◆メディア規制(言論統制法)関連記事は分離して、独立したページを設けました。 ◆「盗聴法反対/第1部」へ戻る◆ 1999年●編集局に監視カメラのある新聞社!●国民総背番号制●編集局に監視カメラのある新聞社その2●映画「エネミー・オブ・アメリカ」●国旗・国歌法案が成立●住民基本台帳法改正案(国民総背番号制)が成立●警察組織の本質的体質
2000年●ロシア原潜事故と恐怖国家体制
2002年●有事法制に反対する●住基ネット稼働●横浜市の住基ネット対応は良心的か
1999年6月15日(火曜日) 編集局に監視カメラのある新聞社!元同僚記者たちからトンデモナイ話を聞いた。僕が辞めた新聞社の編集局に、先週末から監視カメラが設置されたというのだ。一瞬耳を疑ったけど、本当のことらしい。編集局フロアが見渡せるようにして、24時間録画しているのだという。まじかよ。新聞社の入り口に防犯カメラがあるのは、朝日新聞阪神支局の襲撃事件という教訓があるから知っているけれど、社内のしかも編集局内に監視カメラを設置するなんて、どーゆー新聞社なんだ。そんなの、いまだかつて聞いたことがないぞ。僕が会社にいたころから、確かにこの新聞社では実にいろいろなものがよく盗まれていた。現金はもちろん、ビール券の束、記者用ノートパソコン、送稿用モデム、世界地図(定価2万円の高価なもの)などなど。社内での盗みはよその新聞社でも結構あるらしいが、何も記者用ノートパソコンまで盗まなくてもよかろうに。いずれにせよ、社内が相当すさんでいる証拠ではある。それ自体が末期症状だとも言える。しかしだからと言って、編集局に監視カメラを導入するとはどういうことなのだ。
だが、それよりも一番問題なのは、会社が監視カメラを設置することを許してしまう社員たちだ。僕は何よりもそのことが信じられない。場所は新聞社の編集局内なのだ。そこに監視カメラがある風景に異様さを感じないのだろうか。そんなものを設置されて、よく平気でいられるものだと思う。設置されることを知らなかったと言うのなら、知った時点で猛烈に反発して抗議して、断固撤去させればいいのだ。組合は何をやっているのだろう。あなたたちは、それでも本当に新聞記者なのか。やられたことの意味が分かっているのか。元同僚記者たちには申し訳ないが、あきれてものも言えないよ。設置する側の無神経さと、設置された側の問題意識のなさに対して。ああ、まじで気持ちの悪い新聞社だな。辞めて正解だった。これではとても盗聴法どころではなかろう(皮肉)。
1999年6月16日(水曜日) 「住民基本台帳法改正案」が衆院通過それはさておき、国会ではこのところ「ガイドライン法」が成立して、続いて「盗聴法案」「日の丸・君が代法案」と危険な法律が次々と大手を振って登場してきているが、きのうまた「住民基本台帳法改正案」という陰気な法案が衆院本会議で可決された。もちろん「自自公」による賛成多数で衆院を通過したのは言うまでもない。これは別名「国民総背番号制」と呼ばれていて、すべての国民の住民票に10けたのコード番号を付けて情報を一元的に管理しようとするものだ。例えば「8938359630」(ヤクザヤサンゴクローサン)なんて番号が生まれた時から振られて、それが生涯どこに行っても付いて回るのである。ほとんどSFの世界だぞ。ああ、不気味だなあ。そんな無機質な番号で管理されるのは、生理的に嫌悪感を覚える。プライバシー保護の問題も未解決だというのに、またまたいい加減な審議で、こういう大事なことが次々と決まっていくんだね…。
1999年6月28日(月曜日) 「編集局に監視カメラ」その2「編集局に監視カメラのある新聞社」(1999年6月15日付「身辺雑記」参照)の続編である。
ある集会に参加していた市民グループの一人が、取材に来たその新聞社の若手記者に「監視カメラ」のことを聞いたそうだ。するとその記者は「防犯上当然のことで、どこでもやっている」と答えたのだという。さもありなん。問題意識のかけらもないのだから、当然そう答えるだろう。と言うか、残念ながらプライバシーだとか基本的人権だとかの本質的意味を理解するだけの頭を持っていないのだから、自分たちが何をされているかに気付かないのだ。でもね、自分のプライバシー侵害に鈍感な人間が、他人のプライバシー侵害に対して敏感に反応することはできないんだよ。