身辺雑記 

by totoropen (OOKA Minami)


2009年7月1日〜7月31日

●編集会議●投稿メールの扱いについて●あきれた的外れメール●土肥校長のドキュメンタリーとルポ●記者の経済的安定は重要●テレビの力●高校生の視点で●都議選で民主が第1党●弁護士にも当たり外れ●シジミの味噌汁サイコー●越境ジャーナリストの会・その2●教員に起立斉唱義務/横浜地裁判決●人気の居酒屋で舌鼓●「新聞と教育」2009年夏号●やっと解散・総選挙●テレビで味わう皆既日食●土肥校長裁判の第1回弁論●取材対象との距離●英文記事●プリンスホテル全面敗訴●中田市長の不誠実な「投げ出し」●主権者の意思表示●●●ほか


7月1日(水曜日) 編集会議

 昼過ぎから東京・新宿で「冤罪ファイル」の編集会議。延々と8時間以上も続いた。中身は濃くて有意義な議論が多かったが、もう少し圧縮すれば半分の時間で終わったのではないかと思う。厳しさを増すばかりの出版状況の中で誌面改革をどうするか、どんな事件をどのように料理するべきかなど、カンカンガクガクと意見を交わす。さすがにめちゃめちゃ疲れた。編集者と先輩記者と一緒に、近くのアジア系の屋台村食堂で遅い夕食とビール。午前1時帰宅。


7月2日(木曜日) 投稿メールの扱いについて

 「身辺雑記」やそのほかのページの掲載記事に対するご意見・ご感想のメールについて。読者の皆さまからいただいたご意見・ご感想のうち、ほかの読者にとっても参考になるだろうと思われるものは、内容を改変したり、趣旨と異なる要約をしたりしないように注意して引用し、僕から返信したメールとともに、これまでも「身辺雑記」の中で紹介しています。これは、新聞や雑誌の記事に対して寄せられた意見・感想などを、読者のコーナーや編集後記に掲載するのと同様の考えです。

 掲載するか掲載しないかの判断はもちろんこちらでしますが、ただし個人のプライバシーに関わる内容は削除するほか、性別以外の個人名などは公表していません。「身辺雑記」の掲載記事に対するご意見などのメールは、個人的なご相談であるとか内部告発といった内容は別として、すべて「私信」ではなく「投稿」と理解しています。「身辺雑記」のページは掲示板ではありませんが、メールでのご意見・ご感想は掲示板への投稿と同種と考えます。

◇◇

 以上のような内容の話は、たぶん前にも書いた記憶があるのですが、読者の方からお問い合わせがありましたので、念のため改めてアナウンスの文章を掲載しておきます。


7月3日(金曜日) あきれた的外れメール

 6月17日付の「身辺雑記」に書いた記事「被害者証言の信用性」について、あまりにピントのずれた的外れなメールをいただいたので、論点がまるで把握できていない典型的な事例として参考になるだろうと思って、6月28日付の「身辺雑記」で紹介した。ところがその後、さらに輪をかけて論点のずれたメールが再び同じ人から届いた。前回はそれでも一応は筋の通った文章だったのだが、再反論のメールはなんとも思い込みが激しく支離滅裂な内容で、正直なところ唖然としてしまった。

 「被害者証言の信用性」の記事は、1)無実の冤罪被害者が証拠もなしに逮捕され有罪となっていいはずがない、2)被害者の証言の裏付けを取って客観的証拠を確保し、間違った証言やウソの証言をチェックすることこそが司法の責務だ、3)これは被害者にとっても、無実の罪で逮捕された冤罪被害者にとっても、双方の利益となる作業である──この3点を基本的な考え方のポイントとして、刑事裁判の基本原則を指摘したに過ぎない。6月28日付の「身辺雑記」に掲載した僕からの説明メールも同様だ。

 そもそも「痴漢行為を受けた」ことが紛れもないない事実であるとしても、被害者から痴漢行為の犯人だと指を指された人物が、そのままイコール真犯人とは必ずしも言えないだろう。痴漢行為のまさに真っ最中に手を掴むことに成功したというのなら文句なしの現行犯だが、多くの場合はそうとは限らない。体が離れてしばらく時間が経ってからとか、車内から駅のホームに出た直後といった時点で手を掴むケースも少なくない。そうだとすれば、「痴漢行為を受けた」ことは事実であっても、真犯人とは別の人間を犯人だと思い込んだ誤認逮捕が十分に起こり得る。これでは、みすみす真犯人を取り逃がしてしまうばかりか、無実の人間を犯罪者に仕立て上げる結果になってしまう。だからこそ、証言の裏付けをきちんと取って客観的証拠を確保することが重要になってくるのだ。

 事実の確認をするのは社会常識だ。ましてや一人の人間の身体の自由を奪って拘束して刑罰を与えるという場合には、事実の確認をことさら慎重に行うことが求められる。証言の裏付けを取って真偽をチェックし、客観的証拠を集めるのは、捜査当局が当然やるべき最低限の作業だ。それが刑事裁判の基本原則である。それを怠って被害者の証言を鵜呑みにして有罪と判断してしまうことに、疑問を感じない方がむしろ怖い。

