●「Cyberduck」を導入●花粉症は小康状態●北方領土にロシアの「シグナル」●「冤罪検事」持ち上げに違和感●「冤罪検事」持ち上げに違和感・2●「冤罪検事」持ち上げに違和感・3●オーウェルの監視社会か●良心を貫く教育現場●武道必修化は止めるべき●教育者としての信念●原発がもたらす絶望●「冤罪検事」持ち上げに違和感・4●国歌斉唱を監視する愚かさ●アニメ「ちはやふる」一気に視聴●花粉の季節ピークに?●斉唱強要は国歌に対する冒涜●また教員が痴漢冤罪●「沖縄を捨て石にするな」●資料収集●「洋服の力を信じて…」●気持ち悪いセンバツ開会式●恥知らずな保安院●出稿●橋下市長の醜悪さ露呈●行政訴訟に協力することに●自覚のない勘違いの自信●十分な弁護を受ける権利●強風で花粉症最悪●●●ほか
MacBookProで使える無料のFTP(ファイル転送アプリケーション)を新しく導入。なかなかうまく使いこなせず手こずっていたが、やっとのことで使い方が理解できて、サイト更新ができるようになった。この「身辺雑記」はジオシティーズから更新できるので転送アプリはなくても大丈夫だが、「セカンドインパクト」の更新にFTPは欠かせない。FTPがなければプロバイダのサーバーにファイルを転送することができないのだ。というわけでFTPを「Fetch」から「Cyberduck」に乗り換えました。
花粉症の症状は既に1月下旬〜2月初旬から出ている(2月4日付「身辺雑記」参照)が、世間でも花粉の季節がいよいよ本格化しているようだ。でも幸いなことに今年はまだそんなに厳しい状況ではない。症状は落ち着いている。1回2カプセルの鼻炎薬を1日に2回服用するのが基本的な用法・用量だけど、今のところ1日1回1カプセルで大丈夫だ。これだとそれほど眠くもならないし、労働意欲が著しく減退するといったこともない。ぜひこのまま平穏に春を迎えたいものだ。マジで心底から切望している。
昨日3月2日付夕刊1面と今日3日付朝刊の朝日新聞「ロシア・プーチン首相会見」「北方領土、最終決着に意欲」は読みごたえのある記事だった。プーチン首相はわざわざ日本語で「引き分け」という言葉を使って、日露双方が妥協し得る領土問題の解決が必要だと意欲を示した、という内容だ。
プーチン首相の会見は朝日単独でなく、英タイムズ、仏ルモンドなど世界の主要紙の編集幹部も参加した会見なので、相当意味のあるコメントと言っていい。これまでロシア側は北方領土についてはけんもほろろの対応で、メドベージェフ大統領にいたっては堂々と北方領土を視察しただけに、かなり本気で領土問題を解決したいとの意思表示だと考えられる。
メドベージェフ大統領の北方領土視察など、最近のロシア政府の既成事実化とも言える対応を見て、北方領土はもう絶対に日本には戻ってこないと感じた人も多かったろう。どちらかと言えば「親日的」なプーチン首相の今回の発言に、日本政府は真剣に向き合うべきだ。もしかしたらラストチャンスかもしれない。このシグナルを見逃すと後悔することになるんじゃないか。相手はロシアでしかも領土問題。ゼロか100かでは話は前に進まない。
外交(領土問題交渉)で難しくないものなど、古今東西どこの地域でもあり得るはずがない。北方領土は4島返還か、2島返還か、それともゼロなのかの問題であって、軸足をどこに置いて交渉するかが問われている(これは日露双方の国内問題でもある)。4島返還にこだわる限り、北方領土が日本に返還されることはたぶんないだろう。そういう流れから考えて、ロシアの最高指導者がこのような「シグナル」を示した意味はとても大きいと思う。
ロシアの最高指導者が北方領土に関して「リップサービス」で見解を述べるなどということは、これまでもまずあり得なかったことから考えても、プーチン首相のこの発言は問題解決への本気度がうかがえるように思う。そうした発言内容が大きなニュースとして扱われるのは当然だろう。
しかしまあ、本質的には領土問題というよりも、漁業権や資源開発につながる領海問題なのだろうけど。もともと北方領土はアイヌの人たちが暮らしていた地域でもあるし。
JCJ(日本ジャーナリスト会議)で以前、「冤罪事件をでっち上げる検察官」を取り上げたテレビ朝日系のドキュメンタリー番組を見た。番組の最後で市川寛という検察官は冤罪被害者の遺族に謝罪するのだが、僕はどうも釈然としなかった。感想を求められてこう述べたのを思い出す。
「この検事を持ち上げ過ぎじゃないか。そこがものすごく気になる。確かに遺族に反省の言葉は述べているが、上司の命令に従うしかなかったと繰り返し、検察組織のありようを持ち出した言い訳が目立つ。なぜ命令に唯々諾々と従ったのか。自身の良心は何ともなかったのか。この人自身が取り調べで怒鳴って起訴まででっち上げた事実と、冤罪被害者(故人)が死ぬ直前まで抱えていたという憤りと悲しみは決して消えないだろう」
