身辺雑記 

by totoropen (OOKA Minami)


2006年12月1日〜12月31日

●見当外れな朝日の組織改革●大学も教育崩壊?●年末の学校雑務●三流週刊誌の手法●単行本のチラシ●単行本の見本届く●「身辺雑記」5カ月分まとめて更新●「教育の自由はどこへ」詳細掲載●金太郎飴●優越と蔑視●雑誌の貸し出しには反対●授業評価アンケート●教基法改正案が参院委で可決●改正教育基本法が成立●教師の怠慢のツケ●日本語が通じない●寿司屋にて●相変わらずの亀田●記事スクラップをしない記者●ラーメンと胡椒●不愉快なソフトバンクCM●「それでもボクはやってない」●他社の記者との会話禁止?!●再審決定を取り消し●昭和テイスト●青線を引きながら●今年最後の忘年会●●●ほか


12月1日(金曜日) 見当外れな朝日の組織改革

 朝日新聞社が組織改革をしたと、きょうの朝刊で発表した。記者としての基本姿勢や取材方法などについての指針をまとめた「記者行動基準」はいいとして、部制(例えば政治部)を廃止してグループ制(例えば政治グループ)に移行するって、朝日新聞はいったい何を考えているんだろう。「部」から「グループ」に名前が変わっただけじゃないか。しかも編集局の組織図を見ると、ほかにも「なんとかセンター」だとか「ゼネラルマネジャー」などと、やたらとカタカナの名前が目につくのも気持ち悪い。

 朝日新聞の説明では、そうではなくて、部という組織形態を捨てて記者全員が編集局所属となり、組織を柔構造化するのだという。つまり、部の垣根を取り払って取材テーマごとにグループをつくるということらしい。しかしだとするなら、これはとんでもない的外れで勘違いの組織改革だ。これまでのように例えば社会部は社会部らしい切り口で、政治部は政治部らしい切り口で、それぞれ独自の伝統的なアプローチの仕方で取材をして紙面化した方が、多様な視点の記事がより多く提供されると思うからだ。

 教育、医療、労働など専門分野のグループを新しくつくるともいうが、それなら、社会部の中に設ければいいだけではないか。わざわざ部制を廃止して再編成する意味が分からない。報道や言論の多様性ということで言えば、むしろ今回の改革は致命的な自殺行為になるだろう。こんなことよりも、やるべきことはもっとほかにあるはずだ。「深みのある報道を目指す」というのなら、一人ひとりの記者が時間的にも精神的にもゆとりをもって自由に取材できるような、そんな社内環境や体制をまず整えるべきではないのか。改革の方向が見当外れだとしか思えない。

 悪いのは部制ではないだろう。ガチガチの統制と硬直した人事管理こそ問題なのではないか。自ら招いた不祥事への批判と保守主義者からの攻撃に過剰反応する朝日新聞は、右往左往してダッチロールしているように見える。その挙げ句に本来の持ち味や理念を完全に見失っている。このままでは間違いなく、基盤である良質でリベラルな読者にも見放されてしまうだろう。


12月2日(土曜日) 大学も教育崩壊?

 午前中は東京・九段下の中華料理店で編集者と打ち合わせ。午後から千代田区内の大学へ。同僚の先生に誘われて、戦後史研究会に顔を出す。参加者の大半はいろいろな大学の研究者たちだ。自民党の元衆院議員が、戦後政治の流れや歴代首相の生態などについて講演。高齢とは思えない話っぷりと、とうとうと披露する生々しい裏話がとても興味深かった。

 会場で知り合った都内の私大教授に、授業中の様子を聞いてみると、「最近の大学は教育崩壊の状態ですね」と苦笑した。学生が平然と遅刻して来るのはもちろんのこと、授業中に教室からふらっと出ていくのは当たり前だという。そうそう、僕のところも全く同じだ。「ここ1〜2年で学生の気質がガラッと変わりましたね。そもそも話が通じなくなった。知っていて当たり前と思う常識や知識を知らないから、共通の言葉で会話できないんですよ」。なるほど、そうかもしれない。熱心に講義を聴いてる学生はどれくらいいるんだろう。4分の1ほどかなあ。5分の1くらいは寝てるし…。「大教室では居眠りしてる学生も多いですよね」と聞くと、「ゼミでも普通に寝ていますよ」と笑った。ゼミで寝るってどんな神経をしてるんだ。すごい大物なのか。うーん、絶句である。いったい何が原因でこうなったんだろう。日本の将来は大丈夫なのか。


12月4日(月曜日) 年末の学校雑務

 授業で使う教材作りをして、試験問題の作成、来年度の時間割の希望調査票、講義テーマと参考文献の調査票への回答…などの雑務を片付けていたら、あっという間に時間が経過。年末だからいろいろな書類の提出を求められるのは仕方がないと思うが、雑務が多いと精神的に疲れるなあ。しかし最近の小中学校の先生は大学とは比較にならないほど、たぶん日常的にこうした書類作成や雑務が山のようにあるのだろう。面倒臭いよなあと心から同情する。このような本来業務以外の仕事が増えていくと、例えば学生にレポートを書かせる回数を減らす(採点が大変だから)とか、授業準備の手を抜く(前年と同じ内容でお茶を濁す)といった逃げ方で、教員が少しでも楽をしようと考えてもおかしくない。本末転倒だけど気持ちは分かる。大学で教えるようになって、教育現場の大変さの一端を身をもって体験している。大きな収穫だ。


