身辺雑記 

by totoropen (OOKA Minami)


2007年5月1日〜5月31日

●憲法60年●「教員に厳しく自分に甘く」●月刊「創」6月号にルポ●補足説明●誤字脱字を反省●阪神9連敗で単独最下位●NHKニュースの「体言止め」●国民投票法は全会一致で決めるべきだ●国民投票法が成立●教育関連3法案が衆院委で可決●激安自転車を購入●もやしの消費期限●想像力の欠如した匿名氏へ●意外に面白かった「紅の豚」●弁護士会で講演●罷免しなかった首相の責任●新聞部にまつわる便り●自己紹介ページを改善●●●ほか


5月3日(木曜日) 憲法60年

 憲法記念日。日本国憲法が施行されて60年であり、朝日新聞阪神支局の襲撃から20年でもある。そういう節目の時期に、民主主義を根底から否定するような発言や言論へのテロ行為がまかり通っているのが、社会の空気を象徴している気がしてとても不気味だ。しかしだからこそ、平和で自由で民主的な社会をつくってきた憲法の意味と意義をしっかり理解し、「だれのための憲法なのか」を改めて考えていかなければならないと思う。

 そもそも憲法は、主権者である国民の「権利」を政府・国家権力に守らせるための最高法規だ。だから天皇も国会議員もそしてその他すべての公務員は、憲法を尊重し擁護する義務を負っているのだが、そこのところを分かっていない人が多過ぎる(2005年5月3日付「身辺雑記」参照)。とりあえず僕は、「憲法はだれのためにあるのか」ということについて、記者として記事を書くとともに、授業でも学生にしっかり伝えていきたい。

 主権者として当然理解しておかなければならないことを教えるのは、教師の基本的な仕事のはずだ。しかし実際にはどうだろう。教師は主権者の基本を生徒にきちんと伝えてきただろうか。そしていいつの間にか、教師が憲法について語ることが制限されようとしている2007年4月12日付「身辺雑記」参照)。教育現場で教師が憲法について語れない、などということがまかり通るような社会はどう考えてもまともではない。このような異常な状況に対して、社会全体がおかしいと思わなければいけないのだが、反応が鈍いのはメディアの責任でもある。伝えていかなければならない課題は山積している。


5月5日(土曜日) 「教員に厳しく自分に甘く」

 きょう5月5日付の朝日新聞(社会面)に面白い記事が載っていた。「後ろに座る学生/教員に厳しく、自分には甘く」という見出しで、「教室の後方に座る学生はテストの成績は悪い一方、講義への評価は厳しい傾向が明らかになった」という内容である。産業能率大学の松村有二教授が調べたそうだが、なるほどそうかもしれないなと納得しながら記事を読んだ。たぶん大学で教えている多くの人が、うんうんと大きくうなずいているのではないかと思う。

 定員298人の教室を使って、約140人の学生の着席パターンを分析した松村教授の調査によると、試験の点数は前方に座る学生と後方で20点以上開く一方、授業評価アンケートには前方より後方の方が全項目で厳しい評価をしたという。「教室の後ろに座るグループの学生には、教員に厳しく、自分に甘い姿勢がうかがえる」ことをデータで実証しているのが興味深い。平然と遅刻してきて私語を繰り返す学生って、たいてい後ろの席に座るよなあ。


5月6日(日曜日) 月刊「創」6月号にルポ

 あす7日に発売の月刊「創(つくる)」6月号に、創価学会名誉会長・池田大作氏の寄稿掲載をめぐるルポを書いた。首都圏の地方紙である神奈川新聞と埼玉新聞が、池田氏の寄稿を一般記事として「破格の扱い」で長期連載を始めたのだが、広告や特集といった形ではなく、「論説・解説面(オピニオン面)」や「総合面」といった一般紙面に、しかも単発掲載でなく長期にわたって連載するのは極めて異例の扱いだ。

