身辺雑記 

by totoropen (OOKA Minami)


2007年6月1日〜6月30日

●本領発揮!ファシスト内閣●カエルのツラに小便●判決事前レク●ドラマ「プロポーズ大作戦」●コンビニ利用が激減●あえて一切注意せず●もろきゅう●控訴審スタート●生徒指導の厳罰主義●醍醐味●マイク故障●再雇用取り消し教員の訴え棄却●「中立」放棄した読売とNHK●有権者愚弄する会期延長●沖縄でも無神経な安倍首相●他者への想像力の欠如●「プロポーズ大作戦」最終回●だれに向かって伝えるのか●「慰安婦決議案」米下院委で可決●いじめ自殺裁判●ポスターから安倍外し?●学校間格差と経済格差●●●ほか


6月1日(金曜日) 本領発揮!ファシスト内閣

 ろくすっぽ国会審議もせずに詭弁を弄しながら、次々と重要法案の強行採決を繰り返す安倍内閣の姿は、まさにファシストの本領発揮だ。いくら何でもたった1日の審議で法案を採決するなんて、常識で考えて無茶苦茶なのは小学生でも分かる。「小学校の学級会から民主主義を勉強し直してこい」と言うしかないけど、ある意味でここまで開き直った姿勢には感心する。よほど焦燥感を募らせていて、なり振りなど構っていられないのかもしれない。

 疑惑だらけの農水相の自殺やデタラメ年金制度の露呈といった事態に、ファシストはファシストなりに危機感を抱いたのだろう。しかしいずれにしても、国民に対して説明責任を一切果たさないまま自殺したのは、公人である国務大臣として無責任で卑劣きわまりないし、責任はすべて安倍首相にあることは、はっきりと指摘しておきたい。何もかもうやむやにして、国民を愚弄したまま意味不明な法案を平然と通していく安倍内閣を、従順な有権者はそれでもやっぱり支持しちゃうのかな。だとしたら空し過ぎる。


6月4日(月曜日) カエルのツラに小便

 午後から大学。前期最初の授業をする。「現代社会の課題/日本の教育はどうなっているか」の前編だ。学生に配るレジュメや資料を印刷しなければならないので、余裕をもって昼前には登校したのだが、印刷機の調子が悪くて四苦八苦した。授業の前にどっと疲れてしまったぞ。そして履修者名簿を見てさらにため息をつく。3限が150人、4限が250人。しかも全員1年生だ。いやーな予感がする。そうしたら案の定、教室はとっても騒がしかった。

 「現代ジャーナリズム」の授業だと、1回注意したらたいていはシーンと静まり返るのに、この1年生の授業は何回注意しても私語が絶えないのだ。特に4限の後ろ半分に座っているのがひどい。前半分の席に座っている学生は、「いつもあんな感じでうるさいですよ」と呆れていた。「授業を聴きたいと思って教室にいる学生の迷惑になる」「聴きたくなければ寝てていいから、ほかの学生の権利を侵害することはするな。少しは想像力を働かせてくれよ」などと叱ったんだけどね。はっきり言って1年生のこの講座は気が重い。


6月5日(火曜日) 資料コピー

 図書館で調べものや資料コピー。いつもだれかが貸し出し中で館内にないことが多いが、きょうは運よく必要なものは全部コピーできた。とりあえず満足。


6月6日(水曜日) 判決事前レク

 午後から東京・霞が関。弁護士会舘と司法記者クラブで、再来週に東京地裁で判決がある都立高校教員の「日の丸・君が代」解雇裁判の記者会見(事前レク)。弁護士会館での会見には僕しかいなくて、弁護団と教員ら10人ほどに1人で向き合う格好になった。だだっ広い部屋に机の配置がいかにも面接会場という感じに、「聴聞会か最終面接みたいだね」と弁護士も苦笑する。ほぼ同じ内容のレクのリピートだと分かっていれば、こっちには参加しなかったんだけどな。しかしまあ、僕1人のために贅沢にも説明して質問を受けてくれたわけで、そう考えればこれはこれでいいか。

 この裁判は、2004年と05年に定年退職した都立高校の教員10人が、嘱託教員(再雇用職員)や非常勤講師を希望して合格したのに、卒業式の国歌斉唱の際に起立しなかったことを理由に東京都教育委員会から再雇用の合格を取り消されたのは、違憲・違法だとして地位確認を求めた事件だ。「健康状態や勤務成績が良好であること」が再雇用の合格条件とされており、都立高校ではこれまで、希望者はほぼ全員が合格して再雇用されていた。ところが都教委は、学校行事での「日の丸・君が代」の徹底を求める通達を出した2003年10月以降、国歌斉唱時の不起立に対しては「勤務成績不良」を理由にすべての合格を取り消した。その一方で都教委は、「日の丸・君が代」以外での懲戒処分を受けた教員の再雇用合格は取り消していない。