 そういう想像力が、メールを送ってきたこの人にはまるで感じられなかった。「被害者が証言にしくい」ということと、「被害者証言をきちんとチェックすべきである」こととはそもそもまったく別の話で、論点がかみ合っていないにもほどがある。

 しかもこの人の「再反論」のメールには、「被害者の証言だけで処罰できないのであれば、ほとんどのチカン犯罪は裁かれることなくやりたい放題ということになる」と書かれていた。唖然とした。刑事裁判の基本原則をまるで理解していないのだ。「被害者の証言だけで処罰できる」などということがまかり通れば、いったいどういうことになるか考えたことはないのだろうか。そちらの方がはるかに大変な事態ではないか。あきれてものが言えないとはこのことだ。想像力の欠如もはなはだしい。

 さらにこの人は、京都教育大学の学生による集団強姦事件を持ち出し、「その場のみんなが合意があったと言えば、被害者の証言はデタラメだということになるのか」などと言い出した。そんなことはだれも言っていないし、どこをどうすればそんな論理展開になるのか、まるでさっぱり理解できない。痴漢冤罪の証言内容のチェックの必要性と客観証拠の重要性の話をしているのに、この事例を持ち出すのは不適当ではないか。さすがにこれにはドン引きした。支離滅裂としか言いようがない。そもそもこんなメールを、どうして僕のところにわざわざ送りつけてくるのか訳が分からない。

 思い込みが激しいのは結構だし、読解力や想像力がないのも勝手だし、「ジェンダーバイアス」を振りかざすのもご自由になさればいいと思うが、相手の論旨や論点をきちんと理解できないでいながら、的外れでピントのずれたかみ合わない主張を一方的に展開するのはいかがなものか。世間一般には通用しないし、説得力も持たない。たぶんドン引きされるだけだろう。こういう思い込みの激しい人がいる限り、冤罪事件はなくならないだろうなと痛感した。

◇◇

 【追記1】なお、このメールを送ってきた人のメールを紹介した部分は、「メールを掲載するなら名前を明記せよ」と意味不明の要求をしてきたため、これ以上はもう相手にしたくないので、すべて要約紹介に変更しました。

 【追記2】本当に頭の悪い人だなと思った。論点をまるで理解していない的外れな意見を寄越したので、中学生でも分かるように懇切丁寧に解説してあげたのだが、そうしたら、さらに輪をかけてピントのずれた反論を長々と書いて送ってきたばかりか、それが冤罪を助長し冤罪に加担するに等しい犯罪的な内容だったため、こてんぱんに完膚なきまで論破して差し上げた……とまあ簡単に言ってしまうとそういうことである。

 意味不明で矛盾だらけのメールを勝手に繰り返し送りつけてきておいて、その的外れぶりを指摘されたことへの反省や反論は一切しない(できない)。おまけに、自説のお粗末ぶりは棚に上げておきながら、支離滅裂で独り善がりな文章を、なぜか堂々と公表(!)する分裂気質と自己顕示欲には驚き呆れるばかりだ。

 理解能力がまるでないだけでなく、自分の馬鹿さ加減を、わざわざ実名(失笑)を出して自ら宣伝するケースも珍しい。恥ずかしいと感じないのだろうか。自意識過剰というか自己顕示欲がよほど強いのか。読解力もなく、理解力もなく、想像力もなく、感性も鈍くて、学習能力もないときたら救いがたい。いい加減に少しは自分の頭の悪さに気付いて反省すればいいのに。唖然呆然としか言いようがない。(2009/07/10=追記2)


7月4日(土曜日) 土肥校長のドキュメンタリーとルポ

 東京都教育委員会の管理体制を批判する都立三鷹高校の元校長の土肥信雄さんを取り上げて、テレビ朝日系で先週月曜(6月22日)深夜に放送された「テレメンタリー2009」と、同系列で今週月曜(6月29日)夜7時に放送された「報道発ドキュメンタリ宣言」が収録されたDVDを、オルタスジャパンのディレクター今野利彦さんが送ってくださった。「ドキュメンタリ宣言」は僕の名前は入らなかったが、「テレメンタリー」には番組の最後に流されるEDテロップに、資料提供者として僕の名前も入れていただいた。なんとなく面映い。ご配慮いただいてありがとうございます。

 番組は丁寧に土肥さんと生徒たちとの関係を取材していて、とてもいい内容だったと思う。この「身辺雑記」でもたびたび書いてきたように(6月9日付「身辺雑記」など参照)、生徒たちから絶大な信頼と支持を得ているからこそ、都教委に対する土肥さんの主張は説得力を持っているし、幅広い層から共感されるのだ。ちなみにテレビ朝日で放送された番組と重なる部分があるが、7月7日発売の月刊「創」8月号には、僕の書いたルポ「三鷹高校元校長が都教委を提訴した真意」が掲載される。昨年の「世界」10月号に書いたルポの続きのような内容で、土肥さんが卒業生からもらった色紙や提訴の背景などを書いた。間もなく裁判が始まるタイムリーなタイミングとなった。ぜひ書店で手に取ってお読みください。