 さまざまな組織・団体のトップの意見や考え方を広く知らせるのは、新聞を含めてジャーナリズムの大切な役割だろう。しかし、各界で活躍する多くの著名人の中の一人として紙面に登場させるのではなく、池田氏だけを「特別扱い」するのは異様だ。特定の宗教団体のトップだけを紙面で優遇することになれば、「あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない」と定めた新聞倫理綱領に著しく反し、公正・中立であるべき報道機関として読者の信頼を損ねることになる。神奈川新聞と埼玉新聞は、寄稿掲載の許容範囲を逸脱し、ギリギリの一線を大きく踏み越えてしまった。

 今回のルポでは、「新聞ジャーナリズムの公正・中立の原則を大きく踏み外し、新聞社としての独立性が揺らぎかねない事態ではないか」との観点から、寄稿掲載の背景や問題点について検証した。「創価学会名誉会長の池田大作氏」だから問題なのではない。例えばこれを、「共産党委員長」「自民党総裁」「右翼団体顧問」などに置き換えてみれば、紙面でのこうした扱いがいかに常軌を逸しているかが容易に理解できるだろう。さらに深刻なのは、編集幹部や現場記者の危機感と緊張感のなさである。ジャーナリズムの役割や責任を意識して仕事をしている記者が、果たしてどれくらいいるだろうか。ルポではそんな指摘もした。ご一読を。


5月7日(月曜日) 補足説明

 えーっと、読者からきのう6日付の「身辺雑記」に関して質問をいただきました。メールでもお答えしたのですが、ついでなのでこの場でも説明します。4月6日付と4月13日付の「身辺雑記」に書かれてある「説明責任」の件は、月刊「創」6月号で取り上げた神奈川新聞と埼玉新聞のことなのでしょうかというご質問だったのですが、これは神奈川新聞の対応についての記述です。埼玉新聞は取材に対して、編集局長と販売責任者がそれぞれきちんと答えてくれました。ちなみに、神奈川新聞の編集幹部の対応や姿勢には疑問がありますが、神奈川新聞読者広報センターの責任者は、広報担当としての職務は誠実に果たしてくれました。

 しかしいずれにしても問題なのは、きのうの「身辺雑記」や月刊「創」6月号でも書いたように、「新聞ジャーナリズムの公正・中立の原則を大きく踏み外し、新聞社としての独立性が揺らぎかねない事態」を自ら招いていることでしょう。そして、それによって読者の信頼を失うということを自覚していないのが、さらに危機的状況だと思います。まあ、そうした自覚のなさや危機感のなさが、対外的に説明責任を果たそうとしない姿勢に表れているのかもしれません。

 以上、取材段階だったので「身辺雑記」にはぼかして書いていたこと、はっきり書けなかったことについての補足説明でした。


5月8日(火曜日) 誤字脱字を反省

 このところ、「身辺雑記」の誤字脱字などのご指摘をちょこちょこといただきます。メールを拝見するたびに、該当個所を確認して大慌てで修正するのですが、恥ずかしいやらみっともないやら。ついでに前後をざっと読み直して、ちょっとおかしいなと思う文章なんかもこっそり直したりして。眠い頭でぼーっとしながら雑文を書いていると、変換ミスやタイプミスが頻発するみたいです。ものすごくカッコ悪いですね。書き終えてアップする前に、ちゃんと読み直さないからこういうことが起きる。記者として基本の初歩的な作業じゃん。活字媒体と違ってインターネットの文章はいつでも簡単に修正できる、などといった甘えがあるのかもしれません。反省反省。間違いをご指摘くださる皆様に、深く感謝します。んーっと、この文章には誤字脱字はないだろうな(汗)。


5月9日(水曜日) 阪神9連敗で単独最下位

 阪神タイガース9連敗。ぶっちぎりの単独最下位かあ…。まあ、これがいわゆる本来の阪神の姿だからいいんだけどね。「ほんまにダメトラはしょうがないなあ」などと愚痴をこぼしながら、弱っちい阪神のていたらくを嘆きつつ自虐的に応援するというのが、阪神ファンの醍醐味みたいなものだから、連敗しようが最下位だろうが全然問題はないけど、巨人に負けた(しかも甲子園で)というのはいただけない。そりゃあかんやろ。巨人にだけは勝たなあかん。