その場にいたJCJ関係者からは「かなり厳しい意見だが鋭い指摘だ」といった反応が返ってきた。この検察官は、暴力や暴言でありもしない話をでっち上げて、無実の人間を罪人に仕立て上げて起訴したのだ。違法で不当な命令をなぜ毅然と拒否しなかったのか、強い意思と信念と検察官としての職業意識があればでっち上げを拒否できたはずではないのか。どうしても疑問と不信感が払拭できない。謝ればいいという話ではない。
一番引っかかるのは、この人が検察官を辞めて弁護士をやっていることだ。反省して苦悩しているのは事実だろうし、それは理解できる。だが、ミスや過失で罪のない人を犯罪者にしてしまったのではない。自分の意思で権力を行使し、存在しない犯罪事実をでっち上げたのだ。そういう人物が法曹界にとどまって弁護士バッジを着けていることには違和感がある。
教え子にわいせつ行為をした教員が教壇に立てるだろうか。飲酒運転でひき逃げをした新聞記者に、飲酒死亡事故の取材をして記事が書けるだろうか。冤罪事件をでっち上げたことを反省して検察官を辞めたのなら、少なくとも転職先は法律家ではないほかの職業を選択すべきだった。
◇◇ TBS日曜劇場「運命の人」を見終わって、権力に真正面から刃向かうと、家庭も人間関係も仕事もすべてがズタボロになってしまう、だから波風立てずにそつなく生きた方が得だ、といった教訓が読み取られないことを心から願う。きょうの放送内容はそんな感じだった。反面教師になればいいんだけど。
それにしても重い内容だよなあ、TBS「運命の人」。あすから仕事という人が日曜夜にのんびり見るには覚悟がいるし、やっぱりちょっとしんどいかもしれない。視聴率が振るわないのも少し分かるような気がしてきた。僕は興味深く見ているけれども。
「取り調べで被告人を怒鳴りつけて冤罪をでっち上げた」のは検事本人の意思だ。上司の違法な命令を拒否するのも同じく本人の意思だろう。「上司の命令を拒否できない」という言い訳が「自分の意思で権力を行使したわけではない」ことになるとは、やはりどうしても思えない。
僕はこれまでの取材で、おかしなことはおかしいと言い続ける人や、理不尽な命令に敢然と拒否を貫いた多くの人たちの話を聞いて記事にしてきた。教師や裁判官や会社員。この人たちを支えたのは職業に対する誇りと良心と誠実さだ。信念があれば意思は貫ける。これは生き方の問題だろう。
司法の現実、裁判官のおかしさ、冤罪事件の背景といった取材も続け、冤罪被害者の声もたくさん聞いた。だからこそ、「上司の命令を拒むことはできなかった」と言いながら冤罪をでっち上げた検察官には、不信感を抱かざるを得ない。どうして自分の意思ででっち上げを拒否できないのか理解に苦しむ。
僕自身、新聞記者として承服できない上司の命令には異議を唱えたし、人権侵害につながる紙面製作には加担しなかった。社内で同僚記者と勉強会や紙面研究会を開いて、記者としてやれることやるべきことはやった。不利益を受けるのは覚悟の上で。違法な命令に唯々諾々と従うのは職務放棄としか思えない。
冤罪をでっち上げた検察官が反省し謝罪したことは評価する。検察官を辞めたのは一つのけじめだろう。だとしたら、どうして弁護士バッジを着けたのだろう。権力を行使し違法な取り調べで冤罪をでっち上げたのだ。それが責任の取り方なのだろうか。違和感が払拭できない。
◇◇ 午後から横浜市内。岩波書店の編集者と打ち合わせ。2時間ほどあれこれ話をするうちに、問題意識が整理されて考えがまとまってきた。なんとか書けそうな気がする。よし頑張ろう。やる気と刺激を与えてくれるいい編集者だ。感謝。
しつこいようだけど書いておくべきだと思うので、「違法な取り調べで冤罪事件をでっち上げた検察官」について再び。謝罪した元検察官を手放しで持ち上げることに、どうしても払拭できない疑問を感じてしまうのだ。
冤罪被害者の遺族に頭を下げて謝罪する市川寛・元検事に対し、最も違和感を覚えたのは、肩書きが「弁護士」となっていた点だった。彼がやったことは公務員による権力犯罪だ。しかも最大の国家権力を行使して、冤罪事件をでっち上げ無実の人間を犯罪者に仕立て上げて起訴したのだ。
検察官としての正当な職務を全うして、定年後に弁護士になるのなら分かる。しかし彼の場合はそうじゃない。権力を行使して冤罪事件をでっち上げて検察官を辞めた人間が、弁護士になるのはまともなのだろうか。それをおかしいと思わないのが法曹界なのだろうか、というのが最大の違和感だった。
法律家である検察官として違法行為をし、しかも国家権力を行使して無実の人間を犯罪者に仕立て上げた人物が、当たり前のように法律家である弁護士になる。普通に考えれば異常ではないか。それをおかしいと思わない感覚が理解できない。そんなことがまかり通る「法曹一家」に疑問を感じる。
そもそも司法全体の信用に関わる話だと思うのだが、どうして疑問に思わないのだろう。「法曹一家」の感覚と世間一般の感覚とはズレがあるのだろうか。顧客の預金を横領した銀行マンが信用金庫に再就職して、金銭出納業務を担当するなんて考えられないのと同じだと思うのだが。
