●安倍色を一掃●拾ったMIDIデータを着信音に●会議●だれに訴えているの?●古田兼任監督「代打オレ」●1週間休講●亀田の試合はスポーツじゃない●大学祭●書評掲載●TBSは亀田問題で検証特番を作れ●池上彰氏の沢尻エリカ論を笑う●日本の電話料金が高いんだよね●裁判員PRビデオ●自覚と危機感●事件と報道●亀田兄の謝罪会見に違和感●「不起立情報」停止を答申●「答申尊重」の一方で●●●ほか
10月1日(月曜日) 安倍色を一掃ストップしていた国会が3週間ぶりにようやく再開され、福田首相が所信表明演説をした。狂信的な右翼タカ派の安倍前首相カラーは、ほとんど一掃されたと言っていいだろう。日本軍が住民に集団自決を強制したという記述が、教科書検定で削除された問題についても、福田内閣は安倍前首相の狂信的な姿勢(6月23日付「身辺雑記」参照)とは大きく異なる。福田首相や町村官房長官、渡海文科相が「沖縄の人たちの気持ちは分かる」「沖縄県民の気持ちを受け止めたい」と述べたことからも、前政権との違いは明らかだ。
文科省も検定による記述削除の見直しを始めたという。教科書検定に抗議する沖縄県民大会に11万人もの人が集まったことが強く影響しているが、しかしこれはやはり福田内閣になったからこその変化だろう。安倍前首相だったら何万人集まろうが沖縄の声など相手にもしないで、独自の歴史観と政治信条から「強制はなかった」と言い張ったに違いない。ハト派の福田首相は極めて常識的な歴史認識を示しているに過ぎないのだが、安倍前首相があまりに非常識だったので、前にも指摘したように福田首相がとてもまともに見えるのだ。けれどもそうは言っても、この変化はものすごく重要だ。有権者である国民の意思表示の結果なのだから。
10月2日(火曜日) 拾ったMIDIデータを着信音に好みのメロディーを奏でるMIDIデータをネットで拾った。せっかくだからケータイの着信音にしてみようと思って、パソコンからケータイにデータを添付ファイルで送信した。ところが何回やっても、「サイズオーバーのためファイルの一部を削除しました」というメッセージが表示されて、ケータイではMIDIデータが受信できない。そこでグーグルにキーワードを適当に打ち込んで検索してみる。するとやはり同じような状況で困惑している人がいて、解決法がいくつかのサイトに紹介されていた。
要するに、ケータイのメール受信設定の行数制限を解除すれば、大きなファイルも削除されずに受信できるというのである。なーるほど。トリセツ(取り扱い説明書)をひっくり返して、ケータイをあれこれいじってもまるで分からず、頭を抱えていた自分がアホみたいじゃん。なんとも簡単に解決してしまった。早朝でも深夜でもなんでも調べものができてしまうなんて、本当に便利な時代だよなあ。そんなわけで着信メロディーの設定も無事に終えて、ケータイからはお気に入りの曲が流れている。
10月3日(水曜日) 授業午後から授業。きょうは前回に続いて、ジャーナリズムに関心を持ってもらうための基礎編。記者の仕事と新聞発行の流れを説明する。住んでいる地域によって、同じ題字の新聞でも記事の中身やレイアウトが全く違うことがある、という話をマクラに使ったのは正解だった。松岡農水相が自殺した日の夕刊と翌日の朝刊をプリントして、最終版とその一つ前の版ではまるで別の新聞になっている実例を具体的に示した。普通の人はそんな違いがあることなんて知らないから、みんな素朴な驚きがあるのだ。つかみは成功。
もう一つ、時津風部屋の新人力士が稽古中に急死した事件について、息子が死亡する前後の様子などを、父親が生々しく語った新聞記事もプリントした。変わり果てた息子の姿を目にした父親の悲嘆を、記事は淡々と伝える。記者の意見や感情を交えなくても、事件の異様さや言いようのない憤りは読者にまっすぐ届く。事実を伝える報道の一つの事例として、記事の一部を読み上げながら解説したが、話題のニュースだけに学生の食い付きもいい。報道の意味や役割といったものに、かなり興味を抱いてくれたみたいだ。
