●文章の書き方●不満足な授業●エンジンかかるまであと一歩?●超満員●高校の同期会●「冤罪ファイル」第8号●市橋容疑者「移送報道」の醜悪さ●学生の反応は上々●横浜市の歴史教科書採択●新聞だからできること●バックアップ●ネットとの付き合い方●裁判官を「説得」すること●築地市場移転テーマに議論●痴漢冤罪をつくるフェミニズム●スクリーンを堂々と横切るな●日本酒を飲みながら●定時制高校の給食問題●毎日新聞の共同通信加盟●●●ほか
11月1日(日曜日) 文章の書き方来年度から1年生を対象にした文章講座の授業を担当することになった。大学から依頼されて少人数クラスならなんとか対応できそうなので引き受けたのだが、そんなこともあって、このところ「文章の書き方」や「小論文」に関する本を立ち読みすることが多い。もちろん新聞記者時代から文章や表現は意識してきたし、これはと思う書籍は何冊か購入しているが、自分自身が鍛練するのと他人に教えるのとでは意味も内容も違ってくる。僕のこれまでの経験からいろいろ話したいポイントはあっても、どんな教材が適切なのかだとか、教える上での工夫はどういうものがあるかといったことは、いま一つ分からないことや不安も少なくない。何かヒントになることや参考にすべきことはないかなと思って、気がつけば本屋でその手の本をあれこれ見ている毎日だ。ちなみに、書くための技術的なテクニックは必要だけど、ものの見方や考え方がしっかりしていないと書くべき対象がとらえられない、と僕は思う。学生たちにはそんなことも伝えられたらと考えている。
11月3日(火曜日) レポート採点「ロンドンハーツ」や「報道ステーション」などのテレビ画面をチラチラ見ながら、学生のレポートに目を通して採点。だらだらとやっていたこともあって6時間くらいかかる。もっと集中していたら4〜5時間ほどで終わっていたかも。
11月4日(水曜日) 不満足な授業午後から授業。きょうはまるっきり納得できない出来の講義だった。テーマは「記者クラブ」。前回の補足説明を兼ねて、学生が書いてくれた感想や質問を多めに紹介したら時間配分に失敗。肝心の本編があっちもこっちもうまく説明できなかった上に、大事なことをいくつも話せないまま終了してしまった。おまけに出席者の数はいつもより少ないし、寝ている学生もかなり目立ったし…。踏んだり蹴ったリだよ。なんだかものすごく悔いが残る達成感のない授業だったなあ。講師控室に戻ってくると、ほかの先生も「きょうは学生が少なかったね」とこぼしていた。学園祭の後はこんな感じになるらしい。タイミングとしては中だるみの時期なのだそうだ。しかし、授業が不満足な結果だったのは、何から何まで全面的に僕の力量不足が原因だろう。あーあ、失敗したなあ、自己嫌悪だ。来週は調整回のような内容なので、今回うまく説明できなかった項目や飛ばしてしまった事項を、少し時間を割いて話さなければ。
11月5日(木曜日) エンジンかかるまであと一歩?午後から東京・立川へ。都立高校の新聞委員会の生徒たちから最近の活動状況について話を聞く。みんなそれぞれが所属している部活動をやりながらの掛け持ちなので、新聞作りは面白いと感じているが、どうしても委員会は優先順位で下位になってしまうのが実態だという。進学校なので勉強の手は抜けない。能力や意欲は決してないわけではないけれども、なかなか突っ込んだ取材や新聞制作には結びつかないようだ。顧問の先生によると、生徒たちはやってみたい企画をいろいろ立ててはみるのだが、あと一歩の壁が乗り越えられず企画を考えるだけで終わってしまうらしい。まあ自治活動とか社会問題に対して、最近の高校生が深い関心が持てないのは分からないでもない。運動部や文化部や音楽系のサークルなど、自分が最も興味や関心のある分野に、最大の労力を注ごうとする気持ちはとても理解できる。でも、せっかく新聞委員会に予算や人がそれなりに揃っているのに、それを生かさないのはもったいないなあ。