例えば学校内の廊下や教室に、盗難や喫煙対策などのために監視カメラを設置する動きがあったとして(事実、過去にそういう動きがあった学校を僕は知っている)、この記者はプライバシー侵害の観点から危機感を抱いたり疑問を感じたりできるだろうか。たぶん無理だと思う。何も反応しないか、あるいは問題意識なしに「防犯対策だから当然」といった記事を垂れ流すだけだろう。実は、これは「盗聴法」や「国民総背番号制」についても同じことが言える。権力による基本的人権の侵害の恐れがあるこういった法案に対して、敏感に反応してこそ記者の存在意義があるのだ。ジャーナリストの第一義的意味は「権力監視」にあることを忘れてはならない。しかし、自分の人権侵害に鈍感なのだから、市民や読者の人権侵害に想像力を働かせることなんて到底不可能だろう。だとするならば、そういう記者たちが作っている新聞は購読をボイコットするに限る。だって、市民や読者を愚弄(ぐろう)しているわけだから。市民グループの方にはそのように助言しようと思っている。ちなみに、東京・築地の某新聞社でも社内で盗難事件が多発したことがあったそうだが、社屋への出入りチェックなどの警備体制強化で対応しただけで、監視カメラの設置などはしなかったという。それが当たり前だ。
1999年7月8日(木曜日) 「エネミー・オブ・アメリカ」を観る横浜日劇で映画「エネミー・オブ・アメリカ」を観る。日本で盗聴法案を推進する人たちの発想と動きを見ているかのような、まさに時代を予見した映画だった。「アメリカ版盗聴法」を制定する動きに反対する下院議員が暗殺され、偶然にも殺害シーンを録画したビデオテープを入手してしまった一人の弁護士が、米政府情報機関に追い詰められていく物語だ。発信機、盗聴機、監視カメラ、衛星カメラなどのあらゆるハイテク技術を動員して、情報機関は総力を挙げて弁護士の生活と行動を徹底的に把握・監視する。トンネルやコンビニ、高速道路に設置された監視カメラまでもが、政府の思うがままに操られて、個人情報は余すことなく把握されるのだった。国家が全力を挙げれば何でもできることを示す。「国の安全を守るため」なんて単なる建て前、言い訳であることがよく分かる。実に恐ろしい戦慄すべき内容の作品だ。しかも、見事なエンターテインメントに仕上がっていて、手に汗握るスリリングなシーンの連続。息つく暇もないくらいドキドキの内容で面白い。お薦め映画だ。
1999年8月8日(日曜日) 「日の丸・君が代」あすは、いよいよ国会で「日の丸・君が代」法が成立する。国会前で座り込みをしている方々は本当にご苦労様である。関係者から「ぜひ取材を」との要請をいただいていて、僕としても取材に出向きたい気持ちはいっぱいなのだが、スケジュール的にちょっと無理そうだ。「日の丸・君が代」が法制化された「その後」に直接関係してくる内容のルポルタージュの取材と執筆が佳境に入っているのだ。原稿を執筆するという形で僕なりのメッセージとしたい。
「日の丸・君が代を国旗・国歌とする法案」が参院本会議で可決・成立した。決して大袈裟な話ではなく、日本という国はこれで「全体主義国家」への新しい一歩を踏み出してしまった。断っておくが「日の丸・君が代は戦争の影をひきずっているから反対」などと言うのではない。「国が決めたことには文句を言わずに黙って従う」「異議を唱えない」という人間をつくり、反対できない雰囲気をつくっていく第一歩となることが怖いのである。全国の学校の先生はもちろん父母や子どもたちも、このことは忘れないでしっかりと覚えておいてほしい。そしてこれを機会に近い将来、教育公務員である教師は「国歌斉唱」の際には必ず起立して歌わなければならなくなるだろう。子どもに指導するとはそういうことなのだから。現に政府は国会で「思想・良心の自由を理由に教師が指導を拒むことはできないない」と答弁している。拒否すれば職務命令違反で処分されるだろう。そんな立場に追い込まれた教師たちから「指導」されれば、子どもたちはどう反応すればいいだろうか。みんなが起立してみんなが歌う中、たった一人で違う行動ができる人間なんてそんなにいない。たかが「日の丸・君が代」かもしれないが、残念ながら「日の丸・君が代」は本日をもって、そういう全体主義の公式な(法律で定められた)シンボル・踏み絵になったのである。そのことを胸に刻み込んでおこう。
さらにきょうは、通信傍受(盗聴)法案が参院法務委員会で強行採決された。この法案も間もなく可決・成立するだろう。もう今さら何を言っても書いても、無駄なことで意味がないのだろうか。