学食で夕食後、パソコンセンターで調べもの。学外の有料データベースに無料でアクセスできるので、取材の下調べを一気に片付ける。取得した情報についても無料でプリントアウトできる。これは便利だ。最初は使い方が分からなくて、事務職員に何回か質問して手をわずらわせてしまったが、多くの学生が就職活動やレポート作成に利用していることもあって、慣れればなんてことない。今後も資料収集などに利用させてもらおうと思う。
10月4日(木曜日) 会議夕方から東京・四谷。秋のイベント実行委員会の会議。大川興業の芸人・阿曽山大噴火氏のトークショー「お笑い日本の裁判所」をメインに、教育裁判の現状について知ってもらおうというイベントだ(11月15日午後7時から、東京・中野ゼロ小ホール)。会議はたっぷり3時間。中身の濃い打ち合わせとなった。宣伝チラシの配布先や協賛団体への呼びかけ先などを詰める。今月中旬から都内で始まる大学祭をいくつか回って、宣伝することも決めた。大学祭めぐりは面白そうだ。どうせやるなら楽しみながらやらなければ。
それにしても相変わらず、裁判の当事者である原告教師たちの反応は鈍いままだ。自分たちの訴訟や学校の現状を広く知らせることにつながる企画なのに、こぶしを振り上げて「団結ガンバロウ」などと絶叫するような旧態依然とした集会にしか、彼らの多くは関心を示さない(価値を見い出さない)らしい。仲間うちだけを集めた自己満足の集会を繰り返しても、世間に広くアピールすることにはならないのに。そういうことにまるで気付かないとは情けない。
ある教師は「要するに世間知らずなんだよね」と解説してくれたが、そういう問題意識を持っている教師はほんの一握りだ。あまりに馬鹿馬鹿しくて相手をする気力もなくなってきたから、原告団に期待するのはもうあきらめた。裁判の原告となっている教師たちのためというよりは、むしろ大げさに言えば、健全な民主主義社会の発展に寄与するための企画なのだから。とりあえず、学生ら若者を中心に無関心層の市民に足を運んでもらって、笑って楽しんでもらえるようにと考えている。
10月5日(金曜日) 情報収集午後から横浜・関内。神奈川県内の公立高校関係者と会って、いろいろと興味深い話を聞く。高校に限らず小中学校のネタも。ここでは書けないけど、記事になりそうな(記事にすべき)ニュースをたくさん入手することができた。時間をつくって取材しなければ。
10月6日(土曜日) だれに訴えているの?午後から東京・永田町。「日の丸・君が代」に関連して処分されて、裁判を起こしている教師たちの集会を取材する。「憲法で定められた思想・良心の自由を守ろう」「強制はおかしい」と主張するのはもちろん間違っていないし、教育行政から不当な処分や不利益を受けていることへの憤りの気持ちもとてもよく分かる。しかし、集会でさまざまな団体の関係者が次々に登壇し、こんなひどい状況だ、こんなに闘っている、と発言を繰り返す様子を見ていると、これはだれに向けて訴えているのだろうと、どうしても強い違和感を感じないではいられなかった。参加者はほとんどが関係者と支援者だから、もうみんな知っているような話ばかりなのだ。仲間うちで現状をおさらいして団結を確認しあうという点では、確かにこうした集会も意味はあるだろうが、主催者らがチラシなどを配って一般市民にも参加を呼びかけていたことを考えると、「だれに向けて企画した集まりなんだろう」という疑問は、やはりどうしても払拭できない。一般市民がこの集会にやってきたら、ドン引きするだろうなあ。繰り返し指摘しておくが、仲間うちで自己満足の集会を繰り返しても、世間に広くアピールすることにはならない。そんな感想を持たざるを得ないプログラムだった。