 判決では、都教委の通達や職務命令は「思想・良心の自由」を侵害し、「不当な支配」を禁じた教育基本法に違反しており、不起立を理由とする合格取り消しも違憲・違法だとする原告の主張に、どこまで踏み込んで判断するのかが注目される。また、嘱託教員や非常勤講師の身分について、特別職公務員として任用関係にあるのか(都の主張)、それとも民間労働者と同じ労働契約関係となるので合格取り消しは解雇権乱用になるのか(原告の主張)も、裁判の争点となっている。


6月7日(木曜日) ドラマ「プロポーズ大作戦」

 今、テレビドラマで唯一毎週楽しみに見ているのが、フジテレビ系の「プロポーズ大作戦」(月曜夜9時)だ。「裏雑記」には詳しい感想を書いたけど、これがなかなか面白くて考えさせられる。問題は最終回のオチの部分だろう。いったいどのようなオチを見せてくれるのか。期待半分、不安半分といったところである。ほろ苦くて切ないストーリーに、イライラしつつもしんみりさせられる。見ごたえあるSFラブコメだ。


6月8日(金曜日) コンビニ利用が激減

 最近はスーパーで買い物をすることが多いのだが、それに伴ってコンビニを利用することが激減した。コンビニでものを買うのは実に馬鹿馬鹿しいということを痛感している。食材はもちろん日用品や菓子や弁当や惣菜にしても、とにかくコンビニはどれも値段がべらぼうに高いからだ。スーパーが開いてない夜中や早朝に、必要があってコンビニを利用するのは仕方ないにしても、そうでなければアホらしくてコンビニで買い物をする気には到底なれない。同じ商品を並べてみて、スーパーとコンビニの値段の違いを目の当たりにすると、それまでなんて無駄な金を使ってきたんだろうと信じられない思いがする。雑誌はどこでも同じ定価だから、コンビニで買うけどね。


6月11日(月曜日) あえて一切注意せず

 午後から授業。「現代社会の課題/日本の教育はどうなっているか」の後編。きょうは私語がどんなにうるさくても、あえて1回も注意しないで無視して講義を続けることにした。オムニバス形式の授業なので次週には別の担当者に替わるし、僕が成績判定などすべての責任を負っているわけでもないので、学生の授業態度に対してそれほど熱くなって叱ることもないかと思ったからだ(だけど授業内容そのものはもちろん熱く語った)。

 3限(150人)の授業は、うるさいことはうるさかったが前回ほど騒がしくなく、しかも僕が力を込めて演説(笑)するくだりになるとシーンとなって、教室全体が講義に注目して集中していた。なかなかいい感じだ。話の展開や流れも上出来だった。われながらほぼ完璧な授業ができたという充実感を味わう。

 これに対して4限(250人)は、なぜか前回よりも出席者が多くて、用意したレジュメが足りなくなるほど。立ち見(?)まで出る有り様だ。そしてとにかくうるさい。最後まで私語が止まないのにはただもう呆れるばかりで、叱ってあげようなどという意思は完全にゼロである。熱心に聴いている前半分の学生に話をする姿勢を貫いた。3限と違って気分がどうにも乗らないこともあってか、話の展開や流れは散漫でボロボロでズルズル。不完全燃焼もいいところだった。あーあ、疲れた。


6月13日(水曜日) もろきゅう

 最近ハマっているのが、金山寺味噌とキュウリの「もろきゅう」である。水洗いしたキュウリに金山寺味噌をたっぷり付けて、頭からかぷっとかじりつく。シャキシャキした食感と瑞々しさと味噌の甘さが絶妙で、なんとも言えない美味しさだ。安くて手間がかからないのがこれまたいい。実にお手ごろなおやつである。ちなみに金山寺味噌って、ほかほかのご飯にも合うんだね。マジでおかず要らず。新たな発見だ(僕が知らなかっただけ)。


6月14日(木曜日) 控訴審スタート

 午後から東京・霞が関の東京高裁。都立高校の教員ら約400人が東京都教育委員会などに対し、起立や斉唱・伴奏の義務のないことの確認などを求めた訴訟の控訴審(第1回口頭弁論)を傍聴取材する。東京地裁(難波孝一裁判長)は昨年9月、「日の丸・君が代を強制する都教委の通達や職務命令は違憲・違法。いかなる処分もしてはならない」とする判決(9月21日付「身辺雑記」参照)を言い渡したが、都側はこれを不服として控訴していた。

