言論・報道・表現の自由を脅かす

メディア規制に反対します

自由で民主的な社会を維持するために、

「言論・報道・表現の自由」は必要不可欠なものです。

これはマスメディアだけの問題ではなく、

すべての人々の自由と人権にかかわってくる問題です。

「国民の知る権利」を根底から否定する、

メディア規制(言論統制法)に断固反対します。

大岡みなみ

since 2002/5/24


◆毎日更新している「身辺雑記」から、「メディア規制」(言論統制法)とその周辺について書いた文章をまとめて掲載します。

(最終更新/2002年9月11日)


2001年●「思想検事」メディア法規制

2002年●メディア規制に反対言論・報道の自由メディア規制「読売試案」言論統制反対のページ新設横須賀でメディア規制反対集会


2001年5月30日(水曜日) 「思想検事」

 荻野富士夫「思想検事」(岩波新書)を読み終える。戦前の厳しい思想・言論弾圧と言えばすぐに特高警察を思い浮かべるが、実は特高と並んで抑圧装置として機能したのが思想検事だ。法律の制定と実際の運用を担って、弾圧の最前線に立ったエリート検事たちの実態が、分かりやすくまとめられている。治安維持法の運用・適用範囲がどんどん拡張され、次々と取り締まりの対象が広げられていく実態が恐ろしい。こじつけとしか思えない詭弁のような論法を平然と繰り出し、強引で一方的な法律解釈によって、弾圧は社会民主主義、民主主義、自由主義、新興宗教へと進む。とにかく「国体」を否認する者や、政府や戦争に批判的・非協力的な言動は徹底的に排除されていくのだ。読みながら「ちょっと待てよ」と思った。ここに書かれているのは1930年〜1940年代の話だが、この社会状況はまるで今と同じではないかと感じたからだ。

 例えば、ただ旗と歌を規定しただけの「国旗・国歌法」や、教育目標と指針を定めただけに過ぎない「学習指導要領」が、どんどん拡大解釈されて、いつの間にやら「君が代」は「起立して心を込めて歌わなければならない」ことになっている。そういう指示に従わない教員や、あるいは子どもたちを指導しない教員は処分され、下手をすれば分限免職(懲戒免職)されてしまうところまで来ている。これってどういうことなんだろう、というのが取材を通じて感じる僕の率直な疑問だ。まず手っ取り早く教育現場から「思想改善」「思想統制」を図ろうとするのならば、それはなかなか目の付けどころとしては鋭いと思う。そして、着実にその企みは成果を上げている。教育の現場は今、管理と抑圧で息の詰まるような状況にあり、無気力・無力感に覆われているからだ。そういったところも、まるで戦前と同じようである。

 そしてもう一つ、戦前と今とがダブって見えるのが、主体的判断を放棄したかのような裁判官の姿勢だ。「よく分からない時には検事の意見に従う方が正しいと思う」などと平然と言ってのける裁判官の姿は、現在の刑事裁判で検察側の主張をうのみにするのと、何ら変わるところがない。司法が独立して思想検事をチェックするのではなくて、むしろ積極的に思想弾圧の推進役になろうとしていたその姿に、背筋の寒くなる思いがした。


2001年6月2日(土曜日) メディア法規制

 主催者からお誘いを受けて、横浜で開かれたJCJ(日本ジャーナリスト会議)神奈川支部の集会に顔を出す。元東京新聞社会部次長の島田三喜雄氏が「言論の自由が危ない」のテーマで講演し、個人情報保護基本法案をはじめ、青少年社会環境対策基本法案、法務省の「人権救済機関設置構想」──といったいわゆる「メディア法規制・3点セット」についての話を聞く。言うまでもないが、これらの法案と制度導入の動きは、この2年間に相次いで成立したガイドライン法、通信傍受法(盗聴法)、改正住民基本台帳法(国民総背番号制)、国旗・国歌法などの延長線上にあり、市民生活コントロールの一貫であるのは明らかだろう。本来ならば政府や行政機関が握っている「個人情報」をまず規制するべきなのに、なぜか報道関係を規制して、いつの間にやら言論・表現を取り締まる内容にすり替えられている。それこそがこの法案最大の問題点だ。「個人情報保護」を名目に取材情報開示を迫るこんな法律が成立したら、「取材協力者(情報源)の秘密と安全を守る」という記者倫理は根底から否定されてしまう。調査報道やルポルタージュといったジャーナリズム活動は成り立たなくなるだろう。

