●「不当弾圧」って何だ●取材報道の実務家グループ●初めてのBDソフト●「よみすて新聞」完成●冤罪事件と「市民感情」と茨の道●外交文書を整理保管しない日本●校長の職務権限を侵害●児童虐待と親と行政●「まぼろしの名判決」●蛍光灯は「細い管」が主流●東京高裁「門前払い」判決●大当たりの居酒屋●プロ顔負けの映像●取材実務の悩みや課題を共有●お見舞い●「足利事件」再審で菅家さん無罪●「教師の専門性」って?●「教育と法と情報リテラシー」●法治国家ではあり得ない●宇都宮・海渡コンビの日弁連へ●●●ほか
3月1日(月曜日) 情報収集取材準備。あっちこっちに電話をかけて情報収集。
3月2日(火曜日) 「不当弾圧」って何だ民主党の小林千代美衆院議員(北海道5区)陣営が、北海道教職員組合(北教組)から総額1600万円の選挙資金を違法に受け取ったとされる事件で、札幌地検は北教組の委員長代理ら4人を政治資金規制法違反(企業・団体献金の禁止)の容疑で逮捕。北教組本部を家宅捜索した。
これに対し北教組は、「逮捕容疑のような事実は一切なく、不当な組織弾圧と言わざるを得ない」「このような不当逮捕に対して、嫌疑を晴らすべく組織一丸となってたたかっていくこととする。今後もこれまで同様、不当弾圧にひるむことなく、憲法を守り民主教育を確立する運動を引き続き推進する」とするコメントを発表したという(3月2日付の朝日新聞など)。
しかし、いくらなんでもこれは開き直りとしか言いようがない強弁ではないか。小林代議士陣営の会計担当者は、北教組から選挙資金の提供を受けていた事実をはっきりと認めているし、違法だと認識していたことも認めている(同日付の朝日新聞など)。明らかに法律違反である容疑事実を前にして、「不当弾圧」も「不当逮捕」もないだろう。詭弁を弄するにもほどがある。率直に非を認めるならまだしも、これほどまで開き直ったコメントに、世間が理解や共感を示してくれるはずもない。
しかも言うにこと欠いて、「憲法を守り民主教育を確立する運動を引き続き推進する」なんて悪い冗談としか思えない。この期に及んでそんな言葉を持ち出したりすれば、「憲法を守り民主教育を確立する運動」の中身そのものまでが疑われるということに、どうして気付かないのだろう。「目的さえ正しければどんな手段を用いても構わない」とでも考えているのか。教室で生徒に質問されたら、いったいどのような説明をするつもりなのか。真面目に「憲法を守り民主教育を推進」している全国の多くの教職員は、北教組の非常識な醜態に頭を抱えているに違いない。
3月3日(水曜日) 写真撮影午後から横浜市内。予定稿に使う写真撮影。光の加減がうまくいかず、画面が暗くなって人物の表情が見えにくい。うーん、これは日を改めて撮影をやり直さないとダメかなあ。
3月4日(木曜日) 取材報道の実務家グループ夕方から都内。早稲田大学へ。取材報道の実務家がジャーナリズムの現場について議論する集まりに、メンバーからお誘いを受けて初めて参加する。机上の空論のような「評論」をするのではなく、現場できちんと取材活動を積み重ねてきた人たちが、経験に基づいて具体的な事例を報告し合って議論するというところが、とても説得力があって共感できる試みだと感じた。もう2年も続いているという。僕も新聞記者時代や会社を辞めてフリーになってから、仲間とこのような試みを企画したことがあるし、ほかの集まりにも参加させてもらったことがあるが、どこもみんな忙しくてなかなか長続きしないことが多い。地道に2年も続けているなんて大したものだと思う。記者倫理などの悩みや疑問を率直に出しながら、共通認識を深めていくのは、職業人としてとても重要で力になる作業でもある。こんな有意義な集まりがあったなんて、これまで知らなくてものすごく損をしていた気分だ。次回からは僕もなるべく顔を出させてもらおうと思った。