 教員側代理人の加藤文也弁護士は、「一審判決は膨大な証拠を詳細に検討した上で、都教委の通達を違憲・違法と判断した。判決は多くの国民に支持されており、社説や世論調査などの新聞報道からも明らかだ。都側の控訴理由は理由がなく、控訴は棄却されるべきだ」と陳述した。続いて教員側の山中真人弁護士は、「日の丸・君が代の評価を争っているのではなく、裁量のない卒業式を強制するといった都教委の強制の是非を争っている」と述べるとともに、一審判決を否定する石原都知事の発言や判決後の都教委の対応を批判した。

 最後に、教員側の澤藤統一郎弁護士は、「憲法訴訟としての重みを理解してほしい。行政権力は教育の内容に立ち入ることが許されるのかが問われている。上告されれば最高裁大法廷で憲法判断が下されることになるが、最高裁の判断をリードするような審理を要望する」と締めくくり、東京高裁(都築弘裁判長)に対し、憲法と良心に忠実な姿勢で判決を言い渡すように求めた。東京高裁の3人の裁判官の胸に、果たしてどこまでこの訴えが響いただろうか。

 ちなみに、この法廷の右陪席(ナンバー2)は園部秀穂という裁判官だが、この人物は東京地裁八王子支部の裁判長時代にかなり強権的な訴訟指揮をしている(司法改革のページの記事「Tシャツ着用で退廷命令」参照)ほか、強制連行された中国人労働者が多数死傷した「花岡事件」の損害賠償請求訴訟でも、審理を一方的に打ち切る訴訟指揮をして、裁判官忌避の申し立てをされている。「花岡事件」の二審で、日中間の戦後補償訴訟で初めて和解を成立させた東京高裁の新村正人裁判長とは対照的だ(単行本「裁判官Who's Who/首都圏編」参照)。本件の都築弘裁判長は、現場の裁判官生活よりも司法行政職が長い人物。いわゆる法務エリート。

 都側の弁護団は、一審では数人だったのが控訴審から19人に増強された。「危機感の表れではないか。これまでと違って相当真剣になっている」と関係者は指摘している。

 新書を3冊購入。やっぱり都内の本屋は品揃えが豊富だなあ。横浜に戻って駅前のマクドナルドで、学生に書かせたレポートの一部を読んで採点する。全部で400通ほどあるので、一度に読むのは無理だ。とりあえず30通ほどを持参して、電車の中で読み残した分を読み終えた。まだまだ先は長い。


6月16日(土曜日) 生徒指導の厳罰主義

 午後から横浜市内。県立高校の先生たちの自主研究サークルで勉強会。きょうのテーマは、生徒指導の厳罰主義(ゼロ・トレランス方式=寛容度ゼロの毅然とした対応)について。荒れた学校や校内での銃乱射事件などを背景に、米国で導入が広がったのが「ゼロ・トレランス」で、退学処分も辞さない厳しい姿勢で生徒に対応する指導方法だ。日本でも最近、いくつかの高校で導入の動きが出てきた。髪の毛や服装などを点検指導して、規律違反が重なれば厳罰に処分する内容が「ルール」化されているという。

 こうした生徒指導の手法に対して、「徹底した管理教育で違反者を排除するのは教育の敗北だ」「子どもの面倒をとことん見るのが教育ではないか」という批判がある。その一方で、学級崩壊や授業中の私語、生徒の暴力などが横行する学校現場では、毅然とした姿勢を必要とする声は根強くあり、そういう考えも分からないでもない。教育行政からはがんじがらめに管理され、保護者や生徒からも集中砲火を浴びる教師たち。そんな追い詰められている教師にとって、規律違反者を厳罰に処分する「客観的な指導基準」は、有効な「武器」として受け入れられやすいのかもしれない。

 生徒に対する「厳しい指導」を考える際に最も重要な視点は、授業がきちんと成立するかどうかだ。私語によってほかの生徒の授業を受ける権利を侵害するという行為は、決して絶対に許されるものではない。断固とした対応も当然あり得る。教室の秩序を保つために必要な措置を取るのは、ほかの生徒の権利を守ることだからだ。しかし、そうした他者に対する権利侵害や妨害行為を断固として排除することと、髪の毛や服装といった個々人の規律指導に厳罰を導入することとは、明確に分けて考えるべきだろう。