7月7日(火曜日) 記者の経済的安定は重要

 マスコミ業界も不況の荒波には抗し切れず、どこの新聞社・テレビ局・出版社も厳しい経営状況に四苦八苦している。こういうご時世では、経費削減や所得ダウンを迫られない会社はまずほとんどないだろう。しかし、一定水準以上のコンテンツ(原稿や番組)を維持しようとするためには、それ相応の対価や費用が必要だ。そこのところを必要以上に削れば(ケチれば)、現場の意欲や士気が下がるばかりか、取材範囲の縮小や事実確認のサボタージュといった質そのものの劣化にもつながりかねない。能力や意欲のある人材が散逸し、やる気を失い、取材力まで低下してしまえば、あとはもう泥沼となり、坂道を転がり落ちるように悪循環の一途をたどるだけだろう。質の高いジャーナリズムを維持して独立を守るには、経営母体の安定した経済的基盤が不可欠だが、現場の記者にとってもそれはまったく同じだ。経済的な問題に振り回されていると、安心して集中して取材・執筆に取り組むことが難しくなってしまう。さらには、一定レベル以上の執筆陣も集まらなくなる。

 とまあ、そこまで教科書的な大演説はぶたなかったけれど、趣旨としてはそういうことを某オーナー社長に申し上げたら、現場の取材記者の現状について深く理解を示していただいて、報酬の条件などを大幅に改善することを約束してくださった。頼りになる先輩記者の強力な援護射撃がかなり大きかったと思うが、実に素晴らしい結果となって心からうれしい。なんという大英断。太っ腹。理解あるオーナー社長で本当によかった。理念と志を高く掲げながら手抜きなしの取材活動をしているつもりだが、僕たちも霞を食べて生きてるわけではないので、経済的な安定はとても重要な課題なのだ。そういうことに振り回されずに、安心して取材や原稿執筆に集中できるのは大変ありがたい。ほっとした。


7月8日(水曜日) テレビの力

 都立三鷹高校の土肥信雄・元校長を扱ったテレビ朝日のドキュメンタリー番組のことを、7月4日付「身辺雑記」に書いたら、「見ていましたよ。名前が出ていました」というメールを早速いただいた。深夜もかなり遅い時間帯の放送だったのにちゃんと見ている人がいて、さすがにテレビの力は大きいと思った。ゴールデンタイムに放送されたもう一つの番組は、たぶんもっと桁違いに大勢の人が見たに違いない。それにしてもテレビのテロップに自分の名前が出るのって、なんだか気恥ずかしい。マスコミの人間がそんなことを言うのも変なのだが、TBSラジオに出演した時もかなり緊張したし、ちょっと照れくさかったなあ。新聞記者出身で根っからの活字媒体の人間だからかもしれないけど。


7月9日(木曜日) 高校生の視点で

 夕方から東京・四谷。教育行政の都立高校への「管理と統制」問題を考えるパンフレットの企画会議。これまでのような「先生の先生による先生のための」裁判やそうした運動の「成果」をベースにするのではなく、「高校生の視点で、高校生が自分自身の問題としてとらえる切り口」にした方が、説得力が増して幅広い層にアピールできるのではないか……と問題提起した。

 都立高校の新聞部の生徒が、「自分たちの学校や卒業式をどうするか」という視点で、全校生徒にアンケート調査や取材をして特集記事にまとめた、という話を雑誌のルポで書いたことがあるが、結構反響があった。学校から自由がなくなり言論統制されることで、だれよりも影響を受けるのは生徒たちだ。その生徒たちがこの問題をどのように理解し、どんなふうに考えているのかを報告することで、読者の心にも何かしら伝わるものがあったのだろう。教員の窮状を訴えるのももちろん重要だが、やはり教育の話なのだから、生徒の視点から問題のポイントをとらえて整理した方が、より多くの人の理解を得られやすいのではないかと思う。とりあえず提案はペンディング。次回までの検討課題となった。


7月12日(日曜日) 都議選で民主が第1党

 注目の都議選は大方の予想通り自民党の歴史的惨敗で終わった。民主党が第1党に躍進し、石原与党の自民・公明は過半数に届かなかった。NHKの開票特番はまるで総選挙の予行演習を見ているようで、なかなか面白かった。民主党議員の中身は千差万別でかなり問題もあると思う。しかし、とりあえず自民党に引導を渡して解散総選挙を促すためには、どんな形であっても都議選で民主党を躍進させて民意を示す必要があったわけで、そういう意味では妥当な結果だと言える。それにしても麻生首相が開票前から早々と、「都議選はあくまで地方選。国政選挙に影響しない」などと予防線を張っていたのには、「よく言うよ、そんなわけねーだろ」と突っ込みを入れた人も多かったのではないだろうか。いよいよ「KYアホウ政権」のジタバタ劇場も、終演(終焉)まで秒読み段階となった。