能力も意欲もあるのだから、何か一つ大きなきっかけや、後押しとなる起爆剤みたいなものがあれば、エンジンがかかるのではないかと顧問の先生も話していたが、僕もそんな気がする。そんなことを思いながら取材を終えて帰ろうとしたら、委員長の女の子が「もう一度ぜひ学校に来て話を聞かせてほしい」と言ってきた。僕の経験談や意見などを聞きたいらしい。なんだなんだ、あとほんの少しでエンジンがかかりそうじゃないか、とうれしくなった。僕でお役に立てるのであればいくらでも時間をつくるよということで、今度は取材させてもらうのではなく、雑談をしに再び同校にお邪魔することになった。全く予想外の展開となったが、こういうのもなかなか面白い。参考にしてくれて発奮材料になればいいんだけど。
11月6日(金曜日) 超満員午後から東京・新宿。昼過ぎから午後8時過ぎまで「冤罪ファイル」の編集会議。今回もまたまた長丁場の議論が続いた。終了後、アジア料理の屋台村へ。ベトナムやタイの料理をつまみながら、シンガポールのビールを飲む。終電前に余裕で帰宅できると思っていたら、JR沿線で火災が発生したため京浜急行が振り替え輸送。その影響でホームは人で溢れ入場制限され、さらに電車が来ても満員でなかなか乗れない。次の電車にやっと乗れたと思ったら、車内は乗車率200%以上のぎゅうぎゅう詰め。ダイヤは大幅に乱れて帰宅したのは午前1時を回っていた。酷い目にあった。疲れた。
11月7日(土曜日) 高校の同期会夕方から東京・新宿で高校の同期会。すべての卒業生を対象にした同窓会総会は毎年大々的に催されているし、十人ほどの仲間で1〜2年に1回くらい集まっているが、僕たち同期全体の同窓会というのは卒業後これが初めてだ。同期の卒業生約400人のうち4分の1を超える100人余が参加した。女性の参加は男性の2倍以上。圧倒的に女性が多い。久しぶりに懐かしい顔に会えて楽しかったが、全く知らない人の多さに戸惑う。クラスが離れていると教室のフロアが違ってくるし、体育の授業や芸術科目の選択が違うと接点のない同級生が結構いるものだ。卒業後の転居や転勤などで連絡が取れなくなっている同級生も相当数いて、僕が会いたかった友人も何人も「行方不明者」リストに入っていたのは残念だった。先生は6人が出席。授業を受けたことのある先生は、皆さんが僕のことを覚えていてくださった。体育のS先生に「お前太ったな」と言われてしまった。先生ほどじゃないと思います、というか、S先生に言われたくないです(笑)。ほかにもぜひお会いしたい先生が何人もいたんだけどなあ。お元気だろうか。終了後、男女4人の仲間で近くの飲み屋を3軒はしご。始発電車で帰宅。
11月9日(月曜日) 「冤罪ファイル」第8号全国書店の店頭に、季刊「冤罪File」(えんざいファイル)第8号が並んで10日が経過した。売れてくれるといいんだけどなあ。この雑誌は3カ月に1回の発行なので、創刊号から第8号でちょうど2年ということになる。創刊号は増刷になるほどの異例の売れ行きだったが、その後は苦戦しているのが実情だ。出版界はどこもかなり深刻な状況で、書籍も雑誌もなかなか売れない。出版だけでなく新聞も放送もマスコミ全体が厳しい。そう考えればよく2年も続いていると言えるかもしれないが…。来年2月ごろには、創刊2周年を記念して、冤罪事件と刑事裁判をテーマにしたシンポジウムの開催も企画されている。冤罪事件は一向になくならないし、裁判員裁判の問題点が指摘されていることを考えれば、社会的にますます必要とされる雑誌なのではないかと思う。そんなわけで、今後のためにも1人でも多くの人に購読してもらいたいと切望する。第8号では僕はレギュラー連載の「裁判官の品格」シリーズを執筆。6回目の今回は横浜地裁の大島隆明裁判長を取り上げた。「横浜事件」再審で免訴決定をしたほか、これまでいくつも無罪判決を言い渡している裁判官だ。よろしければぜひご一読ください。