 そして注意すべきなのは、規範意識や規律指導や道徳教育などといったものが、どんどん一人歩きしていく危険性だ。規律や規範意識の育成指導を理由に、国旗・国歌への忠誠心や愛国心を強調する動きが日本でも実際にあるのだが、そうなると、もはや戦前の忠君愛国教育への回帰としか言いようがない。うさん臭さ爆発である。国家の管理統制に教育が利用されるようなことは、絶対にあってはならない。これには十二分な警戒が必要だ。

 とまあ、そんな議論がたくさんあって、なかなか興味深いテーマの勉強会だった。終了後、参加者と一緒に横浜駅前の手羽先焼き鳥の専門店へ。名古屋風の味付けで統一されている店だが、どの料理も結構美味い。八丁味噌の煮込みうどんにも満足。


6月18日(月曜日) 醍醐味

 午後から授業。「平和研究/戦争とマスコミ」の前編。きょうは「『国益』と『愛国心』と権力監視」がテーマ。ジャーナリズムは何のために存在しているのかを理解した上で、そもそも「国」とは何なのか、メディアが軍や政府に都合のいい情報だけを垂れ流すとどうなるか──といったことを考えてもらうための話をした。時間配分もぴったりで、話の流れや展開もすこぶる快調。分かりやすくてまとまった授業ができた(と思う)。

 受講生は40人ほど。私語はほとんどなくて、居眠りする学生もほんのわずかしかいない。大半が熱心に話を聴いてくれて実にやりやすかった。以前に僕の別の授業を履修したことのある学生が何人かこの講座を選択していたのだが、「今回も興味深い話が聴けてよかった」と授業の感想カードに書いたり、教室を出たところで「去年の授業がきっかけでいろいろ関心を持って勉強しています」と声をかけられたりした。こういうのってうれしいよなあ。「のれんに腕押し」ばかりじゃないことが、後になって分かるのが教育なんだなあ。醍醐味みたいなものを実感させてもらう。ちょっと感激。


6月19日(火曜日) マイク故障

 午後から授業。「仕事とは何か」を考えるための総合講座。いろんな職業の人が交代で講義するオムニバス形式の授業だ。最近はどこの大学でもこういう授業が流行ってるらしい。僕は「記者って何だろう」と題して、新聞社の実態を紹介しながら「仕事における組織と個人」について話をした。4限と5限で同じ授業をリピートするのだが、4限のクラスは大教室で受講生は300人もいた。教室に一歩入った瞬間、階段教室特有の圧迫感にうっ!となる。しかも黒板でなくてホワイトボードだ。使いにくくて苦手なんだよなあ。

 対象学年は1年生が中心なので、騒がしいことは騒がしかったのだが、思っていたほどうるさくはなかった。予想していたのがひど過ぎたからマシに感じただけかもしれないんだけど。あるいは2〜4年生も一部受講していたからかも。途中でワイヤレスマイクが故障して使えなくなったので、後半は地声だけで講義するはめになった。それでも何とかなるものだ。後ろの席の学生がちゃんと聴いていたかどうかは疑わしいが、「聞こえますか」と尋ねて、目が合っても何も言わなかったので聞こえてはいたのだろう。

 ジャーナリズムの存在意義については、授業の感想を見た限りではそれなりに理解してくれたようだ。しかし、組織の中でいかに周囲に流されずに、自分のやるべきことを貫くか、何のためにだれのために仕事をするのか、上司の納得できない理不尽な命令にNOと言うことの意味はどこにあるか、といった働く姿勢や意識に関しては、どれほど理解してくれたかちょっと自信がない。使命感とか責任感とか正義感みたいな基本的な感覚が、年々少しずつズレてきているような気がする。感性が鈍化しつつあるのだろうか。この国の将来は大丈夫なんかいな。


6月20日(水曜日) 再雇用取り消し教員の訴え棄却

 正午過ぎに、東京・霞が関の東京地裁。卒業式の国歌斉唱の際に起立しなかったことを理由に、定年後の再雇用の合格を取り消された元都立高校教員10人が東京都を相手取って、嘱託教員(再雇用職員)や非常勤講師の地位確認と賠償を求めた裁判の判決を傍聴取材する(6月6日付「身辺雑記」参照)。東京地裁の佐村浩之裁判長は、「請求はいずれも理由がない」として請求をすべて棄却した。原告側はただちに全員控訴する方針を表明した。

 佐村裁判長は、「君が代」のピアノ伴奏を拒否した音楽専科教員に対する今年2月の最高裁判決(2月27日付「身辺雑記」参照)を引用し、「式典で歌唱者が起立することは儀式・式典での儀礼的行為だ。(起立や斉唱を命じる校長の)職務命令は、原告の内心領域の精神活動に影響を与えることは否定できないが、公務員の公共性に由来する必要かつ合理的な制約として許容される」と述べて、校長の職務命令を合憲とした。さらに、「職務命令は生徒の思想・良心の自由を侵害するものとは言えない」とも述べた。