◇◇ 古田兼任監督「代打オレ」 夕方から外苑前の神宮球場。ネット裏で、ヤクルト−中日戦を観戦する。中学時代の友達が、会社が年間契約しているネット裏のチケットが余っているということで、なかなか手に入らない特等席に誘ってくれた。試合はいわゆる消化試合なんだけど、今期で引退するヤクルトの古田敦也兼任監督のメモリアルシリーズの2日目となる。言うまでもなく僕は阪神ファンだが、古田兼任監督はプロ野球選手会での活躍も含めて応援している(2004年9月7日付、同9月10日付「身辺雑記」参照)。ネット裏観戦ということもあってとても楽しみである。そんな神宮の観客席は8割が埋まる盛況ぶり。ヤクルトファンだけでなく、中日ファンもかなりの人数だ。
試合は中日が一方的にヤクルトを攻めるワンサイドゲームで、ヤクルトは8−1で惨敗した。しかし、8点リードされた7回に、古田監督が「代打オレ」で自ら先頭打者として登場すると球場内は大興奮。期待通りに左前打を放つと総立ちのファンから大歓声が飛んだ。8回からは捕手としてマスクもかぶり、さらに9回も代打で左前打を放った。中日サイドも場内の空気をしっかり読んでいたはずで、古田には真ん中の球を投げたようだ。
9回には後続打者の打球で進塁した古田を3塁手はあえてアウトにせず、わざわざ1塁に投げた球が失投となって、古田がホームを踏んで1点を返したが、これもファンの期待にこたえるための心憎い演出だったかもしれない。圧倒的な力の差が歴然としている中日としては、試合結果に今さら影響はないわけで、古田と古田の引退を惜しんで詰めかけた野球ファンに最大限のサービスをしてくれたのだろう。たぶん球場内の観客は、どちらのチームのファンもみんな満足して帰途についたんじゃないかと思う。
10月9日(火曜日) アポ取り取材のアポ取り電話をいろいろかけているが、どこもなかなかつかまらない。困ったなあ。タイミングが合わないと、こういうループにはまっちゃうんだよなあ。
10月10日(水曜日) 1週間休講午後から授業。「何のために記者をやっているのか」「だれのために新聞を作っているのか」がこの日のテーマ。ジャーナリズムの原点がすっぽり抜け落ちた記者や編集幹部の実態を、僕自身の体験を踏まえて具体的に話す。学生たちにとってインパクトは大きかったみたいだが、それなりに感じるところはあったようだ。記者やメディアへの不信感だけを募らせるのではなく、新聞社の恥部の一端を知ることで、だからこそ逆に「ジャーナリズムのあるべき姿」を強く認識することができたのではないか。授業後に書いてもらった学生の感想を読んでそう思った。
あすから1週間すべての講義が休講になった。学内で20人を超える学生がはしか(麻疹)にかかったとのことで、感染拡大を予防する措置だという。症状を放置していた学生がいたため、サークルを中心に感染が広がったらしい。学校としては補講はしない方針だそうだが、うーん、それは困ったなあ。1回分の講義ができなくなると、全体の組み立てがおかしくなるし、話しておかなければならないことを話す時間がなくなってしまうからだ。補講をしなくていいと喜んでいる先生もいるが、僕にはそういう発想はないな。授業を楽しみにしている学生も半分くらいはいるみたいなので、むしろできれば補講をしてあげたいが、単位さえ取れればいいという学生にはそんなのは迷惑なだけだろう。どうやら予定を変更して、話の内容を適当に圧縮したり割愛したりするしかなさそうだ。
10月11日(木曜日) 亀田の試合はスポーツじゃないいやあ、亀田一家は相変わらず期待通りに笑わせてくれる。世界ボクシング評議会(WBC)フライ級タイトルマッチでの醜態のことだ。見事なまでのクズっぷりを如何なく発揮してたね…と言いたいところだが、世界中に日本人の恥をさらす格好になってしまったのは残念な気もする。テレビの中継を見ながら、外国人レフェリーも呆れているんじゃないかと思った。
