身辺雑記 

by totoropen (OOKA Minami)


2006年5月1日〜5月31日

●守銭奴は守銭奴らしく●民主主義が機能しない学校●「ネット右翼」の無自覚●「時差」●レジュメ4本完成●企業内弁護士への不安●微妙な変化●杉並師範館●大学授業評価サイト●浸透●メディア不信●大教室は疲れる●「下妻物語」●都教委の行為の裏返し●弁護士過疎●●●ほか


5月1日(月曜日) 冷蔵庫の食材

 冷蔵庫の中に食材がたくさん入っていると、なんとなく豊かな気持ちになるな。すべて食べ尽くして、調味料とペットボトルのお茶だけだった冷蔵庫に、近所のスーパーの「お買得セール」で買った牛肉や豚肉や野菜がどっさり。あと、焼きそばの麺と納豆など。ここの牛肉はマジで安い。当然のことながら焼きそばは牛肉たっぷりだ。出来合いの焼きそばなんて、大してうまくもないのに高いだけでアホらしくて買う気にならない。


5月2日(火曜日) 守銭奴は守銭奴らしく

 村上ファンドが阪神電鉄に半数の取締役交代を株主提案した。これって明らかな経営支配ではないか。何も生み出さないのに金を右から左に動かすだけで、莫大な泡銭を手にする錬金術自体が気に食わないんだけど、それは資本主義社会だから百歩譲って仕方ないとして、しかし金に任せて法人組織そのものを引っかき回すのは、阪神ファンとして実に不愉快だ。これまで村上ファンドは阪神株の買い占めについて「純粋な投資」と説明していたのだから、守銭奴なら守銭奴らしく投資に専念していればいいだろう。阪神株をより高く売却したいのかもしれないが、鉄道も球団も極めて公共性の高い存在であることを考えれば、ほどほどにしておくべきだろう。身の程をわきまえろと言いたい。阪神タイガースが昨年リーグ優勝した時も水を差したし、村上ファンドがしゃしゃり出てくると、必ずと言っていいほどチームは負けている。選手に動揺が走らないわけがない。阪神ファンの多くは村上ファンドに反感を覚えている。


5月3日(水曜日) 民主主義が機能しない学校

 夕方から某所で都立高校の校長と会う。東京都教育委員会が「職員会議において挙手や裁決などの方法を用いて職員の意向を確認するような運営は不適切であり行わないこと」とする通知を出したことなどについて、感想や意見やほかの校長たちの反応を聞いた。開口一番、校長は「まいったよ。上意下達のファシズムだよ」と愚痴をこぼし始めた。「民主主義が機能しない学校で、生徒たちに民主主義は教えられないよ。先生の意向が聞けなくなったら、校長の方にしか顔を向けない教員ばかりになるだろう。そうなったら都教委の意向や施策のままに従う教育がまかり通ることになる。都教委が言う『校長のリーダーシップ』なんてウソだよ」。せき止められていた不満を吐き出すかのように、校長はしゃべり続ける。校長連絡会で都教委から説明を聞かされた際には、ほかの都立高校の校長たちの多くも「やってられないな」という雰囲気だったという。

 学校運営は学校の最高責任者である校長に任されているはずなのだが、実際には校長は都教委の命令に従うだけだ。まさに教育への教育行政の不当な介入で、教育基本法にも憲法にも違反している。しかしそれでも校長たちが表立って文句を言わないのは、報復人事が怖いからだ。都教委の一方的なやり方を「おかしい」と思っている良心的な校長もいないことはない。本当は都教委のロボットなんかにはなりたくないのに、それでもロボットとして機能せざるを得ない。東京都ではそんな異常なことがまかり通っている。