違法行為を反省して検察の内部を赤裸々に語ったことは評価されていいが、検察官として国家権力を行使し、冤罪事件をでっち上げたという犯罪事実は消えない。この元検察官が法律家でない職業に就いていたら、たぶん僕の見方は全然違っただろう。検察官から弁護士への「天下り」が信頼性と説得力に欠けるのだ。
そしてくどいようだが大事なことなので繰り返し書く。上司に命じられたとしても、違法な取り調べをして無実の人間を犯罪者に仕立て上げた行為は「本人の意思によるもの」だ。「従うしかなかった」というのは理由にはならない。明白な権力犯罪なのだから毅然と命令を拒むべきだった。
無実の人間を犯罪者に仕立て上げることが検察官の仕事だと命じられたら、そんな仕事は直ちに辞めればいい。法律家としての自負心と誇りがあるなら、違法な命令は断固拒否して検察官を辞めて、そうして弁護士になればよかったのだ。それなら辻褄は合う。そうしなかったのは「本人の意思」にほかならない。
僕が引っかかった違和感は、市川寛・元検事という個人の行為に対してではなく、むしろ誇りと信念と志を貫いて誠実に仕事をしているかどうか、という人としての生き方や仕事への姿勢にある。もう一つは、法律を無視してきた検察官や裁判官が、平然と別の法律家(弁護士や公証人)に収まることへの不信だ。そういうことが普通のこととして容認されているのは異常だと思う。ぜひよく考えてほしい。
「橋下市長、環境局職員の喫煙調査ノ市民通報受け」(読売)。大阪市の現業職員いじめとしか思えない。市庁舎ロビーや窓口近辺など公共の場での喫煙をたしなめるならいざ知らず。「ごみ収集車内で作業員がたばこを吸っている」ってわざわざ通報する方もどうかしてる。
次から次へとどうでもいいしょーもないことばかり打ち上げて、ほかにもっとやるべきことはないのか。橋下氏のグループ関係者か支持者か、橋下氏と思想を同じくする人たちによる通報なのだろうか。タイミング的にも出来過ぎであるような気もする。そうでなくても、まるでジョージ・オーウェルの描く監視社会・通報社会みたいじゃないか。ぞっとする。
教育現場の息苦しさについて、都立高校の先生方から話を聞いている。教育行政の理不尽で違憲とも言える不当な命令にもめげず、それでも誠実に生徒たちに向き合い良心を貫いている教師や、ぎりぎりの選択をしている管理職も少なくない。何のためにだれのために教師になったのか。原点と志を失わず、信念と職業意識に根ざした声は貴重だ。
帰りの電車を待つホームでうざいサラリーマンにいちゃもんを付けられた。携帯電話に気を取られてミスったこっちも悪いが、勝ち誇ったように因縁を付けてくる態度がどこかの弁護士出身の市長みたいで、不愉快というより気持ち悪かった。あの時間の電車には乗らないようにしよう。
「柔道部活で女性に後遺症、1億3千万円賠償命令」(読売)。北海道立高校で当時2年生が後頭部を強打し重い後遺症が残ったという。4月からの武道必修化でこういう事故が多発して、損賠請求訴訟を次々に起こされたらどう対処するのだろう。そもそもお金の問題ではないし、どれだけ高額の賠償金を受け取っても取り返しがつかない。生徒の命や傷ついた健康は戻ってこない。
文部科学省は都道府県教委に対し、教員の指導準備が整うまで柔道の授業を始めないように通知したという。だが、指導体制や環境が整っていないのなら、延期ではなく中止すべきだろう。生徒の安全確保こそが最優先事項なのだから。拙速で場当たり的に無理を押してまで必修化する必要はない。
◇◇ やっぱり、いきものがかりはいいな。吉岡聖恵のあの歌声には癒される。今夜のTBSテレビ「A-Studio」はとてもよかった。
都立三鷹高校の土肥信雄・元校長と久しぶりにさしで3時間近く話した。都教委の違法な命令や指導に屈せず、現役校長として堂々と異義を唱え続けた土肥さんとは、取材を通して5年以上前からの付き合いだ。最も印象深い言葉は「僕は教育者だから」。そこには教師としての強い自覚と誇りと信念がある。
都教委は校長を経営者と位置づけて、教育行政の指示や命令に疑問を抱かず黙って従えばいいと考えているようだが、校長先生はやはり「先生」なのだ。学校の経営責任者であると同時に、教師集団のリーダーでもあるはず。だから教師としての信念に反する命令に対し、土肥さんは毅然とノーを言うのだろう。
納得できない命令に黙って従うことへの違和感。信念を曲げていいのか、自分は何のために誰のために教師をやっているんだろう、誠実にそう考えれば、理不尽で違法な命令や指示に従うことは良心が許さない。そんな土肥さんの周りには、校長退職後も卒業生や保護者が大勢集まる。だから説得力があるのだ。
3・11のテレビの特番について少しだけ。東日本大震災から1年を特集するのは当然だと思うが、自然災害の「地震や津波」と人災である「原発事故」は区別して扱うべきだ。特に、原発事故はいかに取り返しのつかない事態を招くか、広範囲に重大な影響をもたらすかについてこそ、大々的にしつこく取り上げるべきだ。原発の再稼働なんてとんでもないことだということについても、しっかり伝えるのがメディアの責務だ。核廃棄物処理の問題だけ考えてみても原発は破綻しているし、そもそも原発は人類の手には負えない。もう十二分に学習して理解したはずだろう。