1999年8月12日(木曜日) 盗聴法案と国民総背番号制が成立通信傍受(盗聴)法案がとうとう参院本会議で可決・成立した。続いて、住民基本台帳法の改正案(国民総背番号制)も同様に参院本会議で可決・成立した。(以下省略。第1部に詳細記事)
1999年9月6日(月曜日) 警察組織の本質的体質神奈川県警幹部の「言い訳」は笑える。「嘘つきはドロボーの始まり」と言うけれど、そのまんまの記者会見をよくもまあ懲りずに繰り返すよなあ。問題になっている警察官たちの「不祥事」は、殺人未遂や脅迫に相当する言わば凶悪犯罪である。一般市民なら間違いなく逮捕され起訴され実刑判決を受けるだろう。そんな凶悪犯に対する処遇の甘さもさることながら、事実を隠蔽して、しかもすぐにばれるような嘘を平気でつける厚顔無恥さには、驚きあきれるばかりだ。「よく言うよ」って感じである。でも最も怖いと感じたのは、嘘をついたことが明白になっているのに「嘘ではない」と開き直り、挙句の果てには高圧的に威嚇する権力者の態度だった。だから、警察は信用できないと言われてしまうのだ。盗聴法が論議された時に問題になったのもその点だった。何といっても警察は権力機構そのものであり、末端の警察官は実際に権力を行使する立場にあるのだ。そんな人たちに盗聴法などという凶器を使わせたらどんなことになるだろう。まさに「◯◯◯◯に刃物」じゃん。今さら言うまでもないが、共産党幹部の自宅を盗聴していまだに開き直っているのは、何を隠そう神奈川県警なんだよね。「他人に厳しく自分に甘くて、平気で嘘をつく」のはたぶん、警察組織の本質的体質なのかもしれないけど、中でも神奈川県警はその陰湿な体質が突出しているのだろう。違反するのを待ち構えていて交通取り締まりをする悪徳警官も根っこは一緒だ。まあ、そんなことを言われたら、まじめに働いている全国のお巡りさんが迷惑すると思うけどね。
2000年8月25日(金曜日) 恐怖国家体制ロシア海軍の原子力潜水艦事故で、政府高官に詰め寄って抗議する乗組員遺族の背後から、政府関係者らしい女が忍び寄って鎮静剤を注射…。遺族である母親は意識を失って倒れ込む…。う〜ん、なんてエグい映像だろう。こんなことが公衆の面前で平然と行われるとは。まともな社会ではそもそも、本人の意思を無視して勝手に注射するなどということは許されないことだよなあ。しかも関係者へのインタビューなどを見る限りでは、ロシアではこうした出来事にそれほど衝撃や違和感を感じていない様子なのが、またまた驚かされる。なんて恐ろしい社会なのだろう。しかしまあ、政府が個人の通信の自由を正当に侵すための法律(通信傍受=盗聴法)が施行されてしまうわけだから、日本も着々とロシアのようなエグい恐怖国家体制に近付いているという見方もできるかもしれないな。
東京・新橋の映像調査会社に立ち寄って録画ビデオを受け取ってから、霞が関の弁護士会館へ。東京の三つの弁護士会主催の「報道被害を考える」シンポをのぞく。ロス疑惑の三浦和義さんやキャスターの鳥越俊太郎さん、桶川ストーカー殺人事件の被害者代理人の弁護士らがパネリストである。「メディアは平気で嘘をつく。誤報とやらせを延々と流す。なぜ個人を特定して報道しなければならないのか。それで救済手段があるのか。冤罪や報道被害で苦しんでいる人が今もいることを分かってほしい」などと訴える三浦さんの発言は、聞いていて耳が痛くなることばかりだが、具体的でとても説得力がある。「新聞の在り方を検討する委員会が各社にあるが、委員は高名な学者や弁護士ばかりだ。少なくとも一人ぐらいは、実際に報道被害に遭った人が委員として入ってもいいのではないか」という提案ももっともだと思った。一方、鳥越さんは現場の経験が長いだけに話が分かりやすい。「報道被害者を作ったのもメディアであり、報道被害者を救うのもまたメディアである。取材・報道する者の人格にかかわる問題であって、システムの問題ではない。心の痛みや悲しみを受け止めて理解することができるかどうかということだ」という発言は、まさにその通りである。メディアの人間たち一人一人の感性や問題意識の在り方が問われているのだ。しかしテレビのワイドショー番組などは、みんなが心の中に多少は持っている「他人の不幸をのぞき見したい」という気持ちに焦点を合わせているわけで、鳥越さんの言うように、残念ながらこれは「国民のレベルに合った内容」なのだろう。「人権侵害された人が自ら声を上げるしかない」という指摘もまた現実だ。