5月10日(木曜日) NHKニュースの「体言止め」

 NHKニュースの「体言止め」のアナウンスは、どうにも気持ち悪くて我慢できない。夜7時のニュースもひどいが、中でも夜9時の「ニュースウオッチ9」はもう「体言止め」のオンパレードで、とてもまともな日本語のアナウンスとは思えない有り様だ。昨秋にTBSラジオで久米宏氏も指摘していたし、僕も前からずっと不愉快に思っていたんだけど、このところますます拍車がかかってきた気がする。やたらに「体言止め」を使ったレポートをしているが、どうしてあんなに「体言止め」にこだわるのだろう。

 朝や昼のニュースではさほど気にならないのだが、特に目立つのが夜のNHKニュースだ。例えば「◯◯事件の現場。」「◯◯の裁判。」「逮捕された◯◯容疑者。」といった具合に、名詞で止めてしまうレポートが実に多いのだが、これでは文章がぶちぶちと途切れてしまって、聞いていて気持ち悪いことこの上ない。「〜です」とか「〜がありました」と普通にアナウンスすればいいのに。ほかの時間帯のニュースや民放各局の番組と比べても突出している。夜のニュース番組のプロデューサーかディレクターの方針なのかもしれないが、だとすれば何も有益なことはないから、早急に方針変換した方がいい。

 そもそも「体言止め」は、文章に一種の緊張感やリズムを生む効果があるが、その一方であまり多用すると文章全体の流れが切断され、下品で締まりがなくなってしまう危険性がある用法だ。さらにそういう感覚の面だけでなく、「何がどうしたのか」という文末の述語部分を省略することで、書き手が責任ある立場を放棄することにもつながりかねない。細部まできっちり確認取材ができていないような時など、はっきり言って「体言止め」を使うと文章を書くのが楽になるのだけど、それは記者の怠慢というものだろう。これは活字の文章でも放送でも同じことが言える。

 僕も新聞社に入ったばかりの駆け出し記者だった一時期、やたらに「体言止め」を多用したことがあったが、活字になった記事を読み直してものすごく違和感と下品さを感じてからは、なるべく「体言止め」は使わないように心掛けている。NHKニュースは話し言葉で事実を伝えるのだから、なおさら「体言止め」の多用は異様な感じがする。実際に原稿を書いてレポートしているNHKの現場の記者は、どのように感じているのだろうか。すごく気になる。


5月11日(金曜日) 国民投票法は全会一致で決めるべきだ

 憲法改正の手続きを定める国民投票法案(与党案)が、参院特別委員会で自民、公明党の賛成多数で可決した。来週月曜日には参院本会議で可決・成立する見通しだ。この法案の問題点は、2007年4月12日付「身辺雑記」で指摘した通りなので繰り返さないが、参院特別委の審議をNHKテレビで見ていて、やはりどう考えても十分な審議は尽くされていないと思った。憲法改正についての中味の議論はさておき、国民投票法案は憲法改正の具体的な手続きについての法律なのだから、すべての議員が納得して全会一致で成立させるべきではないか。それが民主主義というものだろう。

 安倍首相ら自民党タカ派の人たちは、一刻も早く憲法改正をしたくてたまらないのだろう。もちろん自民党の改憲案については全く賛成できないけど、その気持ちは分かる。しかしそれなら少なくとも、改憲の手続きの部分では文句を言われたりしないような法律をしっかり定めて、その上で正々堂々と改憲案を問えばいいではないか。憲法改正の手続きの段階で反対意見を数の力で蹴散らし、自分たちに有利なように一方的にハードルを下げるといったやり方をするのは、あまりにも姑息で卑怯ではないか。安倍首相の言う「美しい国」とは、いったいどんな国なんだ。