 判決はすべてこのような調子で、国旗掲揚・国歌斉唱などを教職員に義務付けて職務命令に従わない者を処分するとした通達や都教委の姿勢についても、「通達や一連の都教委の都立高校に対する関与・介入は、必要かつ合理的な範囲にとどまると評価するのが妥当だ。教育基本法が禁ずる教育への不当な支配に該当するとは言えない」と判断。また、再雇用職員の合格取り消しに関しても、「正当な人事裁量権の行使である。不起立行為をもって勤務成績の良好性に欠けると判断したことが不合理だと言うことはできない。社会通念上に照らして著しく不合理であるとまで言えない」とした。

 今回の判決は、「都教委の通達や職務命令は違憲・違法。いかなる処分もしてはならない」と明確に理路整然と判断した昨年9月の東京地裁(難波孝一裁判長)判決9月21日付「身辺雑記」参照)とは、あまりにも対照的な内容だった。

◇◇

 「原告の請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする」。佐村裁判長はわずか10秒ほどで判決主文を言い渡すと、そそくさと法廷を後にした。教員や同僚ら支援者で満席の傍聴席は息を飲んだようにシーンと静まり返ってしばらく声がなく、それから一瞬の間を置いて、ざわめきが広がり怒号が法廷内に飛んだ。黒い法服を翻して立ち去ろうとする佐村裁判長ら3人の裁判官の背中に向かって、傍聴席からは「不当です!」「理由も言わないで逃げるの!」などと抗議の声が投げ付けられる。弁護団席の原告代理人の弁護士らは、いずれも呆然と青ざめた顔をして言葉も出ない。「予想外。信じられない…。ちょっと信じ難い判決だな…」。ベテランの澤藤統一郎弁護士も、それだけ言うのが精いっぱいだった。あまりにも一方的な酷い判決で、それだけ関係者の受けたショックは大きかったということだろう。

 その後、弁護士会館で開かれた記者会見の席で、弁護団長の尾山宏弁護士は「ピアノ裁判の最高裁判決に全面的に影響され支配された判決だ。裁判官は憲法と良心に基づいて判決を言い渡す独立した存在であるはずなのに、独自に判断した形跡がなくまことにふがいない。これは日本の民主主義の根幹にかかわる裁判である。他人の思想・良心の自由を大切にし、尊重し合うという意識が日本社会全体に広がり高まることが大切だ」と強調した。

 原告の元教員らはこの判決に対して、「全く不当な判決で納得できない。卒業式の途中ずっと、立って下さいと言いながら教頭が歩き回っていたことこそ異常ではないか。法廷で私たちが述べてきたことを裁判長はどう聞いていたのか」「強制してはならないと訴えている人間を排除する都教委擁護の立場に立った判決だ。非常に政治的で事実をねじ曲げていて信じられない。戦争を経験した最後の世代として教育実践してきた者だが、憤りを感じる」などと怒りをあらわにした。


6月21日(木曜日) 「中立」放棄した読売とNHK

 安倍首相が主張する「教育再生」を具体化させるための教育関連3法が、参院本会議で自民、公明党などの賛成多数で可決、成立した。これで、教育現場への国・教育行政の「管理と統制」は一段と強まることになるわけだ(5月17日付「身辺雑記」参照)。

 ところでこの法案について、朝日と毎日は「教育関連3法案」、読売は「教育改革関連3法案」、NHKは「教育再生関連法案」と表現している。それぞれの姿勢と体質がよく表れていると思う。政権与党べったりで無批判に伝えるなら、おのずとそれなりの呼び方をすることになるだろう。「教育関連3法案」と表現すれば、少なくとも最低限の価値中立性は保てるはずだが、あえてそうしないのは何らかの政治的意図があるのではないか、と受け取られても仕方あるまい。僕はもちろん「教育関連3法案」と表現する。


6月22日(金曜日) 有権者愚弄する会期延長

 衆院本会議で、今国会の会期を12日間延長することが自民、公明党などの賛成多数で可決。参院選の投開票日は7月29日に1週間ずれ込むことが事実上確定した。公務員制度改革法案、社会保険庁改革法案、政治資金規正法改正案など、どれもこれも全く見当外れの法案を通すために、安倍首相が無意味な会期延長を強引に強行したのは、デタラメ政権に対する納税者の怒りを少しでもそらしたいからだろう。夏休み期間中の投票日設定で、投票率低下を狙っているのかもしれない。ここまで露骨で姑息な見え見えの工作をするとは、国民を愚弄するにもほどがある。有権者をナメきってますな。今度の参院選は有権者自身が問われる選挙だ。しっかり投票しないと。入れたい候補者が少ないのが難点なんだけど。