3月5日(金曜日) 初めてのBDソフト生まれて初めて「ブルーレイディスク」(BD)の映像ソフトを家電量販店で購入した。アニメ「サマーウォーズ」のBDだ。実はこの作品はDVD版を購入したばかりなのだが、おまけの特典がいろいろ付いてくるという甘言にまんまと乗せられて、とうとうBD版にも手を出してしまった。しかもBDの価格はDVD版の2倍もするというのにである(汗)。さらにもっと言うと、そもそもBDを見るためのプレイヤーを持っていないのにである(大汗)。お気に入りの作品だからまあいいかということもあるけど、これを機会にBDプレイヤーを購入することになるのかなあ。とりあえず、いつの日にかBDを見ることもあるだろうということで、自分自身を納得させているきょうこのごろだ。そのうち僕が持っている映画やアニメなどのDVDは、すべてBDに総入れ替えになってしまうのだろうか。貧乏なのにそんなのあり得ない話だよなあ。
3月6日(土曜日) 「よみすて新聞」完成都立高校教職員の「教育裁判」を支える市民団体に協力し、「日の丸・君が代」や都立高校の卒業式について考えてもらうための材料として、高校新聞ふうパンフ「よみすて新聞」を作成したが、2月末に刷り上がっていた現物をようやく目にすることができた。とりあえず2万部印刷。紙質などもいい感じでまずまずの出来ではないかと思う(自画自賛)。教師の側からの視点ではなく、高校生の視点・立場からの記事が満載されている。ごく普通の市民、あるいは無関心層や現役高校生などの若い世代に、面白がって興味を持って読んでもらいたい、そして少しでも考えるきっかけになればというのが趣旨だ。いわゆる市民運動や労働運動などの「活動家」「運動家」「サヨク」「左翼」と呼ばれる人たちではなく、そういうものとは無縁の一般市民の皆さんの手にこそ渡ってほしいなあと強く願っている。なお、何人か購読を希望されている方には長らくお待たせしましたが、あすにはポストに投函しますので、いましばらく期待してお待ち下さい。
3月7日(日曜日) 冤罪事件と「市民感情」と茨の道昼過ぎから横浜市内。痴漢容疑で逮捕されて最高裁で有罪が確定し、教育委員会から免職処分とされた横浜市立高校の先生の支援団体「冤罪を晴らし職場復帰を実現する会」の総会を取材。本人はこれまで一貫して冤罪を主張し、横浜市人事委員会に処分の取り消しを求めて審査請求した。教え子や元同僚からも冤罪を訴える証言が続いている。横浜市人事委員会は、まもなく何らかの結論を出す予定だが、総会での報告や弁護士の話を聞いていて、処分が取り消されて教壇に復帰できたとしても、心無い「市民」から的外れな非難や批判を浴びる可能性は大きいということを思い知らされた。
僕はそんなに悲観的に考えていなかったのだが、世間にはいろんな人がいるわけで、「みんなが必ずしも先生の主張や人事委の裁定を好意的に受け取ってくれるとは限らない」と言われれば、確かにその通りかもしれない。まともな審理もせずに、でたらめな事実認定しかしていない不当な判決だったとしても、「最高裁で有罪が確定した」という事実は重い。教育委員会はその司法判断だけを根拠として、適切な審議や適正手続きも踏まずに免職にした。人事委員会が教育委員会の免職処分を取り消せば、先生は再び教壇に立つことができるようになる。しかし、「最高裁で有罪が確定した人間を教壇に復帰させるのはけしからん」といった批判の声は必ず出てくるだろう。それがいわゆる「市民感情」というもので、最近の社会に漂っている「空気」だ、というのが弁護士の見方だった。
「足利事件」の再審裁判で、まず間違いなく無罪判決が言い渡されるはずのあの菅家利和さんに対しても、「それでもあいつが犯人かもしれないだろう」などと言う人間がいるのだ。人事委員会がどのような裁定を出したとしても、先生には茨の道が待っている。冤罪事件の被害者は、経済的にも社会生活も人間関係も、すべてが根底からひっくり返されてしまう。冤罪事件による影響の大きさと被害の深刻さを、あらためて痛感させられる。
3月10日(水曜日) 外交文書を整理保管しない日本日米安保条約改定の際の核持ち込みや沖縄返還などをめぐる4つの日米の「密約」について、外務省の有識者委員会の検証報告書が公表された。日本政府はこれまで国民に対して、虚偽の説明や国会答弁を続けていたことが明らかになった。国と国との外交だから、すべてただちに公開できるものばかりでないことは理解できる。しかし、「言えない」「公表できない」と言うならまだしも、まったくあり得ない嘘の説明をするなんて決して許されることではない。国民への明らかな背信行為である。政府が国民を欺いてきた事実と密約文書の存在が、こうして明らかになったのは、政権交代があったからこそ得られた成果だろう。