11月10日(火曜日) 市橋容疑者「移送報道」の醜悪さ英会話講師の英国人女性の死体遺棄容疑で、全国に指名手配されていた市橋達也容疑者が大阪市内で逮捕された。夜のニュース番組を見たが、NHKも民放も市橋容疑者が移送される映像を繰り返し流し続けた。新幹線の新大阪駅と東京駅のホーム、さらには東京駅の周辺は記者やカメラマンでごった返し、カメラのストロボがひっきりなしに炊かれ、怒号と罵声と悲鳴が飛び交う姿は醜悪そのものだった。この傍若無人さはなんなんだろう。整形までして2年7カ月も逃げ回った上に、英国でも問題になっていることもあって大事件のようになっているけれども、これほど大騒ぎするような話ではないだろうに。そもそも容疑者の移送を延々と追いかけて、ニュース番組で何回も繰り返し放送するようなことなのか。
このような映像を垂れ流して、容疑者をさらし者にするテレビ局の報道スタッフの姿勢には大変な違和感があるが、しかしさらに心底から驚きあきれたのは、移送される容疑者に群がって阿鼻叫喚の醜態をさらす現場のカメラマンの傍若無人さだった。そして、そんな恥ずかしい場面を堂々と臆面もなく視聴者に見せてはばからない番組ディレクターの感性に絶句した。怒号と罵声が飛び交う映像を見せられて、たぶんテレビの前の圧倒的多数の視聴者は、マスコミに強烈な不快感と嫌悪感を抱いたのではないかと推察する。メディア側の一員である僕でさえ嫌悪感を抱いたのだから、普通の視聴者はなおさらだろう。酒井法子被告をめぐる同様の過熱報道に対しても、多くの視聴者から放送倫理・番組向上機構(BPO)に批判の声が殺到したという。市橋容疑者の移送報道は、それをはるかに上回っていた。テレビのはしゃぎようというか興奮ぶりは、常軌を逸しているとしか言いようがない。こういうことを続けていれば、市民から完全に軽蔑され愛想をつかされてしまう。なぜそこに気付かないのだろうか。テレビは自分で自分の首を絞めている。
もう一つとても気になったのは、市橋容疑者の両親に対するインタビューだ。市橋容疑者は未成年ではなく立派な大人なのだから、両親には何の責任もないはずだ。それなのに、顔や音声もそのままで、これまたさらし者のようにしてテレビで流していた。両親に取材して話を聞くのはジャーナリズムの当然の仕事だが、それをそのまま放送していいことにはならない。しかも、どこの局の記者だか知らないが、容疑者の両親を責めるような口調で詰問するシーンまで放送していたのには、あきれてしまうよりも悲しくなった。記者は警察官でも検察官でも裁判官でもない。事実を確認して、読者や視聴者が判断するための材料を集め、冷静に伝えるのがジャーナリズムの役割であり責任だ。居丈高に責め立てるのは記者の仕事ではない。どのような取材相手でも常に敬意を持って接し、質問する際は慎重に言葉を選ぶ必要がある。権力者である公人に対しては、権力監視の観点から厳しい姿勢で臨むこともあるが、私人を相手に横柄な態度で取材するなど論外だろう。
ちなみにテレビカメラマンの傍若無人さは、僕自身も取材現場でとても不快に感じている。会見中でも「邪魔だ!そこどけよ」などと大声を出すし、カメラ位置を変えて移動する際も遠慮なく動き回り、機材やビデオテープを放り投げたりして、平気でがちゃがちゃ音を立てる。とにかくもうやりたい放題なのだ。こうした日ごろの行動が、市橋容疑者の移送シーンの怒号や罵声につながっているわけで、報道倫理がどうこうよりも、むしろ人権感覚や人間性を疑ってしまう。最近の傾向なのだろうか。以前はこんなことは少なかった。譲り合いだとか気配りだとか、報道する側の仲間意識や連帯感といったものがあったように思うんだけどなあ。