3月9日に放送されたNHKスペシャル「南相馬 原発最前線の街で生きる」のインパクトがあまりに強烈だったので、3・11の特番がどれも霞んで見える。Nスペ「南相馬」は、原発事故によって市井の人々がどれだけ絶望的な生活を強いられることになったかを、現地に密着して静かに冷静に描いているだけに、原発の本質と罪深さがなおさら重く心にのしかかる。農家の親父さんの「士農工商って知ってっか。俺が何か言って国は動くか。東電の社長が言うと国が動くんだよ」と淡々と、でも涙ぐみながら語る言葉が耳から離れない。
◇◇ 政府主催追悼式での天皇の「お言葉」は、野田首相のあいさつに比べて1000倍よりもっと心に響いた。被災者に寄り添う内外の支援者やボランティアにねぎらいと感謝を述べたほか、原発事故や放射能について前段でしっかり触れていたからだ。野田首相が原発事故について一言で済ませたのとは大違いだった。
天皇が「この震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています」と述べたのに対し、野田首相はあいさつの後段で「原発事故との戦いは続いています」と本当にさらっと触れただけだった。
何なんだろう、この落差は。こんなあいさつしかできない日本の首相って、いったい…。さすが原発再稼働を目論んでいる首相だけあるにしても、あまりの露骨さと配慮のなさに言葉を失う。
◇◇ 悲惨だったなあ、今夜のTBS系の日曜劇場「運命の人」。これまでで一番悲惨な内容だったかもしれない。厳しいストーリーのドラマだが、記者をはじめとするメディア関係者や司法関係者には学ぶべきこと、教訓がたくさん盛り込まれている。でもそれ以外の人にしてみたら、どうでもいいと思われたかもしれない。うーん。
「検事失格」を読んだ。あえて触れなくてもいいかなと思っていたが、「本も読まずに何を言う」などと的外れな罵倒をしてくる人がいるので、一応書いておいた方がフェアかなということでとりあえず感想を。
「検事失格」(市川寛著)を読んだが、これまで述べた意見を修正するものは何もないと改めて確信した。とんでもない次席検事が上司で、その次席に無謀な立件作業を強いられたという記述にページの大半が割かれているが、「どうしようもなかった」「気力が失せた」などの言い訳が繰り返されるばかり。
立件を見送るように強く主張し、おかしいことはおかしいとして毅然と行動する機会は何十回とあったのに、「三席としての立場がある」「ほかの検事や事務官たちの苦労が水の泡になる」と言い訳して、結局は冤罪事件のでっち上げに加担する。不快感と嫌悪感しかわいてこなかった。
要するに、著者である検事の立場で見るか、それとも無実の罪で被告人にされる冤罪被害者の立場で見るかの違いだ。それによって見方も考え方も全く違ってくるだろう。読み手としても同じことが言える。視点の違いで受け止め方がまるで異なるということがよく分かった。
自身のプライドを傷つけられる場面では「怒髪天を衝く思いがした」「血液が逆流しそうなほどに激高した」としながら、それでもやはり「気力すら失せていた」と繰り返して何も行動しない。そればかりか、冤罪のでっち上げに加担する。
国家権力を行使することの責任に対する自覚のなさと、被告人に仕立て上げられる側への想像力の欠如に、ぞっとさせられる。検察の内実を赤裸々に述べたのは評価するが、冤罪被害者をでっち上げた検事について、僕がこれまで述べてきた内容を修正することは何もないと改めて思った。
◇◇ 本を読んだ感想は以上のようになる。ところで、「背景や資料も調べず」「テレビをちょっと見ただけ」の感想で決めつけている、と言って僕の発言を批判する人がいるが、それだけで僕が元検事のことを書いているわけないだろう。何の根拠もなく一方的に決めつけているのは、それこそどっちなんだという話だ。
おまけに「原典(元検事の著書のことらしい)に当たらず印象批評」だと言うのだが、元検事の著書に書かれていることはすべて正しいということなのか。だったら元検事が登場するテレビのドキュメンタリー番組の内容だって、同じくらい正しいことになるかもしれないとは考えないのか。
どっちがいい悪いということでもないと思うが、仮に元検事の著書はすべて正当であって尊重すべきだと主張するのなら、それはまさに「聖書」か「教典」扱いではないか。見解の相違、感じ方の違い、といったものをもはや超越した発想だ。宗教の信者を相手にまともな議論はできない。
◇◇ 都教委から生徒の首を絞めるような命令を受けて、もう限界だから教師を辞めようと考えた先生の話を聞いた。しかし先生は教師を辞めなかった。教育現場に踏みとどまったのは、生徒を助けるのは自分の役割だと思ったこと、相談に乗ってくれる先輩や信頼できる同僚が何人もいたことだという。生徒に寄り添う覚悟と責任感を応援したい。