技巧派で冷静なチャンピオンの内藤大助に対して、挑戦者の亀田大毅の稚拙さはだれの目にも歴然としていたし、実力の違いは圧倒的で判定でも大差がついていた。そうしたら最終12ラウンドで亀田が、首投げはするわ持ち上げて投げ飛ばすわで、これはどこのレスリング競技か大相撲なのかという反則を連発したのだった。どうやら亀田はレフェリーに隠れて、内藤の目や下半身を攻撃する反則行為も繰り返していたというから、もう呆れ返るしかない。しかもセコンドの亀田父や兄らも、大毅に反則行為を促すような発言をしていたらしい。まともなスポーツ団体なら、本人はもとより亀田一家はボクシング界から永久追放になるのが当然ではないか。
昨年行われた亀田興毅のタイトル戦の際にも本欄で何回も指摘したが(2006年8月2日付「身辺雑記」など参照)、そもそも亀田一家には対戦相手に対する尊敬の念が決定的に欠如している。ボクシングの選手はお互いに、生命を賭けて試合に臨んでいるのではないのか。それくらい危険で真剣勝負のスポーツのはずなのに、亀田一家には相手選手を挑発したり揶揄したり愚弄したりと、敬意を払おうとする素振りさえないのだ。さらに記者や周囲に対する言動もおよそまともではない。そのような人間が、生命を賭けて殴り合いをする競技に「スポーツ選手」として出場するなんてことが、社会的に許されていること自体がおかしい。
そして、亀田一家と同様におかしかったのが、この試合をテレビで生中継したTBSの姿勢だ。最初から中継を見ていたが、実況アナウンサーも解説者も必要以上に亀田を持ち上げていて、ものすごく違和感のある放送だった。内藤がまぶたから出血していることについて「亀田のTKO勝ちになる」と何回も説明し、明らかにお粗末な亀田の試合運びや疑惑の反則行為には「若さからくるもの」などと擁護を繰り返すといった具合で、公正中立なスポーツ中継とはとても思えないシロモノだった。昨年の亀田興毅のタイトル戦と構図は同じ。TBSは報道機関であることを自ら放棄しようとしているのだろうか。もう既にかなり多くの視聴者の信頼は失っていると思うが、TBSは全く何も学んでいない。
10月14日(日曜日) 大学祭午後から東京・神保町周辺の大学祭2カ所を回って、裁判ウォッチャーの阿曽山大噴火氏を招いて開くトークショー「東京大噴火」のチラシ配り。K女子大は「大学祭」というよりはむしろ「女子高の文化祭」といった感じで、受験の下見を兼ねた中学生とその家族だとか、女子大生狙いの男子学生といった客層が大半だった。すごく場違いな雰囲気がして居心地が悪い。もう一つのS大は、学生の多くが郊外の別キャンパスに通っていることもあって、お世辞にもにぎわっているという様子ではなく、はっきり言うと閑古鳥が鳴いていた。それでも実行委員会スタッフの学生はとても親切で、「大噴火」のイベントに少し興味を持ってくれたのは収穫かも。
それにしてもきょうの2校は、いわゆる大学祭のイメージとはかなり違っていたなあ。しかし次に行く予定のところは大規模有名校なので、キャンパス内外は喧噪に包まれ、学生たちや市民でごった返していて、いかにも「お祭り」らしく盛り上がっているのではないかと期待している。
10月15日(月曜日) 書評掲載神奈川県立高校の元教員Wさんが、僕の単行本「教育の自由はどこへ」の書評を書いてくれた。著者が言わんとすることを的確に読み取っていただいて、限られた紙幅の中で過不足なく紹介してくれている。ありがとうございます。「セカンドインパクト」の「大岡みなみの単行本」の中にある「書評・紹介記事一覧」のページに、抜粋記事を追加掲載しました。