11月11日(水曜日) 学生の反応は上々午後から授業。朝から強い雨が降っているためか、学生の出席数はやや少ない。昨晩の市橋容疑者の移送報道について、授業の冒頭で触れる。学生に聞いてみたら、昨晩のテレビニュースは半数以上が見たと答えた。カメラマンの怒号と罵声が飛び交う現場やニュース報道の問題点など、きのう付の「身辺雑記」で書いた内容をかなりの時間を割いて話す。その上で、「こんな取材をやっていていいのか」「こんな仕事をしたくて記者になったんじゃない」と疑問に思っている若手も現場では少なくないことを紹介し、ジャーナリズムが果たすべき役割はもっと別のところにある、といったこの日の本論へと話を展開した。
大半の学生は食い入るように講義に集中していた。授業後に書いてもらった感想も、読みごたえのあるコメントがとても多く、反応はすこぶるよい。「市橋容疑者のテレビ報道はやりすぎだと思って見ていた。不愉快だった。国民にとって必要なニュースだとは思えない」「現場の記者が望んでああいう取材をしているとは限らないことがわかった。ジャーナリストとしてやりたい仕事ができず、伝えるべきことが伝えられない環境には憤りを感じる。志のある記者が辞めていくのは損失だ」「情報を受け取る側も、情報が正しく伝えられているかを考える作業が大事で、声に出して意見を言わなければならないと感じた」などの意見がぎっしり。先週の不完全燃焼と違って、今週は満足いく授業ができてよかった。
11月12日(木曜日) 横浜市の歴史教科書採択夕方から横浜市内。戦争を美化する復古的な中学校歴史教科書を横浜市教育委員会が採択したことを受け、市民団体が開いた集会を取材する。これまで使われていた教科書とどこが違うのか検証し、採択や審議過程の手続きのおかしさ、広大な横浜市の採択地区が2年後には全市1区になることの問題点などを、コンパクトにまとめた報告が続いた。採択の流れや横浜市の異常さがうまく整理されていて、分かりやすい説明だった。ただいつものことながら、会場に集まっていたのは高齢者の運動家や活動家ばかり。違法とも言える常軌を逸した横浜市教委の「暴走」の実態を、どのように市民に伝えていくのか、相変わらずその辺はさっぱり見えてこない。質疑応答の時間はなぜかとてもギスギスした雰囲気で、イチゲンさんが来場してこうした様子を目の当たりにしたら、たぶんドン引きしただろうなあと思わせたのは残念だった。
11月13日(金曜日) 新聞だからできること午後から東京・立川。都立高校の新聞委員会の女子生徒の求めに応じて、雑談するため先週に続き再び同校を訪問する。僕の高校時代のエピソードや新聞記者になってからの経験談などを、かいつまんで語った。大学の授業で話しているようなことにもちょこっと触れた。役に立つような内容だったかどうかは自信がないが、「刺激を受けて少し燃えてきたので、熱いうちに次号の紙面作りに取りかかる」とのことなので、まあ無駄ではなかったのかもしれない。この日はちょうど生徒会役員選挙の投票日。半強制的な投票制度と投票率の関係を取材して記事にする、と委員長は話していた。新聞だからできること、新聞にしかできないことに挑戦して、「伝える」という作業を楽しんでもらえればと思う。オバマ米大統領の来日の影響なのか、都内は警察官の姿がいつもより目立つ。
11月16日(月曜日) バックアップパソコンの調子がなんとなく不安定な感じがする。もしかしたらもしかするのかと危機感が急上昇。起動できなくなったり機能停止になったりしたら収拾がつかなくなってしまうので、大事なデータや資料のバックアップを大慌てで取った。執筆原稿やホームページの作成データのほか、取材資料、講義や講演のレジュメ、仕事やプライベートで撮影した画像データ、マンガやアニメや映画の動画などを、念のためにMOディスクとポータブルHDの両方にコピーする。パソコン内にはかなりのデータが蓄積されている。記録メディアの容量にも限界があるので、すべてのデータがバックアップできたわけではないけれども、「これだけはなくなると困る」という最低限必要なものは、とりあえず安全な場所に確保した。パソコン本体のHDにあれやこれやと目いっぱい詰め込んで、空き容量が少なくなっているのが不安定を招いているのかもしれない。ちょっと整理しないとまずいなあ。
