にはいつもそうしてるんじゃないのか。まあ、まともに説明したくてもできないのはこちらも分かっているんだけど、それならせめて面と向かって話をしろよと言いたい。
それにしても開き直っているとしか思えない態度だ。同様の問題について話を聞いた別の組織の責任者は、苦悩や葛藤と忸怩たる思いをそれなりに吐露してくれたが、文書で回答してきたこの組織の幹部たちからは、そうした思い悩む様子や言葉はまるでなかった。それもまた取材を始める前から予想はしていたけど、心底がっかりさせられたなあ。ただそれでも、最初の対応(4月6日付「身辺雑記」参照)の際に見せた動揺ぶりは、よほど後ろめたい気持ちがあるからこその反応だったのは間違いない。そういう意味では、良心の呵責みたいなものが少しは残っていると信じたい。
夕方から横浜・関内。横浜弁護士会の子どもの権利委員会の弁護士たちと打ち合わせ。5月に弁護士会で講演を頼まれている。教育基本法改正後の教育現場の現状報告、問題点の指摘、われわれに何ができるか、何をすべきか…について話をしてほしいとのこと。6冊目の単行本「教育の自由はどこへ」に書いたことや、現在発売中の月刊「創(つくる)」5月号に書いた都立高校の卒業式ルポなどをベースに、取材を通じて感じたことを整理して話せば組み立てとしてはなんとかなるだろう。
「帰ってきた時効警察」 昨年3月の放送で最終回を迎えたテレビ朝日系のドラマ「時効警察」(2006年3月5日付「身辺雑記」参照)が帰ってきた。時効が成立した事件を「趣味」で捜査するという、ナンセンスギャグ・コメディー&ミステリードラマだ。登場人物たちの言動がなんともユルくて、とぼけたおかしさにあふれた脱力系ドラマである。今夜の初回放送もやっぱり面白かった。テレビ画面を見ながら、思わずにやにやしている自分がいる。金曜日の深夜(11時15分〜)にグタ〜ッと視聴するのにぴったりだ。そのすぐ後には、同じく脱力系番組の「タモリ倶楽部」もあるし。
4月14日(土曜日) 浅野氏の選挙分析に共感きょう14日付の朝日新聞の朝刊に、都知事選に出馬して敗れた浅野史郎氏(前宮城県知事)のインタビュー記事が載っていた。選挙戦の敗因についての冷静な自己分析は、なるほどなと思わせる説得力ある内容で、なかなか興味深いインタビュー記事だと思った。
中でも出色だったのは、「石原都政には我慢できない」ということを「実感している」のは、「教育や福祉の現場などで実害を受けている人たち」で「数は限られていた」という分析だ。そして浅野氏は、選挙前の妻の分析として「悲鳴を上げているのはごく一部の人たちでしょ」という言葉を紹介する。このくだりを読んで僕も、「ああやっぱりそういうことなんだよな」と改めて現実をしっかり認識することができた。
例えば、「日の丸・君が代」の強制に抵抗して処分を受けた教師は、教職員の中の一部に過ぎない。もちろん、東京都教育委員会の強引な「管理と統制」を不快に感じ、実際に大変な思いをしている教師は処分された人数の何倍もいるだろうし、こうした東京の公立学校の現状を「おかしい」と思っている生徒や保護者は大勢いる。しかし、それは有権者全体から見ればごく一部なのである。そもそも、都教委のやっていることや学校現場が悲鳴を上げているという「事実」そのものを、知らない有権者の方が圧倒的多数なのだ。知らなければ考えようもないし、いいとか悪いとかを判断して行動することもない。これが残念ながら厳然たる社会の現実だ。
そしてここからが大事なのだが、そうした「事実」を知ったとしても、例えば「日の丸・君が代」の強制といった問題は「自分とは関係ない」とか「どうでもいい」と考える人が多いのも、これまた現実なのである。もちろんこれって本当は、学校に通っている生徒や教師だけの問題ではない。「思想・良心の自由」を統制しようという動きは、広い意味ではいずれ自分自身に降りかかってくる深刻な問題なのだが、しかし自分の生活や利害や家計に直接かかわってこなければ、人はなかなか自分自身の問題だと認識しない。切迫感がなく、実感がわいてこないというのも分かる。人間とはそういうものだろう。自分と無関係であっても、他人の痛みを自分の痛みとして感じる「想像力」があれば、「自分とは関係ない」といった無関心さはなくなるのだろうが、残念ながら日本の社会はまだそこまで成熟していないようだ。それもまた現実である。