弁護士会館に来たついでに、すぐ隣の裁判所の記者クラブに詰めている司法担当記者の友人を呼び出して、近くの料理屋に飲みに行く。今春の異動で関西から東京に戻ってきたばかりの友人は、司法担当の大変さを楽しんでいるようにも見える。最初はそういう取材のあれこれを話していたが、次第に話題は最近の若手記者の実態へ。本多勝一や鎌田慧を知らないなんて序の口で、東山魁偉も知らない、ベトナム戦争はどことどこが戦ったのかも知らない。そしてまるでたちの悪い冗談のように、なんと「馬耳東風」という四字熟語も知らないときたので、なかなか見事なオチが付いたなあと感心していたら、これはすべて実話だというのだ。ああ…。おまけに、記者会見に出たら、会見者の主張を鵜呑みにして疑問も持たずに丸投げするというのだから、権力監視の在り方がどうのとか報道倫理がどうしたなんて議論する以前の問題だ。どうやらメディアはどこも、そんな深刻な事態に直面しているらしい。記者の資質とか感性の問題を超越している。しかしどうしてそんな人間を採用するかねえ。さきほどのシンポの内容と合わせて、まさにメディアは危機的状況だ。午前1時すぎ帰宅。
荻野富士夫「思想検事」(岩波新書)を読み終える。戦前の厳しい思想・言論弾圧と言えばすぐに特高警察を思い浮かべるが、実は特高と並んで抑圧装置として機能したのが思想検事だ。法律の制定と実際の運用を担って、弾圧の最前線に立ったエリート検事たちの実態が、分かりやすくまとめられている。治安維持法の運用・適用範囲がどんどん拡張され、次々と取り締まりの対象が広げられていく実態が恐ろしい。こじつけとしか思えない詭弁のような論法を平然と繰り出し、強引で一方的な法律解釈によって、弾圧は社会民主主義、民主主義、自由主義、新興宗教へと進む。とにかく「国体」を否認する者や、政府や戦争に批判的・非協力的な言動は徹底的に排除されていくのだ。読みながら「ちょっと待てよ」と思った。ここに書かれているのは1930年〜1940年代の話だが、この社会状況はまるで今と同じではないかと感じたからだ。
例えば、ただ旗と歌を規定しただけの「国旗・国歌法」や、教育目標と指針を定めただけに過ぎない「学習指導要領」が、どんどん拡大解釈されて、いつの間にやら「君が代」は「起立して心を込めて歌わなければならない」ことになっている。そういう指示に従わない教員や、あるいは子どもたちを指導しない教員は処分され、下手をすれば分限免職(懲戒免職)されてしまうところまで来ている。これってどういうことなんだろう、というのが取材を通じて感じる僕の率直な疑問だ。まず手っ取り早く教育現場から「思想改善」「思想統制」を図ろうとするのならば、それはなかなか目の付けどころとしては鋭いと思う。そして、着実にその企みは成果を上げている。教育の現場は今、管理と抑圧で息の詰まるような状況にあり、無気力・無力感に覆われているからだ。そういったところも、まるで戦前と同じようである。
そしてもう一つ、戦前と今とがダブって見えるのが、主体的判断を放棄したかのような裁判官の姿勢だ。「よく分からない時には検事の意見に従う方が正しいと思う」などと平然と言ってのける裁判官の姿は、現在の刑事裁判で検察側の主張をうのみにするのと、何ら変わるところがない。司法が独立して思想検事をチェックするのではなくて、むしろ積極的に思想弾圧の推進役になろうとしていたその姿に、背筋の寒くなる思いがした。
有事法制関連3法案が閣議決定されたが、全面的に反対の姿勢を表明する。早い話が戦争ができる国への準備であり、すべての国民を国家のもとに一元化してしまう恐ろしい法律であることを、きちんと自覚しなければならないと思うんだけど、そういうことが結び付かない人の方がたぶん多いのだろう。「備えあれば憂いなし」などと、小泉首相は何とかの一つ覚えのように繰り返しているが、実際はまったく逆で戦争に巻き込まれるだけだし、そもそもこの法律の本質は「国民の私有財産や権利が一方的に制限を受ける」ところにこそある。詐欺的な論理のすりかえにだまされてはいけない。
戦争はすべての幸福を根こそぎ破壊する。フツーの市民生活を根底から否定する最大の行為が戦争だ。だから、日本国憲法は武力による紛争解決(戦争)を明確に否定する。市民生活が破壊されるのはよそからの攻撃だけじゃない。平和な状態なら厳重に守られているはずの「私有財産」が、戦争になったら国家によって一方的に制限されることになる。自分の住んでいる家や土地に、軍隊が突然土足で踏み込んできても一切文句は言えない。放送局は政府の管理下に置かれ、言論の自由や集会や通信なども制限を受ける。「非常事態」を理由にさえすれば盗聴や予防拘禁など、問答無用の規制や管理がまかり通るだろう。財産も権利も人権もすべて制約を受けるのだ。武器でドンパチやるだけが戦争ではない。