10月16日(火曜日) TBSは亀田問題で検証特番を作れ日本ボクシングコミッション(JBC)が、世界ボクシング評議会(WBC)フライ級タイトルマッチで反則行為を繰り返した挑戦者の亀田大毅選手ら亀田一家に処分を下したが、この処分はあまりにも軽過ぎないか。大毅選手は1年間のボクサーライセンス停止、父親の史郎トレーナーに無期限のセコンドライセンス停止、兄の興毅選手に厳重戒告処分、所属する協栄ジムの金平桂一郎会長は3カ月のクラブオーナーライセンス停止の「厳罰」だという。だがこれは単なるうっかりミスによる反則ではない。だれが見ても意図的で極めて悪質な確信犯だったのは明らかなのだから、生命を賭けて殴り合って勝敗を決するプロボクサーとして、今後二度とリングに立たせないことこそが正義であり、本人のためでもある。
しかしそれはさておき、それよりも一連の騒動を伝えるTBSがまるで他人事のような態度に終始していることが、どうにもこうにも全く理解できない。亀田一家の傍若無人な言動を、これまで一貫してあからさまに美化・正当化し持ち上げ続けてきたのは、ほかならないTBSではないか。試合当日のTBSの実況中継でも、亀田に対する持ち上げぶりが目に余るほど異様だったのは周知の事実だろう。「やっていいこと」と「やってはいけないこと」は厳然と区別されなければならない。それなのに、「勝ちさえすれば何を言っても何をしてもいい」「視聴率さえ稼げば何でも許される」という風潮を助長するばかりか煽り立て、それによって亀田一家をこうまで増長させたのは、まさにTBSの責任にほかならない。
報道であろうがエンターテインメントであろうが、ただ単純にスポーツとしてのボクシングの試合結果を伝えただけというのならいざ知らず、亀田一家を必要以上に持ち上げ正当化し続けることで、TBSは「記録し伝達する者」の役割や枠組みをはるかに踏み越えてしまったのだ。もはや公正中立の立場に立って情報を伝えたなどという言い訳は通用しない。にもかかわらず、TBSは自分たちの果たしてきた行為と責任についてまるで触れようとしない。亀田の反則行為や謝罪について面白おかしく伝えるだけだ。これでは、現場記者やスタッフがどんなに社会的に意味のあるニュースを報道番組の中で流しても、まるで説得力がないし視聴者の支持も得られないだろう。
TBSはまず何よりも自分自身を振り返り、これまで亀田一家を使って垂れ流してきた番組について、検証し反省する特別番組を制作・放送すべきだ。そうでもしなければ、TBSに対する視聴者の不信感は決定的なものになってしまうだろう。せっかくほかでいい番組を作っても相手にされなくなることを心配する。そんなことになってもいいのか。「報道のTBS」の看板が泣いている。
10月17日(水曜日) 池上彰氏の沢尻エリカ論を笑う元NHK記者の池上彰氏が、10月15日付の朝日新聞の夕刊コラム「新聞ななめ読み」に、沢尻エリカの主演映画の舞台あいさつについて書いていた。終始不機嫌だった沢尻エリカの女王様気取りとされた態度を、「(朝日は)社会現象としてとして取り上げるべきだった」と池上氏は主張する。「人々が話題にしているのに、新聞だけはそれを伝えないのはのはとても不思議な光景だ。だから(朝日)新聞はお高くとまっていると言われてしまう」と批判し、「(舞台あいさつから1週間後の夕刊に)ようやく小さく記事が出たが反応が遅過ぎる。読者の期待に応えられないと新聞離れは加速する」と苦言を呈するのだった。
なんだそりゃ。全く見当外れの主張に苦笑するしかない。一般紙には一般紙としての役割があるだろうに。池上氏はスポーツ新聞やワイドショーとごっちゃになって、一般紙との区別がつかないのではないか。スポーツ新聞が1面トップで大きく取り上げるような娯楽性の高いニュースを、一般紙も同じように扱えというのか。読者はだれも一般紙にそんなの期待してないって。それぞれのメディアの果たしている役割が違うなんてことは、僕の授業を受講している学生だってみんなきちんと理解しているぞ。