12月6日(水曜日) 三流週刊誌の手法

 午後から授業。「週刊誌とワイドショー」がテーマ。意図的なストーリーと悪意や偏見に満ちた結論を最初に作っておいて、それに合わせた都合のいい材料を集めて、面白おかしく記事や番組を作り上げる。しかも人権感覚はゼロに等しい。そういう三流週刊誌やワイドショーの手法について、具体的な事例を示しながら考察する。事実を正確に把握して背景まで掘り下げて調べ、それぞれの立場や言い分をきちんと聞いて伝えるのが、公正な取材・報道の基本姿勢だ。しかしろくな取材もしないで、悪意と偏見に満ちた一方的な主張だけを展開する三流週刊誌やワイドショーは、およそジャーナリズムの基本理念の範疇にない世界だ、ということを強調して説明した。中吊り広告やテレビで身近に感じているからか、学生たちの反応はそこそこよかった。


12月7日(木曜日) 単行本のチラシ

 教育ルポの単行本「教育の自由はどこへ」の宣伝チラシが、出版社からドサッと届いた。単色だが、なかなかカッコいいチラシに仕上がっている。大量に送られてきたのは、少しでも多くの人に本を読んでもらうために、いろいろな集会や興味のありそうな人に配れということである。取材と執筆だけでなく、宣伝や営業活動もしなければならないのだ。著者の仕事はまだまだ続く。


12月8日(金曜日) 単行本の見本届く

 長らくのお待ちかねである。教育ルポの単行本「教育の自由はどこへ」の見本が、出版社から届いた。きのう届いたチラシもいい仕上がり具合だったが、単行本の本体もなかなかいい出来だ。表紙も中味もかなりカッコいい。自分の名前が印刷された単行本を手にするのは、やっぱり感慨深いなあ。ずっしり重みを感じる。できるだけ多くの人に、この本を読んでもらわなければ。

 ちなみに、紀伊国屋書店(新宿本店)や八重洲ブックセンター本店などの大手書店の店頭には、早ければ来週の13日(水曜日)ごろには並ぶらしい。そのほかの書店は年末配本で取り次ぎが大混雑しているため、少し遅れて19日(火曜日)ごろの配本になるそうだ。ネット注文できるようになるのはその後くらいかも。店頭にない場合は書店に注文を。また、出版社(現代人文社)に直接注文してもらえれば早く確実に手に入ります。そちらからもどうぞよろしく。ぜひ手に取ってお読み下さいませ。

       ◇

【おことわり】6月28日付「身辺雑記」から最近まで、約5カ月分をまとめて更新しました。どうぞ一気にお楽しみ下さい(笑)。長らく更新が滞っていた「身辺雑記」ですが、これからもよろしくお願いいたします。


12月9日(土曜日) 「教育の自由はどこへ」詳細掲載

 「セカンドインパクト」を更新。「大岡みなみの単行本」のページに、新刊「教育の自由はどこへ/ルポ・『管理と統制』進む学校現場」の詳しい紹介記事を掲載しました。本の内容を簡単に紹介するとともに、「目次一覧」のページも作成しました。全国書店に配本。店頭に並ぶのは12月19日ごろになるところがあるかもしれませんが、配本作業が終われば、各種インターネット書店からの注文もできます。ぜひお読み下さい。おすすめの一冊です。


12月10日(日曜日) 金太郎飴

 午後から東京・神楽坂へ。「石原都政の教育破壊」と「教育基本法改悪」をストップさせようと訴える市民集会を取材する。いつもよく見る顔ぶれと、いつもよく聞く演説といった内容が多くて、正直なところかなり退屈な時間を過ごす。もう何回も繰り返し指摘してきたから、今さら言うまでもないことなんだけど、仲間うちだけを相手にした集会をいくら大々的に開催しても、運動や訴えは広がりを持たないと思うんだけどなあ。世論を動かすことにはつながらないと思うよ。じゃあどうすればいいのかと言えば、結局のところはそれぞれの職場や地域で、身近な人たちにていねいに伝えていくことの積み重ねしかないと思う。実はこれがなかなか面倒な作業なのだが、日ごろから時間をたっぷりかけて、信頼関係を築かなければ率直な議論などできないだろう。先生たちは教室や学校の外で、生徒や保護者の信頼を得る努力をしているだろうか。伝えるための工夫をしているのだろうか。運動家の人たちはどうなんだろう。集会での勇ましい発言を聞きながら、そんなことを考えていた。

 同じような疑問を感じた人はほかにもいた。集会が終わってから保護者と情報交換や雑談をしていると、「こういう金太郎飴みたいな運動のやり方だとやっぱりダメですよね」という話になる。会場近くのラーメン屋と喫茶店で、集会や運動の舞台裏のほか学校現場の実態について、計4時間近くも話を聞く。


12月11日(月曜日) 優越と蔑視

 きのうの集会の中で、愛国心についての尾山宏弁護士の話は、説得力があって示唆に富む内容だった。「愛国心というのは一つではない。例えば米国内にも、愛国心があるからイラク戦争を支持するという人がいれば、その一方で、愛国心があるがゆえにイラク戦争に反対するという人もいる。では日本はどうか」と尾山弁護士は指摘。「国を愛する心を育てる」ことの妨げとなるような意見は排除しなければならない、とする日本の風潮を問題視した。さらに続けて、「日本ほど四季のうつろいが素晴らしい国はない」といった授業をする女性教師の例を示し、「日本はいい国だ」「日本は素晴らしい」と強調するのは、蔑視感や優越感と密接に結びついている、そういう風潮はこの国の進路を誤らせると批判した。