 納得できる手続きに則って憲法改正がされるのなら、それはそれで仕方がないと思う。僕自身は現行憲法を変える必要はないという意見を主張し続けるだろうが、しかし、憲法改正に反対だと考える人たちにも「反対だけど決まったことだから仕方ない」と受け入れてもらうためには、少なくとも手続きについては最低限の合意形成が必要だ。国の最高法規を定めるのだから、手続きの点ではすべての国民が納得しなければならない。何度でも言うがそれが民主主義というものだろう。そのために努力するのは国会議員の務めだが、いくら考えても最低限の合意形成がなされたとは思えない。「とにかく憲法を改正できればいい」ということで突き進んでいるのだとすれば、それはもう民主主義の否定にほかならない。


5月14日(月曜日) 国民投票法が成立

 憲法改正の法的手続きを定めた国民投票法案が、参院本会議で自民、公明党などの賛成多数で可決・成立した。何をどのように伝えるのか(あるいは伝えないか)、これからメディアの真価が問われることになる。心配なのは、メディア関係者だけでなく公務員も教員も、自主規制して語ろうとしなくなることだ。安倍首相らタカ派の人々は、そういう空気が広がるのを期待しているのだから。地位を利用して相手に強要するのは論外だけど、言うべきことは臆することなく言う姿勢がなければ民主主義は維持できない。

 もう一つ。護憲運動をやっている人たちは、だれにどのように伝えるのかを再考した方がいい。のぼり旗やプラカードを掲げてデモ行進し、拳を振り上げて絶叫するやり方では何も伝わらない。自己満足で終わるだけだ。むしろ逆効果だということを自覚しないと、世論は確実に別の方向に押し流されていくだろう。


5月17日(木曜日) 教育関連3法案が衆院委で可決

 昨年末に改正された教育基本法を、教育現場で具体的に実行するための教育関連3法案(学校教育法、地方教育行政法、教員免許法のそれぞれの改正案)が、衆院教育再生特別委員会で自民、公明党の賛成多数で可決された。今国会で成立する見通しだ。3法案の最大のポイントは、1)文部科学大臣の教育委員会への指示権限を認め、2)教員免許に10年の更新制を導入し、3)都道府県教育委員会の認定した指導力不足教員が研修でも改善されない場合は免職などとする──といった点だろう。分かりやすく言えば、「国の教育への権限・管理・統制を強化する」ということだ。

 しかし、社会的に関心が集まっている今の日本のさまざまな「教育問題」が、このような法律改正で改革できるとは到底思えない。むしろ全く見当はずれなものばかりだ。「教育改革」だとか「教育再生」などという言葉にだまされてはいけない。安倍首相が重要課題だとする「教育再生」とやらの目的が、国による管理・統制にあるということが露骨に示されているだけではないか。よくもまあこれだけタカ派体質を公然と出してきたものだと愕然とするが、教育への国家統制を強めたら問題は解決するのだろうか。

 言うまでもないが、教え子にわいせつ行為や体罰をするような教師は、犯罪者として厳しく処罰されるべきだ。授業が成立しないとか子どもとコミュニケーションできないといった指導力不足の教師には、適切な指導や研修が必要だろうが、「指導力不足」や「問題のある教師」などというのは、いったいだれがどのように判断するのだろうか。判断基準があいまいで不透明なままでは、政府や行政や管理職にとって都合の悪い教師を、意図的に恣意的に排除することになりかねない(参照:ルポ「『不適格教員教員』にされた金髪先生」//ルポ「つくられる『指導力不足』教員」など)。

 こんなにも問題があり過ぎる教育関連3法案が、いとも簡単に成立しようとしている。教育基本法や国民投票法と同じパターンだ。日本の民主主義を根幹からひっくり返す重要な法律が、自民党と公明党によって、次々にどんどん成立していく。