芸能ネタやスポーツ選手のプライベートにかかわる分野について詳しく知りたい人は、スポーツ新聞やワイドショーを見るだろう。そもそも期待されているものが違うのだから、見当外れのニュースを素早く大きく取り上げたからといって、あるいは取り上げなかったからといって、読者の新聞離れが加速することにはつながらないと思うけど。むしろ、新聞が本来果たすべき役割である権力監視や調査報道や問題提起といったものに、力を注ぐ努力を怠っていることこそが、読者の不信感や新聞離れにつながっている気がする。テレビはNHKだけ、新聞は朝日新聞だけなんて人は、そもそも今どきの日本にはほとんどいないんじゃないですか、池上さん。
10月19日(金曜日) 日本の電話料金が高いんだよね友人(飲み仲間)の女性大学教授のケータイに久しぶりに電話したら、今年8月から米国のシアトルに滞在しているという。えっ、それじゃあこの電話は米国につながってるのか。ひょっとしてベラボーな通話料金になってしまうのでは…。アセアセ。そんなことを頭の中で考えていたら、向こうからかけ直すよと言ってくれた。インターネットを利用した「スカイプアウト」というサービスを使って、米国から日本の一般の固定電話に電話すれば、通話料金は1分3円もかからないというのだ。それってただ同然じゃん。MacOSの一部のバージョンには対応していない(僕のパソコンにも対応していない)システムだが、スカイプ契約者の側から固定電話にかける分には問題なく格安料金で通話できるとのことで、すぐにシアトルから横浜に電話がかかってきた。音質はとてもクリアで、タイムラグもほとんど感じない。米国での快適生活ぶりだとか、最近の少年事件と報道のあり方などについて、ついつい2時間近くも話し込んでしまった。米国では電話はただ同然で使えるのがジョーシキだとか。てゆーか、そもそも日本の電話料金が高過ぎるんだよね。
昼過ぎから東京・飯田橋。2年後に導入予定の裁判員制度をめぐり、法曹3者がそれぞれ製作したプロモーションビデオを見比べて検証する上映会を取材する。冤罪事件を考える市民団体の主催。
最高裁、法務省、日弁連の法曹3者が作ったドラマ仕立てのビデオは、いずれも裁判員制度PRを目的としたもので、裁判長役は最高裁版が山口果林、法務省版が中村雅俊、日弁連版は石坂浩二が演じている。審理結果は、法務省版は執行猶予付き有罪、日弁連版が無罪と見事に分かれ、それぞれの意図や視点の違いが明確化。最高裁版では、最初から有罪か無罪かの争いはなく、執行猶予を付けるかどうかが焦点になるが、最終的には全員一致で実刑判決を言い渡す結末だ。
ドラマの中で裁判長は、推定無罪の原則を裁判員に説明し、「納得できる結論が出るまで議論しましょう」(中村雅俊)と力説するほか、有罪の方向に裁判員を誘導しようとする場面(石坂浩二、しかしドラマの最後で改心する=苦笑)なども描かれており、製作者によって、裁判官の姿勢や役割も微妙に異なっている。
個人的な感想を率直に言うと、最高裁版は、裁判員が評決を出すまでの議論や葛藤があっさりし過ぎているばかりか、脚本も演出もあまりに冗長で、そもそもドラマとして論外のお粗末な出来だ。法務省版は、問題を全員が共有して納得できる議論をしようと訴えるあたりは、かなり説得力があったしなかなか共感できた。きれいごとで非現実的かもしれないが、理想的な審理の進め方であることは間違いないだろう。日弁連版は、法務省版とは違った視点から理想的な司法の姿を描いている。官僚的でロボットのような裁判長が、最後には真実に向き合おうとする姿には、「そんな良心的な裁判官なんていねーよ」と思わず突っ込みを入れたくなるが、起こり得ないドラマだからこそ、いかに実際の司法に問題が多いかを浮き彫りにしていると言えるかもしれない。