5月5日(金曜日) 「ネット右翼」の無自覚

 朝日新聞の「『みる・きく・はなす』はいま」シリーズの連載記事「萎縮の構図」の第6回(5日付朝刊)は、「炎上/他人のブログはけ口に」(=東京本社最終版の見出し。大阪本社13版の見出しは「ブログに群がる『ネット右翼』/異質な意見匿名で攻撃」)だったが、これに対する某巨大掲示板での「ネット右翼」の反応が予想通りで、まさに記事内容そのものだったのは笑えた。そして掲示板の書き込みを斜め読みしてみて、この連中はふだんから新聞を全く読んでいないこと、デタラメな事実と見当外れの言いがかりを何回でも平然と繰り返すことが改めてよく分かった。

 象徴的なのが、「匿名のコメントを批判しながら朝日の記事が匿名なのは卑怯だ」という書き込みだった。同じようなコメントがいくつもしつこく書かれていたが、朝日新聞に限らず最近の新聞連載記事には、初回や最終回の文末に「この連載は山田太郎が担当しました」といった署名が必ず入る。連載途中の記事に記者の名前がないからといって、非難するのはお門違いもいいところだ。そんなことはふだんから新聞をきちんと読んでいれば容易に分かる常識のはずなのに、事実に反する言いがかりを反復するのは、まさにデマ宣伝の典型だろう。そもそも、正体不明の匿名コメントが無責任きわまりないのに対して、新聞記事の責任の所在ははっきりしている。

 圧倒的多数がよってたかって一方的な書き込みや脅迫まがいのコメントを繰り返し、攻撃対象とする個人を追い詰める行為は、卑劣きわまりない「ファシズム」の手法そのものだ。さらにその背景にある考え方が「国粋主義的」で「排外主義的」だからこそ、ネット空間にうごめく彼らが「ネット右翼」と呼ばれるゆえんなのだが、彼らは自分が「国粋主義者」で「排外主義者」だとは自覚していない。だから「ネット右翼」と呼ばれるのを嫌がるのだろう。

 しかし「国家」を国民よりも上位に位置付け、「国家」(政府与党の施策)と異なる意見を述べると「反日」「売国」「アカ」などと断じて排斥しようとするのは、極右の国家主義者の発想にほかならないではないか。しかも人権を無視し、民族差別を助長するような言動を平然と繰り返すとなると、これはもう立派なファシストであり偏狭なナショナリズムの信奉者だ。しっかり認識してほしい。

 【関連記事】=ちなみに、朝日連載記事に登場する「事件」の遠因となった「他人のブログに攻撃コメント」について、以下の論評を書いています。参考までにどうぞ。

(1)「記者ブログへの暴力的攻撃」(2005年2月6日付「身辺雑記」)

(2)「記者ブログへの暴力的攻撃」その2(2005年2月8日付「身辺雑記」)

(3)「『記者ブログ』への暴力的攻撃・前編」

(4)「『記者ブログ』への暴力的攻撃・後編」

 ※(3と4は「新・大岡みなみのコラム風速計/ネット版」)=いずれも「身辺雑記」の文章を加筆修正してまとめたものです。


5月8日(月曜日) 「時差」

 GW期間中は結局、仕事も休みもどっちつかずで中途半端といった感じだった。原稿のまとめもまるで進まず、なんだか自分がダメ人間になってしまいそうだ。来週からは授業が始まるし、講演や取材の予定も入っているというのに、レジュメの準備もまだやっていない。うーん、まずいな…。とりあえずきょうは電話をかけまくって、いろいろと情報収集してみた。それなりに収穫あり。いつまでもだらけている場合ではない。

 最近少し驚いているのは、雑誌「世界」4月号に書いたルポの反響が、今ごろになって出てきていることだ。「読みました」「よく取材している」「視点がよい」といった感想をもらったり書評を見かけたり、講師の依頼がきたりという現象が続いている。信頼や権威はあるけれどもそれほど売れていない雑誌らしく(なんてことを言うと出版元の岩波書店から怒られそうだが)、発売されてから読者の反応があるまで1カ月〜2カ月の「時差」があるようだ。新聞や売れている週刊誌と月刊誌との違いだと思われる。たぶん口コミなどで広がって、それから図書館で読まれるとか記事のコピーが出回るとかしているのだろう。自分でもそれなりによく書けたルポだと思っているし、取材にもかなりの時間を費やしているので、こういう真っ当な評価をいただくとすごく励みになる。しっかりしたいい原稿を書くと、見ている人はきちんと見てくれているんだなと痛感する。逆に言えば、手抜きしたりいい加減な取材をしたりしていると、当然のことながら最低の評価が与えられ、だれにも相手にされなくなってしまうということでもある。記者も作家も作曲家も演奏家も、表現する人間にとっては作品がすべてだよなと思う。