 確かに最近はやたらに、日本人はこんなにすごい、日本人はこれだけ活躍している、日本の伝統と文化は優れている、などと誇らし気にアピールするテレビ番組や記事が増えてきたように思う。なんとなく自尊心がくすぐられて気持ちはいい。「民族や国家」をほめたたえることによる魔力だろう。しかしそういうものをあからさまに強調するのは、自分自身に誇れるものや自信がないからではないのか。その裏返しの代替対象として、正体不明の「民族や国家」にすがっているような気がしないでもない。

 その行き着く先が「自分たちの民族や国家がいかに優越しているか」の強調だとするならば、ほかの「民族や国家」への尊敬の念は薄れることになるだろう。否定や罵倒に向かうかもしれない。そしてそれは、他人の苦しみや痛みを思いやったり、自分とは違う他人の「良心の自由」を尊重したりする気持ちの低下に結びつく。もちろん「想像力の欠如」につながるだろう。尾山弁護士は「精神の自由を尊重しない日本の風土を変えていかないと、日本の教育行政も変わらない」と述べたが、まったくその通りだと思う。


12月12日(火曜日) 雑誌の貸し出しには反対

 横浜市の中央図書館で調べもの&資料や教材をコピー。いくつかの雑誌は貸し出し中で現物がなかった。いつも思うんだけど、雑誌を貸し出すというのはどうしても納得いかない。新聞や雑誌や百科事典のたぐいは普通の図書とは性格が異なるのだから、いつでもだれもが手に取れるように館内のみの閲覧にすべきだと思うんだよなあ。図書館の係員(正式な司書なのか事務員かは不明)によると、雑誌を禁帯出にしているのは県立図書館だけで、市レベルの図書館ではどこも、最新号も含めて雑誌の貸し出しをしているという。横浜市の図書館は年中無休だし、コピーも(利用者の良心に任せて)利用者自身が自由に取れるように任されているので、とても使いやすい図書館なんだけど、雑誌の貸し出し制度だけはぜひとも考え直してほしいと思う。


12月13日(水曜日) 授業評価アンケート

 午後から授業。きょうのテーマは「言論・報道の自由とは」。テレビ朝日のダイオキシン報道をめぐる最高裁判決と調査報道の公益性、NHKに対する政治介入、盗聴法や個人情報保護法と取材規制の問題、犯罪被害者の匿名発表、言論への暴力などなど…。きょうはいつにも増して時間が足りないので、「言論・報道の自由」を考えるためのトピックについて、とにかく駆け足で説明した。なぜ時間が足りないかというと、授業の終わりに「授業評価アンケート」を学生に実施しなければならないからだ。まあ、最近はどこの大学や高校でもやってることだけど、貴重な授業時間が押せ押せになるのはかなり閉口する。

 授業評価について、大学側は「授業改善が目的で人事評価にはならない」と説明しているが、学生の一人は「でもこれって先生を評価するんですよね。結局は人事評価になるんじゃないですか」と指摘していた。そうだよなあ、普通に考えたらそう思うよなあ。学生から「そもそもこのアンケートで授業改善されるのですか」とも聞かれた。僕は授業の終わりに必ず感想や質問を書かせているが、みんながそんなことをやっているわけではないから、そういう先生はアンケート結果が参考になるかもしれない。納得できないのは、授業終了間際に堂々と教室に入ってくるような学生に評価をされることだ。どう考えてもいい加減な評価にしかならないだろう。いくらなんでも、これはあまりにも理不尽ではないかと思う。


12月14日(木曜日) 教基法改正案が参院委で可決

 内閣府主催のタウンミーティングで「やらせ質問」があった問題で、安倍首相や閣僚らが責任を取るとして、給与の一部を返納することを決めたそうだ。そんな責任の取り方があるかよ。「国民の声を聞く」などと言いながら、国民の血税を使って世論誘導しようとしたのだから(11月11日付「身辺雑記」参照)、これはれっきとした背任行為であって詐欺そのものだ。「お金で済ます問題ではない」と参院特別委で指摘する野党議員に対し、安倍首相は「失礼ではないか」と気色ばんで「(公務員のけじめのつけ方は)減給などの処分方法が決まっている」と反論した(毎日新聞)というが、これまた笑わせる。開き直りそのものではないか。

 にもかかわらず、教育基本法改正案は参院特別委で強行採決が行われ、自民・公明両党の賛成多数で可決された。タウンミーティングであらかじめ仕込んでおいた発言者に、教育基本法改正に賛成の意見を言わせるなどの自作自演の茶番劇を演じておきながら、強行採決をするなんて盗人猛々しいとはこのことだ11月16日付「身辺雑記」参照)。国民を愚弄した責任を取るというのなら、「やらせ」でないタウンミーティングや公聴会を開いて、国民の声を真摯(しんし)に聞いた上で、国会審議をやり直すのが筋ではないか。こんなデタラメで非民主的なやり方で、どんな教育を進めていこうというのだろう。「美しい国」をつくるだなんてとんでもない。安倍政権は日本を「うす汚い国」にしようとしている。