だが、何よりも問題なのは、本来ならそこにあるはずのいくつもの重要な外交文書やメモや資料が、存在していないという事実だ。国民をだまし続けるために、そして自分たちの嘘がばれるのを隠蔽するために、廃棄された疑いが強いという。先日お会いした国際政治史を専門とする大学教授の話では、「英国では外交文書はすべてきちんとファイリングされ、それぞれの文書にはナンバーが振られて厳重に保管されている」ということだった。「英国の外交官はいつでもこれらのファイルを閲覧して、外交に生かすことができる。ところが日本の外務省は過去の交渉過程などの重要記録を、きちんと保管していないし整理もしていない。これではまともな外交などできるはずがない」。至極もっともな指摘だと思った。
あらかじめ決められた年数が経過すれば、すべての公文書は歴史的文書として国民に公開され、検証対象とされなければならない。まともな民主主義の国では当たり前のことだろう。公文書の保管と開示は、国民に対する政府や官僚の義務であり責任だ。それなのに記録を廃棄してしまえば検証もできなくなるし、過去から学んで現在に役立てることもできなくなってしまう。重要な外交文書を勝手に廃棄するなんて言語道断の犯罪だ。お役所はとりあえずなんでも記録して残しておくところだと思っていたが、日本の役所はそもそもご都合主義でいい加減でデタラメだということか。
3月11日(木曜日) 校長の職務権限を侵害朝から東京・霞が関の東京地裁。都立三鷹高校の元校長・土肥信雄さん(2009年6月9日付「身辺雑記」参照)の裁判を傍聴取材する。原告である土肥さん側の弁護士が弁論。早稲田大学の西原博史教授から提出された鑑定意見書について、ポイントとなる点を説明した。教育行政を担当するにすぎない東京都教育委員会が、教育にかかわる校長の独立した職務権限を侵害するのは、教育への不当な支配・介入となる、と指摘する西原教授の意見書はなかなか興味深い。このような校長の「校務をつかさどる権限」については、学校教育法37条4項にはっきりと定められている。補充弁論を聞いていて、西原教授の鑑定意見書の全文を早く読んでみたいと思った。閉廷後、弁護士会館で報告集会。久しぶりに会った記者仲間と虎ノ門で雑談しながら昼食。
午後から都内。今年1月に亡くなった父親の相続の手続き。民主党の鳩山さんなんかとは全然違って、3ケタも4ケタ5ケタも数字のスケールは比較にさえならないレベルなわけで(当たり前だ)、ほとんど形だけの手続きである。それでも何通もの書類に名前や住所を書かされ、いくつも捺印させられる。たっぷり2時間もかかった。なんだかよく分からないけど、面倒くさいなあ。
日本列島に荒天を呼び込んだ低気圧や寒気が北へ去ってとてもいい天気。青天白日そのものだ。そのせいか、花粉がとてもたくさん飛んでいる気がする。鼻はむずむずして、目はしょぼしょぼ。睡眠不足と相まってものすごく眠いし、踏んだり蹴ったリだ。
3月13日(土曜日) 児童虐待と親と行政午後から神奈川・藤沢。県立高校の先生たちの自主研究会に参加する。児童相談所の職員に転身した元教員がレクチャー。研究会の前半は、「子どもの権利条約」の概要と批准までの経緯、その後の政府機関の対応について説明。後半は、子どもたちが置かれている状況について報告があった。児童虐待の相談は十年前に比べて100倍近くまで急増しているのに、わずかな職員だけで対応せざるを得ないという。子どもたちの悲惨な実態が生々しいだけに、対応すべき行政の施策や態勢の貧困さが寒々しい。