11月18日(水曜日) ネットとの付き合い方午後から授業。きょうのテーマは「ネット社会の光と影」。学生には身近なテーマなので、いつもよりさらに興味や関心があるようで食いつきがいい。個人情報はしっかり管理して自分自身で守らなければならないこと、掲示板やブログなどの情報を鵜呑みにせず、信頼できる情報かどうかを「見極める判断力」を持つことの大切さなどを強調し、具体的な事例を示しながら解説した。もちろんこれはネットの世界だけの話ではないわけで、この講座を通じて一貫して話していることでもある。授業後に提出してもらった出席カードには、「2ちゃんねる」や「学校裏サイト」「ミクシィ」などの経験談を含めてぎっしりと感想を書いた学生が多く、関心の高さをうかがわせた。最初は名前と学籍番号しか記入しない学生も数人いたが、このところは白紙は皆無で、みんな結構な分量の感想や意見を書いてくるようになった。いい傾向だ。
インターネットを使った空間では、会ったこともない人たちと直接あるいは間接的に「言葉」を交わすというところが、誤解や勘違いや混乱を生むことに直結する。残念ながらこの社会には善意の人ばかりがいるわけではなく、悪意を持って行動する人が数多く存在するのが現実だ。そこでは「匿名」の陰で何でもありの無法行為がまかり通る。また、悪意はないかもしれないが、まるで的外れな指摘を一方的に展開する人や、勝手な思い込みや価値観を押し付けようとする人たちも少なくない。「匿名」ならなおさら、「匿名」でなくても面と向かってのコミュニケーションがない中では、かみ合わない議論や情報がただひたすら一方的に積み重ねられるだけで、決して切り結ぶことも交わることもないだろう。
言うまでもなくインターネットはとても便利な道具だが、自分自身で上手に使いこなすことが重要だ。「情報」も同じ。うまく付き合うには自分の頭で考えて判断しなくてはならず、それにはしっかりした「基準」「モノサシ」が必要になる。そのためにも、ものごとをさまざまな角度から見る「観察力」や「視点」を磨かなければならない。自省を込めてそう思う。
11月21日(土曜日) 裁判官を「説得」すること午後から横浜市内。県立高校の先生たちが主宰する教育法研究会に参加する。今回のテーマは、戦争を美化する中学校歴史教科書を採択した横浜市教育委員会の教科書採択制度について。20年以上も教科書と採択制度をウォッチングしてきた専門家を招いて、これまでの動きと採択手続きの問題点、今後の課題について解説してもらった。先週の市民集会に続いてきょうも勉強になった。先生たちと近くの居酒屋へ。日中の暖かさとはうって変わって、日が落ちると一気に冷え込むが、よく煮えたおでんと生ビールで凍えた体が温まる。残念ながら途中で退席して横浜・石川町へ。個人情報保護裁判の提訴1周年集会に顔を出す。岡田尚弁護士と高嶋伸欣・琉球大学名誉教授が、裁判や教育をめぐる問題について講演。
岡田弁護士の名言シリーズ・その2。9月28日付の「身辺雑記」でも岡田弁護士の言葉を紹介したが、きょうも示唆に富むメッセージが聞けたので第2弾。「裁判所は信頼してお任せするところじゃない。ぐうの音も出ないように裁判官を説得して追い込んでいくところだ。そして主張するだけでなく、ああこの人はいい人だなと裁判官に思わせなければならない。この人をこの裁判で勝たせてやらなければ、自分が救済してやらなければ、と思わせなければならない」。全くその通りだと思う。判決を言い渡す裁判官は権力者なのだから、上から目線の同情や支配者的な立場から見た憐れみだったとしても、共感させて味方にしなければ勝訴判決は得られないし、裁判で勝たなければ話にならないのが現実だろう。媚びへつらったり心にもないことを述べたりする必要はもちろんないが、からめ手でも何でも、説得するためにあらゆる手法や作戦を駆使するのは大切だ。最初から最後まで喧嘩腰や対決姿勢で噛み付く人がいるが、残念ながらそれだと勝てるものも勝てないよなあ。
