身辺雑記 

by totoropen (OOKA Minami)


2009年1月1日〜1月31日

●年賀状を印刷●年賀状を投函●ニュースの「言葉」と「主語」●ドタキャン●欠席●レポート採点●ゲラチェック●うれしいコメント●記者のレベル●電気料金●オバマ大統領就任式●不快な顔●深代惇郎「天声人語」●●●ほか


1月1日(木曜日) 年賀状を印刷

 大晦日から元旦にかけて、年賀状を作成してプリント。通信面のあいさつ文はできるだけ短く簡潔にしたいと思っているのだが、今年は長くなってしまったので、昨年までの189字から216字に文字数を増やした(はがきでは1行分の増加)。それにしても、どうしても年内の年賀状投函ができないなあ。困ったものだ。


1月2日(金曜日) 年賀状を投函

 年賀状の裏面に自筆でコメントを書き込む。全部とはいかないけど、8割くらいには何かしらのメッセージが書けた。夕方になってから、ようやくポストに投函。すぐさま、締め切りの過ぎている原稿の執筆を再開。大急ぎで書き上げなくては(汗)。


1月7日(水曜日) ニュースの「言葉」と「主語」

 午後から授業。新年早々の授業なのでかったるいと思っている学生が多いのか、私語が多くてなかなか静かにならない。何回か注意して、ようやく静まり返った状態の教室になった。きょうのテーマは「戦争と情報統制と国益」。わが国、国益、愛国心、非国民、反日…などの言葉を取り上げて意味を考えさせる。そもそもこれらの言葉の「国」や「日本」とは何を指しているのか、国家なのか、政府なのか、それとも国民なのか。そしてジャーナリズムがニュースを伝える時に、主語を「わが国は…」とするのと「日本は…」と表現するのと、どちらが客観的・中立的に事実を伝えることになるのか。そんなことを問いかけていくと、これまで漠然と使って見聞きしていた「わが国」「国益」「愛国心」といった単語の持つ意味の奥深さに、学生たちはハッと気付いてくれたようだった。


1月8日(木曜日) ドタキャン

 原稿がどうしても書き上がらないので、大学時代の友達との新年会出席をドタキャンした。夕方から新宿に集まる予定だった。約束の時間ギリギリまでパソコンに向かって、必死になってキーボードを叩いたのだが、どうにもこうにも間に合わなくて断わりの電話を入れた。編集者からは催促の電話が入っていながら、さすがに未完成の原稿をほっぽり出して飲みに行くわけにはいかない。僕の都合なんかも考慮して、幹事がスケジュールを組んでくれたみたいなのに、本当に申し訳ありません。ごめんなさい。久しぶりにみんなに会いたかったんだけど…。ああ、ダメ人間だなあ。自己嫌悪。深く反省。つーか、いいからさっさと書き上げろよ自分。


1月10日(土曜日) 欠席

 午後から横浜市内で、県立高校の先生たちとの自主研究会(勉強会)と新年会に出席する予定だったのだが、原稿が書き上がっていないので参加を見合わせることに。そうなんです、まだ仕上がっていなかったのです。結局、夕方になってようやく原稿を編集部に送信した。このほかにも実はまだ、書かなくてはならない原稿がいくつも残っている。新年早々からメチャクチャだよ。サイアクだ。


1月12日(月曜日) レポート採点

 まだ採点していなかったレポートの残りを大急ぎで読破。6時間くらいかかって、すべての評価・採点を終了する。後期の期末試験までになんとか採点を終わらせることができた。この時期に積み残しがあると試験の答案とダブルで見なければならなくなるので、かなりつらいことになってしまう。間に合ってひと安心だ。


1月13日(火曜日) ゲラチェック

 編集部から送られてきたゲラをチェック。完全原稿で出稿しているので、修正するところはほとんどない。いくつか誤植や誤字脱字や体裁の手直しをする程度である。ファクスで返送。午後から郵便局に出かけたり、経費計算をしたりと諸々の雑務をこなす。