5月9日(火曜日) レジュメ4本完成

 大学の授業2回分のレジュメと、市民グループと労働組合の学習集会2回分の講演レジュメをまとめて一気に作った。いずれも「教育現場の課題と問題点」がテーマだが、対象や目的はそれぞれ違っていて、話をする時間やポイントも微妙に異なるので、説明する項目やエピソードを入れ替えたり付け加えたりする。そうやって全体の構成を考えるのはパズルのようだ。

 これだけは伝えたいと思う最低限のことを話すには、本当は1時間以上は必要なんだよなあ。しかし例えば授業は1コマ1時間半あるけど、学生に資料を配ったりミニレポートを書かせたりする時間を差し引くと、実際に講議する時間は1時間弱しか残らない。要点を絞って枝葉の部分を思いきって削ればいいのだろうが、どうしてもあれもこれも詰め込もうとしてしまうのだ。決められた行数の中で要領よく原稿をまとめるのと同じで、講議や講演もすっきり簡潔にした方が言いたいことが伝わることは分かっているのだが…。


5月16日(火曜日) 企業内弁護士への不安

 午後から都内。企業内で組織の一員として働いている弁護士の話を聞く。組織を内部から積極的にチェックするメリットや、弁護士業務のパイが広がるとの説明はよく分かった。しかしその一方で、「弁護士としての独立した視点」を見失うデメリットはないのだろうか、「組織の論理」に組み込まれてしまうことは本当にないのだろうか、とイマイチ納得できない部分が残った。ある具体的な事件(秘密)についての断定的対応と姿勢を聞きながら、なおさらそんな感想を持った。依頼者の利益を最大限に生かすために働くのが弁護士だということで言えば、外部の顧問弁護士であっても、組織の論理に引きずられることはもちろんあるだろう。それでも少なくとも外形的には「独立した立場」は持ち得ているはずで、実はそこのところは天と地ほどの大変な差があるのではないかと思った。


5月18日(木曜日) 微妙な変化

 午後から授業。総合講座「現代社会の課題/教育はどうなっているのか」。東京都教育委員会による「日の丸・君が代」の強制の実態を、取材で得た事実を紹介しながら講義した。90分の同一授業を2クラス(2時限)続けて繰り返す。ほとんどぶっ通しでしゃべりまくったのでのどが痛くなった。リピートして授業するのは重労働だ。履修している約200人の学生はほぼ満席。さすがに1年生が対象の授業だけあってみんな真面目だ。

 授業の感想は上々で、「充実した90分の講義だった」「教職課程を取っているがとてもためになる話が聞けた」「東京の学校がこんな悲惨なことになっているなんて」「全然知らなかった」という声が多かった。この講座は今年で4回目だが、例年と同じように相当数の学生が「こんな強制をするのは絶対におかしい」と感想を書いてきた。授業の反応はとてもよかったし、僕が伝えたかったことはそれなりに伝わっていると考えていいだろう。

 しかし今年は、なぜかこれまでとは少し異質の反応が増えてきたように感じることがある。「日の丸・君が代」を強制する都教委を「おかしい」と批判的にとらえながら、「日本人なら日の丸・君が代を大事にするのは当然だと思う」「なぜこだわって反対するのか理解できない」と書く学生が多くなったように感じるのだ。統計を取ったわけではないが、学生たちの感想を読んでいてそういう文章が目立つ。「日本人なんだから当然」と単純に思考する空気が広がりつつあるということだろう。最近の国家主義的風潮に、トリノオリンピック、ワールドベースボール・クラシック(WBC)、サッカーのワールドカップ(W杯)などの話題が重なって、「国家と個人」が一体化することを無批判に受け入れる土壌が、急ピッチで整い始めているのかもしれない。「国家」の名のもとに何となくすべてが集約されてしまい、異論を差し挟むことがはばかられるような空気には怖いものを感じる。