身体的・心理的な虐待や性的虐待を繰り返し、育児放棄する無責任で自己中心的な親たちの事例を聞きながら、そのどうしようもなさに心が凍り付く。背景には生活の困窮など格差社会の歪みもあるだろうが、しかしそれだけでなく、親自身の生育歴や人間性に問題があるケースも少なくない。負の連鎖というか悪循環というか、縮小再生産はいったいどうすれば断ち切れるのか。あまりにも難しすぎる課題を前にして、希望となる灯火がまったく見えてこない。
終了後、いつものような参加者による飲み会はパスして、出版社の編集者とカメラマンと合流。久しぶりの再会。居酒屋で4時間近く飲み食いする。焼きとんの専門店のようなので、焼き鳥でなく豚をもっぱら注文した。鳥でも豚でも味付けはやっぱり塩がいい。
3月14日(日曜日) 「まぼろしの名判決」親しくしていただいている元裁判官の弁護士が、「『まぼろしの名判決』と言われている判決があるので参考までに」と郵送してくださった。終戦からまだ間もない1951年に、誤った科学鑑定や検査結果をもとに虚偽の自白をさせられた殺人・傷害事件の被告人に対し、無罪を言い渡した津地裁判決だ。判決を読むと、裁判官自身が科学を理解することに努め、鑑定方法の技術的側面にも十分な知識を得た上で、検査方法に手落ちはなかったか、誠実に万全の注意を払って検査をしたか、予断にとらわれて誤った鑑定をしていないか──を確かめるために、捜査段階と公判段階におけるすべての鑑定人を詳しく尋問し、鑑定結果の経過・内容・方法・予断の有無を検討していることがよく分かる。判決はそれと同時に、自白の信用性についても丹念に吟味して矛盾を指摘し、自白が信用できないことを的確に判断した。
誤った科学鑑定の結果が、被疑者に対する精神的拷問の道具として使われ、捜査官が予断に基づいて虚偽の自白を迫るパターンは、弘前事件・八海事件・免田事件・松山事件などの冤罪事件に共通している。足利事件でも、同じようなことが繰り返されているのは言うまでもない。「科学の権威」の名のもとにこのような誤った科学鑑定が都合よく利用されて、冤罪がつくられる危険性を指摘した判決は、これが最初ではないかという。1986年の「判例時報」に紹介されて全文が掲載されたことで、初めて活字となって一般にも知られることになった。それがなければ「まぼろしの名判決」のままだったそうだが、終戦直後にここまで緻密で冷静に、刑事裁判の原則を貫いた判決が書かれていたことに驚かされる。現職のすべての裁判官に強制的に読ませてやりたいものだと思った。
この判決を起案した裁判官は既に退官されたが、まだお元気に活躍されているという。機会があればぜひお会いしたいと思う。ちなみに資料を送ってくださった弁護士は、この裁判官のもとで司法修習をして裁判官になったそうだ。いい先生のもとで修習できて本当によかったですねえ。とても勉強になりました。貴重な資料を送っていただいて、ありがとうございました。
3月16日(火曜日) 蛍光灯は「細い管」が主流リビングルームの蛍光灯が点灯しなくなった。3秒ほどピカピカと光ってその後は消えてしまうので、蛍光管が切れているのではなく、照明機器の本体に問題があるようだ。かなり長い間漬かってきたから寿命か。冷蔵庫に続いてまた余計な出費だなあ。そう思いながら家電量販店の照明機器の売り場ををのぞく。すると予想外の事実が判明した。店内で売られている蛍光管そのものは「太い管」が圧倒的に主流だが、照明機器本体の展示は「細い管」の蛍光灯がほとんどなのだ。省エネということで、最近では家電メーカーも大半が細い蛍光灯の照明機器の製造に移行しているのだという。
ただ、照明機器はそんなにすぐには故障しないので、多くの一般家庭はまだ「太い管」の蛍光灯を使っているため、売り場では「太い管」が幅をきかせているということらしい。なるほど。まだあまり売れない「細い管」の価格は、やはり「太い管」に比べて割高になっている。蛍光管の交換や自宅のほかの照明機器との兼ね合いを考えると、今の段階では「太い管」がいいと思ったので、数少ない展示品の中から「太い管」の蛍光灯を選んだ。在庫がないということで、お取り寄せになってしまったけど、まあいいか。