12月15日(金曜日) 改正教育基本法が成立

 改正教育基本法が参院本会議で、自民・公明両党の賛成多数で可決・成立した。賛成131、反対99だった。「教育の憲法」とも言われるこれほど重要な法律が、4割以上の反対がありながら多数決で成立してしまうことに、この国の民主主義のあり方に深刻な懸念を感じざるをえない。憲法や基本法といったこの手の法律は、なるべく多くの意見の一致を見るような努力をして、できれば全会一致で成立させるのが筋ではないのだろうか。

 さて、これからどうしたものか。国会の前に集結して座り込んだり、プラカードを掲げてデモをしたり、抗議声明を発表したりするのも大事なことかもしれない。けれども、まずは一人ひとりが学校や教室や地域で、つまりは身近な場所で身近な人たちに対して、事実をていねいに伝えていくことが何よりも大事ではないかと思う。12月10日付「身辺雑記」でも書いたが、同じ思想集団にしか伝わらないような表現で、仲間だけを相手に一方的な演説に終始するのではなく、これまで無関心だった人たちに分かりやすい言葉でていねいに訴えかけていくこと。そうしなければ、国民(有権者)の声が政治を動かすことは決してないだろう。国民を愚弄した「数の論理」による横暴を目の当たりにして、あらためてそう痛感する。


12月17日(日曜日) 教師の怠慢のツケ

 「日の丸・君が代」強制や教育基本法改正の問題について、「学校の先生はまず教室や学校や地域で、生徒や保護者の信頼を得る努力をして、分かりやすい言葉で伝える工夫をするべきではないか」とこれまで何回も指摘しているが、そういう実践をした先生の事例の報告が知り合いの元教師Hさんからあった。

 改正教育基本法が成立した日、都立高校の定時制のある先生は国会での座り込みの帰途、重い足取りで教室に向かった。私語の多いクラスで注意する気力もなかったが、授業の終わりに込み上げてくるものがあり、「ちょっとみんな聞いてほしいんだ。僕たちは今まで教育基本法の下で教育をやってきた。だから改正には反対してきた」と生徒たちに語りかけた。授業の時には騒がしかった生徒たちが、しーんと静まり返ったという。うなずく生徒や、「俺たちにどういう影響があるの?」と質問するヤンキー風の生徒もいた。「愛国心が強制され、自由な雰囲気がなくなる可能性がある。自分の問題として考えてほしい」と締めくくったこの先生は、教室で生徒に問題を投げかける大切さを実感したという。

 本当は教室の中で日常的に、そういう問題提起をする授業を積み重ね、生徒と一緒に考えるためのキャッチボールをすることが必要だったのだろう。しかし残念ながら多くの教師はキャッチボールをサボってきた。現場の教師が「伝える」「語りかける」という作業を怠ってきたツケが、今のような時代状況をつくってしまったと言えるのではないか。もう手遅れなのだろうか。いやそんなことはない。今からでも決して遅くはないから、先生たちは教室で真剣に生徒に向き合って語りかけてほしいと切望する。

 また、女子大生の卒業生から、「政府が子どもの愛国心に踏み込んだら戦前や戦時中に逆戻りですね。教員を目指して勉強しているのでまた話を聞かせてください」といったメールをもらった都立高校の先生もいる。生徒との信頼関係がきちんと成立しているからこそ、こういう反応があるのだろう。もちろん自分の考え方や主張を生徒に一方的に押し付けるのは論外だが、考えるための材料をたくさん示して、何でも話し合える関係を子どもたちと築くのは教師の仕事の基本だろう。そういうことを日ごろからやっているか(やってきたか)どうか。それが今まさに教師に問われている。


12月18日(月曜日) 日本語が通じない

 差別感と偏見に満ちあふれた「自称保守派」(正確に表現すれば右翼のファシストだろう)の人物が、ミクシィのサイトで暴言を繰り広げているというメールを友人からもらった。在日韓国・朝鮮人の子どもたちとの交流を試みる公立小学校のホームページを一方的に攻撃し、「日の丸・君が代」の強制に反対する日本人の教師に対して「この人たち日本人じゃないのかね?」「日本の心を取り戻そう」と繰り返しているという。「あまりにも不愉快な内容だったので反論しようと思って文章を書いたのですが、議論すれば消耗するだろうし、話が通じないからけんかになるだろうと思うと、かなり度胸がいるのでやめました」という内容だった。以下、それに対する僕からの返信メールを紹介する。

◇ ◇

 こんにちは。ご無沙汰しています。コミュニケーションの道具としての日本語が通じない人、または、言葉としての日本語は使っていても、根本的な部分で話がまるで通じない人、あるいは、自分の価値観を一方的に話すだけで、相手の話を全く聞こうとしない人…、こういう人たちを相手に「議論」するのは疲れますよね。疲れるというよりも、会話そのものが不可能なのではないかと考えると、絶望的な気持ちになってしまいます。

 Gさんが事例として出されていた「ミクシィの人」は、たぶんそういう「会話そのものが不可能」な人なのでしょう。そしてそのような人たちが、最近では、世代を超えてものすごく増えてきている気がします。特に、インターネット上ではそうした傾向が顕著ですね。「反論してみても、相手が勉強してなきゃわからないし、疑問を持つ余地がない。こりゃこれから再教育しようなんて無駄だな。おこがましいな。きっと宇宙語だ」という気持ち、とてもよく分かります。全く同感です。「言いたいことを言うのは難しい。めんどくさい。傷つけるし不愉快に思われる。書きすぎればしつこいと思われる」という感情、これも全くその通りだと思います。