5月19日(金曜日) 杉並師範館

 夕方から東京・杉並。市民グループの学習会に講師として招かれて話をする。テーマは「杉並師範館」(教師養成塾)の背景と問題点。教師養成塾については、2月4日付18日付の「身辺雑記」でも少し触れているが、官製の教師養成塾には教育行政に異議を差し挟まない「従順な教師」が育成される危険性がある。統制されて型にはまった教師や、国家主義的な価値観に染め上げられた教師が量産されるのも心配だ。なかでも「杉並師範館」は復古的なものを前面に出しているので不安に感じる人も多い。そもそも教師が教師としての力をつけるための研修は、本来はそれぞれの学校の中で日常の仕事を通して行われるべきだろう。教師仲間である先輩と後輩が悩みや愚痴を言い合って、議論しながら問題点を共有して成長するのは、職場全体で子どもたちに向き合うことにもつながる。

 しかし、学校現場は残念ながらそういう状況にはない。管理と統制で教師は多忙を極め、自由な議論も交わせないのが実態だ。そこに登場してきたのが官製の教師養成塾である。学校現場をがんじがらめにしておきながら、教師の授業力や指導力の向上を教育行政が唱えるのは矛盾しているのだが、だからこそ「従順な教師づくり」に乗り出してきたと言えるのかもしれない。

 そんな話をしてから質議応答。市民から地方自治をめぐる問題提起など。会場の教育関係者や議員からの発言はいろいろと参考になることが多く、講師として話をしながら取材もできて一石二鳥だった。懇親会に顔を出してビールで乾杯。午前1時半帰宅。


5月21日(日曜日) 大学授業評価サイト

 全国の大学生による「大学授業評価サイト」というのを、怖いもの見たさも手伝って少しのぞいてみた。5月19日付の朝日新聞で、女性大学講師が「匿名投稿者による中傷が氾濫している」「いかに楽して単位を取得できるかというニーズに応えている」などと批判する投稿記事を読んで興味を持ったからだ。ネットの某巨大掲示板のようなとんでもない落書きが満載されているのかと思いきや、いくつか見て回ったところ、意外にもそんなにデタラメではなかったので拍子抜けした。というか、むしろ「なるほど」と思わされるまともな評価が多かった。僕の授業についての評価も書かれていた。初年度(3年前)の授業を受けたと思われる学生が昨年秋に書き込んだものには、確かに古い情報も混在していたけれども、なかなか的確な評価をしていると思えた。同じ大学のほかの先生や他大学の知り合いの先生の授業評価も見てみた(この「身辺雑記」を読んでくれていると思われる何人かの教授の授業についても確かめてみました=笑)が、どれも適切でまともな評価内容だった。

 最近はどこの大学でも学生による授業評価を導入していて、評価結果は一般非公開の形で各教員に送られてくる。ちなみに僕に対する評価はそこそこよかったのでほっと安心したのを思い出したが、それに対してこの「大学授業評価サイト」では、評価内容が担当者の実名や担当科目名とともに一般公開されているのがミソだ。すべての大学の全教員の評価内容を見たわけではないから、中には根拠のない誹謗中傷が掲載されているかもしれないが、少なくとも僕が見た限りでは「個人への中傷の氾濫」といったことはなかった。