3月17日(水曜日) 東京高裁「門前払い」判決午後から東京・霞が関。卒業式や入学式の際に、国旗に向かって起立し国歌を斉唱する義務のないことの確認を、神奈川県立学校の教職員が神奈川県に求めた裁判(2010年2月1日付「身辺雑記」参照)の控訴審判決を傍聴取材する。東京高裁の藤村啓裁判長は、一審の横浜地裁判決に続いて、教職員側の訴えを退ける判決を言い渡した。
藤村裁判長は主文の言い渡し冒頭で、「原判決(一審判決)を取り消す」と述べたので、「ええっまさか教職員側を勝たせる判決なのか」「この裁判長の法廷でそれはあり得ないはずだけど」と少し驚かされる。しかし、裁判長はすかさず「控訴人(教職員)らの訴えをいずれも却下する」と続けた。やっぱり予想通りの教職員敗訴の判決だった。それにしても紛らわしいなあ。
つまり一審判決は、「国歌斉唱時に起立して斉唱するように職務命令が出されたら従う義務がある」「起立や斉唱は儀礼的なものだから思想・良心の自由を侵害するものではない」と事実認定をした上で教職員側の訴えを退けたが、二審判決は「職務命令が出されたことはないし、不起立を理由に懲戒処分された事例もない」「教職員には確認の利益がなく、訴えそのものが不適法である」として、一審判決を取り消した上で、訴えを却下(門前払い)したというわけだ。原告弁護団は、「懲戒処分はなくても、人事評価や昇給などで不利益は受けている。われわれの訴えを正面から受け止めず、裁判所としての判断をせずに逃げた無責任な判決だ」と批判。ただちに上告する姿勢を示した。
夕方から新橋駅前の喫茶店。記者仲間と2時間ほど雑談。取材現場で実務を担っている記者同士だからこそ、具体的な事例をもとに突っ込んだ議論ができる。課題や問題意識を共有化することは極めて重要だ、との認識で一致する。共感することが多くて心強い。
3月18日(木曜日) 明るいわが家注文した蛍光灯の照明機器が入荷したとの連絡があったので、家電量販店で受け取る。帰宅して早速リビングルームの天井に設置。ここ数日は隣のダイニングルームの照明に頼っていたので、かなり不自由な思いをしていたが、ようやく明るさが戻った。ついでに寝室の照明も新しい蛍光管と交換した。こっちも明るさ倍増だ。いやあ、まったくもって文明の利器は素晴らしい(しみじみ)。
3月19日(金曜日) 大当たりの居酒屋夕方から東京・四谷。教育裁判のPRリーフレットの編集会議。いつもより早めに切り上げて、近くの居酒屋へ。新規の店を開拓しようと初めての店に入ってみたのだが、これが当たりも当たり、大当たりの店だった。店内は4人がけのテーブルが2つとカウンターだけ。実にこじんまりした居酒屋だけど、出てくる料理がどれも素晴らしいのだ。アナゴの白焼きはあっさりほくほく、鯛の白子焼きはとろける風味で、キャベツのお浸しはシャキシャキ感が素晴らしく、キャベツとタコの炒めものはバターが絶妙の味わい、といった具合なのである。特別な食材を使っているわけでないのに、調理の仕方とアイデアが工夫されていて、もう一度ぜひ口にしたいと思う肴ばかりだった。しかも予想以上に安かったのもポイントが高い。いい店が見つかったなあ。また行きます。
3月22日(月曜日) プロ顔負けの映像午後から横浜市内。神奈川の定時制高校の給食を考える市民の会に顔を出す。夜間高校の現状を紹介し、学びの場が消えていく問題をリアルに描いたドキュメンタリーDVDが、集会の冒頭で上映された。非常勤の先生が取材・監督した作品だが、映像も構成も内容もプロと比べて遜色ない出来ばえだった。行き場を失ったり傷付いたりした子どもたちにとって、定時制の教室は自分を肯定してくれて自信を取り戻すことのできる場所になっているという。所得格差の拡大と深刻化を背景に、これまでと違う形で定時制の存在はさらに必要とされているはずなのに、行政は統廃合して縮小する方向に走り出している。教師や生徒、卒業生の親たちのインタビュー映像から、定時制高校の課題が浮き彫りにされる力作だ。
このほか、定時制高校の給食制度廃止の動きについて、現場の先生や実際に給食を作っている業者さんらから現状報告があった。終了後、近くの居酒屋で懇親会。