 でも、結局のところ、言葉を通じてでしか「対話」できないんですよね。絶望的な気持ちになりながらも、しかし、どうすればいいんだろうと、僕もいつも悩みながら考え込んでいます。

 馬鹿げた論理を振り回す人たちなどはなから相手にせず、無視してもいいんだけど、それだと何も変わらないし、ひょっとしたら、「ウソも繰り返せば本当になる」という言葉があるように、ウソやデタラメが本当のように語られ広まって、この手の人たちが増殖していくかもしれない。そうすれば、今よりもっと酷い世の中になる可能性が高い。だから、反論したり関わったりすれば、ものすごく疲弊するのは分かっているんだけど、それでも、何かを言い続けなければならないのではないか、などと思ったりもします。いまだに答えは出ていないのですが。

 追伸:あ、そうそう、新刊が出ました。「教育の自由はどこへ」(現代人文社)という本です。別メールで宣伝文を送りますね。


12月19日(火曜日) 寿司屋にて

 いかにも年末らしく銀行や郵便局でいろんな支払いを済ませる。夕方から教職員組合の書記局へ。新刊「教育の自由はどこへ」の宣伝チラシを適当にバラまく。本部役員はタイミング悪くほとんど出払っていたが、残っていた役員や書記は興味深そうにチラシを見てくれる。退職した高校の先生に誘われて、横浜・野毛の寿司屋へ。久しぶりに顔を出したが、店構えもネタも全く変わっていない。高齢の大将がべらんめえ口調で客にちょっかいを出して会話が弾むのも、いつも通りの風景だ。赤身のマグロや脂の乗ったトロ、白身の魚の握りが美味い。これがなかなかビールに合う。

 寿司屋で面白かった言葉。その1。「日本はなんでもアメリカの言いなりだから、これからは校長先生に国旗を掲げるように言われたら、星条旗を掲げればいいんだよ。国歌もアメリカの国歌を歌えばいいじゃないか」。そう言い放つ大将に、客たちはそうだそうだと拍手喝采だった。いいな、それ。

 寿司屋で面白かった言葉。その2。「日本で徴兵制導入なんて絶対にないね。金持ちや権力者が自分の子を徴兵させるわけがないからだ。そのかわり格差をどんどん広げようとする。食うに困るような貧乏人をたくさんつくって志願させるためだ」。なるほど。うまいやり方だ。軍隊なら食うのに困ることはないからな。貧乏人は進んで軍隊を志願するだろう。ただし入隊後どこに飛ばされて何をさせられるかは運次第。まさに自己責任である。

 寿司屋で面白かった言葉。その3。「しかし格差社会の貧困問題を寿司屋に来て語ってる俺たちってなんなんだよ。本物の貧乏人は寿司屋になんて来ないだろ」。そりゃそうだ。


12月20日(水曜日) 精神的自由と経済的不自由

 午後から授業。その前にレジュメや資料を印刷。大学の印刷機の調子が悪くて、しょっちゅう紙詰まりを起こすのに閉口する。きょうのテーマは、組織内記者(新聞記者)と組織外記者(フリーランス)の違いについて。それぞれの形態のメリットとデメリット、生活パターンの変化などについて説明した。精神的に自由になった半面、経済的にはかなり不自由である事実にも触れる。フリーランスは強い意思と覚悟がないと、なかなか大変なんだということが伝わればいいんだけど。裁判官の人物像や判例をまとめた単行本「裁判官Who's Who」について、興味や関心を示す学生が多かった。そうそう、実は画期的な取り組みなんだよ(自画自賛)。

 相変わらずの亀田 亀田興毅とランダエタのボクシングの再試合を、途中からテレビで見る。結果は亀田の判定勝ち。8月の対戦では微妙な判定に批判が集中したが、今回は妥当な判定結果だったと言えるだろう。しかし、亀田はカッコよくKOするんじゃなかったのか。でかい口ばっかり叩いて判定勝ちかよ。前回は亀田がダウンするなど波乱の展開が面白かったが、今回は単調でつまらない試合だったというのが率直な感想だ。それにしても試合の最中におどけた格好をしたり、相手を馬鹿にするような素振りを見せたりと、亀田の不遜で不真面目な態度は相変わらずだった(8月2日付「身辺雑記」参照)。だからさあ、対戦相手に対してもう少し尊敬の念を持って試合に臨みなよ。これまでの態度に比べたら、かなりマシ(控えめ)にはなったみたいだけど、それでもまだまだ謙虚さが足りない。ボクシングはお互いに殴り合いをして、下手したら死んでしまう危険な競技だ。まさに命がけの真剣勝負をやっているのではないのか。だったらスポーツマンとして、相手選手には最大の敬意を払って対戦すべきだろう。真剣勝負の自覚がなさすぎる。まさか八百長じゃないだろうね。