6月23日(土曜日) 沖縄でも無神経な安倍首相

 沖縄戦の戦没者を悼む「沖縄慰霊の日」。太平洋戦争末期の沖縄戦で、日本軍が住民に集団自決を強制したという記述が、教科書検定で削除された(3月31日付「身辺雑記」参照)ことに批判が高まる中で迎えた追悼の日だ。

 住民の集団自決が日本軍に強いられたというのは、生き残った住民の多くがはっきりと証言している。まぎれもない事実であるにもかかわらず、平然と事実をねじ曲げようとする右翼グループの主張に、文部科学省がこれ幸いとばかりに乗っかったというわけだ。これに対して沖縄県議会は全会一致で、検定意見の撤回をと教科書の記述復活を求める意見書を可決した。沖縄の人たちにしてみれば当然だろう。

 そんな中で迎えた「慰霊の日」に、沖縄・糸満市で開かれた戦没者追悼式に安倍首相がのこのことやって来た。どのツラ下げてとはまさにこのことだが、式典終了後に沖縄戦をめぐる教科書検定問題について、安倍首相は「審議会で学術的観点から検討している」と述べたという。よくもまあヌケヌケと…。沖縄の地でよくこんな言葉を平然と口にできたものだ。この無神経さと厚顔無恥さには開いた口がふさがらない。「学術的観点から」ではなくて「政治的観点から」の間違いだろう。まともな学者なら「集団自決に日本軍の関与はなかった」などとは決して言わない。歴史的事実を平気でねじ曲げて、詭弁を繰り返して開き直るのは安倍首相の得意技だが、この図太さこそファシストの本領発揮だなと思った。

【おことわり】6月19日付から6月23日付までの「身辺雑記」をまとめて更新しました。


6月25日(月曜日) 他者への想像力の欠如

 午後から授業。「平和研究/戦争とマスコミ」の後編。きょうは「情報統制(情報操作)とジャーナリズム」がテーマ。大本営発表を垂れ流すメディアや軍の検閲・弾圧によって、戦時体制下では国民はまともな判断材料を入手できなかった。しかし情報統制や情報操作は、自衛隊イラク派遣の従軍取材でもされている。遠い過去の昔話などでは決してなくて、今現在のリアルタイムの問題でもあるのだ。そんな背景説明に加えて、団結して権力に情報公開を迫るべき記者クラブが、権力からの一方的な情報を垂れ流す存在になってしまっている状況や、NHKの放送内容に対する政治介入の問題点などを指摘し、ジャーナリズムの存在理由と果たすべき責任について講義した。メディアと権力と市民(有権者)との関係性や、情報統制(情報操作)の危険性を理解して、ニュースを見極める「自分の目」を持ってくれればと思う。

◇◇

 学生食堂でばったりH教授と出くわす。食事をしながら久しぶりにゆっくり話をした。話題になったのは最近の学生事情だ。注意をしても私語を止めない学生がこのところ急増していると感じていたけど、ベテラン教授の教室でも状況は同じだった。抽象的にものごとを考える習慣がなくなって、具体的で身近な話題にしか関心を示さない傾向が強まっているとの指摘もなるほどと思った。保守的な学生というか、他者への想像力が欠如している学生がこのところ急増しているなと不安に思っていたのだが、それもやはり同じように共通認識が得られた。

 「他者への想像力の欠如」というのは、つまりこういうことだ。例えば「日の丸・君が代」をめぐる都立高校の状況について授業で説明したら、これまでだと、「自分は日の丸・君が代は好きだが都教委のやりかたはひどいと思う」「私は別に日の丸なんてどうでもいいと思っているけど、強制するのはおかしい」といった反応が大半の学生から返ってきた。ところが今年はどういうわけか、「自分は日の丸・君が代は好きだ。嫌がる人の理由が分からない。黙って従え」「私は別に日の丸なんてどうでもいいと思っているけど、どうしてムキになるのか。言われた通りすればいいじゃないか」という反応を示す学生がとても増えているのだ。