3月23日(火曜日) 取材実務の悩みや課題を共有新聞やテレビなどの既存のメディアが十把一からげで、しかも事実誤認と誤解をまじえて市民から非難の対象にされ、「新聞やテレビなんか必要ない」とまで断じられることがここ最近ますます増えてきた。そんな中でも(いやそんな中だからこそ)、かなり真剣にマスメディア(というよりもジャーナリズム)のあり方・あるべき姿を議論している現場の記者が少なからずいる。そういう活動を続けながら報道・取材活動の実務に携わっている記者仲間に、個人的にメールを書く機会が最近あった。ジャーナリズムを考えるための参考になればと思い、一部抜粋し加筆修正して掲載します。
◇◇ 僕は新聞という媒体が大好きですし、新聞記者という仕事に誇りを持っています。新聞社を辞めてフリーになった現在も、精神的・感覚的には新聞記者として仕事を続けているつもりです。そういう意味では、最初からフリーの「ライター」として仕事をしている人たちの感覚とは、ちょっと違うかもしれません。
ネット社会を中心にして、市民の間で新聞・テレビなどの既存メディア(マスコミ)は評判が悪く、そればかりか反発や反感の対象となっていますが、「ジャーナリズムのあるべき姿」「やるべき仕事」を、現場の記者や幹部がきちんと実践していないことこそが、この問題の根源だと考えています。マスコミをすべて「悪」だと決めつけて、市民とメディアを対立させるように煽る風潮と、現場の記者が「サラリーマン化」して無気力になっている状況には、危機感を抱いています(会社にいた時からそれは感じていました)。
取材すべきことを取材せず、伝えるべきことを伝えず、傲慢で横柄で傍若無人のでたらめな取材を繰り返し、毒にも薬にもならないようなどうでもいいような紙面や番組を作っていることが、読者や視聴者の不信を招いたのは事実だと思います。メディアに携わるすべての人間はもちろん危機感を持って反省すべきです。しかし、既存のメディアに問題があることと、「だから既存のメディアなど必要ないのだ」と切って捨てることとは全く別の問題です。ジャーナリズムの果たす役割や責任、あるいは多角的に掘り下げて検証し調査報道する取材力、事実の裏付けを取ることによる信頼性は厳然として存在しているし、これからも決してなくなることはないと考えます。
取材報道に携わるみなさんの過去の議論を読ませていただいて、取材実務の現場経験を前提にした議論は、どれも共感できるテーマ設定(問題提起)でした。取材手法のあり方、報道と公益性とのかねあい、取材源の問題、取材対象との距離感、どこまで踏み込んで書くのか、などなど、どれも明確な一つの答えが出てこない難しい課題であり、しかも、現場でまじめに取材対象と向き合っている報道記者であれば、誰もが悩み苦しんで葛藤しているはずのテーマだからです。具体的な実務の問題だからこそ、これは現場での取材経験のない学者や学生、市民とは、到底議論できない(かみ合うことがない)テーマではないかと思います。
会社の枠組みをこえて議論する場としては、新聞労連の新聞研究部(新研)やジャーナリスト・トレーニングセンター(JTC)などがありますが、そこはやはり労働組合の組織なので、お役所的な制約のようなものがあったり、ノルマ的な動員で参加している人たちが出てきたりもします。市民や学者を交えた交流の場もありますが、それだとどうしても前提となる共通認識や実務経験の差があり過ぎて、論点がぼやけて話が大きくずれてしまいがちです。
一方、取材報道に携わっている記者同士によるみなさんの意見交換は、報道実務家が取材技法を議論し、理解を深め、報道記者・編集者の職能団体としての記者協会のようなものを構想しているところが面白そうで、ざっくばらんに話せる(失礼)と思いました。何よりも、取材対象と真剣に向き合って実績を積み上げている報道記者の自主的な集まりなので、議論もより活発に深まるように思います。組織内記者としての経験や、報道実務家としての問題意識を共有していることが前提なので、建設的な議論ができるのではないかと期待しています。