12月21日(木曜日) 記事スクラップをしない記者

 午後から都内。新橋の喫茶店で通信社の記者と懇談。お互いに教育問題の取材を続けていることもあって、話が噛み合うのであっという間に時間が過ぎる。掘り下げた取材を重ねて連載企画を書くことで、今の社会状況に対してなんらかの問題提起をしたい、という志の部分も共感できた。情報交換などをしながら大いに刺激を受ける。書いた記事を見れば、その人の記者としての姿勢や人間性みたいなものも、ある程度は分かるということを改めて実感する。

 話の中でとても驚かされたことがあった。それは、最近は自分の書いた記事のスクラップをしない記者が増えているという事実だ。そういう記者は、データベースに残っているからそれでいいと言うのだそうだ。しかし、記事が紙面でどのように扱われるかをイメージしながら原稿を書き、そして実際にどのように紙面化されているか確認する作業は、記者の基本なのではないのか。データベースと紙面とでは、ニュースの価値判断がビジュアル化されている点でまるで違う。新聞のスクラップは、紙面の向こうにいる読者を思い浮かべながら発奮や反省をする機会であるし、想像力を高める大切な糧にもなるだろうに。そういうことをしなくなったら、漫然と原稿を書き散らすだけになってしまうではないか。記者としての誇りや自負心や志といったものを、見失ってしまうような気さえする。デスクやキャップから言われた仕事を、右から左に黙々とこなすだけの「サラリーマン記者」が増えているということなのかなあ。

 夕方、飯田橋の喫茶店。初対面の週刊誌の記者にあいさつ。この「身辺雑記」を読まれているそうだが、12月6日付「身辺雑記」に出てくる「三流週刊誌」とは、悪名高い週刊S誌のことです。週刊G誌ではありませんので、どうぞご安心ください(笑)。

 ラーメンと胡椒 夜は、神楽坂の料理屋で出版社の忘年会。落ち着いた感じの京風のつくりの店だ。鍋に刺身に握り寿司にと、食べ物が山のように出てくる。昼食抜きですきっ腹だったので、なおさら料理が美味しく感じるのかもしれないが、とにかく食べる。2次会は近くの居酒屋へ。ところで、ラーメンに胡椒を入れるのは、ラーメンの味や香りをぶち壊しにしないかという話題になったのだが、どうなんだろう。僕は出されたラーメンはそれで完成したものだと思うので、胡椒やニンニクなどは入れないのだけど。同席していた胡椒を入れる派の女性販売部員が、「胡椒を食べるためにラーメンを食べるのだ」と言うのを聞いてびっくりした。えっ、まじっすか。さらに話は、コロッケは何もつけずに食べるかどうかになったのだが、胡椒派の女性は「ソースをたっぷりつける」と主張。そして「ソースを食べるためにコロッケを食べる」と言うのだった。うーん、それって味覚障害のような気がするんだけど…。


12月23日(土曜日) 不愉快なソフトバンクCM

 ソフトバンクのケータイの新しいCMって、本当に不愉快だなあとテレビ画面に映し出されるたびに思っていた。女子高生の友達4人が「ケータイで連絡するから」と話していて、そのうちの一人が「私のところにかけるとお金がかかるからいいよ」と断ると、別の一人が「みんなとは違うケータイ会社だったね」などと応じる内容のCMである。仲間はずれを誘発しそうな話だよなあと思えたし、みんな同じでなければ友人関係が壊れるかもしれないぞと脅しをかけんばかりの論法で、あざとくソフトバンクのケータイをPRしているところに、なんとも言いがたい不快感を覚えたのだ。

 そうしたら、きょうの朝日新聞「声」欄に、「携帯のだしに友達を使うな」という都内の男子大学生の投書が載っていた。「友達を大切にという言葉とは裏腹に、友達を携帯選びのだしにしているかのようだ。こんな場面に『友達』を使って欲しくない。見れば見るほど冷たく思える」などと訴える投書だった。全く同感だ。

 ソフトバンクは「通話料もメール代も0円」などと、事実に反した誇大広告を平然と垂れ流し(10月27日付「身辺雑記」参照)、公正取引委員会から警告されて問題になったばかりだが、この会社は消費者を愚弄し、神経を逆なでするようなCMを作るのがよほどお好きらしい。たぶんそういう会社の体質なのだろう。現在流されているCMを見て確信に近いものを感じた。


12月25日(月曜日) 「それでもボクはやってない」

 午後から東京・霞が関へ。弁護士会館で、映画「それでもボクはやってない」の試写会&パネルディスカッションを取材する。「シコふんじゃった。」「Shall we ダンス?」の周防正行監督の最新作。大学の授業で「面白そうな映画が公開される」などと学生たちに語ったこともあって、早く見てみたいと思っていたのだが、たまたま関係者に誘われて顔を出す機会を得た。この日の試写会は、弁護士や司法修習生や法科大学院生が対象ということだが、実際には必ずしも法曹や学生ばかりではなかったようだ。

 映画は、就職活動中のフリーターの男性が、面接に向かう途中の満員電車で痴漢に間違えられて逮捕され、警察と検察での取り調べや裁判でも一貫して無実を主張するというストーリー。最初から犯人だと決めつける刑事と検察官(副検事)に強引に自白を迫られ、さらには「裁判で無実を訴えてもムダだ」と言わんばかりで、いい加減とも思えるような対応をする当番弁護士を前に、留置場に勾留された主人公の精神は孤独感と焦燥感で次第に疲弊していく。