 いわゆる「ネット右翼」や「突出した国粋主義」というのではない。もちろんそういう国家主義的な極端な思想を持った学生は、これまでもごくわずかだけど一定の数はいた。しかしそれとは明らかに違う。どうしても受け入れられないものを強制されることによって、心や身体に変調をきたすほど辛く感じる人がいること、そういう人間の存在や思いが全く分からないのだというのだ。「自分の考えや指向と違うものの見方をする人間の存在や思いや痛み」に対して、理解しようとか思いを馳せるといった「想像力」が決定的に欠けているのである。そういう学生が、なぜか急増している。

 私語をすることでほかの学生の迷惑になること、他者の権利を侵害する結果になるということ、そんなごく当たり前の想像力を働かせることができない学生も同じだ。しかも、厳しく注意されても止めようとしない。で、これは受講生の人数が多いことも原因の一つかもしれないと考えていたのだが、しかし、H教授との会話なども含めて、いろいろなケースを検討してみると、どうやら今年の1年生(今春入学してきた学年)に顕著な現象である可能性が高くなってきた。過去年度やほかの学年の状況、教室規模などから考えるとそういうことになる。ということは、小中学校や高校での環境が大きく影響しているのではないだろうか。学習指導要領の変更によるカリキュラムや教師の指導体制に、何らかの変化があったのかもしれない。この学年(あるいは以降の学年も)に何があったのか。いろいろなことが考えられそうだ。詳しく調べてみたい。

◇◇

 「プロポーズ大作戦」最終回 帰宅してから、フジテレビ系ドラマ「プロポーズ大作戦」の最終回を見る。想像していた通りの流れと結末になっていた。主人公ケンゾーの披露宴でのスピーチはちょっと意外だったが、でもきれいに話をまとめていていい最終回だったと思う。やはり過去を変えたいと悩むことよりも、現実に真正面から向き合って今現在をしっかりと生きること、今できることをしっかりやることが何よりも大切なのだ。きわめて常識的で当たり前の結論なんだけど、普遍的なテーマをさらりと前向きで建設的に描いてみせてくれた。切なくて甘酸っぱいドラマでした。


6月26日(火曜日) だれに向かって伝えるのか

 夕方から東京・四谷の弁護士事務所。「日の丸・君が代」強制に異議を申し立てている都立高校教員たちの裁判のサポート会議。先週水曜日(6月20日)にあった「再雇用取り消し裁判」の東京地裁判決(佐村浩之裁判長)について、改めて担当弁護士から分析と今後の方針について説明があった。「今までの中で一番悪い判決だ。圧倒的影響を与えたのがピアノ伴奏拒否裁判の最高裁判決で、多数意見や補足意見の悪い部分が全部ここに書かれている」と指摘。その上で、「佐村判決には教師に対する敵意が表れている。この国を道理が通る国にするには、国民世論や社会的雰囲気をつくっていかなければならない。戦場は法廷外にある」として、市民や保護者へ働きかけることの重要性を強調した。

 そうなんだよなあ。外に向かって事実を丁寧に分かりやすく訴えていくことが何よりも大切だ。そうしないと、すべてが壮大なオナニーショーで終わってしまうだろう。「突出した人たちが訳の分からないことをやっている」と片付けられてしまい、幅広い共感や支持が広がることはまず絶対にあり得ない。

 会議ではこの後、集会開催の提案があったのだが、どうやら原告教員や支援団体からの報告や主張を延々と繰り返すだけの集会になるらしい。この期に及んでも、まだそんな旧態依然とした発想から抜けられないのか。がっかりしたが、そういう集会を開くことに何の疑問も感じていないような空気が会議を支配していたことに、さらにがっかりさせられた。仲間うちに向かって聞き飽きた演説をいくら繰り返しても、世論には何の影響も与えないではないか。「だれに向かって何を発信しようとするのか」が曖昧なままだから、たぶんそういうタコつぼ的な発想にしかならないのだろう。これまでこの会議で何回も訴えてきたことだけどもう一度、発想の転換を促す発言をした。「いったいだれに何を伝えたいのか」。会議の流れは少し変わった(ようだ)。


6月27日(水曜日) 「慰安婦決議案」米下院委で可決

 従軍慰安婦問題について、日本の首相に公式謝罪などを求める決議案が、米下院外交委員会で大差で可決された。これに対して安倍首相は「他国の議会のことなのでコメントしない」と述べるなど、まるで他人事のような態度だが、そもそも安倍首相が「強制性を裏付ける証拠はない」などと発言したことで、米国メディアや議会から激しい批判が噴出したのではないか(3月8日付「身辺雑記」4月28日付「身辺雑記」参照)。わざわざ火を付けて問題を大きくしたのは、何を隠そう安倍首相自身だろう。