7月13日(月曜日) 弁護士にも当たり外れ

 午後から都内。ものすごく久しぶりに「人権と報道・連絡会」の定例会に参加する。この日は、DNA型再鑑定で「足利事件」の無実が確定的となり、17年半ぶりに釈放された菅家利和さんと佐藤博史弁護士(二審から事件を担当)が、冤罪事件をでっち上げた捜査・裁判・メディアの報道のあり方について報告した。「裁判官も刑事も検察官も弁護士も、最初はみんな一緒に見えて区別がつかなかった」という菅家さんの言葉が印象的だった。そもそも刑事裁判なんて普通の人には縁がない世界だろうし、裁判官や検察官、弁護士が具体的にどんな仕事をしているのか、よく知らない人がほとんどだろう。ネクタイをしてスーツを着ている人は、みんな同じに見えてしまうというのも十分あり得る。しかも一審を担当した弁護士は、菅家さんが虚偽の自白をさせられていたこともあって、菅家さんを犯人だと思っていた。まさに菅家さんの周りは敵ばかりで、文字通り孤立無援の状態だった。

 一審で言い渡された有罪判決をひっくり返すのは大変だ。有罪率が99.9%と言われる日本の刑事裁判で、無罪判決を得るのはただでさえ難しい。だからこそ一審段階での弁護活動はものすごく重要になってくる。どういう弁護士がどのような姿勢で一審の弁護を担当するかによって、被告人の人生は大きく左右されると言ってもいいだろう。裁判官にも当たり外れがあるが、同じように弁護士にも当たり外れがあるのだ。改めて痛感させられた。


7月14日(火曜日) シジミの味噌汁サイコー

 夕方から東京・目黒。都立大学駅近くのしゃれた居酒屋で、都議選や総選挙の話題で盛り上がりながら記者仲間と飲む。この店は魚料理がメインのメニュー構成だが、スズキや真鯛を串焼きにして出すなど手の加え方がちょっと変わっていて面白い。もちろん刺身やタタキも普通にあって、どれも結構美味しかったんだけど、最後に注文したシジミの味噌汁がめちゃめちゃ絶品だった。たっぷり入ったシジミの出汁の旨味に加えて、適度に浮かべられたあおさ海苔の香りがなんとも言えない。「これはうまい」という言葉しか出てこなかった。やっぱり味噌汁はシジミが最高かも。酒を飲んだ後に見事にマッチするなあ。午前1時過ぎ帰宅。


7月15日(水曜日) 越境ジャーナリストの会・その2

 午後から東京・新宿へ。新聞・テレビ・雑誌などの媒体や会社の枠を越えて、志のあるジャーナリストが集まる「越境ジャーナリストの会」(仮称)の準備会議。先月の発足会(6月10日付「身辺雑記」参照)に続いて2回目。プロとアマの違いって何だ、ジャーナリストって何だといった議論から、冤罪や事件や権力に対してどんな立場で向き合うかといった取材姿勢の問題まで、わいわいと意見を交わす。とりあえず、さまざまな考えや発想をぶつけ合い、それぞれが刺激を受ける場として定期的に集まって、類は友を呼ぶ方式でメンバーの輪を広げ、情報交換や仕事にも結び付けていこうということになった。喫茶店で2時間ほど話した後、ビアホールで飲み食いしながらさらに4時間ほど。話が尽きることは全くなく、後輩や同年代や先輩ジャーナリストの話はとても刺激的で、初心に立ち返ることのできる貴重な時間が過ごせた。楽しかった。


7月16日(木曜日) 教員に起立斉唱義務/横浜地裁判決

 午後から横浜地裁へ。神奈川県立学校の卒業式や入学式で、国旗に向かって起立し国歌を斉唱する義務のないことの確認を、教職員135人が神奈川県に求めた裁判の判決を傍聴取材する。横浜地裁の吉田健司裁判長(深見敏政裁判長が代読)は、「校長が教職員に起立斉唱の命令を発することは、校長の裁量権を逸脱・乱用するものとは言えない。校長から式の円滑な進行のため、国歌斉唱時に起立斉唱命令が発せられた場合には、原告らは起立斉唱の義務を負うものと解される」などと述べて、原告の請求を棄却する判決を言い渡した。このような行政訴訟や労働裁判の常だが、判決言い渡しはわずか十秒で終了。裁判官らはそそくさと法廷から立ち去った。