 そもそも学生が「単位取得の容易さ」「出欠確認の有無」「試験の際の持ち込み」「授業内容の充実度」などの情報に強い関心を示すのは当然のことであり、そういう情報が先輩から後輩へと受け継がれていくのは自然な成り行きだろう。すべての大学で伝統となっていると言ってもいい。「大学授業評価サイト」で僕が閲覧した先生たちに対して学生たちは、「試験は厳しいが授業内容は本当に面白い」「受けてよかったと思える授業です」「遅刻や早退は自由。持ち込み可の論述試験は厳しいが授業内容は充実している」「◯◯に興味ある人にはお勧めの授業です」「いくら書いても論点を通過していないと評価は厳しい」「出欠は取らないが真面目に講義を聞いていると面白くてつい出てしまう。テストは楽勝」「評価は厳しめ。授業は興味深くて面白い」…といった真摯で具体的な書き込みをしていた。よく見ているな、というのが率直な感想だ。

 ただ単に「単位が取りやすいか」というのではなく、「この授業は面白くて充実しているか」という情報提供は授業選択の際に大いに役立つはずだ。書かれている情報を鵜呑みにしないで、自己責任で参考にするのであれば、むしろ学生の利益に合致している。プライバシー侵害や名誉毀損などの問題があれば、関係者がサイトの管理運営者に厳重に抗議して法的対処を徹底させればよい。少なくとも現状を見る限りでは、ネットの某巨大掲示板にあふれ返っている落書きとは天地の差があるように感じた。


5月22日(月曜日) 浸透

 夕方から都内。都立高校の先生たちの裁判会議に顔を出す。7月末に予定されている市民集会の内容について議論。以前から会議で提言してきたことなのだが、学校現場の違憲状態をより広範な世論にアピールするためには、仲間内でパターン化された主義主張を繰り返すだけの「自己満足的な集会」をやっていてはダメだ、という考えがようやく先生たちに浸透してきた感じがする。むしろ遅いくらいだと思うけど、毎度お馴染みの顔ぶれやガチガチのサヨクだけではなく、保守的な政治家も引っ張り込むといった発想の転換を始めたのはとてもいいことだ。自民党にもタカ派とハト派がいる。憲法や教育基本法の理念を大切に考える政治家や市民は、保守層にも決して少なくないのだから。内向きから外向きへと視点を広げる姿勢がなければ、伝わることも伝わらないだろう。会議終了後、近くの居酒屋で夕食を兼ねて懇親会。午前零時半帰宅。


5月23日(火曜日) メディア不信

 福島民友の男性記者が小学校のトイレで盗撮した疑いで逮捕された。このニュースを見てどうにも腑に落ちないのが、先週明らかになった日本テレビの男性アナウンサーによる盗撮事件をめぐる報道だ。日テレ男性アナウンサーはJR横浜駅構内で今年2月、女子高生のスカートの中をケータイのカメラで盗撮した疑いで書類送検され、起訴猶予処分となったことが明らかになったのだが、テレビも新聞も実名報道しなかった。日本テレビは「社員のプライバシーにかかわることなのでコメントしない。社員にはすでに適切な対応を取った」と広報している。もちろん日本テレビのニュース番組やワイドショーでも、この件については何も説明はない。

 これに対して福島民友記者の場合は、テレビも新聞各紙もすべて実名報道だった。早大大学院の教授がJR品川駅構内で女子高生のスカートの中を手鏡でのぞいたとされた事件では、実名どころか顔やプライバシーのすべてがテレビ画面にあふれ返ったのは記憶に新しい。むしろほとんど袋だたきだった。公務員や教師、マスコミ関係者がこうした破廉恥行為を起こした場合は、これまでほぼ例外なく実名報道されていることを考えると、日本テレビのアナウンサーの扱いはどう見ても違和感があり過ぎる。「社員のプライバシーにかかわることなのでコメントしない」という日本テレビのコメントは、ほかの事件の報道と比較すればするほど説明がつかないし整合性に欠ける。日テレ幹部は何を考えているのか理解に苦しむ。こんなことをやっていると、メディアに対する市民の不信は拡大する一方だろう。日本テレビだけの問題では決してない。