 母親と友人はようやく、「無実の人を有罪にしてはいけない。国家権力と闘うのが弁護士の仕事だ」という信念を持つ「まともな刑事弁護士」を見つけてくる。しかし、有罪率が99・9%の日本の裁判で、無実を訴え続けるのは生やさしい話ではない。被告人の言い分を調書に取ろうともしなかった警察・検察は、公判でも証拠開示に応じないばかりか、デタラメな捜査手法を堂々と正当化する。刑事裁判の原則である「疑わしきは被告人の利益に」の考え方に基づき、主人公の訴えに耳を傾けていた裁判官は、公判の途中でなぜか交代してしまう。そして…。

 警察や検察の強引で一方的な取り調べは言うまでもないが、裁判官のひどさとデタラメさが際立ってリアルだった。つまり、「証拠に基づいて事実を認定して公正に判断する」というのは全くの妄想であって、実際には多くの裁判官が初めから被告人を犯人だと決めつけている──そうした日本の裁判所と裁判官の現実そのものが直球で描かれているのだ。もしも自分が刑事裁判の被告人になってしまい、こんな裁判官に判決が言い渡されるとしたら…。想像するだけでもぞっとする。「無実の人を罰してはいけない」という刑事裁判の原則がこの映画の最大のテーマだと、周防監督は話している。「疑わしきは被告人の利益に」を理解していない多くの裁判官と検察官とそして弁護士(弁護士にもそういう人がいる)にこそ、この作品をしっかり見て猛省してもらいたいと心から思う。

 ただ一つ残念だったのは、「Shall we ダンス?」のような笑える場面がほとんどなかった点だ。一般受けを考えたらその辺はどうなんだろうか。テーマがテーマだから仕方ないかもしれないけど。上映時間はもう少し短くてもよかったかな。もちろん、長くても最後まで飽きさせずに見せるのは言うまでもない。出演:加瀬亮、役所広司、瀬戸浅香、もたいまさこ、山本耕史、小日向文世、ほか。フジテレビ、東宝。2時間23分。来年1月20日に全国東宝系でロードショー公開。

 試写会が終わってから周防監督にあいさつする。周防監督は、僕の書いた単行本「裁判官Who's Who/首都圏編」を熱心に読んでくれているという。今でも裁判傍聴の際には、目を通しているそうだ。ものすごくうれしい。


12月26日(火曜日) 他社の記者との会話禁止?!

 東京・本郷の新聞労連に久しぶりに顔を出す。水道橋から現在地に書記局が移ってから初めてだ。ちょうど年末の片づけが終わったところだそうで、寿司とビールをごちそうになる。役員や書記さんと雑談していて思わず絶句したのは、北陸地方の某新聞社の話である。そこの記者は、他社の記者と言葉を交わすのは一切ご法度で、もしも話をしているのが見つかると北のへんぴな支局に飛ばされるのだという(監視と密告体制が整っているらしい)。ええーっ、まじっすか。それってどういうことだよ。

 記者クラブで机を並べていれば、あるいは取材先でしょっちゅう顔を合わせていれば、他社の記者とも自然に親しくなって話だってするし、意気投合して一緒に飲みに行ったりするのは普通だろう。なんら不自然ではない。会社は違っていてもお互いに同じ記者仲間なんだから、議論や情報交換くらいするのが当たり前ではないか。むしろ情報交換をしないほうがおかしい。「他社の記者と言葉を交わすのは禁止」だなんて、どう考えてもまともじゃないし信じられない馬鹿さ加減だが、そんな異常なことが現実にまかり通っているのだという。ううーむ。やっぱり絶句するしかないよなあ。何を恐れているんだか、どこかの独裁国家みたいだね。

 夕方から、都内の弁護士事務所。土砂降りの雨が降り続く。低気圧の影響らしい。靴の中は水浸しで、靴下までぐちょぐちょだ。

 再審決定を取り消し 「名張毒ぶどう酒事件」の再審開始決定について、名古屋高裁刑事2部(門野博裁判長)が再審開始を取り消す決定をした。検察側の異議申し立てを認め、弁護団が提出した新証拠に対して合理的理由をなんら示すことなく否定する一方、自白について異常なまでの信用性を認める判断をしており、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則を根底から否定する決定だ。とんでもない裁判官だな。名古屋高裁刑事2部の門野博裁判長に対し、周防正行監督の最新作「それでもボクはやってない」を500回連続で見る刑を言い渡す。


12月27日(水曜日) 昭和テイスト

 本棚から本があふれているので(実はすでに十分あふれて山積みになっているのだが)、なんとかならないものかと少しだけ整理。全く不用な本を十冊ほど選んで古本屋に持ち込む。A店では8冊が「査定評価の対象外」だとして買い取りを拒絶されたが、B店ではそのうちの1冊に500円の値段を付けてくれた。おおっこの違いはなんなのだろう。買い取ってくれない本を持ち帰るのは重くて面倒なので、捨てようかなと思っていたから、これはかなりうれしい。あきらめずに別の店に持ち込んでみてよかった。