1月14日(水曜日) うれしいコメント

 午後から授業。本年度はこれが最後の講義になるので、これまでの講義内容のまとめ的な話をした。授業後に提出してもらった出席カードには大半の学生が、▼「この授業を受けてから新聞をよく読むようになりニュースにさらに興味を持つなど、自分の中で何かが変わった」▼「権力を監視し弱者の代弁をするというジャーナリズムの意義・役割を、授業を通して改めて知った。それと同時に現在の報道の問題点にも気付かされた」▼「自分の考えを持つためには自分自身のモノサシを持つことが重要で、そのためには事実を知り問題意識を持つことが大事だということが理解できました」▼「たくさん情報がある中で、すべてが正しい情報を流しているのではないということを学びました。これからも多くの情報に接しながら、何が事実なのか判断するセンサーを磨いていこうと思います」▼「この授業を受けて、メディア・ジャーナリズムに対する見方が変わった。今まで何も考えずにニュース番組や新聞を見てきたが、何が重要で何が真実なのか、自分のモノサシで考えなくてはいけないと思った」▼「与えられた情報を鵜呑みにするのではなく、事実関係を明確にした上でさまざまな立場の意見を聞き、自分で考えを整理して正しい情報を見極めなければならないと思いました。そのためには自ら積極的にならなければならない。しっかり自分の意見を持っていないと自分のためにならないと思いました」▼「今回の授業で私が一番心に残ったのは、伝えるのは記者だけではない、という点だ。判断材料を持つ必要性など、今まで授業で教わったり考えたりしたことは、読者としての立場で情報を読み解くためだと考えていた。しかし発言の場はさまざまで、大きな媒体ではなくても私自身が発言者の立場になり得ることはたくさんある。授業で得たものは、読者と書き手の両方の立場でとても有意義だった」といったコメントをぎっしり書いてくれた。

 またこのほか、▼「1回だけ講義を欠席してしまい非常に後悔している。ジャーナリズムの役割が理解できた。記者や編集者の仕事が将来の選択肢の一つになった」▼「講義内容に興味を持って受講したが、思っていたよりも深い授業だった。ジャーナリズムの仕事に就くことも考え始めた。人のために何かを行うような仕事をしてみたい」などと書いてくれた学生も何人かいた。どれも心にしみ入るうれしいコメントばかりだ。こちらこそ感謝している。学生の皆さん、来週の試験では頑張っていい論文を書いてください。

◇◇

 中央大学理工学部キャンパス(後楽園)で、男性教授が刺殺されたという。平日のキャンパスで白昼堂々と、授業に向かう直前の教授が刺殺されるなどあり得ない異常事態である。僕が教えている大学でも、このニュースには多くの人が強い関心を寄せていた。エレベーターホールでは、教員らが「中央大学で…」「高窪さんが…」と囁きあっている姿を見かけたし、講師控室でもテレビに釘付けになっている人が多かった。とにかく一刻も早く犯人が逮捕されることと、事件に学生がかかわっていないことを心から祈りたい。


1月18日(日曜日) 記者のレベル

 知り合いの編集者が、「事実関係を確認しないで原稿にするライターが多い」とこぼしていた。裏付けもとらず憶測や思い込みだけで原稿を書いて平気なのだそうだ。「これはどういうことか」「この文章とこちらの文章が矛盾しているが」「ここは確認しているのか」などと、一つの原稿について何カ所にもわたって指摘しても、あいまいな答えしか返ってこないし、恥じるふうでもなく平然としているのだという。そして言うまでもなく、総じて文章表現も文法もおかしいとのことだった。

 まあ、文章表現力は慣れや訓練によるものでもあるので、なかなか何とも言えない部分があるが、事実を確認して原稿にするというのは、ジャーナリストとして基本の最低限の作業だ。それを怠ったまま原稿にして平気でいられるというのは、にわかには信じられない話であるし、もしそれが本当だとすれば看過できない大変な問題だ。記者の仕事を続ける資格などないとしか言いようがない。いったいどういうことなんだろう。

 「ええーっと、僕は大丈夫ですよね。それって暗に僕の原稿を遠回しに批判してるってことはないですよね」と、おそるおそる編集者に聞いてみたら、「それはもう全然大丈夫です。原稿の締め切りは遅れますが、内容は安心していますから。読まなくてそのまま出してもいいくらいです」との答えが返ってきた。あ、やっぱり原稿が遅いのは怒ってるんだ(すみません)。しかし、安心してくれるのはありがたいけど、さすがに原稿は読んで一応チェックしてもらわないと、むしろこちらが不安になってしまう。

 それはさておき、事実関係の確認もしないで原稿を書いて平気でいられる記者って何だろう。しかも、おちゃらけた内容で書き飛ばしてもさして問題などないといった雑誌でなく、社会的で公益性のある真面目な雑誌の記事を書いている記者の話なのだ。それが一人や二人ではないという。そう言えば最近、知り合いの弁護士からも似たような愚痴を聞いた。「確認もしないで記事を書き散らす記者が多いんだよ。新聞も雑誌も」というのだ。

 きちんと教えてくれる先輩記者やデスクや編集者が、周囲にいないのだろうか。満足な訓練や指導も受けずにあっさりと記者になってしまい、そのままいい加減な仕事を続けてきた(続けている)のだとすれば、本人だけでなく読者や取材対象者にとっても大変な不幸だろう。そこまでレベルは低下しているということなのか。まさにメディアの屋台骨を揺るがす重大な危機だと思う。


