●こまごまと散財●メディア法規制●「すらすら原稿ペン」が欲しい●堪忍袋の緒●機密漏洩●さいたま市●隔離と安全●会議はさっと●トトログッズ●老舗書店●超高層●保安処分に反対●犬の雑誌や本●その後の不動産屋●事実を伝える責任●現実逃避かも●白いワニ?●卑屈外交●蛍光灯●食べるのも忘れて●アピールを兼ねて記事宣伝●「ダサイタマ」と地域ナショナリズム●ジブリで散財●ネット接続セーブ宣言?●接触●深夜のカラス●「脱・記者クラブ宣言」に異議あり●●●ほか
6月1日(金曜日) こまごまと散財終日原稿執筆。しかしどうにも盛り上がらないので、夕食に出かけるのを兼ねて近くのホームセンターへ。折り込みチラシに出ていた伸縮式のパイプハンガーを買った。ぶら下がり健康器具のようなパイプでできたハンガーである。実はこれまで和室の壁と壁の間にビニールロープを張って、洗濯物はそこにぶら下げて干していたのだが(おいおい)、これで部屋の中がすっきりした。これで千円もしないのはお買い得品だ。もう一つ木製の折り畳みテーブルも欲しくて探すが、こちらは早々と売り切れ。店の人によると「追加品を船で運んでいるので注文してもらえればキープするが、入荷は早くて今月中旬ごろ、遅ければ来月になる」という。チラシには千円未満と表示されていたから、たぶん労働力の安い海外製の輸入品なのだろう。便利だし魅力的な価格なので注文する。帰り道に別のホームセンターにも立ち寄って、ちょこっとだけペット売り場をのぞくと、ラブラドール犬や子猫がたくさんいた。かわいいことはかわいいのだけど、でもなんだか、ここの動物たちは落ち着きがなかったり元気がなかったりして、どうも「かわいい」というよりは「かわいそう」という感じがする。ちゃんと世話をされていないか、狭いケージに押し込められてストレスがたまっているのか、いずれにしてもあんまり幸せな環境ではないようだ。これでは飼育意欲も減退するよなあ。ついでに書店もいくつか回って、コミックスや取材用のノートなどを購入。う〜む、きょうはこまごまと散財した。
「セカンドインパクト」の「ルポルタージュ」のページを更新。「金髪先生」の続報(短信記事)を掲載しました。また同ページ訪問者の便宜をはかるため、これまでに書いた「身辺雑記」の一連の関連記事にアンカーを付けてリンクしました。
なお、この「身辺雑記」のページにリンクを張られている方への注意とお知らせです。「身辺雑記」の最新版(当該月)のページアドレスは「zakki-new.html」ですが、毎月初めには、前月分の内容はすべて「別のファイル名」に移行するので、ページアドレスは変更されてしまいます。月が変わった時点でリンクのアドレスを変更するか、あるいは最初から「身辺雑記」の総目次のページや、フロントページにリンクすることをお勧めします。
6月2日(土曜日) メディア法規制主催者からお誘いを受けて、横浜で開かれたJCJ(日本ジャーナリスト会議)神奈川支部の集会に顔を出す。元東京新聞社会部次長の島田三喜雄氏が「言論の自由が危ない」のテーマで講演し、個人情報保護基本法案をはじめ、青少年社会環境対策基本法案、法務省の「人権救済機関設置構想」──といったいわゆる「メディア法規制・3点セット」についての話を聞く。言うまでもないが、これらの法案と制度導入の動きは、この2年間に相次いで成立したガイドライン法、通信傍受法(盗聴法)、改正住民基本台帳法(国民総背番号制)、国旗・国歌法などの延長線上にあり、市民生活コントロールの一貫であるのは明らかだろう。本来ならば政府や行政機関が握っている「個人情報」をまず規制するべきなのに、なぜか報道関係を規制して、いつの間にやら言論・表現を取り締まる内容にすり替えられている。それこそがこの法案最大の問題点だ。「個人情報保護」を名目に取材情報開示を迫るこんな法律が成立したら、「取材協力者(情報源)の秘密と安全を守る」という記者倫理は根底から否定されてしまう。調査報道やルポルタージュといったジャーナリズム活動は成り立たなくなるだろう。