 とりあえず新聞と放送は法規制の適用除外とされ、出版・雑誌が規制対象になりそうだというが、こういう法律は次々に拡大解釈されていくのが常識だ。そんなのは歴史がいくらでも証明しているわけで、だまされてはいけない。これは「言論・表現」にかかわるすべての人や団体に、いずれ必ず関係してくる問題なのである。

 しかし残念ながら、こうした一連のメディア規制の動きを、後押しするような世論が存在すると島田氏は指摘する。それはこれまでに新聞・放送・出版・雑誌などのメディアが、自分たち自身の戦争責任を反省もしないで、しかも権力のお先棒を担ぐような報道しかせず、さらには報道という名前によって数々の人権侵害を繰り返してきたからだ。「言論・表現の自由の危機」だというのに、市民の理解と支援が得られないのは、メディアが自主的な問題解決機関を作らずに、質の悪い報道を垂れ流してきた結果にほかならない。決して一部の品性下劣なメディアだけの問題ではない。そのことを自覚し、今からでも遅くないからジャーナリズム本来のあるべき姿に立ち返らなければ、取り返しの付かないことになるのは確実だ。だがメディアの危機意識は低く、深刻なまでに疲弊している。


2002年4月26日(金曜日) メディア規制に反対

 一昨日の24日に人権擁護法案の審議が参院で始まり、25日には個人情報保護法案の審議が衆院で始まった。この2つに、青少年有害社会環境対策基本法案を加えると「メディア規制3点セット」になるわけだが、先の有事法制関連3法案とともに、強く反対の意思を表明する。…ってゆーか、これまでも何回かこのホームページで書いているんだけど、いよいよ審議入りしたというのはかなり由々しき事態なので。しかし、盗聴法や国旗・国歌法や周辺事態法や住民基本台帳法改正(国民総背番号制)などと同じように、これもまたすんなりと可決・成立してしまうような気がする。ことの本質を理解していない議員(政党)が、賛成してしまうだろうから。この期に及んで、ようやくメディア各社も反対キャンペーンに乗り出したみたいだけど、本当は選挙の時にこそこういう問題は訴えておくべきだったんだろうなと、今さらながら思う。

 それにしても本来は、名簿や個人情報の流出による迷惑な勧誘電話やダイレクトメール対策とか、行政機関による人権侵害などへの対応が目的だったはずだ。それなのにそうした問題とメディア規制がごっちゃにされて、いつの間にかメディア規制そのものが目的のようになってしまったのは、さすがと言うしかない。そもそも法律のネーミングが耳に心地よくてウマイよな。もちろんメディアの側に問題があるのはその通りだ。個々の記者にも問題はある。何のために記者になったのか分からないようなのもいれば、まともな取材もしないでカッコだけつけている評論家みたいなのもいるし、堂々と人権侵害そのものの取材をしてニュースにする連中が存在するのも事実だ。しかしだからと言って、ミソもクソも一緒にしたメディア規制を受け入れるわけにはいかない。言論・報道・表現の自由を不当に制約・規制し、公権力が介入するものであって、結局は市民の利益(知る権利)を損なう重大な行為だ。

 何回も繰り返し反復して訪ねて、都合の悪いことや話したくないことや隠しておきたいことを聞き出して、問題の背景や本質に迫ることこそジャーナリズムの基本だ。それは市民が判断する材料を提供するために、市民の目と耳の役割をメディアが担っているからこそでもある。本来の役割を果たそうともせずに不法行為を続けるメディアに対しては、現行の法律と訴訟で十分に対抗できる。公権力によるメディア規制がまかり通れば、最終的に損害を被るのは市民の側であることを認識してほしい。

 だけど実は僕が一番不愉快に思うのは、ジャーナリズム本来の仕事に取り組む努力もしないで、したり顔でエラソーなことを言ったり書いたりしている連中なのだ。評論するのはだれにでもできるっつーの。記者だったらとにかく取材してみろよな。大変だとかデスクがアホだとか言ってるだけ。「じゃあ、お前はどんな記事を書いたんだよ」って突っ込みたくなるんだよなー。厳しくて困難な状況のなかで、できることをやってから言わないと説得力ないだろ。

 (最後の段落部分はどうしようか迷ったが、どうにも我慢できずに書いてしまった。最近は、なるべくこーゆー刺激的なことは書かないようにしていたんだけど。書いても理解できずに反発する人が世間にはいるもんで。まあいっか)