「原発再開『反対』が57%」と朝日新聞世論調査。「男性は賛成41%、反対47%とそれほど賛否の差がないのに対し、女性は賛成15%、反対67%で差が大きい」。この男女の意識の違いはどういうことなんだろう。安全よりも経済が大事だといまだに考えているのか。命と安全があってこそなのに。
大阪の橋下市長は口を開けば「ルール、ルール」と何とかの一つ覚えのように唱えるが、ルールそのものが違憲違法であれば従う必要などない。自称弁護士にはそんなことも分からないんだな。
大阪府立高校の卒業式で、教員が国歌を歌っているかどうか口元を監視してチェックする愚かさ。生徒を送り出す卒業式でこんなバカバカしいことをやってるこの校長も、橋下市長の友人の弁護士だという。憲兵隊ごっこかよ。北朝鮮の首領様は褒めてくれるかもしれないが、世界中から笑われるだけだろう。
そもそも、起立している教員に国歌斉唱をあえて強要する意味が分からない。なぜそこまでする必要があるのか。最高裁判決はそれぞれ個人の内心の自由まで否定しているわけではない。大前提には憲法の思想・良心の自由があるわけで、それを超越して斉唱を命令する権利がだれにあるというのか。
そんな一方的な職務命令を「ルール」と称して、卒業式で国歌を歌っているかどうか確認してルールに従わせると息巻き、教員をわざわざ監視し報告して処分させる。それが校長の仕事なのか。
いったいどこを向いて、だれのために仕事をしているのかが問題だ。橋下市長もこの校長も、自分たちの言う通りに従わせて管理する対象としか教員や生徒を見ていない。だから「マネジメントが校長の仕事であって、校長は教育者ではない」という発想になるのだろう。本来あるべき姿は校長「先生」のはず。先生として生徒の方を向いて仕事をしていれば、卒業式で国歌斉唱を監視するなんて発想はそもそも出てこない。
◇◇ 国旗・国歌は、「国家」を「標章」で示す「しるし」「シンボルマーク」であることは間違いないが、それ以上でも以下でもないはずだ。それぞれ国民という相手がいるので、各国の旗や歌をていねいに扱うべきなのは当然だが、だからといって崇め奉ることを強要される存在であってはならない。
国旗・国歌の成り立ちや意味などを学校の授業できちんと教えるのは、とても大事なことだろう。いろんな思いや考え方があるということも含めて。一方的に指示し命令して従わせるのは洗脳と同じだ。まず事実や背景を知って、その上で、それぞれの考え方や認識を深めることが何よりも大切だと考える。
◇◇ きょう13日付の朝日夕刊に、心に残る記事が2つあった。一つはコラム「窓」に各務滋・論説委員が書いた「デジタルの効用」。「チョーク1本、口一つで何でも教えるのが教師」が信条の釧路市の先生が、クラスの聴覚障害児のためにデジタル教材を使ってみる気になったという。「なっちゃんが伸びた、勇気をもらってみんなが伸びた」。ええ話や。
もう一つ朝日夕刊で心に残ったのは、文化面「時の回廊」。野坂昭如氏が「火垂るの墓」と餓死した妹への思いを述べながら「復興と繁栄の危うさ裏表」を語る。「この震災で、日本がどう変われるかが問われている。何が大事か、足もとをよく見て前に進まなければならない。時に後退する勇気をもつこと」。同感。
TBS系のドラマ「深夜食堂」と放送時間が被っていたため、シリーズ後半から見始めた日テレ系のアニメ「ちはやふる」。1話から12話をまとめて一気に見た。さすがにちょっと疲れたけど、めちゃめちゃ面白いので全然苦にならない。サボってないで仕事しろという突っ込みは甘受するが、取材はちゃんとやってるぞ(汗)。
午後9時過ぎに千葉県北東部と茨城県南部で震度5強。横浜の自宅でも上下左右にかなり強い揺れを感じた。しかも結構長かった。このところ千葉沖や茨城沖が震源の地震が本当に多い。東海村の東海第二原発に異常はないというが、もっと大きな地震が起きたら、福島第一原発と同じような事故が繰り返されるだろう。取り返しのつかないことになる前に、とにかく一刻も早くすべての原発を廃炉にしてくれ。再稼働なんてとんでもない。この期に及んでまだ、安全より経済が大事だというのか。いい加減に目を覚ませよ。
花粉の飛散がピークを迎えているそうだが、鼻のむずむずに加えて、先週まで何ともなかった目にかゆみが出てきた。1日1カプセルを朝だけ服用していた鼻炎薬を、今週から朝夕に1カプセル服用するようにしている。今年は症状が軽めだと思って喜んでいたんだけどなあ。
お天気キャスターの森田さんによると、ウメと違ってサクラは賢いので、開花が遅れることはないのだとか。サクラは季節をしっかり把握して花を咲かせるのだという。ソメイヨシノは例年通りの満開が期待される。さすがサクラ。開花も散り際もあっぱれだ。
「歌は自由に歌ってこそ歌なんだ」(映画ドラえもん「新・のび太と鉄人兵団〜はばたけ天使たち〜」のジャイアンの台詞)。全くその通り。歌いたい歌を歌うことを禁じられるのも、無理やり歌わされるのもおかしい。どちらも歌に対する冒涜だ。