5月18日(金曜日) 激安自転車を購入

 郊外型のホームセンターで自転車を購入した。変速ギアチェンジ機能なしのシンプルなシティータイプだけど、とにかくべらぼうに安い(税込み1万円以下)。これならすぐに盗まれたりしてもさほど後悔しないかなと。それにしても自転車を持つのは久しぶりだ。新聞社に勤めていた時は自転車で通勤したこともあったが、パーツの一部が盗難にあって自転車からはしばらく遠ざかっていた。そのころ乗っていたのはかなりの高級車だった(デザインに惹かれて東急ハンズで衝動買いしたフランス車)。今回、超激安品を購入したのは間違いなくその反動である。風を切って走るのは気持ちいいし運動にもなるので、壊れるか盗まれるか分からないけどそれまで、できるだけ大切に乗り回そうと思っている。ただ、横浜の街は坂が多いのが難点なんだなあ。下り坂は気分爽快なんだけど。


5月21日(月曜日) もやしの消費期限

 もやしは栄養が豊富でしかも安くて、とても重宝する食材だ。野菜炒めや焼きそばやラーメンにも使える。近所のスーパーでは1袋29円。まさに庶民の味方と言って差しつかえないのだが、ただ唯一の欠点は日持ちがしないことだろう。消費期限がおそろしく短くて、買ってから2〜3日でダメになってしまうのである。

 きのうが消費期限だったもやしを冷蔵庫から取り出すと、ビニール袋の下の方に水分が少したまっていた。全体的にへたれた状態になっている。いつもは消費期限を1日過ぎた程度なら、問題なかったんだけどなあ。異臭はしなかったのでそのまま焼きそばに混ぜて食べたら、なんだか少し酸っぱい味がした。大丈夫かなあ。まあ大丈夫だと思うけど、こんなに早く腐り始めるとは…。今回は翌朝でなく24時間経過だったからかもしれない。本日の教訓。もやしは消費期限内にしっかり食べ切りましょう。


5月24日(木曜日) 想像力の欠如した匿名氏へ

 交通事故で死亡した児童らの画像を無断でホームページに載せて揶揄したなどとして、著作権法違反などに問われた元小学校の男性教諭の初公判が東京地裁で開かれ、児童の遺族らが記者会見した。そうすると早速、頭のおかしな人物から匿名で、被害者遺族を侮辱する内容のメールが僕のところに届いた。僕のホームページには、児童の両親にインタビュー取材した記事が掲載してあるので、巨大掲示板かどこかにそれがリンクされ、たぶんそこから僕のページにやって来てメールを送信してきたのだろう。

 匿名だから何を書いても許されると思っているのか、その頭のおかしな人物が僕のところに寄越したメールには、「被害者ぶるな」といったことが平然と書かれていたのだが、児童の遺族らは何も被害者ぶってなどいない。加害者に対して「死んでくれ」などと感情的な要求をしているわけでもない。愛する家族の尊厳を傷つけることをしないでほしいと訴え、無法で無神経なネット社会のありように注意喚起しただけだろう。そうした要望は遺族として当然の権利であり、親としてごく普通の自然な気持ちだろう。ところがこの頭のおかしな人物は、まともな想像力は何ら働かせることなく、児童と遺族の尊厳を踏みにじって止まないのである。児童の画像を無断でホームページに載せた元教諭と同罪と言うほかない。哀れさと下劣さに驚き呆れるばかりだ。

 残念ながらこの手の想像力の欠如した連中は、実はインターネットの掲示板などにはうじゃうじゃいる。それが現実だ。匿名のインターネットでは言いたい放題なのである。一方で、この手の連中は少年事件の加害者に対しては、ヒステリックにそして執拗に「死刑が当然だ」「死んで謝罪しろ」などと大合唱する傾向にある。もちろん彼らは刑事司法の手続きや理念など眼中になく、都合の悪い情報は見事に遮断する。「悪者を弁護する弁護人もすべて悪」との論理で終始一貫しているのは言うまでもない。

 内部告発でもするならいざ知らず、そうでないなら堂々と実名を出して発言すればいいのに、彼らは決してそんなことはしない。どこまでも卑劣きわまりないんだよなあ。本当に自分の主張や誹謗中傷行為が正しいと考えているなら、隣近所や学校の友達や会社の同僚に、ネットの世界で書き込んでいるのと同じことを言ったりやったりしてみてはどうか。対等に話がしたいならそれからだ。ちなみに、掲示板の書き込みや送信メールが、すべて匿名だと思ったら大間違いである、と一応忠告しておいてあげよう。