2002年5月3日(金曜日) 言論・報道の自由

 言論・報道の自由は、あらゆる市民権のなかで最も大切な権利の一つです。言論・報道の自由がなくなれば、基本的人権や民主主義がきちんと機能しているかどうか、正しく判断するための材料が提供できなくなるからです。私たちのかけがえのない自由と民主主義と人権を守り維持するために、言論・報道の自由は必要不可欠な根源的な権利です。言論・報道の自由がないところに、自由な社会が存在することは絶対にありません。

 日本国憲法には、言論・報道の自由をはじめ、いくつもの権利が記されています。これらの大切な権利を、私たちはとても大きな犠牲を払った結果ようやく手にしました。しかし日本国憲法の理念や精神は、社会や生活できちんと実践されていません。きちんと実践したうえで、それでもどうしても不都合があるから憲法を変えようと議論するのなら分かりますが、理念や精神をないがしろにしておいて憲法を変えようというのはまさに本末転倒です。

 すでに成立した国旗・国歌法、通信傍受法(盗聴法)、住民基本台帳法の改正(国民総背番号制)、そしていま国会で審議されている有事法制関連3法案とメディア規制…。これらの法律はいずれも私たちの大切な基本的人権をないがしろにし、憲法を踏みにじり、自由と民主主義を根底から否定するものばかりです。自由で民主的で平和な社会を守るために、いまこそ日本国憲法の理念や精神を私たち一人一人がしっかり理解し、実践すべき時だと考えます。


2002年5月19日(日曜日) メディア規制「読売試案」

 問題になっているメディア規制法案(個人情報保護法案と人権擁護法案)に対して、読売新聞が先週発表した「修正試案」には絶句してしまった。メディアにかかわる人間だけでなく、すべての市民の「表現活動」に影響するという視点から、立場や組織などの違いを超えて全面的な反対が盛り上がってきているのに、この「読売試案」は法案の一部を修正すればよいとの姿勢を、唐突に打ち出したからだ。読売の社長は日本新聞協会の現職会長でもあるが、その日本新聞協会はメディア規制法案に全面反対の声明を出していることから考えても、理解しにくい突然の「試案」発表だ。メディア規制反対の盛り上がりに水を差し、広範な反対の声を分断するためのものではないかとか、小泉内閣と何らかの裏取り引きでもあったのではないか、などと疑ってみたくもなる。読売新聞社は会社として憲法改正を唱えているし、読売の社長は小泉首相の師匠でもある中曽根元首相と大親友でもあるからなあ…。

 広範な連帯と団結に亀裂が入ったり、中途半端な妥協で将来に禍根を残したり、ということにはならないでほしいと願う。


2002年5月24日(金曜日) 言論統制反対のページ新設

 特別メッセージとして掲載している「盗聴法に反対します!」の第2部のページから、メディア規制(言論統制法)関連記事を分離して、独立したページ「言論統制法に断固反対します!」を新しく設けました。もちろん「サードインパクト」と「セカンドインパクト」の両サイトのフロントページ(表紙)から、それぞれリンクしています。

 「言論・報道・表現の自由」は、自由で民主的な社会を維持するために必要不可欠な国民の基本的な権利であって、この大切な基本権を脅かす一連の「メディア規制法」はまさに言論統制・弾圧法です。これは決してマスメディアだけの問題ではなく、すべての人々の自由と人権に直接かかわってくる重大な問題であると考えます。以上のような観点から、メディア規制(言論統制法)に断固反対する立場の特別メッセージを、はっきり掲げることにしました。


2002年5月26日(日曜日) 横須賀でメディア規制反対集会

 小泉首相の地元である横須賀へ。個人情報保護法案(メディア規制)と有事法制に反対する集会とデモを取材する。作家の吉岡忍氏やジャーナリストでつくる「個人情報保護法案拒否!共同アピールの会」などが主催。新聞労連や市民団体のメンバー、議員ら約三百人が市内を行進しながら、「ヒトラーがまずやったのは出版・報道の自由の規制だった。市民のプライバシー保護と言いながらメディア規制を進める手法は戦前やナチスと同じ」などと訴えた。

 それにしても、動員された労組がのぼり旗を立てて、金切り声を上げながら絶叫して歩くパターン化されたデモに、街行く人たちが共感しているとはとても思えなかった。迷彩色の軍服を着て「日の丸」の旗を振るグループもいて、その人たちは「皮肉」でやっているそうだが、どう考えても違和感しか残らない。どれも内輪向けの自己満足ばかりといった感じで、広く市民に訴えかける工夫をしているようには見えない。言っていることは正しいと思うけど…。ほかの複数の取材記者からも同様の感想あり。


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