 判決は、「日の丸・君が代を否定的に評価する歴史観や世界観、公的儀式において国旗・国歌を一律に強制することを是としない思想、教育において一方的国家観を注入するべきでないとする教育信念などの考えを持つこと自体は、思想・良心の自由として憲法19条によって保障されている」としながら、「式典の場において国歌斉唱時に起立して斉唱すること自体は、式典の出席者にとって通常想定され、期待される儀礼的行為であり、原告らの特定の思想を外部に表明する行為と評価することはできない。起立斉唱命令がただちに原告らの世界観・歴史観・信念それ自体を否定するものとは認められない。原告らは公務員として法令や上司の職務命令に従う義務を負っている」として、起立斉唱命令は憲法19条に反するとは言えないと判断した。

 さらに判決は、「教育長通知は、国旗・国歌条項の内容を具体化する県教委の権限によるもので、旧教育基本法や教育基本法が禁ずる教育に対する『不等な支配』に該当するとは言えない」としたほか、「教職員が定められた式次第に従わないという状況は、式に参列する来賓や保護者に不信感を抱かせて対外的な信用を失墜するほか、式の円滑な進行の妨げとなるおそれがある」「原告らは公教育に携わる公務員として国旗・国歌条項にのっとった指導をする義務を負っているというべきである」「式場に出席する教職員が国歌斉唱時に起立しないという状況は、生徒に対する指導上も問題があることは明らかである」などと断定し、「国歌斉唱時に国旗に向かって起立し国歌を唱和する義務を負う」と結論付けた。

 原告の教職員と弁護団は、「儀礼的行為という多数者の論理により、少数者の精神的自由を踏みにじる不当判決だ。憲法の最後の番人である裁判所が憲法を軽視した判決を下したことは極めて遺憾」とする抗議声明を発表し、ただちに控訴する方針を示した。

 弁護団代表の大川隆司弁護士は、「原告側の丁寧な立証や主張に対して、一切答えていない極めて不誠実で粗雑で乱暴な判決だ。今回の判決は起立斉唱する義務があると結論付けているが、国民の6割〜7割が国旗・国歌の強制はよくないと見ており、国民の常識に著しく反している。最高裁判決も少数者の意見には配慮し尊重することが望ましいとしており、過去の判例をきちんと勉強していないのではないか」と判決を厳しく批判。「同種のほかの判決と比べてみても、教員に対する相当踏み込んだ敵意や悪意が表れている。独特な判決だ」と指摘した。

 同弁護団の古川武志弁護士は、「われわれ原告側は、起立斉唱は国旗・国歌への敬意を強制する行為で内心を制約することになると主張したが、それに対して一言の理屈も理由もなく、儀礼的行為だと決め付けているのがこの判決の特徴だ。主張に対してかみ合った説明をして理由を示すのが普通だが、そうしたことが全く欠けているところに判決の水準の低さが表れている」と解説した。

 また、原告団の共同代表で県立高校職員の高田良衛さんは、「法廷に証人として出廷した教育長でさえ、国歌斉唱時の不起立によって式は混乱していないと証言している。ところが判決には、『式の円滑な進行の妨げとなる』などと、県教委が言ってもいないことまで書かれている。裁判官が一方的に自分の考えを述べるというのはおかしいし、事実に基づかない判決は論証していく必要があるのではないか」などと訴えた。

◇◇

 今回の判決について、上記の弁護士や原告の指摘はどれもいちいち的を射た批判や問題提起だと思うが、僕がこの判決の中で最も問題があると感じたのは、「式場に出席する教職員が国歌斉唱時に起立しないという状況は、生徒に対する指導上も問題があることは明らかである」などと断定したくだりだ。生徒指導に支障が生じるから教員は起立して斉唱しろというのであるが、これはまさに、教職員だけの問題ではなく、生徒に対しても起立や斉唱をさせろと言うに等しく、生徒への強制を是認していることにほかならない。

 教員に生徒への指導を求めるばかりか、生徒が国旗・国歌に忠誠を誓うことを、なんと裁判所が期待しているのである。こんなことまで踏み込んで、裁判官が判決で書いてしまっていいのだろうか。まさしく教育内容への介入であるとともに、生徒の思想・良心の自由の露骨な侵害と言ってもいい。裁判官の職務を完全に逸脱している。生徒の内心にまで踏み込むなど、そもそも憲法の番人である裁判官に許されるはずがない。教育関係者は判決のこの部分こそ徹底的に問題視して、怒るべきではないのかと僕は思う。

 閉廷後、裁判所地下の喫茶店で都立高校の教員らとしばらく雑談して時間調整。夕方から記者会見と報告集会。終了後、原告団の皆さんに誘われて中華街へ。弁護団と原告団の懇親会に顔を出す。敗訴にもかかわらず、あまりにも判決内容がお粗末だったこともあってか、弁護士も教員も意気軒高だった。エビチリが美味しかった。さらに県立高校の元教員に誘われて別の中華料理店へ。トマトとモツの煮込みが意外にも美味。このところ毎日飲んでるなあ。