とりあえず新聞と放送は法規制の適用除外とされ、出版・雑誌が規制対象になりそうだというが、こういう法律は次々に拡大解釈されていくのが常識だ。そんなのは歴史がいくらでも証明しているわけで、だまされてはいけない。これは「言論・表現」にかかわるすべての人や団体に、いずれ必ず関係してくる問題なのである。
しかし残念ながら、こうした一連のメディア規制の動きを、後押しするような世論が存在すると島田氏は指摘する。それはこれまでに新聞・放送・出版・雑誌などのメディアが、自分たち自身の戦争責任を反省もしないで、しかも権力のお先棒を担ぐような報道しかせず、さらには報道という名前によって数々の人権侵害を繰り返してきたからだ。「言論・表現の自由の危機」だというのに、市民の理解と支援が得られないのは、メディアが自主的な問題解決機関を作らずに、質の悪い報道を垂れ流してきた結果にほかならない。決して一部の品性下劣なメディアだけの問題ではない。そのことを自覚し、今からでも遅くないからジャーナリズム本来のあるべき姿に立ち返らなければ、取り返しの付かないことになるのは確実だ。だがメディアの危機意識は低く、深刻なまでに疲弊している。
夕方から東京・久我山へ。女性ライターと一緒に、知り合いの出版社宣伝部員Iさんが開いているイラスト展を見に行く(5月20日付「身辺雑記」の「二足のわらじ」参照)。色使いとタッチがほのぼのしていて、「鳥獣戯画」を思わせるような味わい深い作品が並ぶ。こぢんまりしたギャラリーには、ほかの作家のぬいぐるみや焼き物なども置かれていて、どうやら「動物と自然」が共通テーマらしい。「作家を育てる」のがこの店の経営方針だそうで、とても感じのいいギャラリーだ。Iさん、秋のイラスト展ではぜひ自作をもとにしたピンバッジを作ってください。買いますから。下北沢の沖縄居酒屋で夕食。ゴーヤーチャンプルーがうまい。沖縄を舞台にしているNHKの連続ドラマ「ちゅらさん」を見るたびに、チャンプルーが食べたいなあと思っていたので満足する。午前零時帰宅。
フロントページからリンクしている「憲法違反の盗聴法に反対します!」のページを久々に更新。第2部に関連記事を3つ掲載しました。いずれも「身辺雑記」からの抜粋です。
6月3日(日曜日) 「すらすら原稿ペン」が欲しい終日原稿執筆。書かなければならない4本の原稿のうち、ようやく一つを書き上げる。いつも思うんだけど、すらすらと流れるように原稿が書ける人というのは本当にうらやましい限りだ。読者の皆さんは、僕もそういう人と同じように原稿をすらすら書いていると思っているようだが、実際にそうなんでしょうと質問されたことがあるが、決してそんなことはない。いつも四苦八苦しながら書いている。構成やら表現やら分量やらを吟味して吟味して、そして事実関係を慎重に確認しながら、さらにどのエピソードとどの言葉を使うのが一番いいのか、取材ノートや資料の束を何回もひっくり返して悩みつつ書いているので、時間がかかって仕方がないのである。まあ、早い話が、要領が悪いというかどんくさいのだろう。たまに一気に書いてしまえる時もあるんだけどなあ。ドラえもんに頼んで「すらすら原稿ペン」でも出してもらいたいくらいだ。
6月4日(月曜日) 堪忍袋の緒今年3月まで住んでいたアパートを管理する不動産屋の、あまりにいい加減な対応に呆れ果てている。つまりこういうわけである。本来ならば「敷金」と「前納分の家賃」の合計額から、「リフォーム代金と日割り家賃」を差し引いた金額が、速やかに返還されるべきなのだが、それが逆に「敷金」から「リフォーム代金と日割り家賃」を差し引いた金額を振り込んできたのだ。その額はわずか数千円。部屋のリフォーム代金を借り主に負担させて、2カ月分の敷金から差っ引くというのがそもそもおかしいと思うのだが、まあ百歩譲ってそれは仕方がないとしよう。しかし、わずかに残された敷金に「日割り家賃の残り」を加えて返還するのではなく、逆にわずかに残された敷金から、日割り家賃を差っ引くというのはどういうことなんだ。喧嘩を売ってるのか?