命令に従わなければ処分すると言って、国歌斉唱を強要する大阪の橋下徹市長とそのお友達だという中原徹校長。無理やり歌を歌えと強要するなんて、そもそも国歌に対する冒涜じゃないか。自分の意思で自由に歌ってこそ歌(国歌)だろう。
「橋下徹と不愉快な仲間たち」はこれから間違いなく、心を込めて大きな声で歌え、音痴は処分すると言い出すに違いない。人の心に土足で踏み込んで平気でいられることにぞっとする。この連中の発想は、ゲシュタポや特高警察や憲兵隊と同じだ。大阪府民はきっと後悔することになる。
◇◇ 被災地のがれき引き受けをめぐる朝日新聞の特集記事から。神戸大学大学院の山内知也教授は「西日本にがれきを運ぶのは間違い」だと主張する。東日本はすでに放射性物質が拡散してしまった汚染地域だとした上で、がれきを受け入れた東京の焼却灰の汚染濃度に変化がないのは、東京のごみが被災地のがれきと同じくらい汚染されているためだと分析する。東日本の住民としては悲しい話だが、的を射た見解だと思う。
文芸評論家で早大教授の加藤典洋氏は、被災地のがれき受け入れを住民が反対するのは「政治不信が生む自己防衛」だと分析。「がれきを受け入れて取り返しがつかなくなる不安がぬぐい切れないからで、これは地域エゴとは違う」。この見解にも同感だ。
一方、黒岩祐治・神奈川県知事は「がれき受け入れは自体は撤回しない」ト訴える。「いろいろ提案しながら進めたい。冷静に議論したら必ず理解いただけると信じている」。どうも説得力に欠けるなあ。地元住民の理解を得るのはかなり難しいだろう。
痴漢冤罪で逮捕・起訴された都内の教員の話を2時間半ほどにわたって聞いた。自称被害者の女性の調書は矛盾や突っ込みどころが満載で、よくこれで起訴したなという内容。ところが担当弁護士の対応が曖昧で、しかも自分一人での弁護にこだわっているとか。一審の重要性と無罪判決を取ることがどれだけ難しいのか分かっているのかな。弁護士過誤が心配だ。杞憂であればいいけど。
この教員の公判は次回が2回目。これとは違う別の事件では、ろくな弁論も証人申請もせずに結審して有罪確定させてしまった弁護士もいる。今回の件はまだ何とかなる段階だ。取材に同席した友人のTVディレクターは弁護士交代を強く進言していた。裁判官も当たり外れがあるが弁護士も同じなんだよなあ。僕は、ほかの弁護士も何人か入れて強力な弁護団体制を組むべきだと思う。
とにかく一審が大事なので、後悔しないようにできるだけのことはした方がいいと教員には助言した。3年生の担任なのに卒業式への出席も生徒への接触も禁止されているそうだ。それが何より辛いという。教え子からは「先生に会いたい」というメールが殺到。校長への直談判もしてくれたそうだ。緊急保護者会でもこの教員を非難するような声は出なかったらしい。こうした声や事実は、どんな先生なのか人柄や仕事ぶりを示す貴重な情状証言になるはずだ。
この教員の手の平からは自称被害者の着衣の繊維などは採取されず、女性の証言だけで逮捕され、罪証隠滅や逃亡の恐れなどないのに25日間も勾留された。日本の刑事司法のひどさを改めて痛感する。一方担当弁護士は、科学的な再現ビデオの作成や証人集めの指示も、同種事件で無罪判決を言い渡した最高裁判例などについての説明も何もしていないらしい。うーん。
僕もいろいろ考えさせられる取材だった。話を聞いた後は横浜・野毛に繰り出して中華料理屋と沖縄居酒屋をはしご。楽しく飲んだのでよしとしたい。痴漢冤罪で逮捕された教員も気分よく都内に帰られたみたいでよかった。ぜひ頑張ってほしいなあ。ちなみに裁判官は有名な「あの人」だ。僕の書いた記事を紹介しておいた。
TBS日曜劇場「運命の人」最終回は2時間SP。「沖縄を捨て石にするな」という強いメッセージが込められた力作だった。弓成記者と山部記者がカッコよく描かれすぎの感は否めないが、そこはドラマだから仕方ない。俳優陣は好演だった。日本の司法は一貫してクズだったとの結びに全面的に同意する。
「運命の人」のスタッフ(PやDや脚本家)は、新聞ジャーナリズムに深い信頼と期待を寄せているんだなあと、全編を見て強く感じた。本土のテレビと週刊誌への批判や皮肉は半端でない。弓成記者が沖縄の新聞に書いた署名記事による影響の描き方からも、新聞へのかなりの期待がうかがえる。本来やるべき仕事をやってくれよという叱咤激励と受け取るべきかもしれないが、本土の新聞と新聞記者はこれにしっかり応える責任がある。
午後から勤務先の大学の図書館や情報センターで、取材や原稿執筆に必要な資料を集める。記事検索やプリントアウトなども無料で好きなだけできるので助かる。春休みで学生が少ないから快適。仕事もはかどった。どういうわけか自宅以外の場所の方が集中できるんだよなあ。喫茶店とか電車の中とか。時間が区切られていて、だらだらできないからかな。