7月18日(土曜日) 人気の居酒屋で舌鼓

 午後から藤沢。県立高校教員らによる自主研究グループの勉強会に参加。この日は僕もコメンテーター役として何らかのコメントをすることになっているので、いつものように遅刻できない。少し早めに家を出る(汗)。これまでの勉強会でのいくつかのテーマ報告をもとに、解説的な話をして全員でディスカッションした。

 終了後はいつものように、居酒屋の名店として知られる「久昇」本店へ。大勢の飲み助たちから絶賛されている店だという。まだ夕方5時だというのに既に予約でいっぱい。予約客が来るまでの1時間だけならばということで、奥の座敷きに通してもらったが、しばらくするとあっという間に店内は客であふれ返った。生ビールで乾いたのどを潤しながら、名物の具沢山のおから、ウナギがたっぷり入った卵焼き、レンコンと肉の挟み揚げ、アジの刺身などに舌鼓を打つ。ここの料理はどれも抜群に美味しい。さすが藤沢で人気の居酒屋だ。客が集中するだけのことはある。お店のおばちゃんたちの接客応対もとても感じがいい。

 きっちり1時間で約束通りに店を出て、続いてこちらも藤沢では有名らしい洋風居酒屋「BAR&RESTAURANT/Double Doors」へ。赤と白のワインを飲みながら、鎌倉ハムと生野菜のサラダを食べる。ここも店員さんの感じがよくて、店の雰囲気も落ち着いていて居心地がいい。しかし残念ながらやはりこの店も、予約客が来店するまでの1時間限定だった。まあそれでも十分に酔っ払った。帰りの東海道線は3駅も寝過ごしちまったぜ。


7月20日(月曜日) 「新聞と教育」2009年夏号

 日本で唯一の学校新聞の専門誌「新聞と教育」の2009年夏号が今年も届いた。小・中学校や高校の新聞部の生徒や顧問教師たちに向けて、「何のために新聞を作るのか」と問題提起し続けている今どき珍しく熱くて硬派の雑誌だ。今号で特に注目した記事は2つ。その1つは、福岡県の私立高校の新聞部を取り上げた記事だ。これまでずっと「対面式」だった卒業式が、新しく着任した校長によって「ステージ式」に変更された経緯と生徒らの声を、同高校の新聞部は事実に基づいて冷静に4号にわたって報じたという。卒業式の実施形態は「日の丸・君が代」の扱いとも密接に関係してくる。さらに、私立学校の顧問教師の立場は、校長や学校経営者との関係から微妙であることが多い。「顧問教師はさぞや苦悩したのでは」と記事は指摘していたが、そのあたりがどうなっているのかぜひ詳しく知りたいと思った。

 もう1つは、全国高校総合文化祭の開会式を取材した高校新聞部の生徒から、「皇室が来られたことで非常に厳しい取材規制を受けた。高校生の大会なのに矛盾を感じた」という声が編集部に寄せられたという記事だ。これに対して、高校新聞の元顧問教師2人が実名でアドバイスしている。「矛盾を感じたその感性を大事にしてください。現場で事実と目をそらさず向き合い、そこから何かを感じ取り、なぜそうなのかを考えること。それが新聞取材とジャーナリストの原点だと思います」とお一人はコメント。もうお一人は「こんな規制があったと冷静に報道を試みるのはどうでしょうか。それは皇室批判とは違うから遠慮することはありません。規制された悔しさをぶつけることは、ジャーナリストの大事な心だと思います」と回答している。なんと的確でジャーナリズムの本質を突いたコメントだろう。読ませてもらいながら、僕も記者としての初心に改めて立ち返らせてもらった。


7月21日(火曜日) やっと解散・総選挙

 ようやく衆院が解散され、日本中が総選挙に向けて走り出した。結局、麻生首相は任期満了のギリギリまで民意を問うことなく、政権にしがみついていたことになる。麻生氏は首相としてサミットに参加したくて、これまでずっと解散を先送りにしたのかもしれないが、国民の審判を受けないまま3人も首相をたらい回しにして、任期満了まで延々と引っ張り続けて、国民の権利行使の機会を奪った責任は重大だ。まともに民主主義が機能している国であれば、到底あり得ない話だろう。こんな異常なことがまかり通ってしまったことを、日本人としてとても恥ずかしく残念に思う。ともあれ本当に長らく待たされたが、やっと主権者たる国民の意思を示す唯一にして最大の場面がやってくる。各候補者と各政党の政策をしっかり吟味し、怒りと期待の一票を投じなければならない(マジだ)。


7月22日(水曜日) テレビで味わう皆既日食

 日本国内では46年ぶりの皆既日食。残念ながら横浜の上空は厚い雲に覆われて、太陽の姿を見ることはできなかったが、NHKの大平洋上からの生中継映像で、壮大な天体ショーの雰囲気をわずかだが味わうことができた。皆既日食になると同時に、あたりがすべて真っ暗になる、あるいは大平洋上では360度の水平線が夕焼けのようになるというのが、実に神秘的でなんとも言えない荘厳な景色だ。部分日蝕では暗闇は決して体験できないし、水平線の変化は洋上でなければお目にかかることはできない。実際にその瞬間にその場にいて、ぜひとも自分で体感してみたい光景だなあ。洋上ツアー組は天候にも恵まれて、心からうらやましいなあと思った。