3月25日(木曜日) お見舞い午後から千葉県内の国立病院へ。「冤罪ファイル」メイン執筆者の今井恭平さんを見舞う。7時間近くの手術が無事に終わり個室に移ったとのことで、市民団体のメンバー2人と訪れた。顔色や表情もよく元気そうでほっとした。手術後もできるだけ自力で動いて早期回復につなげる、というのが病院の方針だという。「医師も看護師も発する言葉や行動にとても信頼感が持てて安心できる。レベルの高さが感じられる」と今井さん。不安でいっぱいの患者にそんなふうに思わせるだけで、かなりしっかりした高度な医療体制だということが分かる。いい病院に入ることができてよかった。
夕方から東京・お茶の水。某有名ホテルの喫茶室で、弁護士からあれこれ情報を聞く。おまけで日弁連の会長選挙の裏話も語ってくれた。別にそれを記事にするわけではないのだが、いろんな意味で興味深かった。
3月26日(金曜日) 「足利事件」再審で菅家さん無罪早朝に自宅を出て栃木・宇都宮地裁へ。「足利事件」再審の判決公判を取材する。東海道線の横浜─川崎間で置き石のために電車がストップして、東北新幹線に乗るのが1本遅れてヒヤッとしたが、なんとか9時前に地裁に滑り込んだ。敷地内には既に1500人ほどの傍聴希望者が長い行列をつくっている。テレビカメラや報道陣も数えきれないほど。ちょっとしたお祭り騒ぎの状態だ。僕ともう一人の若手編集者は残念ながら抽選に外れたが、編集部が用意した約70人のアルバイトのうち2人が傍聴券を獲得したので、僕も編集者も無事に法廷に入ることができた。
佐藤正信裁判長は「DNA型鑑定に証拠能力はなく、自白も信用性が認められず、菅家氏が犯人でないことはだれの目にも明らか」として菅家利和さんに無罪判決を言い渡した。判決理由の中で裁判長は一貫して、菅家さんに「氏」を付けて呼んだ。公判の最後に佐藤裁判長は、「菅家さん、判決は以上です。通常ですと、判決宣告後に裁判長は、将来について訓戒できることになっていますが、本件については自戒の意味を込めて再度謝罪をさせていただきます。菅家さんの真実の声に十分に耳を傾けられず、17年半の長きにわたり自由を奪う結果となったことを、この事件の公判審理を担当した裁判官として、誠に申し訳なく思います。(裁判官3人が立ち上がって)申し訳ありませんでした。このような取り返しのつかない事態を思うにつけ、二度とこのようなことを起こしてはならないと思いを強くしています。菅家さんの今後の人生に幸多きことを心よりお祈りし、この裁判に込められた菅家さんの思いを深く胸に刻んで、本件の再審公判を終えることとします」(全文=この部分は判決文にはない)と述べ、3人の裁判官が揃って起立して深々と頭を下げ、菅家さんに謝罪した。
閉廷後の地裁前は取材陣や支援者らでごった返し、喧噪と興奮は収まらない。正門前で菅家さんと弁護団が「完全無罪」などの垂れ幕を掲げると、カメラの放列が一斉にシャッター音を響かせた。さらに地裁の外に場所を移すが、囲み取材の多さに菅家さんの声も後ろの方には聞こえないほど。県庁内の記者クラブで開かれた記者会見は少し落ち着いたが、こちらにも大勢の取材陣が詰めかけた。
ちょうどそんなところで、持参したカメラのバッテリーが赤信号を示し始めて、SDカードのメモリーも満杯になってしまった。まだまだ取材は続くんだけどなあ。とりあえず宇都宮駅前のヨド◯シカメラに駆け込んで、新しいSDカードを購入。バッテリーも交換してお店で3時間ほど充電してもらう。それにしても、僕が写真撮影も全部やることになったのには驚かされた。東京で統括している編集者が、用意するはずだったカメラマンを手当てしていないというのだ。もちろん僕も一応は写真を撮るけれども、それはあくまでもおまけであって、写真は専門家にお任せして、僕は取材に専念するつもりだったのに。撮影に失敗したらという不安があるし責任も大きい。写真も取材も記事執筆も全部やるなんて、これじゃあ地方の一人支局(通信部)で、何から何までこなしていた時みたいだよなあ。おまけに、ほとんど寝ていないのですごく眠い。
夕方から県庁前の栃木県総合文化センター。弁護団と支援団体による無罪判決の報告集会。ほかにもたくさんある冤罪事件の関係者が一堂に顔を揃えて、菅家さんの無罪を喜んだ。集会終了後の午後9時過ぎ、菅家さんと冤罪関係者らがカラオケ店に入るのを見送って、新幹線に飛び乗り帰路につく。ああ、疲れた。車内で爆睡。東京駅についたのに気付かず眠りこけていたら、後ろの席の知らない女性が起こしてくれた。ありがとうございます。やばやば。