浅野氏は、石原都政の実害を受けている人たちや、石原都政に悲鳴を上げている人たちについて、「数は限られていた」「一部の人たち」だとしながらも、だからといってそういう「少数派」を切り捨てているわけではない。インタビューの中で浅野氏は、「スキャンダルと違い、『におい』みたいなものに対する危険性は伝えにくかった」と振り返っている。さきほど書いたように、「いずれ自分自身に降りかかってくる深刻な問題」であっても、自分の生活や利害や家計に直接かかわってこなければ、人はなかなか自分自身の問題だと認識しないし、切迫感がなく実感がわいてこない。浅野氏はそこのところを選挙戦を通じて訴えようとしたが、有権者には残念ながら届かなかった。浅野氏は社会の現実と実態を正確に把握した上で、冷静に選挙の敗因を分析していると僕は思う。
じゃあどうすればいいか。浅野氏の発言の中にヒントはたくさん示されていると思う。訴える対象と内容と方法を、どのように工夫すればいいかということだ。自分たちと同じ方向性を持って、いつも同じような主張を展開する「仲間うち」に、いつもと同じ訴えをいくら繰り返しても理解や共感や支持は広がらない。インタビューの中で浅野氏が「勝手連」選挙について、「少数派の市民団体的なものが中心で、一定の広がり以上にならなかった。生まれて初めてかかわったり、軽いノリで選挙に参加してもらったりする形にしたかった」と述べているのは、まさにそういうことだろう。
「事実(問題の所在)を知らない」圧倒的多数の人たちにまず事実を知ってもらい、そしてその事実を「自分自身の問題でもあると認識して実感」してもらう──。共感してもらうためには、説得力と魅力のある言葉や表現で、いかに分かりやすく伝えていくかという工夫が大切だ。これは僕たち記者にとっても同じことが言える。ジャーナリズムは何をどのように何のために伝えるのか、という問題にも通じる。自戒しながら日々痛感している。
4月15日(日曜日) マジでウザい「迷惑メール」僕が使っているメールソフトでは、サーバーからメールを受信する際に自動的に「迷惑メール」を選別して、「迷惑メール」専用のメールボックスにまとめてくれる。ところがこのところ選別が完全ではなくなって、「受信メール」のボックスに取り残される「迷惑メール」が出てくるようになった。ものすごくウザい。友人や知人や仕事の関係だけでなく、見ず知らずの読者などからもメールが送られてくるので、特定のアドレス以外を全て排除する設定にはできない。これまではそれなりに、きちんと選別してくれていたんだけどなあ。そもそも「迷惑メール」自体が急増しているのと、フリーメールを利用した手の込んだ「迷惑メール」の増加が原因ではないかと考えているのだけど、本当はどうなのかよく分からない。
最近は一日に100通から150通近い「迷惑メール」が届く。前にも「身辺雑記」で紹介したが、ほとんどは「出会い系サイト」の紹介や知り合いを装った援助交際(もしくは逆援助交際)の誘いだとか、いかがわしい薬や玩具の宣伝、意味不明の告白メール、全文英語の謎のメールといった内容で、どう考えてもまともに相手にするわけがないものばかりだ。業者は毎日毎日こんなメールを、何百万人という不特定の人に送信しているんだね。ほとんどの人はゴミ箱に直行という作業を繰り返していても、そのうちの何人かは、まんまとだまされたり真に受けたりして反応するんだろうな。だからこそ業者サイドは、懲りずに毎日せっせと「迷惑メール」の送信を続けるのだろう。広告メールを規制する法律ができたはずなのに、そんなのは今や完全無視の無法状態だ。マジでウゼーよ。