 大学の教務課から学生の課題レポートが送られてきたので採点する。どれもよく書けていて結構な力作が多かったのだが、講座の担当教授から、「レポートのほとんどに優の評価を与えることのないように」と事前に注意があったので、さてさてどうしようかなとしばし悩んでしまう。インターネットの「ウィキぺディア」などのサイトの文章を、コピペでつないだようなあやし気なものはすぐに分かるので論外だけど、つたない文章ながらも独自の視点でまとめたレポートは、できれば高い点数をつけてあげたい。出席カードに書いてもらった授業の感想コメントなども参考にして、最終的に全体の評価を少しばかり底上げした。


7月23日(木曜日) 土肥校長裁判の第1回弁論

 朝から東京・霞が関の東京地裁。東京都教育委員会による管理体制を批判している都立三鷹高校の元校長・土肥信雄さん(6月9日付「身辺雑記」参照)の裁判を傍聴取材する。第1回口頭弁論のこの日は、原告である土肥さん本人が陳述し、「言論の自由がないところに民主主義はない。民主主義を教える学校で、教員に言論の自由がなければ生徒に民主主義は教えられない。これまで都教委に対して公開討論を要求しても一回も応じてくれなかったが、この裁判を通して十分な審議と公正な判断をお願いしたい」などと述べた。

 これに続く弁論で、土肥さんの代理人で主任弁護人の吉峯啓晴弁護士は、「職員会議で挙手採決を機械的に一律に禁止する都教委の姿は、硬直した組織運営をしてつぶれる会社のようだ。おかしいところはおかしいと是正を求める土肥校長の態度や行動は、なによりも子どもたちに支持されている。都教委の誤った方針を批判しただけで、何の落ち度もない土肥校長を非常勤教員に採用しなかったのは仕返しや見せしめであり、いくら都教委がおかしいにしても限度を超えている」と主張。憲法や市民常識に反する都教委の不法行為の一つ一つを、裁判で明らかにしていく方針を示した。

◇◇

 閉廷後、弁護士会館で報告集会。この日の弁論や今後の裁判について、弁護団と土肥さん本人が解説し、大学教授や支援者らから感想や意見が相次いだ。午後から横浜市内。県立高校教職員組合の分会長や書記長を対象にした夏季学習会に顔を出し、土肥さんの講演を聴く。旧知の先生の顔もちらほら。懇親会と、さらにその後の本部役員の飲み会にも誘われて参加する。楽しかったが実は睡眠不足だったので、一日ずっと眠くてたまらなかった(汗)。


7月24日(金曜日) 取材対象との距離

 午後から東京・神保町。ジャーナリスト仲間の集会「越境ジャーナリストの会」に参加する。この日の議論の中で気になったことをいくつか。記者クラブの現状を批判することに異論はないが、記者クラブを全否定する意見には僕は同調できない。そもそも一人一人では小さくて立場の弱い記者が、権力に対抗し団結して情報開示を迫るためにこそ、記者クラブは存在するはずだ。権力監視という本来の責任を、記者や記者クラブが果たしていない現状は厳しく批判されて当然だけど、だからといって記者クラブの存在そのものを否定するのは間違っていると僕は考える。

 もう一つ。権力との関係・距離感との関連で言うと、記者は政治権力と一定の距離を保つのと同時に、市民運動や政治運動とも同じように距離を保つことが大事だと思う。弱い立場の人々の目線に寄り添う姿勢は大切したいし、弱者の代弁者としての役割を果たすのは記者の基本だが、権力と一体化してはいけないのと同じように、市民運動や政治運動とも記者は一体化してしまってはいけないのではないだろうか。取材対象者が期待していることと、記者として伝えるべき内容とは必ずしも一致するとは限らないからだ。そのことを記者は常に自覚しておく必要がある。どこまでの関係なら一線を画すことになるのか、そのラインは人それぞれで微妙だからこそ、とても悩ましくて正解などない永遠の課題なんだけど、自覚して悩むことが大切だ。自覚することも悩むこともなく一体化してしまうのは、ジャーナリストとしていかがなものかと僕は思う。

 この日は在日コリアンの現状などについて、在日ジャーナリストと市民運動家から報告があった。多文化共生、多民族国家、国際化といったテーマを踏まえて変化しつつある日本の外国人政策と、在日コリアンの意識の多様化などに言及。外国人の地方参政権についても触れられた。地域住民としての政治参加は理念としては理解できるが、そんなに簡単に答えが出せる話だろうか。国家と民族、国籍と帰属意識、ナショナリズムと愛国心などの問題を掘り下げないままでは、幅広い理解を得るのは困難ではないかと感じた。