ビデオを見た参加者の一人は、「現実にはあり得ない内容だが、裁判のあるべき姿は描かれている。裁判官がこのビデオを見て反省してくれれば、国民を裁判員として引っ張り出さなくても、冤罪はなくなるのではないか」と感想を述べた。裁判員制度の導入には、国民の司法参加に期待する声がある一方、弁護活動の制限や裁判の密室化、メディアの検証がやりにくくなることを危惧する声も根強い。また、裁判員として他人を裁くことに不安や抵抗感を覚える人も少なくない。法曹三者のビデオが、こうした疑問にきちんと答えて説明しているかというと、疑問視する参加者が多かった。
午後から東京・早稲田。早大の西原博史教授(憲法)に久しぶりにお会いして話を聞く。国家と教師と子どもの人権の関係について批判的に論ずる西原教授の視点には、共感する部分が多い。最も分かりやすいのは、「良心の自由と子どもたち」(岩波新書)ではないかと思う。きょうも、そのあたりの話をいろいろうかがった。とりわけ印象に残ったのは、教師が子どもたちに対して持つ権力性や影響力を「自覚していない」という指摘と、自分たちの言葉が親に伝わっていないことを、これまたやはり教師が「自覚していない」という問題提起だ。教職員組合も教師自身も、そういう問題についてきちんと検証してこなかった。そもそも「自覚」や「危機感」がないのだから検証などするわけがない。組合活動家の教師たちとの間で、議論がかみ合わないのも当然かもしれないなと感じた。
10月24日(水曜日) 事件と報道午後から授業。テーマは「被疑者の人権、被害者の人権」。前年と同じようにまず最初に、容疑者が逮捕されてから送検・起訴・判決までの流れを大まかに説明して、その上で、被疑者の人権も被害者の人権も等しく守られなければならないことを強調。これまでメディアがどんな事件・事故報道をしてきたか、それによってメディアと市民と権力の関係はどうなっているかについて解説した。
いつものことだけど、「容疑者イコール犯人ではない」という事実は、学生たちにとっては新鮮な驚きだったようだ。「逮捕された人は犯人だと思い込んでいました」と多くの学生が衝撃とともに、新たな発見として受け止めてくれた。「痴漢冤罪」や「松本サリン事件」を例示すると、彼らはさらに身近な問題として理解してくれた。「逮捕された人は犯人」と思い込んでいるのは、なにも学生だけでない。世間の多くの人たちも同じで、それは警察情報を疑いもせず垂れ流しているメディアにしても同罪だ。しかし過去の苦い経験は生かされず、メディアは過ちを繰り返している。
10月26日(金曜日) 会議夕方から東京・四谷。秋のイベント実行委員会の会議。「お笑い日本の裁判所」の最終的な打ち合わせ。
10月27日(土曜日) 亀田兄の謝罪会見に違和感亀田一家の長男・亀田興毅が、父親に代わって謝罪会見をしたことについて、自分の言葉で立派に受け答えをしたとか、父親のことを思いやる場面にホロリとしたとか、これで父親離れの第一歩を踏み出したなどと、なんだか打って変わったように興毅を評価する声がテレビにあふれ始めた。確かに「家族」に対する姿勢としてはそれでいいだろうし、そういう形の表現もありだろう。しかし、「家族」への対応と「社会」に向けての対応とは、全くの別物として明確に区別する必要がある。亀田一家が対外的にしてきた言動や、世界戦で行った確信犯的な反則行為の数々は、彼ら親子の情愛などとは次元が違うだろう。社会人として極めて重い社会的責任があることを、どこまで認識しているか。そういうことにきちんと向き合って説明しなければ、亀田一家の「けじめ」にはならない。「家族」には向き合っていたかもしれないが、「社会」には向き合っていないように思えて違和感が払拭できなかった。
10月28日(日曜日) 「不起立情報」停止を答申神奈川県個人情報保護審査会の答申について取材。短い原稿を出稿。