5月25日(金曜日) 意外に面白かった「紅の豚」

 スタジオジブリのアニメ「紅の豚」を、日本テレビ系の金曜ロードショーで久しぶりに見た。あれれ、このアニメこんなに面白かったっけ。劇場で「紅の豚」を初めて観た時とテレビで2回目を見た時は、「えらく退屈でつまんないアニメだなあ」と感じたのだが、きょうは最後まで楽しめた。結構面白いじゃないか。「自分に魔法をかけて豚の姿になっている飛行機乗り」という設定がどうにも違和感があって、なかなか登場人物に感情移入できなかったのだが、今回はその辺の違和感はかなり薄らいで、比較的すんなり話に溶け込めた。反体制・反権威的な生き方は納得できるし、よく動く活劇シーンや群集シーンは見ていて楽しい。「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「耳をすませば」の4つのジブリ作品ほどは絶賛しないけど、「魔女の宅急便」と同じくらいは面白かった(僕個人の好みの問題でもあるが)。

 そんなわけで、今年3月27日付「身辺雑記」に、NHK総合テレビで放送された「プロフェッショナル/仕事の流儀/宮崎駿」の感想を書いた中で、「『紅の豚』『もののけ姫』以降の宮崎作品は、天真爛漫さやほのぼのとした楽しさがなくなって全然面白いとは思わないが…」とした部分から、「紅の豚」を削除し、「『もののけ姫』以降の宮崎作品は、天真爛漫さやほのぼのとした楽しさがなくなって全然面白いとは思わないが…」に訂正します。該当個所を修正しました。


5月26日(土曜日) 弁護士会で講演

 午後から横浜・関内。横浜弁護士会主催の講演会で講師を頼まれる。「学校教育これでいいの?」と題して、安倍内閣が進める「教育再生」が、教育現場の実態からいかにかけ離れたものか、教職員の管理と統制を目的とした「教育改革」がどれほど学校現場を疲弊させているかを解説。全国でも突出した東京都教育委員会の「日の丸・君が代」強制の実態を紹介し、これこそが教育基本法改正を先取りした学校教育の「管理と統制」の象徴であると指摘した。講演後、会場から示唆に富んだ質問や問題提起がたくさん出されたが、それらについて突っ込んで議論できなかったのが残念だった。討論の時間が1時間くらいあってもよかったかもしれない。

 関内のカフェで弁護士さんたちと懇談。イギリスビールを飲んだが、これがやたらと美味い。コクがあって適度な苦味がすっきりしていて飲みやすい。通りから入ってくる風も気持ちよかった。


5月28日(月曜日) 罷免しなかった首相の責任

 松岡農水相が議員宿舎の自室で自殺した。議員会館の事務所経費や政治献金などの問題を追及されても、屁理屈と詭弁を繰り返して説明責任を一切果たそうとしなかった松岡農水相を、徹底して終始一貫擁護し続けた安倍首相が、もっと早い段階で解任・罷免していれば松岡氏は自殺まで追い込まれなくて済んだだろうに。疑惑だらけの農水相を任命した首相の責任はもちろんのこと、それ以上に辞めさせなかったことの責任は果てしなく大きい。さらに言うまでもないが、松岡氏に説明責任をきちんと果たさせようとしなかったことに対しても、安倍首相の罪は限りなく重い。二重三重に、もうどうしようもない最低の首相である。

 安倍首相は「任命権者だから、閣僚の取った行動に責任を感じている」と記者団に語ったそうだが、またしてもまるで他人事のような言い方をしていて、信じられない感性だ。あなたこそが、閣僚にそういう行動を取らせてしまった張本人じゃないか。「任命権者だから」じゃないだろう。よく言うよ。