振り込み額が異様に少ないのでおかしいと思い、そのことを指摘すると、不動産屋は「ミスでした。すぐに正しい精算金額を振り込みます」との返答してきた。まあ人間だれしもミスをするものだから、速やかに修正してくれればそれでいいだろう。だがしか〜し。待てど暮らせど振り込みはない。その間、およそ1カ月。業を煮やして再び問い合わせると、不動産屋は「おかしいですね。すぐに振り込みます」との返答。こちらから指摘しなければ、わずか数千円の振り込みだけだったわけだが、返還されるべき金額はその十倍にはなるはずなのである。そもそも最初の計算が不動産屋のミスだったとしたら、平身低頭して即刻返還するのが普通だろう。商人としても人間としてもそれが当然の姿勢というものである。それなのに平然と放置して、それで平気でいられるとはどういう神経をしているのだ。しかも、敷金精算書や返還金の内訳明細などの文書も、こちらから指摘しなければ送ってこない。そればかりか「送ったはずだ」と言い張る。さすがに頭に来たので、ファクスで「質問状」を送って「誠意ある回答」を文書で提出するように申し入れた。
「仏の顔を三度まで」と言うが、僕は結構そのへんのところは忍耐強くて、何事でもかなりの部分までは「まあいいよ」と許してあげるのだが、さすがに堪忍袋の緒が切れた。これできちんと釈明なり陳謝なりするのなら勘弁してもいいが、この期に及んでさらに不誠実な態度を取るようならば、今度は内容証明便を送り付けたうえで法的対応も検討したいと思う。本当はそんな面倒なことはしたくないし暇もないのだが、しかしあまりにいい加減で不誠実な対応に対しては、断固たる姿勢で徹底的に闘うしかないだろう。なかなか着火はしないけど、いったん怒らせたらもう簡単には引かないぞ。どうしても喧嘩を売るのなら、それなりに覚悟するように。
6月5日(火曜日) 座談会の掲載誌「医療裁判と司法改革」をテーマに先月、医療専門雑誌で法医学の大学教授と弁護士さん相手に座談会の司会をしたが、編集部から掲載誌が送られてきた。それなりにちゃんと読めるようにまとまっているじゃん。つーか、文章もレイアウトもとても読みやすい。確かに司会役は苦労したが、これは編集者とライターさんの努力のたまものだろう。特集やほかの記事もなかなか読みごたえがある。いろんな意味で貴重な経験をさせていただいた。興味深い機会を与えていただいた関係者の皆様に感謝である。ちなみに写真もそこそこカッコよく写っていて安心した(おいおい)。
終日原稿執筆。確認の電話取材も。さらに、それとは全く別テーマの仕込みを電話でこなす。全く異なるテーマを同時に進めるのって、集中力が分散するから苦手なんだよなあ。それはともかく、抱え込んでいる原稿を早く仕上げて取材に出なければ。来週末までは原稿執筆と現場取材で、ほとんど綱渡り状態になりそうだ。メールの返事などしばしば滞る場合があるかも。ご容赦を。
6月6日(水曜日) 機密漏洩田中真紀子外相の一連の「発言漏洩事件」は、外相の舌禍だとか思慮不足などというよりは、自民党の派閥の怨念と外務官僚の権益死守という二つの利害が、見事に一致して結び付いた末の、極めて政治的な策略のように思えるんだけどなあ。自民党の総裁選挙の時に起きた田中氏の発言をめぐる泥試合が、陰湿な形で再現されているだけのようにしか思えない。どんなにでたらめで間抜けな大臣であっても、こんなに次から次へと「外交機密」が簡単に外部へ出るなんてことはこれまでありえなかったわけで、意図的なリークであるのは見え見えじゃん。朝日新聞が社説で「外相の思い付きによる発言」を厳しく批判していたが、確かにそれもあるだろうけど、そいつはあまりにも一面的な見方ではないかなあ。ちなみに、アメリカのミサイル構想や保守的なブッシュ政権の外交姿勢に対して、懸念を示したとされる外相発言を僕は支持する。教科書や歴史認識についてのリベラルな発言も評価する。政府方針としては同盟関係の堅持が最優先であっても、アメリカとは対等な関係なんだからそれくらい言ってもいいと思うけどね。まあ、本当のところはまだよく分からないが、今後の展開に注目したい。