◇◇ 神奈川県個人情報保護審査会は十月二十四日、昨年春の県立高校の卒業式や入学式で、国歌斉唱時に起立しなかった教職員の氏名や指導経過などを校長が県教育委員会に報告した文書について、「不起立は思想・信条に基づく行為」と明確に認め、「県教委は個人情報の利用を停止すべきだ」とする答申を出した。県教委が校長に報告させた文書は、県個人情報保護条例が禁止する「個人の思想・信条に関する情報の収集」にあたるとして、県立高校の教職員が県教委に利用停止を請求。これに対し県教委が不停止を決定したため、教職員十七人が同審査会に異議を申し立てていた。
同審査会は答申で、国歌斉唱時の教職員の不起立について「思想・信条に基づく行為である」と認めた上で、県教委が収集した情報は「条例で取り扱いが禁止されている思想・信条に該当する情報だ」と判断した。県教委は、「文書に記載されている情報はいずれも客観的事実であり、起立しなかった理由など思想・信条・内面にかかる情報は収集していない」と主張したが、審査会は「起立の拒否は、不起立者にその理由を問わないとしても、一定の思想・信条に基づく行為であることが推知できる。起立しなかった事実の経過は、思想・信条を推知し得る情報だ」と明言。また、県教委が同様の個人情報を取り扱う時は、あらかじめ県個人情報保護審議会の意見を聴くことが相当だとした。
神奈川では県立学校の教職員百七人(=1次提訴分。5次までで計168人)が、卒業式や入学式の国歌斉唱時に起立・斉唱義務がないことの確認を求めて提訴し、横浜地裁で審理が続いている。今回の答申は、裁判や教育行政に大きな影響を与えそうだ。
国歌斉唱時に起立しなかった教職員の氏名情報に関する神奈川県個人情報保護審査会の答申(きのう10月28日付「身辺雑記」を参照)について、県教育委員会は「答申内容を尊重せざるを得ない」として、収集した情報を廃棄する方針だが、その一方で「答申は両論併記だ」(高校教育課)と主張し、「審議会に諮問した上で調査は今後も続ける」「国歌斉唱時の起立を教職員に指導する」との姿勢を示している。
審査会は答申の中で、県教委が収集した情報について、「教職員の服務に関する事務にかかる情報としての側面も有する」と述べ、「正当な事務実施のために必要があると認めて取り扱う時は、あらかじめ県個人情報保護審議会の意見を聴くことが相当である」と指摘している。確かに「手続き論」としては、県教委はこれまで審議会に諮るという「手続き」をせずに不起立調査を続けていたことになるわけで、条例の「例外規定」に基づいて審議会に諮問し、もし仮に審議会が「必要あり」と認めれば、不起立調査はできることになるだろう。
しかしそうはいっても、審査会は今回の答申で、「条例で原則取り扱い禁止とされている思想・信条に該当する情報である」と明確に判断しているのだから、県教委は答申内容を真摯に受け止めるべきだろう。そもそも審議会に諮ろうと考えること自体がおかしな話だ。答申をきちんと読めば、県教委が主張するような単純な「両論併記」などではないことは明らかではないか。
神奈川では国歌斉唱をめぐって、東京都教育委員会のような職務命令や懲戒処分は出ていない。県教委がどこまで本気で不起立調査を続けるつもりなのか、今後も注視していくつもりだ。
10月30日(火曜日) 資料収集図書館で資料を収集してコピー。必要としていたものは一応すべて入手することができた。館内は混雑していなくて作業はスムーズに終了。取材と授業(教材)に利用する予定だ。
10月31日(水曜日) 休講大学祭準備のため授業は休講。きょうの休講はあらかじめ予定されていたことだからいいんだけど、先々週もはしか(麻疹)感染の予防措置のために休講だったんだよなあ。こんなふうに間隔が開くとなんだかリズムが狂ってしまうな。学生だって2週間も前の話なんか覚えていないだろう。てゆーか僕自身がそんなに覚えてないんだから(汗)。たまっていたメールの返事をまとめて書いて送信する。返信が遅くなってすみません。