◇◇ 自宅に隣接する駐車場で、仕事帰りらしいおっさんが車から降りるたびにいつも長々と携帯電話をしている。しかも閉め切った室内にも聞こえるほどの大声で、30分近く商談らしき話を延々と。だれが聞いてるか分からんのに大丈夫なのか。僕が顧客だったらこんな不用心な相手に仕事なんか頼まないなあ。というか、うるさくて迷惑だから自分ちに帰ってから電話しろよ。家に仕事を持ち込みたくないの? やり手の自分をアピールしてるのか? 謎だ。
鼻が詰まって深夜や朝方に何回も目が覚めた。目も痒くてしょぼしょぼするし。さらにくしゃみを連発。鼻炎薬をいつもより多く飲んだので、眠くて仕方ないから昼寝までしてしまう始末。きょうは全く使いものにならない。どうしようもないな。
◇◇ 糸子「おたくらは医療の力を信じて毎日仕事してはるやろ。うちは洋服の力を信じて仕事してきましたんや。洋服にはものすごい力があるんですわ」。かっこええなあ。しびれる言葉や。尾野真千子の糸子が第1部、それを引き継いだ夏木マリが第2部といった感じで、NHKの朝ドラ「カーネーション」は通しで1年間やってもいいのに。今月末で終わってしまうのはもったいない。
センバツ(選抜高校野球大会)の開会式って高校生に「君が代」の独唱をやらせるんだ。知らなかった。独唱したのは、毎日新聞社主催の全日本学生音楽コンクール全国大会声楽部門・高校の部で1位になった東京音楽大学付属高の女子生徒。音楽コンクール声楽部門の優勝者はもれなく独唱するのかな。本人の意思なら別にいいと思うけど、そうじゃない優勝者の場合はどうするのだろう。意思に反してでも歌わざるを得ない雰囲気に従うことになってしまうのだろうか。ものすごく気になる。
そしてもう一つ、センバツ開会式の入場行進の実況で、NHKの男女2人のアナウンサーが「手が大きく振れてますね」「大きな声が出ています」と繰り返し褒め称えていたのが気持ち悪かった。手を大きく振って足を高く上げて行進する様は見ていて不自然だったし、軍隊そのものにしか見えなかったけど、なんだかなあ。もっと普通に歩いて入場すればいいのに。それじゃあまずいのだろうか。
入場行進曲を演奏したのは警察の音楽隊だった。高校のブラスバンド部が軽やかに演奏して、それに合わせて楽しそうに入場すればいいのに。オリンピックの開会式や閉会式では、選手たちはみんな笑顔で歩いている。どうして高校野球はああいうふうにできないのか不思議だ。高校総体や国体の入場行進にも同じような違和感というか、気持ち悪さを感じてしまう。
東京電力のウソ八百をバックアップして原発の「安全神話」なる幻想を振りまき、福島原発の大惨事を招いた経産省原子力安全・保安院や原子力安全委員会が、関西電力大飯原発の安全性にお墨付きを与えて、しかも再稼働に道を開くなんてあり得ない。よくヌケヌケと「妥当」だなんて「評価」ができるものだ。図々しいにもほどがある。そもそも彼らのどこにそんな「資格」があるんだ。恥知らずにもほどがある。
取材のまとめと原稿執筆など。
約1万字の原稿をようやく書き終えて出稿した。もうボロボロ。疲れた。毎度懲りない反省だけど、もっと早くから書き出していたらこんなことには…。要するに気合いが入らなくて、集中力を持続させられないところがダメなんだよなあ。困ったもんだ。でもなんとか締め切りにギリギリ間に合ったから、まあいっか。
大阪市長選で前市長への支援を求める「労組リスト」なるものを基に、維新の会や橋下市長が「組合問題」を追及していたが、肝心の「リスト」が捏造だったことが判明。まるで特高警察やナチスの謀略か公安警察の「転び公妨」じゃないか。橋下市長の反論「問題を指摘するのが議員の仕事。追及は当然」に呆れる。確認もしないのかよ。これがまかり通るのならもう何でもありだな。あ、自作自演か。維新の会や橋下市長の醜悪さと厚顔無恥が改めて露呈した。お里が知れるとは、まさにこういうことを言うのだろう。
都内の法律事務所で打ち合わせ。行政訴訟の控訴審で陳述書を書くことになった。証言することにもなりそう。取材で知り得た内容はすべて記事の形で明らかにするのが基本だが、一審判決の事実認定と行政側の主張のウソ八百があまりにもひどいので、情報源などはもちろん秘匿した上で、事実誤認をただす形で裁判に協力させていただくことにした。
僕の書いた記事が裁判で証拠申請されて採用されたことは何回かあるが、陳述書を書くのも、(採用されれば)証人として証言するのも初めてなので、ちょっと緊張する。証人要請は過去にほかの裁判でもあったけど断っていた。でも今回はそういうわけにもいかないと覚悟を決めたのだが、取材以外で法廷に行くというのはやはり気が重い。しかしこれも経験なので、引き受けたからには自分にできることはしっかりやろうと思う。
◇◇ 来月発行の雑誌「世界」(岩波書店)に、息が詰まるような東京の学校現場の現状報告ルポを書いた。ゲラが上がってきたのだが、明日の昼までに校正ゲラを戻さなければならず、けれども明日は早朝から取材に出るので今夜中に目を通さなければならず、アセアセ…ということで大急ぎでチェックする。