 東京・新宿の居酒屋で学生時代の友達と忘年会。幹事役が、僕の単行本の「出版記念」という名目で開いてくれたのだが、久しぶりに懐かしいメンバーが集まって大いに盛り上がった。大学生の時から行きつけのその店は、昭和の空気をしっかり維持している貴重な存在の居酒屋だ。新宿駅のすぐ前の繁華街という一等地でありながら、値段は高くないし料理の味も悪くない。店員は決して大声を張り上げて接客したりせず、必要最小限の応対をしてくれる。BGMにやかましい音楽を流すこともないので、店内はにぎやかなんだけど落ち着いた雰囲気で飲めるのがうれしい。わりと大きな店なのにチェーン店ではないというのもいい。こぎれいでオシャレな店ではないが、こういう店は安心できる。ずっとこのままの状態で営業を続けてほしいなあ。気がついたらあっという間に終電の時間で、4時間もしゃべっていた。新年会もまたここでやりたいものだ。


12月28日(木曜日) 青線を引きながら

 新刊「教育の自由はどこへ」についてこの前、「教育学部の大学生の娘が、卒論を書くために青線を引きながら一生懸命に読んでますよ」と某出版社の編集者から言われた。それって取材執筆した者として、まさに著者冥利に尽きる読まれ方だなあ。ラインを引きながら読んでくれるなんて感動ものだよ(ただし図書館の本に書き込むのはやめてくださいね)。おじさんやおばさんでなく大学生が読んでくれたのも、ものすごくうれしい。高校生や大学生など若い世代がこれまで知らなかった事実や社会の矛盾を知り、自分自身の考えや判断基準をつくりあげていく材料にしてくれればというのは、取材して原稿を書く際の大きな目的の一つでもある。教育学部の学生に限らず、教職課程を取っている学生や教育問題に少しでも関心のある学生にも、ぜひ読んでもらいたいと思う。

 だけど、最近の大学生はあまり本を読まないし買わないんだよなあ。教科書すら購入しない学生が増えているという話は、生協(購買部)の担当者や先生たちからよく聞く。「辞書を持ってない学生もいる。一生使えるのに」と語学の教員がこぼしていた。うーん、それじゃあ僕の本なんか買って読んでくれないか…。21日付の東京新聞1面と25日付の毎日新聞3面に「教育の自由はどこへ」の広告が載ったが、そういうのも見てないだろうな。いや、そんなに悲観的になってはあかん。買って損はしない一冊です(笑)。


12月29日(金曜日) 相変わらずの年末

 年末なので、大掃除とまではいかないけどそれなりに室内を掃除して、近所のスーパーで買い出し。3カ月ぶりに髪の毛をカット。いつもなら5分も待つことがないのに、えらく混んでいて45分も待たされる。この時期に予約なしだったから仕方ない。このごろは髪の毛を切るペースが、完全に3カ月おきで定着したなあ。せめて2カ月に1回は手入れしたいと思っているのだけど。

 年賀状は相変わらず全く手付かずである。例年のように大晦日から作業を始めることになりそうだ。原稿も書き上げていないし、大学のレポート(200人×2回分)もまだほとんど採点が終わっていない。そろそろ切羽詰まってきたかも。追い込まれないとなかなかエンジンがかからないのは、いつも通りなのだった。とりあえず年賀状は元日の夜に投函するのを目標として、それから5日まではレポートの採点に専念しようと思う。あーあ(ため息)。


12月30日(土曜日) 今年最後の忘年会

 夕方から東京・新宿へ。和風創作料理の店で、弁護士や大学の先生やマスコミ人ら「あやしいグループ」の忘年会。同席した4歳児のR君が鍋で火傷をしないか、机の角で頭をぶつけないかとハラハラさせられたが、かわいいからノープロブレム(笑)。ダシのたっぷり効いた地鶏のきりたんぽ鍋が絶品。うどんを入れるとこれまた美味。2次会はカラオケボックスを改造したような「隠れ家的な飲み屋」。室内が狭いのが難点だが、安いし完全防音なので、飲み食いしながらちょっとした密談をするにはいい場所かも。

 忘年会で映画「それでもボクはやってない」が話題になった。女性の立場からすると、痴漢冤罪にはなかなか同情的になれない人が多いのではないかという話を聞いて、意外でもあり少しショックでもあった。言うまでもなくすべての男性が痴漢行為をするわけではないし、そんな卑劣なことをするのはごく一部の人間だ。痴漢行為を働く真犯人と痴漢冤罪の被疑者は全く別でもある。もちろんそういうことは頭では分かっているのだけど、ほとんど例外なく痴漢被害の経験があって嫌な思いをしている女性としては、素直に痴漢冤罪を冤罪として受け入れられないというのである。映画を見てそれではいけないと反省したそうだけど、子どもの人権や犯罪被害の問題に取り組んでいる専門家でも、そういう気持ちを抱いているんだと知って驚かされた。そういえば映画に登場する女性弁護士も、最初は痴漢冤罪を訴える青年には懐疑的だったもんなあ。これまで痴漢の被害に遭ってきた女性の心情は理解できるが、もしも自分が痴漢に間違われてそんなふうに思われたらたまったもんじゃないよなあ。冤罪を晴らそうとすると大変な困難に直面するが、痴漢冤罪となると先入観や偏見が大きな壁になってさらに理解されにくいのかもしれない。痴漢冤罪が頻発する要因の一つと言えそうだ。


12月31日(日曜日) インク切れ

 近所のスーパーで追加の買い物をしてから、ようやく年賀状を作り始める。とりあえず裏面の版下は完成。順調に印刷を開始したのだが、途中でインクが切れてしまった。ええーっ。残念ながら本日の作業はここまで。ダメじゃん…。


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