 ZARDのボーカル・坂井泉水さんが入院先の病院で転落死したという。「負けないで」「揺れる思い」「マイフレンド」など、心地よいトーンの歌声に励まされた人は少なくないはずだ。彼女の新曲がもう聞けない社会的損失は、どこかの大臣がいなくなることよりもはるかに大きいと思う。ご冥福をお祈りします。


5月29日(火曜日) 新聞部にまつわる便り

 高校時代の新聞部にまつわる手紙やメールが、いくつか立て続けに届いた。横浜弁護士会での講演が新聞で紹介されたことから、記事を読んだ同学年の女性からは「これって新聞部にいた大岡君のことだよね」という手紙を、弁護士会経由でもらった。最近は新聞が読まれなくなったと言われているが、まだまだ新聞の影響力も結構あるじゃないかと、意外なところで感心する。卒業アルバムが手元にないので、名前と顔が一致しないのが申し訳ないんだけど、同窓生というだけですごく懐かしい気持ちになるものだ。校舎や教室や校庭などの風景が一気に蘇ってきた。

 別の高校の新聞部関係者からは、インターネット検索で僕の書いた「身辺雑記」を読んだとのことでメールをいただいた。僕よりもずっと先輩の方のようだが、学校新聞の総合研究誌「新聞と教育」について書いた文章(2006年7月8日付「身辺雑記」参照)が目に止まったのだという。高校生の自治・言論活動が活発だったころ、全国の高校新聞部員たちが自主的に運営していた全国高等学校新聞連盟(高新連)のメンバーで、当時の活動記録や資料を集めたサイトを公開されているそうだ。「かつてどんな活動があったか」をきちんと記録して、現在の高校生のために残すのは、大人たちの責任であり義務だろう。大切な仕事だと思う。頑張ってください。


5月30日(水曜日) 講師懇談会

 夕方から大学。年に1回開かれる「講師懇談会」に参加する。大学側から開講科目に関する今後の方針や、学生による授業評価アンケートについての報告などがあった。それに対して教員側からは、「真面目に講義を聴いていない学生から、一方的に授業を批判されるのは納得できない」といった趣旨の意見がいくつか出されて、多くの先生が苦笑しながらうなずく。そりゃそうだ。しかし、ごく限られた時間しか用意されていなかったので、残念ながら突っ込んだ話し合いにはならなかった。

 たぶんどこの学校でも、「授業評価アンケート」の方法や集計内容については、みんなが納得できる結果にはなっていないのではないか。しかしそれでも、よりよい教育内容の提供と情報公開が求められている現状では、試行錯誤しながら続けていく必要があるのだろう。アリバイ作りみたいなものかもしれない。まあ、前にも書いたかもしれないが、教員自身がそれぞれ自分の担当講義の中で、学生に感想や質問をこまめに書かせた方が、よっぽど中味のある有益な情報が得られると僕は思うけど。

 懇親会では、いろいろな専門分野の先生と交流。久しぶりに顔を拝見する有名教授と情報交換したり、初めて紹介された講師の方と知り合ったりと、ネットワークが広がったのは大きな収穫だ。話に夢中になって、あまり食事できなかったのが残念。新聞記者出身の大先輩と意気投合して、駅前のラーメン屋でさらに話し込んだ。


5月31日(木曜日) 自己紹介ページを改善

 「このホームページと作者(管理人)について」のページを3年ぶりに、少しだけですが加筆修正しました。ハンドルネームやペンネーム、本名などについての説明を整理して、ページ構成や配置も読みやすく改善してみました。本名を分かりやすい位置に見出しとして提示したのが、今回の最大の変更点かもしれません。

 「セカンドインパクト」のトップページや、僕の著書を紹介する「大岡みなみの単行本」のページ、「現代ジャーナリズム/講義概要」のページには、これまでも本名を明示していますし、会社勤務をしていた新聞記者時代と違って、フリーランスのジャーナリストである現在は、今さら本名をぼかす必要もないだろう(不利益を被ることはないだろう)と判断して、「このホームページと作者(管理人)について」のページのトップ位置に、見出しとして本名を置くことにしました。


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