取材のアポ取り電話をかけまくる。とりあえず3勝0敗1分けといったところなので、まずまずの戦績と言えるだろう。でもって短い原稿を2本書き上げる。途中で放っぽり出しておいた原稿を、これからきちんと完成させて、あすはようやく現場取材だ。ふう。
6月7日(木曜日) さいたま市早起きして、埼玉県さいたま市(旧浦和)へ。やっぱ横浜からは遠い。2時間もかかる…。それはさておき、まずは以前に勤めていた新聞社の編集局に顔を出す。今回の取材テーマは「さいたま市の合併問題」なのだが、それに関連して地元の担当記者から意見を聞くためである。会社の外観は変わらないのだけど、部屋のレイアウトはすっかり変わっていて少し広くなったように感じる。別室で話を聞いていると、かつての先輩記者や同僚記者が、入れ替わり立ち替わりやって来て「久しぶりだなあ、元気か」とか「ちゃんと食べてるか」などと声をかけてくれた。取材の最中だったこともあってきちんと対応できなかったけど、すごくうれしかった。その後は、さいたま市役所で行政担当者や議員らを取材。まあまあの成果。それにしてもこうやって「さいたま市」って書いてみて改めて思うのだが、書いている途中も、書き上げた字を目で見ても違和感がものすごくあるなあ。ダサいこと極まりない。この「さいたま市」という平仮名の文字配列そのものに、そもそも安定感と品格がないのではないだろうか。「浦和」や「大宮」の名前の方が好きだなあ。
浦和駅前に「トトロ」グッズの店を見つけたので、ピンバッジと携帯ストラップを衝動買いしてしまう。激しい雷雨がしばらく止みそうにないので、宣伝文句の「超軽量」につられて折り畳み傘を買う。確かに実に軽くて小さい。やや小さめだが、非常用として使う分にははちょうどいいかもしれない。秋葉原で途中下車。この間から探しているコミックスはやはり見つからず。う〜ん、ここにないとなると一体どこに行けばいいんだろう。あとは神保町かな。
6月8日(金曜日) 隔離と安全刃物を持った男が大阪教育大学付属池田小学校の教室に乱入し、児童や教諭を多数死傷させた。まさに最悪の事件で、被害者と家族の皆さんに心からの哀悼の意を捧げたい。ただ気になるのは、学校の安全をどうするかということと、精神障害者の人権をどのように守るのかということだ。
そもそも学校はどこも無防備で、地域に開け放たれているところの方が多い。情報公開はまるで進んでなくて、逆にとてつもなく閉鎖的なんだけど。でもってこういう事件が起きたらたぶん、外部の見知らぬ人間をシャットアウトして…などと言い出す人々が少なからずいると思うが、そんなのは各学校に門番や守衛を常駐させでもしなければ不可能だろう。しかしそういうのも息が詰まるようであまり賛成できない。むしろ地域の目が学校に向いている方が、不審人物は入り込みにくくなると思うのだが。常に関心を持たれている場所であることが大切なのだ。隔離なんかされてしまえば、学校の中でとんでもないことが起きていても、外には何も分からないという状態になってしまうだろう。