4月16日(月曜日) そろそろ花粉症も終結?横浜でも満開だった桜の花はほとんど散って、葉桜が青々と繁るようにになった。そうなると、そろそろ鬱陶しい花粉症の季節も終わりに近付いてきたというものだ。だがしか〜し。まだ油断はできない。くしゃみが出たり目が痒くなったりという症状が、完全に治まったわけではないからだ。外出時に鼻水が止まらなくなったら悲惨なので、念のため鼻炎薬1錠を常にポケットに入れておくという自衛策を取っている。専守防衛の警戒体制は怠らない。いや、自衛隊の話ではなくて、花粉症対策本部の話である(おいおい)。
都立高校の現役校長から「話を聞いてほしい」と連絡があったので、夕方から会って話を聞く。校長連絡会でのあまりに傲慢で馬鹿馬鹿しい都教委の「指導」ぶりに、メモを取りながら「そりゃひどいですね」「マジですか」と相づちを打つばかりだ。都教委の支離滅裂で矛盾だらけのデタラメな姿勢は、ますます磨きがかかってきているなあ。開いた口がふさがらないといった感じである。年内には何らかの形で、反旗を翻す行動に出るつもりだという。こちらも事前準備を整えて「記事」で援護射撃したいと思う。
4月17日(火曜日) 長崎市長銃撃に鈍感な安倍首相また政治家に対するテロ事件が起きた。選挙遊説を終えて選挙事務所に戻ったばかりの長崎市の伊藤一長・市長が、暴力団幹部の男に背後から銃撃された。伊藤市長は心肺停止で意識不明の重体だという。長崎では1990年1月にも、昭和天皇の戦争責任に言及した本島等・前市長が右翼団体幹部に銃撃されて重傷を負う事件が起きており、二代続けて現職市長が狙撃されたことになる。昨年8月には、小泉首相の靖国神社参拝を批判した加藤紘一・元自民党幹事長の実家が、右翼団体幹部に放火され全焼した事件が記憶に新しい。いずれも民主的な法治国家では、決して許されることのない卑劣きわまりないテロ行為だ。こんなことが繰り返し頻発する「美しくない日本」に、心からの怒りと恐怖を感じる。
しかしまったくもって理解できないのが、今回のテロ事件に対する安倍首相の反応だ。安倍首相は「厳正に捜査が行われ、真相が究明されることを望む」とのコメントを発表したが、そんな他人事みたいな危機感のない言葉しか出てこないことに驚かされる。選挙運動中の政治家へのテロ、民主主義を否定する卑劣な行為に対して、政府のトップとして真剣に憤る姿勢を、どうして示そうとしないのか不思議でならない。政治感覚があまりにも貧相で鈍感だ。
こういうのを見ていると、昨年8月に加藤元幹事長の実家が放火された際に、小泉首相が2週間近く談話すら出さなかったことを思い出す。その時の官房長官が安倍氏だった。それに比べればはるかにマシかもしれないが、民主主義や人権に対するまともな感性があれば、「絶対に許せない」と怒りを表明するはずだろう。理由や思想的背景が何であれ、このようなテロ行為は民主主義を根幹から否定するものだ。まともな法治国家では絶対に許されない。国の最高責任者として、とにかくまず断固批判するコメントを出すべきだった。安倍首相の正体がまた一つ透けて見えてしまったね。
【追記】銃撃された伊藤長崎市長は18日午前2時28分、搬送先の長崎大学付属病院で死亡した。ご冥福をお祈りします。
4月18日(水曜日) PASMOが届いたICカード乗車券のPASMO(パスモ)が届いた。オートチャージ機能付き。乗り継ぎの割り引き計算は正しくされているのかどうか、乗車した金額以上に間違って引き落とされることはないのかなど、いくつか不安はあるけど、いちいち乗車券やパスネットを購入しなくていいというのは、面倒くささがなくなるので助かる。パスネットは乗車区間や利用金額がカードの裏側に印字されていたが、パスモだと乗車記録は駅の券売機などで確認しなくてはならないのが不便ではある。実際に使ってみるのはあす以降だ。
4月19日(木曜日) 関内で阪神ショップ発見午後から横浜・関内。某メディア企業の労働組合執行部から話を聞く。このところ調べていた件の最後の確認みたいなものだ。取材を終えて関内駅に向かって歩いていると、阪神タイガースショップの看板を発見。えっ!まじっすか。恐る恐るビルの2階に上がってみる。店内は結構広くて品揃えも豊富だ。店員さんに聞くと昨春にオープンしたのだという。なんだ、わざわざ新宿の京王百貨店まで行かなくても、横浜で阪神グッズが買えるじゃないか。感動。