 終了後、近くの居酒屋で懇親会。さらに神保町の喫茶店へ。話をしていると、なぜか突然停電して店内は真っ暗やみに。店の外は明るかったので、どうやらこの店のブレーカーが落ちたらしい。2分ほどしたら復旧したが、店員からは何の説明も謝罪の言葉もなかった。これって接客業としてどうなんだろうね(たぶんもう二度とこの店には入らないだろうけど)。


7月26日(日曜日) 英文記事

 取材先で知り合った共同通信の英文記者が、自作の記事を郵送してくれた。大型封筒を開封すると中には、当たり前と言えばあまりにも当たり前のことなのだが、英語で書かれた記事がどっさり。うぐぐっ…え、英語かあ。そりゃまあそうだよなあ。とても苦手なんだけど、なんとか読ませていただきます。勉強しなきゃ(汗)。


7月28日(火曜日) プリンスホテル全面敗訴

 日本教職員組合(日教組)の昨年の教育研究全国集会(教研集会=全国教研)の全体集会を、グランドプリンスホテル新高輪が「右翼団体の妨害活動」を理由として会場使用の契約を一方的に解除した問題(2008年2月1日付「身辺雑記」参照)の訴訟で、東京地裁(河野清孝裁判長)は日教組側の請求をすべて認め、ホテル側に約2億9千万円の損害賠償と謝罪広告掲載を命じた。至極もっともで極めて妥当な判決だと思う。

 東京地裁と東京高裁は「会場を使用させよ」とする仮処分決定をしたが、プリンスホテル側は裁判所の決定をいずれも無視。昨年の全国教研の全体集会は中止に追い込まれた。憲法で保障された「集会の自由」はおろか、ホテルマンとしての倫理観と矜持、コンプライアンス(法令順守)の精神といったものをすべてかなぐり捨てたばかりか、司法制度さえも根底から堂々と否定したプリンスホテル側の振る舞いは、完膚なきまでに断罪された格好だ。

 ここまで明白な違法行為をしておいて、しかも裁判所の命令を重ねて無視しておきながら、裁判で有利な判決を期待するプリンスホテル側の頭の構造は、にわかには理解し難いものがある。よほど図太い神経の持ち主なのか破れかぶれなのか、いったい何を考えているのだろう。有名ホテルの看板に泥を塗るだけで、商売として考えてもメリットがあるとは思えないけどなあ。

 【追記】プリンスホテル側は判決を不服として控訴したという。これほどまでに露骨にコケにしたその司法の場で、常識的に考えてもプリンスホテル側が勝訴できるわけなどないだろうに。ますますもって何を考えているのかさっぱり分からない。


7月29日(水曜日) 中田市長の不誠実な「投げ出し」

 横浜市の中田宏市長が2期目の任期途中で辞職した。8月の総選挙には立候補せず、新しい政治活動に専念するそうだが、なぜこの時期に市政を投げ出すのかいまいち理解できない。「総選挙と同時に市長選をすれば約10億円の市の経費が浮いて、高い投票率で選挙ができる」などと説明するが、いかにも後付けで取って付けたような理由としか思えない。だったら今後の市長選はすべて、国政選挙と同時にやればいいという理屈になるが、それも本末転倒でおかしな話ではないか。

 そもそもだれも頼んでもいないのに、中田市長が勝手な都合で辞職したから、中途半端なこの時期に市長選をやらざるを得なくなったのだ。そのことの説明にしては、あまりにも一方的でご都合主義的に過ぎて説得力に欠ける。しかも、政権選択が問われる極めて重要な今回の衆院選に、市長選なんぞをぶつけられても、選管も余計に煩雑な事務作業を強いられて困るだけだろう。

 辞職するのは本人の自由だが、不祥事や失政がどこにもないのであるならば、きちんと任期いっぱいまで全うするのが筋だし、政治家としての最低限の責務だ。任期途中で投げ出す理由としては、たぶん大半の横浜市民は納得できていないと思う。中田氏の行動と説明は、あまりにも不誠実で無責任過ぎる。


7月31日(金曜日) 主権者の意思表示

 いよいよと言うか、やっとと言うか、待ちに待たされた衆院選の8月を迎える。各政党のマニフェストも出揃った。主権者たる国民として意思表示する権利をこれほどないがしろにされ、長らくお預けにされたことへの批判と抗議も込めて、それぞれの政策や選挙公約を十分に吟味して大切な一票を投じたいと思う。しかしどこの選挙区でもあるだろうけど、ぜひ投票したいと思える候補者がいないのは実に悲しい。そこでキーワードは「よりましな候補者へ」となる。みすみす死に票になるような一票は投じたくないと、今回はいつも以上に強く感じるからだ。なんとも悩ましい作業だけど、ここは思案のしどころだろう。さてさて1カ月後の結果はどうなりますことやら。政権選択(洗濯)選挙のスタートである。


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