3月27日(土曜日) 「教師の専門性」って?午後から小田原。高校教師の教育研究グループに顔を出す。討議のテーマが「教師の専門性」ということだったので、面白そうだと思って参加したのだが、「専門性」「専門職」という言葉の定義があいまいで、どうもよく分からなかった。そもそも「教師」とは何か、その中に学習塾や予備校の教師は含まれるのか、その上で「教師の専門性」を議論しているのだろうか。素朴な疑問としてそんなことも感じた。分かりやすく的確に教える教育方法や指導技術の専門性と、教える内容・科目についての専門性と区別して論じなければ意味がない話のような気もする。終了後、参加者の先生とちょっと高級っぽい雰囲気の居酒屋へ。あくまでも雰囲気が高級っぽい感じというだけで、料理の中身はごく普通だった。
3月28日(日曜日) 「教育と法と情報リテラシー」午後から東京・渋谷。社会科の先生たちの教育研究集会で講演。この日は法教育や授業方法を中心に報告が行われるということだったので、「教育と法と情報リテラシー」をテーマに1時間ほど話をする。「推定無罪」が原則の刑事裁判の実態と事件報道の現実、市民の間に広がるマスコミへの不信感、ジャーナリズムの果たすべき役割、ニュース(情報)を見極めることの重要性──といったことを教育と関連付けて問題提起してみた。学校の授業でぜひ実践してほしいなあという期待も込めて熱く語ったのだが、ツボを押さえた活発な質疑が続いて、いい感じだったと思う(自画自賛)。
3月30日(火曜日) 法治国家ではあり得ない国松孝次・警察庁長官が銃撃された事件の公訴時効を受けて、青木五郎・警視庁公安部長が記者会見し、「事件はオウム真理教のグループが教祖の意思の下、組織的に敢行したテロだった」と断定する見解を発表した。2日ほど早いエイプリルフールの悪い冗談かと思ったが、警視庁は本当にそういう発表をしたのだという。確信しているのだったら立件すればいいのに、そうしなかったのは十分な証拠が得られなかったからだ。
しかし、これはおかしい。「立証できないが犯人はお前だ」「証拠はないけどお前の犯行に違いない」と一方的に断定しているわけで、こんなことがまかり通るのならば、捜査機関(国家)は証拠や法的根拠がなくても、好き勝手に犯罪者を仕立て上げることができてしまう。どこかの軍事独裁国家ならいざ知らず、まともな法治国家ではおよそあり得ない暴挙だろう。こういった発表をすること自体が違法行為ではないか。「やり過ぎ」「悔しい弁解」「恥の上塗り」などといったレベルの問題ではない。法治国家で許されていいとは到底思えない。信じ難い異様さだ。
3月31日(水曜日) 宇都宮・海渡コンビの日弁連へ夕方から東京・四谷。日弁連(日本弁護士連合会)会長選で、史上初の再投票の末に競り勝った宇都宮健児弁護士と、同事務総長に就任する海渡雄一弁護士の両氏を「励ます会」に顔を出す。「市民のための司法と日弁連をつくる会」の主催。宇都宮陣営を支援した弁護士のほか、与野党の国会議員、市民団体や労働組合の関係者ら約150人が集まった。旧知の弁護士からいろんな人を紹介されて、持っていた名刺が底を尽きそうになった。
あいさつに立った海渡弁護士は、「これから第2の司法改革が始まる」と今までの日弁連とは違うことを力説。さらに、再審無罪判決が言い渡されたばかりの「足利事件」に触れて、「冤罪をなくすため日弁連として真剣に取り組む。なぜこういう冤罪が起きたのか検証し、原因を解明しなければならない」と強調した。宇都宮弁護士は「市民のための司法」を目指す姿勢を示すとともに、司法修習生の修習資金の給費制が廃止されて貸与制が導入される問題を取り上げた。「ロースクールで学ぶための奨学金と修習資金の貸与で莫大な借金を抱え、弁護士は自分の貧困問題に直面することになる。貧乏人は弁護士になれないというのではおかしい。これは弁護士だけの問題ではない」と述べ、貸与制導入の廃止を訴えた。