一方、これもまたこういう凶悪事件が起きると、精神障害者はすべて危険で要注意な存在として、監視・管理・隔離の対象にすべきだ…などといった発想が出てくるのは歴史が証明しているのだが、それはあまりに短絡的で差別意識に満ち満ちた主張だと言わざるを得ない。精神障害者と家族の受ける差別と偏見は、ハンセン病の患者や家族の受けてきた苦しみに似ているように想像するが、一口に精神障害者と言っても病気の種類やその幅はものすごく幅は広いだろうし、そもそも世の中には心を病んだ人なんて山のようにいる。いつだれが心を病んだとしても、決しておかしくなんかないのだから。それよりもむしろ精神障害者と薬物中毒者とは明確に分けて、事件との因果関係を慎重に検討して対応すべきだろう。予防拘禁や強制入院、強制隔離などの安易な導入は、まさに人権侵害と弾圧社会への一里塚だと思うので、強く反対しておく。
健康保険の手続きや、写真の現像出し、買い物、ゲラのチェックなど雑用に追われる。そのために一日空けておいたんだけど、予想通りの結果になった。
ジオシティーズのシステム障害のため、6月6日付以降の「身辺雑記」が更新できなかったので、本日付と合わせてまとめてアップしました。なお今回のシステム障害を教訓として、「セカンドインパクト」に「臨時のお知らせページ」を設置しました。このページは、「サードインパクト」のサイトを置いているサーバー(つまりジオシティーズ)のシステムなどに障害が発生して、アクセスや更新が困難となった場合に「臨時避難場所」として活用し、情報提供やサイトのバックアップをします。システム上のトラブルがあった時には、のぞいてみてください。
6月9日(土曜日) 会議はさっと東京・四谷の出版社で「月刊司法改革」の編集会議。珍しく2時間ほどで終わる。それでもかなり疲れた。会議は民主的にさっと終わらせるのが原則だっつーの。でもって、このあとは秋の打ち上げまでは会議に出なくてよいらしい。終了後、編集委員や編集者と一緒に近くの中華料理屋で夕食。やっぱり中華はボリュームがあるからお腹にたまる。腹ぺこ組にはとてもうれしい選択だ。生ビールもうまい。トトロの小さなピンバッジを上着に着けていたら、女性編集者が「そんなのを着けて…」と反応する。結局は自分も欲しいということらしかった。あげません。午後11時半帰宅。
「週刊金曜日」の先週号に掲載された「東京・多摩中の家庭科教員に対する強引な事情聴取」のルポ記事は、かなり反響があるらしい。現地からもらった電話によると、記事を読んだ市教委や市議会議員、管理職は相当動揺しているようだという。あるインターネットの掲示板への書き込みでも、この記事を高く評価していただいているのを見かけた。より広範にタイミングよく読んでもらった方がいい記事だと思うし、テキスト全文をネット上にアップしてほしいとの希望も寄せられているので、なるべく早い時期に「セカンドインパクト」に流すようにしたいと考えている。
6月10日(日曜日) トトログッズ契約しているプロバイダーのメールサーバーに障害が発生。きょうの午前11時半から夕方6時までの間は、メールが一切受信できない状態が続いた。この時間にメールをくださった方のところには、エラーメールが返信されていたらしい。ご迷惑をおかけしていたら申し訳ありません。復旧作業は比較的迅速だったし、原稿などの送信に影響が出なかったのは、不幸中の幸いだった。