終了後、岡田弁護士や高校の先生たちと近くの焼き鳥屋へ。よく冷えた生ビールが美味しい。ちょうどいい感じのほろ酔い加減で、気持ちよく解散した。そうそう、うちの近くに住んでいる高校の先生が教えてくれたのだが、駅前に建設中の高層ビルに映画館(シネコン)や飲食店や小売店などの商業施設が入るのだという。ええっマジっすか。全然知らなかった。てっきり下層階はビジネス事務所で上層階がマンションの複合ビルだとばかり思っていたよ。近所にシネコンができるのはものすごくうれしい。でも、経営的に成り立つのかな。それが少し心配だ。せっかく映画館が来てもすぐに撤退されるのは悲しいからなあ。ちなみに、シネコンは9つのスクリーンを備える規模になるらしい。きょう一番のニュースだな(情報入手がかなり遅いみたいだけど=苦笑)。
11月22日(日曜日) 築地市場移転テーマに議論夕方から東京・四谷。記者仲間に誘われて、モロッコ風バーで開かれた「トークショー」に顔を出す。「築地市場の移転のウラにあるもの」と題して、広大に広がる土壌汚染や利権構造など、石原都政の闇に鋭く切り込んだトークが展開。築地市場の関係者らが問題点をピックアップして解説し、それに対して参加者が質問する形で進行した。市民やメディア関係者ら15人が参加。2時間ほどで終わるのかと思っていたら5時間以上も続く。なんとかギリギリで終電に間に合った。面白い試みだったけど、少しばかり詰め込み過ぎだったかも。もう少しゆったりした感じでもよかったかな。
11月24日(火曜日) 痴漢冤罪をつくるフェミニズムいわゆる「フェミニズム」の運動に熱心な女性たちが、痴漢事件の無罪判決に対し疑義を訴える主張を週刊誌で展開している、と知人の記者から教えられたので読んでみた。驚くやら呆れるやら、その主張はおよそ論理的でも理性的でもなく、全く説得力を持たないというのが率直な感想だ。彼女らの論旨を簡単にまとめると、「被害者である女性は勇気を出して声を上げているのだから、その証言には間違いなどあるはずがない、女性側の証言に疑いを差し挟んで否定するのはおかしい」ということになる。
もちろん痴漢は許し難い犯罪行為だ。被害者の女性はしっかり守られて権利の回復がなされなければならないし、痴漢をした犯人は厳正に処罰されなければならないことは言うまでもない。しかしそのことと、女性の証言によって名指しされた容疑者が犯人であることとは全く別の話だろう。容疑者とされた人物と犯人とは、必ずしもイコールではない。女性が痴漢行為をされたことが「事実」だとしても、容疑者と真犯人を取り違えているかもしれないし、事実誤認や勘違いの可能性もあるだろう。もしかしたら女性側の証言は嘘で悪意によるでっち上げの場合もあり得る。
だからこそ、証言や供述だけに頼ることをしないで、客観的で科学的な証拠を得る努力が、捜査当局には強く求められるのだ。きちんと裏付けをした上で、証拠を集めて立証するのは捜査の基本である。そういう基本的なことを怠って、あやふやな証言や供述だけで有罪にされてしまったらたまったものではない。
容疑者の逮捕や取り調べは、法律と適正な手続きに基づいて行われなければならない。客観的で科学的な証拠が示されて、そうして初めて被告人は有罪を言い渡されるべきなのだ。十分な証拠が示されなければ被告人は有罪とはならない。これは痴漢事件に限らず、刑事裁判の基本原則だ。「犯罪の証明がない」「証拠不十分」「疑わしきは被告人の利益に」として無罪が言い渡されるのは、実は刑事裁判の基本原則を忠実に守っているだけのことで、当たり前のことを当たり前に判断しているに過ぎない。