 日本テレビの視聴者センターの担当者は、「福島民友記者の事件は本人が認めていて逮捕されたから実名報道した。日テレアナウンサーの事件は逮捕されていないし、女性が起訴を望んでおらず、もうかかわりたくないと言っているので実名にしなかった」などと説明する一方で、「内部の私が言うのもなんですが、対応に矛盾があることは承知しています。会社がどうするつもりなのか疑問も感じている。社員としても困惑している状況です」と本音を漏らした。日本テレビ上層部の姿勢には、さすがに一般社員もおかしいと思っているのだ。しかしそれにしても、パトロール中の鉄道警察隊員に取り押さえられているのに、現行犯逮捕もされずに任意で取り調べを受けたこと自体が不可思議なのだが、いったい何があったのだろう。そもそもこういう破廉恥事件を起こしたアナウンサーが、今後どんなアナウンスをするのか疑問だ。盗撮や性犯罪を報じるニュース原稿を堂々と読むことができるのだろうか。

 これに関連して、元日本テレビアナウンサーで記者の藪本雅子氏が、この事件について自身のブログでこんなことを書いているのを読んで、さらに仰天というか唖然とした。「盗撮で思う」と題する5月19日のブログには、「基本的には男っていうのは、女の子のパンツが見たい。目の前にパンツが見えそうなかわいい子が歩いていたら、必死になってのぞこうとするのが男だ。触れるものなら、触りたい、脱がしてやりたい、と思うのが男。目の前でパンツを見せられたら、どうにかなってしまう男がいたっておかしくない。だからといって、もちろん、盗撮をしていいとはならない。一線は越えちゃいけない。特に、マスコミは、人権や肖像権に敏感でなきゃいけないもの。だから、子会社の社員で盗撮未遂をやった人は情け容赦なく即刻クビにされた。日テレの彼も、社会的制裁はうけたでしょ。出来心であっても、結果は重い。重すぎる」(抜粋)などと書かれていた。

 「女の子は男に隙を見せないように身だしなみや行動に気を配りなさい」と同性からアドバイスしたという趣旨は分かるけれども、盗撮事件と並べて書く話ではないだろう。そもそもどんな服装や格好をしていようが、盗撮や痴漢やレイプなどの性犯罪を容認できるわけがないではないか。あたかも被害者の側に原因があったと言わんばかりの言いぐさには、開いた口がふさがらない。さらに絶句するのが最後のくだりだ。「子会社の社員で盗撮未遂をやった人は情け容赦なく即刻クビにされた。日テレの彼も、社会的制裁はうけたでしょ」…。何が言いたいのだろう。子会社と本社の社員の扱いの歴然とした違いを述べたいのだろうか。まさに支離滅裂。これほど明白に矛盾した文章も珍しいし、お粗末過ぎる。同じメディアの一員として情けなく思う。フォローのしようもない。


5月25日(木曜日) 大教室は疲れる

 午後から授業。総合講座「現代社会の課題/教育はどうなっているのか」の後編。「管理と統制」が進む教育現場の実態を紹介するとともに、教育基本法「見直し」の問題点と本質を講義する。100人いれば100通りの考えや意見があること、国家の統制によって国民を一つの方向に向けた戦前の反省が戦後日本の出発点だったことなどを説明し、その上で教育基本法「見直し」で議論になっている「愛国心」と「教育への不当な支配」の意味するものを解説した。ちょうど昨日、衆院特別委員会で教育基本法改正案の審議が始まったばかりなので、タイムリーなテーマになった。

 4限の大教室200人の授業はやたらに私語が多くて騒がしかったのに対して、5限の20人の授業はしーんと静まり返って居眠りする学生は一人もいなかった。授業の終わりに書かせた小レポートをざっと見たところ、4限の学生の半数くらいは評価しようもないほどいい加減な内容だったが、5限の学生はほとんど全員がぎっしり書いていて、しかもレベルも文章表現力も高い。終了のチャイムが鳴っても熱心に書いていた。この差は何なんだろう。やっぱり受講人数の問題なのかな。大教室だと話を聞いていない学生が多いということだろう。大人数を相手に話をするのは疲れる。レポートの採点も大変だ。