市内のファミレスで友達とのんびりダベっていると、雑誌社の編集長から原稿催促の電話が入る。GW期間中は印刷所がストップするので、来月号は締め切りが前倒しになるのだという。そんなの聞いてないよ…。大急ぎで帰宅して執筆作業の準備に取りかかる。
4月20日〜22日(金曜日〜日曜日) 原稿執筆終日、原稿執筆。とりあえず出稿作業をすべて終える。出稿後に加筆修正など。ファクスの調子がすこぶる悪い。頻繁に紙詰まりの表示が出て、用紙が途切れてしまうのには閉口する。そろそろ買い換え時なのか。そんな余裕はないんだけどな。
【おことわり】4月18日から4月22日付までの「身辺雑記」をまとめて更新しました。
4月23日(月曜日) 初めてのパスモ初めてPASMO(パスモ)を使って電車に乗った。実は先週、パスモで市営地下鉄に乗ろうとしたのだが、改札でエラーが出て通過できなかったのだ。急いでいたから慌てて切符を買って電車に駆け込んだので(よい子のみんなは駆け込み乗車は止めましょう)、パスモ初体験はお預けになっていたのである。でもっていろいろ調べてみたら、どうやら定期券入れにパスモ以外のカードが入っていると、改札でタッチ・アンド・ゴーをやってもエラーが出てしまい、入場できないらしいということが分かった。へーそうなんだ。確かに銀行のカードやクレジットカードや、そのほかいろんなカードが何枚も入っているからなあ。
とりあえず実験として、きょうは京急の駅の改札で先週と同じようにパスモをかざしてみたところ、やっぱりエラーが出た。念のために駅員さんに確かめると、「ほかのカードが一緒だとダメみたいです」とのお答え。ナルホドそうだよな。そこで改めてパスモだけを取り出して、タッチ・アンド・ゴーをやってみる。今度は正常に通過できた。改札機の前方を見ると、「3000円チャージしました」との表示が。なんだか感激である。運賃がいくら引き落とされたかは、降車時にこの表示を見れば確かめられることも分かった。残金がいくらなのかを覚えておいて、頭の中で計算しなければいけないけど、少なくとも利用した料金はその場で確認できるわけだ。少し安心した。なかなか便利じゃないか。
帰宅後、編集部から届いたゲラのチェック。一部の表現について編集長と電話で相談して修正する。これで原稿はこちらの手を離れた。しかし思っていたよりも、いろんな意味で気を使うことが多い原稿だったな。まあ、対象が対象だから仕方ないか(謎)。
4月24日(火曜日) 安倍首相には言われたくない記者会見や演説などで発する安倍首相の言葉は、どれを取ってもうさん臭さ全開だ。激しさは小泉前首相より若干薄めだが、いかがわしい点はそっくりである。例えば、「国会では、いよいよ教育再生のための法案審議がスタートしました。すべての子どもたちに高いレベルの学力と規範意識を身につける機会を保証するための重要法案です。成立に向けて全力を尽くします」(安倍内閣のメルマガから)だとさ。「規範意識」だの「道徳心」だなんて、いったいどのツラ下げてそんなことが言えるのだろう。思わずお茶を吹き出してしまったじゃないか。「あんたには言われたくないよ」って突っ込みを入れてもいいですか。
議員会館の事務所費に、かかるはずのない光熱水費を計上しておきながら、「なんとか還元水をつけている」「法律や制度の定めにないから説明は差し控える」と堂々と言い張る松岡農水相。そしてその松岡農水相を必死に擁護する安倍首相が、「子どもたちに規範意識を」とは笑わせる。従軍慰安婦の強制性の問題について強弁するなど、「過去の過ち」をなかったことにするような発言を繰り返して世界中からひんしゅくを買うのは、規範意識や道徳心を身につけた大人のすることなのか。悪い冗談としか思えない。安倍さんってブラック・ユーモアがおありになるのですね。