繰り返して指摘するが、だからこそ証言や供述だけに頼らず、客観的で科学的な証拠を集めて立証する責任が、捜査当局には強く求められるのだ。「女性の証言に間違いはない」と主張する「フェミニズム」の運動家は、刑事事件の基本原則はおろか人権そのものを理解していないのだろう。論理的で科学的な思考能力が、そもそも欠如しているとしか言いようがない。批判するべき相手はまともな捜査や立証活動をしなかった捜査当局なのに、攻撃の鉾先がまるでずれている。こういう「フェミニズム」運動家の的外れな主張が、痴漢冤罪に加担していることを論者は自覚して猛省すべきだ。
とまあ、これほどストレートな形で「フェミニズム」を批判はしていないが、このような趣旨のことを遠回しに指摘するレポートを書いた友人の記者が、掲載誌を送ってきてくれた。「Actio」という月刊ミニコミ誌の12月号。「疑わしきを罰する日本の裁判」と題して痴漢冤罪事件を検証している。
◇◇ 【関連記事】
「被害者証言の信用性」(6月17日付「身辺雑記」)
「続・被害者証言の信用性」(6月28日付「身辺雑記」)
「あきれた的外れメール」(7月3日付「身辺雑記」)
11月25日(水曜日) スクリーンを堂々と横切るな午後から授業。「テレビと映像メディア」がテーマ。前半はビデオを上映したのだが、先週あれだけ「ほかの人の迷惑になるから遅刻して来ないように」と注意しておいたのに、相変わらず授業が始まって30分も1時間も経ってから教室に入ってくる学生が後を絶たない。しかも正面のスクリーンの前を堂々と横切っていく。上映中だというのに普通はそんなところを通らないだろう。せめて前屈みの姿勢で申し訳なさそうに横切ればいいのに。ほかの大勢の学友がスクリーンを見ていることなど、お構いなしという感じなのだ。映画館でも似たような行動をしているのかなあ。
まあ毎年そういう学生はわずかながらいるが、今年はいつもより多くて5〜6人くらいいたので、戸惑ったというかちょっとがっかりした。もちろん遅刻などせず真面目に授業に参加する学生が、圧倒的に多いわけだけど。講師控室で先生方に聞いた話では、「講義の真っ最中に教室に入ってきて先生にレポートを手渡すとそのまま出て行った」など、もっと信じられない振る舞いをする学生もいるというから、さほど驚くほどのことでもないのかもね。
11月26日(木曜日) 日本酒を飲みながら午後から東京・霞が関。弁護士会館で開かれた日弁連の「目撃証言研究会」に久しぶりに参加する。第132回の今回は、二審で逆転有罪になった「神戸質店主殺害事件」を題材に、被告人の供述の変遷や目撃証人の証言の信用性・証拠能力などについて検証。この事件をすっと取材している今井恭平氏の報告をもとに、弁護士や心理学者らを中心に質疑が交わされた。解散後、今井氏らと有楽町の喫茶店へ。夕方から東京・四谷。「日の丸・君が代」裁判を紹介するパンフの編集会議。
編集会議が終わってから、出版関係者や高校の先生らと近くの居酒屋で飲み会。きりたんぽ鍋を囲んで日本酒の熱燗でほろ酔い気分になる。いつもなら「とりあえずビール」となるのだが、きょうはなぜか最初からずっと日本酒。珍しくビールは全く飲まなかった。どちらかと言うと苦手な日本酒なのに気分は爽快で、とても美味しくいただくことができた。鍋で体も温まっていい感じ。
一緒に飲んだ都立高校の元先生と教育問題について話をしていると、僕が教わったことのある複数の先生と親しいことが判明した。しかも、名前を出した何人もの先生を軒並みご存じだったので、懐かしいやらうれしいやら。教育談義はそっちのけにして、しばしその話題で盛り上がった。都立高校の現職やOBの先生たちとは、これまでも取材で大勢の方と付き合いがあって、いろいろと話を聞くことは多いのだが、僕が教わった先生と親しい人には不思議とあまり会っていない。こちらからさほど話題を振らなかったこともあるし、たまたま勤務校の学区や世代が、微妙にマッチしない先生に当たることが多かったのかもしれないけど、きょうは大当たりだったなあ。今月初めに高校の同期会が開かれたばかりということもあって、またまた懐かしい気分になった。