そうした戦争の本質を認識したうえで、日本国憲法の理念のすべてをないがしろにする「有事法制」に、それでも賛成するのかどうか。まさにその覚悟が問われているということを訴えたい。
住基ネット(住民基本台帳ネットワーク)が、きょうから全国で稼働した。セキュリティーの不安ばかりがもっぱら指摘されているけど、しかし最大かつ本質的問題は実はそんなところにあるわけではないんだよなー。近い将来この国民総背番号のもとに、氏名・住所・性別・生年月日にとどまらないさまざまな個人情報が集約されるのは確実だ。そしてそれが国家に一元的に管理され、しかも本人の知らないところで独り歩きしていくことこそが、このシステムの一番の恐ろしさだ。不正アクセスや情報漏洩や接続トラブルといった問題が解消されれば、それで万事解決という性質のものでは決してない。国家が個人を番号で管理することが、そもそも根本的に間違っている。だれのための住基ネットなんだ。便利になって本当に得するのはだれなんだ。これはまさに民主主義の問題だ。
NHKは昼のニュースで、住基ネットについて「便利になるからいいと思う」と答える市民の声しか放送しなかった。信じられない報道姿勢に絶句した。少なくとも肯定と否定の両方の声くらいは、公正に取り上げるべきだろう。まともなジャーナリズムならば問題の本質を正しく伝えて、視聴者に判断材料をきちんと提供する責任があるはずだ。そうした報道責任を意図的にサボタージュしたとしか思えないNHKは、ジャーナリズム性を自ら放棄してしまったのである。放送法で言うところの公共放送だなんて、ちゃんちゃらおかしいよなー。NHK受信料なんて絶対に払わないぞ。
2002年9月10日(火曜日) 横浜市の住基ネット対応は良心的か横浜市から「住民票コードのお知らせ」という文書がようやく届いた。送られてきた封筒の中には、シール方式の通知はがきと、住民基本台帳ネットワークシステム(住基ネット)への個人情報「非通知」申請の書類が一緒に入っていた。この「身辺雑記」でも繰り返し指摘しているように、さまざまな個人情報が集約され、それらの情報が国家に一元的に管理されるなど、住基ネット(つまり国民総背番号制)にはあまりにも問題点が多すぎるので、当然のことながら僕は参加を断固拒否(非通知申請)するつもりだ。
だがしか〜し。書類が送られてきて改めて実感したが、非通知申請の手続きの面倒さといったら…。「非通知申出書」なる書類にごちゃごちゃ記入させられるだけでなく、本人確認できる書類(運転免許証など)を示して、居住地の区役所に申請しなければならないというのである。郵送でも受け付けてもらえるが、その場合は本人確認できる書類のコピーを同封しなければならない。一見すると横浜市の対応は、とても良心的で民主的に思えるかもしれないが、交通の便が悪いところに住んでいる人や体の不自由な人が、わざわざ区役所に出向くのは大変なことだ。郵送するにしても、いちいち本人確認できる書類のコピーを取って、封筒に切手を張ってポストに投函するなんてことは、よっぽどこのシステムに疑問や関心がなければやらないんじゃないか。「横浜市の個人選択制は一種の住民投票的な意味もある」なんて言って評価する人がいたが、冗談じゃない。最寄りの投票所に出かけて一票を投じるだけで終わる選挙の投票よりも、ずっとハードルが高いではないか。
ふざけんなっつーの。どうして個人情報を守ろうとする側が、いちいちこんなことをしなければならないのか。横浜市が本当に住基ネットに異議を唱えているのなら、参加したい人の側に手続きしてもらえばいいではないか。あるいは平等に、住基ネットに参加するかしないか(個人情報を通知するかしないか)の意思を、それぞれ申請させるようにするべきだろう。
横浜市の「住基ネット参加の個人選択制」について一定の評価はするが、中田宏市長の「個人情報保護法が成立すれば全市民がシステムに参加する」という発言に疑問を感じる。そもそも「個人情報漏洩」が問題なのではなく、「個人情報が集約されて国家に管理されること」が住基ネットの最大の問題点だからだ。