4月27日(金曜日) 早朝の取材ヘリ午前4時半ごろ、自宅の上空?をヘリコプターが飛ぶ音が聞こえてきた。こんな時間に飛ぶのは報道ヘリ以外にはあり得ない。そう言えばさ少し前にサイレンの音がしたから、何か事件か事故でも発生したのかな。そんなふうに瞬時に考えるのは記者の習性みたいなものだけど、たぶん予想は間違っていないはずだ。それにしても夕方じゃなくて早朝の4時半だよ。最近はほんのちょっとした事故でも、すぐにヘリを飛ばすんだよなあ。しかしさすがにこんな時間にヘリが飛び回るなんてなあと不快さを募らせていたのだが、どうやら1機だけでなく数機が旋回している様子だ。
午前5時を回っても、いつまでもヘリコプターのバリバリという騒音がしつこく続く。これは結構大きな事件なんだろうかと思っていたら、うちからはかなり離れているが、横浜市内の2つの商店街で放火があって全焼したという。商店街のほかにも火災が連続発生したとのことで、それで上空から周辺を撮影取材していたようだ。でもこの時間は外はまだ真っ暗なんだから、空撮してもまともな映像は撮れないんじゃないかな。仕事だから仕方ないとは思うが、早朝という時間帯にもう少し配慮がほしい。ヘリの旋回音って、地上にいる人間をものすごく不安な気分にさせるんだよなあ。
従軍慰安婦について強制を否定するなど、自ら不用意で無用な発言をして、訪問先の米国でお詫び行脚している安倍首相。そんな滑稽なニュースに、自民党タカ派の人たちってどうかしてるんじゃないかと心から思う。わざわざいらないことを言うから、米国まで出かけて謝罪しまくることになるわけで、「身から出た錆」というか「自業自得」としか言いようがないみっともなさだ。しかも謝罪する相手が米国人というのも、ピントがまるっきりずれている。
そもそも墓穴を掘ったのは安倍首相本人だ。「過去の過ち」をあえて自分から引っ張り出してきて、「強制はなかった」などと強弁して否定する。そんなことを延々と繰り返しているから、いつまでたっても韓国人や中国人から非難され続けることになるのではないか。実に不毛だ。そういうことをタカ派の人たちは自覚しているのだろうか。ひょっとして民族間の対立と嫌悪感を煽るために、わざとやっているのではないか。そんなふうにさえ思えてくる。
4月29日(日曜日) 新聞ライブラリー横浜の日本新聞博物館に併設されている新聞ライブラリーを初めて利用した。日本新聞教会加盟社が発行する全国の日刊紙を、一般公開している「新聞の図書館」である。新聞が並べられている棚の間の照明が暗いのには閉口するが、北海道から沖縄までの全紙が一覧できるのは便利だ。インターネットの記事検索も、検索するだけなら無料で利用できる。ただし新聞記事のコピーや検索情報のプリントアウトは、コンビニや公立図書館のコピー料金の3倍から5倍もする。これはちょっと高過ぎるのではないか。あまり存在が知られていない穴場スポットだろうし、利用者は、専門的に調べる必要のある研究者や学生などに限られていると思うけど、せめてコピー代は世間並みの料金(1枚10円)にしてほしい。職員の対応は親切で感じもいい。
4月30日(月曜日) 「セカンド」4カ月ぶり更新「セカンドインパクト」のサイトを4カ月ぶりに更新した。ファイル転送しようとするとエラーが何回も出てうまくいかないことが続いたので、面倒くさくなって昨年末から「セカンドインパクト」の更新をほったらかしにしていたのだが、プロバイダーのサーバーにトラブルがあったので一念発起。ホームページ表示やCGI動作などに障害が発生し、アクセスカウンターが初期化されたのがきっかけになった。ディレクトリー(フォルダ)の構造やファイル転送ソフトのシステムについて、付け焼き刃の一夜漬けだけど改めて少し勉強して、ファイル転送のやり方を変えてみたらうまくいった。昨年までの転送方式が、どうして突然エラーを起こすようになってしまったのかは、結局よく分からないままなんだけど。
そんなわけで、「セカンドインパクト」を更新。「大岡みなみの単行本」のページに、単行本「教育の自由はどこへ」を書評などで取り上げてくれたメディアを紹介するページ(「書評・紹介記事一覧」)を新設しました。「載っていたよ」と教えていただいて、確認できた範囲のものしか掲載していませんが、とりあえず。