11月28日(土曜日) 定時制高校の給食問題午後から横浜市内。県立高校の夜間定時制学校給食を守る教職員交流会を取材。国や地方自治体の予算削減で、定時制高校の給食制度廃止の動きが全国的に出ている。朝昼夜とまともな食事をしていない生徒たちの実態を訴える教職員のレポートから、格差社会のひずみの象徴的な存在として、定時制の抱えるさまざまな問題と給食の必要性が浮き彫りにされた。生徒たちの日常生活が不規則で乱れている背景には、厳しい家庭環境や不安定な雇用がある。「せめて給食だけでも栄養面の保障をしてやりたい」「何でもいいから食べさせればいいというものではない。定時制には給食が必要。生徒の生活や就業の維持を保障するために残すべきだ」など、学校現場からの切実な声が相次いだ。
駅前の居酒屋で県立高校の先生たちと飲み会。きょうは焼き鳥に生ビール。一緒に飲んだ先生はなぜかみんな理系で、文系は僕だけだった。7人中3人が数学を教えているという。てっきり社会科や国語科の先生が多いと思っていたので意外だった。
11月30日(月曜日) 毎日新聞の共同通信加盟毎日新聞社が来年4月から共同通信社に加盟するそうだ。「官公庁や企業などの発表は共同通信の配信原稿に任せ、分析・解説記事や独自取材に力を入れる」という方針だという。発表されるニュースを垂れ流すだけの「発表ジャーナリズム」から距離を置こうとする報道姿勢そのものは、ジャーナリズムのあり方として正しいし、読者である市民の利益にも合致している。しかし、経営状態がかなり厳しい毎日新聞が、莫大な分担金(共同通信への年間加盟料)を支払うには、当然のことながら何らかの形でコスト削減やリストラが必要になるのは間違いない。
そもそも経営難に陥っている毎日新聞は、以前から大幅な合理化が求められていて、支局などの地方取材網の閉鎖や記者の削減が緊急の課題とされてきたのは周知の事実だ。共同通信に加盟して「発表ものは共同通信に任せる」ことになれば、分担金を捻出するためだけでなく、むしろ経営合理化そのものを目的として、取材組織の見直しや記者削減といった方向に進んでいくのは確実だろう。実際に毎日新聞は、記者が1人で勤務する地方の通信部を20カ所ほど廃止する方針だという。そうなると、支局が閉鎖されて記者が減らされるのは時間の問題だ。
発表は共同通信に任せて、独自取材を進めるのは必ずしも間違ってはいないが、だからといって全国に張り巡らせた取材網をずたずたにして、支局を閉鎖するのは全国紙として自殺行為だと思う。さらに毎日は、共同通信だけでなく地方紙とも連携して、「取材の重なる部分を互いに補完し合う」といった方針も示している。ちょっと待ってほしい。つまりこれは、取材が重なる部分は一つにまとめてしまうということなのだろうか。そもそも、取材は重なってはいけないのか。取材が重なることは無駄なことなのか。
そんなことはない。いくつもの複数の記者の目と耳で取材して事実を確認し、さまざまな視点で伝えるというのは、多様な見方や考え方を提示する意味からも、とても重要で意味のあることだ。「取材が重なる」のは決して無駄なことではない。毎日新聞が共同や地方紙と連携するにしても、「互いに補完し合う」といった言い方で「取材が重なる部分」から撤退するのだとすれば、いかがなものかと思う。ジャーナリズムの責任を自ら放り投げてしまうように思えてならない。これは発表ものを通信社に任せることとは、根本的に意味が全く違う。同様に支局の閉鎖と記者の削減は、報道機関の目と耳を塞ぐもので、相当に危機的かつ深刻な事態と言っていい。