5月29日(月曜日) 「下妻物語」

 TBSテレビ系で放送された映画「下妻物語」を見た。面白かった。原作は嶽本野ばら。脚本・監督は中島哲也。茨城県下妻市のド田舎を舞台に、ヒラヒラのロリータファッションに身を包む深田恭子と、レディース暴走族のヤンキー土屋アンナとのミスマッチとも言える友情を描いた作品だ。ありえない設定とぶっ飛んだキャラクターでハチャメチャな物語が展開するのだが、ついつい登場人物に感情移入して主役の2人を応援している自分に気付く。そんな映画だった。リズム感のあるストーリーと画面処理は、さすがCM制作出身の監督だけあって、説明調っぽくなる場面でも全然飽きさせない。「決して群れることなく、自分の好きなことや歩きたい道を信じて突き進む、そういう生き方ってカッコイイじゃん」と見ている者に感じさせる作品だ。宮迫博之、篠原涼子、阿部サダヲ、岡田義徳、樹木希林といった豪華な脇役陣もいい味を出している。宮藤官九郎作品のテイストを感じたのだが、それは阿部サダヲや岡田義徳らの顔ぶれによるものだったのかもしれない。


5月30日(火曜日) 都教委の行為の裏返し

 教師が保護者や卒業生に対して「できれば国歌斉唱では着席して下さい」などと促すのは、どう考えてもやっぱりまずいと思うんだよなあ。東京都教育委員会が日本国憲法を無視した通達や職務命令を出して、一方的に「日の丸・君が代」を学校現場に強制している現実があるとしてもだ。それって自分以外のほかの人に一つの価値観を押し付けるという意味では、都教委のやっている行為と同じなんじゃないか。「憲法の『思想・良心の自由』に従って自分の考えで判断して行動して下さい」と言うのなら分かる。あるいは、本人が自分自身の判断で着席したり歌わなかったりするのは、もちろんどんな場面でも許されるべき当然の振る舞いだろう。しかし他人に着席を促すというのは、都教委の行為の裏返しに過ぎない。

 都立高校の卒業式で、来賓として訪れた元教師が開式前に保護者らに不起立を呼びかけたなどとして威力業務妨害罪に問われた刑事裁判で、東京地裁は罰金20万円の判決を言い渡した。検察が懲役8月を求刑したのは行き過ぎで公訴権の乱用だと思うが、目的が正しければ何をしても正当化できるとする元教師の考え方も僕は賛成できない。むしろ都教委のやっている「教育統制」の本質が別の次元の問題にすり替えられて、逆に攻撃される材料を与えてしまうことを危惧する。しかしそれよりももっと問題だと感じるのは、先に述べた「ほかの人に自分の価値観を押し付けるのでは都教委のやっていることと同じではないか」という点だ。残念ながらそういう問題意識は、各社の報道のどこにも見当たらない。


5月31日(水曜日) 弁護士過疎

 岩手県花巻市へ。弁護士過疎地域で公設事務所を開いて、弁護活動をしている女性弁護士に密着取材する。首都圏や大都市周辺には大勢の弁護士がいるが、地方は弁護士が足りなくて困っている地域も多い。医療過疎と同じように地域格差があるのだ。サラ金などの多重債務による破産相談や、刑事弁護のための下調べに同行させてもらいつつ、学生時代の話なども聞きながら、7時間ほど仕事ぶりを見させてもらった。テキパキと仕事をこなす姿はカッコイイし、話っぷりも飾らず率直で気持ちいい。弁護士会のバックアップで開設された公設事務所ではあるけれども、やっぱり弁護士は独立した個人経営者なんだなあと実感する。しっかりと事務所運営を切り盛りするのはさすがだ。とても興味深くて楽しい取材だった。お忙しいところご協力いただいて、ありがとうございました。

 それにしても東北新幹線は揺れるなあ。行きは「はやて」、帰りは「やまびこ」に乗ったのだが、車内で学生に書かせたレポートを読んで採点していたら、横揺れが激しくて気分が悪くなってきた。適当なところで終わらせて、あとはひたすら爆睡する。東海道新幹線の走行はスマートでもっと安定しているぞ。午前1時帰宅。


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