1月20日(火曜日) 電気料金

 今月分の電気料金の請求書が届いた。なんと前月の1・5倍の料金が請求されていた。どっひゃ…。驚くばかりの高額に唖然呆然である。しかしまあ、年末年始はエアコンを付けっぱなしにしていたからなあ。当然と言えばあまりにも当然な結果だ。なるべく日中などはエアコンを使わないようにとは思っているのだが、寒くて風邪でもひいたら意味がない。なかなか悩ましいところである。


1月21日(水曜日) オバマ大統領就任式

 深夜2時過ぎからテレビで、米国オバマ大統領の就任式の生中継を見る。かつては客としてレストランに入れてもらえず、白人と同じバスにも乗れなかった米国の黒人が、大統領に選ばれて就任演説をするというのは感慨深い。時代の大きな変化の象徴であり、歴史的な出来事と言っていいだろう。地道なほんの少しずつの積み重ねによって、社会は確実に変わるのだと考えれば、希望の欠片のようなものが見えてくる気がする。しかしたった一発の銃弾で、いとも簡単に大統領や黒人活動家が暗殺されてしまうのが米国という国なので、オバマ大統領の身の安全はかなり心配だった。とりあえず就任式とパレードが無事に終わって本当によかった。

 それにしてもオバマ大統領の誕生には、政治家の「言葉」の力と責任を改めて考えさせられる。印象的な短いフレーズを使って演説するという点では、小泉元首相を思い浮かべる人がいるかもしれないが、オバマ大統領の演説にはあのような空疎さはない。なんでも二者択一で切り捨てて、支離滅裂で矛盾した内容で煽り立てることもない。オバマ大統領の演説には理念と理想がベースにある。その上で論理的に未来を語るから、聴衆を元気にさせて希望を感じさせるのだろう。それにひきかえ日本の政治家は…。ついそんな陳腐な愚痴が浮かんでしまうよなあ。

 午後から大学。後期の期末試験。履修登録をしている約200人のうち、7割ほどが試験を受けた。ごく普通に講義を聴いてさえいれば、さほど悩まずに書ける問題を出題したつもりなんだけど、なんだか浮かない顔をして答案を提出していく学生が多い。まあ逆の言い方をすれば、ちゃんと聴いてなければまともな答案は書けないということでもあるのだが…。試験の出来の悪い学生が多いと、教える側としてもかなり落ち込むんだよなあ。


1月26日(月曜日) 不快な顔

 取材で出かける必要があったので、以前勤めていた会社の近くを通りかかったら、絶対に顔も合わせたくない人物とすれ違った。人間としても記者としても軽蔑していた元上司の一人だった。ほんの2秒ほど目が合ってしまって瞬時に目をそらしたのだが、あの底意地が悪くていかにも頭の悪そうな顔はたぶん人違いではない。「そんなもう何年も前のことなのに大人気ない」と思われるかもしれないが、理不尽でひどい目に遭わされた最低の体験と記憶は、残念ながらいまだに完全には払拭できていなかったりする。まだまだ修行が足りないとは思うけど、まあこればっかりは仕方ないよなあ。嫌なやつの顔を見ちゃったよ。ものすごく不快な気分になった。取材は問題なく終了。約3カ月ぶりに髪の毛をカットする。


1月29日(木曜日) 深代惇郎「天声人語」

 きのう28日付ときょう29日付の朝日新聞夕刊のコラム「記者風伝」で、故・深代惇郎氏のことが取り上げられていた。朝日新聞記者として「天声人語」を約3年間にわたって担当した深代氏の文章は、それはそれは名文で、しかも不思議なリズム感とユーモアと説得力があった。中学生のころに読んで、「こんな文章を書きたい」と感じたのを懐かしさとともに思い出した。そのころはまだ「新聞記者になりたい」なんてかけらも考えていなかったが、しかしその文章に強烈なインパクトと影響を受けたことは、今でもはっきりと覚えている。深代氏の真骨頂を一言で言ってしまえば、たぶん「絶妙なバランス感覚」にあるのではないか。深代氏の「天声人語」のような文章にあこがれて、高校時代には無意識ながら文体とか真似していたなあ。そう言えば、深代氏の書くような名文コラムを最近は全く見かけないなあ。読んでいてワクワクするような、次が待ち遠しくなるような、自分もこういう文章を書きたいと思わせるような、そんなコラムは深代氏の「天声人語」以降、残念ながら一回も読んだことがない。きのうときょうの朝日の記事を読みながら、あらためてそんなことを考えた。


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