 さらに加えて、自民党や民主党の一部の国会議員らがこれまたご丁寧にも、「強制性はない」とする意見広告を米紙に掲載し、これが米国内で猛烈な反発を招いた。紛れもない歴史的事実をなかったことにしようとする愚かさ。そんな余計なことをするから、むしろ過去が蒸し返されて再び謝罪を求められることになる、ということになぜ気付かないのだろうか。タカ派の国家主義者たちの馬鹿さ加減には、ほとほと呆れ果てるばかりだ。こんな連中が同じ日本人かと思うと情けなくなる。まさに狂信者としか言いようがない。


6月28日(木曜日) いじめ自殺裁判

 午後から東京地裁。いじめ自殺事件の裁判を傍聴するつもりだったが、満席で傍聴できず。もっともこの日は書面のやり取りだけで終わったので、傍聴する意味はあまりなかったのだけど。裁判は、埼玉県北本市の中学1年の女子生徒が2005年10月に自殺した事件について、「娘の自殺はいじめが原因。学校や国(文部科学省)は十分な調査・指導をせず、いじめを防ぐ義務を怠った」として、両親が市と国に損害賠償を求めた訴訟だ。市側はこの日までに準備書面を提出して、「調査を尽くしたが、いじめを受けていた事実は確認されなかった」などと主張し、市にいじめ防止義務違反や調査報告義務違反はないと反論した。

 閉廷後、弁護士会館で報告集会を取材する。自殺した女子生徒の両親は、「なぜ娘は自殺したのか、学校で何があったのか事実が知りたい。それが分からなければ、娘の死を受け入れることはできない。学校や教育委員会には事実関係の調査を何回も求めたが、形だけのアンケートをしただけで何の説明もなかった」と述べて、行政への不信感をあらわにした。娘さんの遺骨は今も自宅に置かれたままだ。「気持ちの整理がつかなくて納骨できない」という。

 調査と説明報告を求める両親に対し、校長ら管理職も教師も教育委員会もだれ一人として何があったかを説明せず、ひたすら事実を隠蔽しようとするばかりだった。時間が経てば生徒たちの口はどんどん重くなる。人々の記憶も薄れていく。学校や教育委員会は事件が風化するのを待っているようだ、と両親は訴える。そんな話を聞いて、学校というところは本当に閉鎖的で、学校関係者というのは平気でウソをつく人が多いなあと改めて思った。東京・町田市で起きた中学2年生のいじめ自殺事件について、だいぶ前にルポ「葬られた作文」を書いたが、そのころと何も変わっていない。


6月29日(金曜日) ポスターから安倍外し?

 今月に入って一斉に、街なかの自民党政治家のポスターから、安倍首相の顔がきれいさっぱり消えた。それまで自民党の現役国会議員や立候補予定者は、例外なく安倍首相とツーショットでポスターに収まっていた。こういうのって小泉前首相の時に始まった流行だと思うんだけど、それだけに手の平を返したような「安倍外し」は笑える。安倍内閣の支持率急降下に敏感に反応して、「この人と一緒では選挙にマイナスだ」と判断したのだろう。さすが政治家のみなさんは空気を読むのが素早い。それにしても安倍首相の一番の子分の某総務大臣までが、ちゃっかり「安倍外し」をしていたのには驚いた。政治スタンスもタカ派で、安倍首相とは一心同体の小判ザメじゃなかったのか。


6月30日(土曜日) 学校間格差と経済格差

 午後から県立高校教職員組合の研究所会議に、オブザーバーとして参加する。受験難易度ランクが下位の学校(課題集中校、教育困難校、底辺校)になるほど、授業料減免者数が増加しているデータが紹介され、授業料減免が必要な低所得家庭の生徒は、下位校に集中する実態が改めて浮き彫りになった。こうした傾向は学校別退学率とも一致する。さらに家庭の「経済力」は、高校卒業後の進路にも大きな影響を与えている。大学進学には相当な経済的負担が必要となるからだ。

 学校間格差の本質は経済格差にある。階層の二極分化と固定化が進む日本社会の縮図だろう。経営サイドや富裕層だけに有利な雇用形態や労働条件の悪化などとも決して無縁ではない。まともな議論もなしに一方的に推し進められてきた経済・労働政策の矛盾やしわ寄せが、学校現場(特に受験難易度ランクの下位校)に集約されている。学校だけでこんな問題を解決するのは無理だ。働く人々やあるいは働く場のない人々が、社会構造を変えるために声を上げなければどうにもならないと思った。

 いろいろと考えさせられる有意義な会議が終了後、寿司屋で懇親会。さらに横浜駅前のショットバーで2次会。久しぶりに栄養分をたっぷり補給した。


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