ほぼ完全原稿で出稿したので、誤字脱字の修正が2カ所ほどあっただけだった。編集部にファクス送信完了。とりあえずこれでひと安心だ。いつも見ている深夜アニメの最終回放送は、4番組のうち半分だけ見て残りは録画だな。下手したら睡眠時間がなくなりそうなんだけど…。
朝から東京地裁立川支部で、痴漢冤罪で逮捕された都内の教員の第2回公判を傍聴取材した。前にも書いたが、被告人の手の平から繊維は検出されず自称被害者の証言だけで起訴(3月17日付「身辺雑記」参照)。女性の調書や供述には矛盾や疑問点が多く、よくこれで起訴したなという内容だが、心配した通り弁護士による尋問には不安と疑問が残った。
第2回公判では、報告書を作成した警察官と自称被害者の女子高校生に対する証人尋問が行われたのだが、だれの目にも明らかなくらい弁護人の尋問がひどかった。突っ込むべき証人の言動の矛盾や不可解な点をほとんど追及せずに、本筋から外れた些末なことにこだわって限られた時間を浪費するのだ。
そればかりか同じような質問を無意味に何回も繰り返し、しかも話があっちこっちに飛ぶから、何が聞きたいのか明確にならないといった場面が延々と続く。裁判長から「弁護人はこういうことが聞きたくて、これこれを立証したい趣旨で質問しているのだと理解します」との助け舟が10数回も出される始末だ。
さらに、裁判長が証人に対して「弁護人はこういうことを聞いているようですよ」などと「通訳」する場面さえあった。ここまで裁判長が「親切」な審理も珍しい。にもかかわらず裁判長が途中で、何が聞きたいのかと首を傾げる場面が、これまた何回もあった。検察官はずっと失笑していた。
被告人は苛立った表情を終始あらわにし、見ていて気の毒なほどだった。僕だけでなく友人の記者も「これはひどい」との感想。傍聴席の支援者も「弁護士は何が聞きたいのかさっぱり分からない。裁判官や検察官が助けてくれている」と口を揃える。コミュニケーション能力にそもそも問題があると感じた。
弁護士はベテラン。たぶんご本人は尋問内容や立証意図が、証人にも裁判官にも検察官にも傍聴席にもしっかり伝わっていると思っているのだろう。自覚のない勘違いの自信ほど始末に負えないものはない。裁判長は我慢強く冷静に証拠を見ている(ように思えた)ので、現時点ではそこに期待するしかない。
被告人や支援者にしてみたら、弁護士の先生には言いたいことがあっても面と向かっては言いにくい。心中を察するばかりだ。報告集会や懇親会で、若い被告人が努めて冷静に振る舞っていたのは立派だった。この日の救いは、被告人がこの3月まで担任したクラスの教え子や保護者が10人も傍聴支援したこと。「僕らが来ることが力になる」「先生の力になるなら行く」。生徒たちに慕われている先生だというのがよく分かった。
普通の市民にとって、弁護士は縁も接点もない存在だろう。裁判に関わらなければならない事態に直面すると、とりあえず何らかのつてを頼って弁護士を紹介してもらうことになる。昨日付の「身辺雑記」に書いた痴漢冤罪で起訴された教員の場合も、最初は弁護士会から派遣された当番弁護士が接見したそうで、その後、父親の友人から紹介された弁護士が担当になったという。
国選であれ私選であれ、納得できない弁護士に当たった場合は、できるだけ速やかに解任して新たに依頼するべきだと思うが、裁判に縁のない市民には話はそんなに簡単ではないようだ。普通の人は一度依頼した弁護士を切るなんて考えることすらできない。
痴漢冤罪で起訴された教員にしても、弁護士を交代させてはどうかとか、新たな弁護士を加えて弁護団を組んだ方がいいのではないか、などと助言されてもなかなか決断できない。父親の友人の紹介であるといったことも理由の一つだろうが、そもそも弁護士を解任できることを多くの人は知らないのだ。しかしあまりにもひどい尋問を目の当たりにして、さすがに危機感を抱いたみたいだ。被害者尋問が終わった段階で交代させても遅いと思うが、それでも少なくとも今のままで最後までいくよりはマシかもしれない。
次回の第3回公判は被告人質問なのだが、いったいどうなることやら。ある弁護士が指摘してくれたが、これはまさに弁護権侵害に該当する問題だろう。不十分な弁護しか受けられなかったことが上訴の理由になるのなら、そういうことも検討されてしかるべきだと思う。裁判官だけでなく弁護士にも当たり外れがある。冤罪被害者は法曹三者によってつくられている、と言ってもいい。
これとはまったく別の冤罪事件だが、都内の元教員はろくな弁護もされずにわずか2回の公判で有罪判決を受けて、しかも弁護人は控訴の手続きすらしなかったと、判決確定後に聞かされたことがある。有罪判決(執行猶予付きの懲役刑)なので教員免許も剥奪されてしまったというのだ。それじゃあもう取り返しがつかないって。手助けしようにも何もできないよ。こういう弁護過誤は、たぶんほかにもたくさんあると思われる。
朝から(深夜から)ものすごい強風が吹き荒れている。そういうのも影響してか、花粉症の症状がひどい。目は痒くてショボショボするし、鼻はムズムズでくしゃみ連発。最悪だ。たまらん。