横浜の丸善で新しいトトログッズを発見する。う〜む、などと思案するまでもなく、やっぱり衝動買いしてしまうのだった。購入したのは、ペーパーウエイトとマグカップと新種のピンバッジ。ペーパーウエイトはガラス製でずっしり重く、まさにこういうのが欲しかったんだよなあという一品である。結構な値段だったけど、まあ満足のいく買い物だった(と思うことにしよう)。マグカップもガラス製品で、大量の木の実を前にしたトトロ3匹の表情がとぼけていて、なかなか微笑ましい絵柄だったりする。仕事用のデスクと本棚に鎮座させた。自分で買ったほかにも友達からのプレゼントなどもあって、このところ着実にトトログッズが増えているなあ。まあ「なごみ系」キャラだからいいか。
6月11日(月曜日) 老舗書店「合併問題」の取材で、さいたま市(旧浦和)へ。市民グループの関係者に慌ただしく話を聞いてから、大急ぎで市議会へタクシーを飛ばして重鎮の議員から話を聞く。公務で多忙なところ無理やりアポを入れてもらったうえ、当初は30分だけという約束だったのに1時間以上も取材に応じていただいた。感謝。市役所で情報公開関係の役人を取材。もうほとんど夕方という時間になってから、ようやく遅い昼食を食べる。取材中に何回もお腹が鳴るので冷や汗ものだったんだよなあ。食事のタイミングを逃してしまい、実は朝から何も食べていなかったのだ。市内の大手書店で参考図書などを購入。品揃えも書籍の配置も、どちらも最低の本屋である。これが旧浦和では最大手で老舗の書店だというのだから、恐れ入るよなあなどと思いつつ、再び市民グループの事務所へ行って、今度は別の関係者から話を聞く。夕方、さいたま新都心で友人と待ち合わせて飲む。そのまま友人宅に泊めてもらった。
6月12日(火曜日) 超高層友人宅は超高層マンションで、そこからだと新都心にいくつか立ち並び始めた高層ビル群が一望できる。高層ビル群を縫うようにして走る京浜東北線や新幹線は、まるでパノラマ写真のようだ。いくら眺望していても飽きない。遠くには新宿副都心の高層ビル群が霞んで見えて、窓の外には不思議な景色が広がっている。で、せっかくなのでこのマンションの屋上から、写真を撮らせてもらうことにした。「合併問題」の記事に使えそうである。
管理人さんに立ち会ってもらって、鉄製ドアを4つほど開けるとようやく屋上に出る。超高層なので簡単には外に出られないようになっているのだ。風が強いと立ち入り禁止になるという。何と言っても33階だ。そんなところから落ちたら、まず絶対に助からないのだから当然だろう。非常時の脱出用ヘリポートまでが用意されているのには驚いた。すごいなあ…。で、屋上の四方には厳重に柵が張り巡らされているのだが、そんな柵の中にいたのでは、まともな写真なんか撮れるわけがないので柵の外に出ることになる。だがしか〜し。僕は高所恐怖症なのだ。頑丈な柵やガラスの内側から遠くを見るには何も問題はないのだけど、そうじゃないポジションで真下を見たりなんかすると、冷や汗タラリで足がすくんでしまう。そればかりかケツの穴がきゅ〜っと閉まって、体中がざわざわしてくるのだった。そんな何とも言いようのない恐怖感に耐えて、しっかり前方の新都心だけを見つめ、大急ぎで無事に撮影を敢行した。管理人さんがすぐ隣で、僕を守るようにして付き添ってくれていたのだが、それは少なからず安心感があったのかもしれない。その甲斐あって成果はばっちり。とてもいい風景が撮れた。
さいたま新都心の近くにある本屋に立ち寄る。ここは、なかなかの品揃えと書籍配置なので使いやすい。店員さんの応対も適切で、探していた本もすぐに見つかった。こういう本屋さんには健闘してもらいたいよなあと、客の一人として心から思う。帰宅してからゲラのチェックなど雑用多数。う〜む、疲れる。
6月13日(水曜日) 保安処分に反対「精神障害者と事件」について、6月8日付の「身辺雑記」で、「予防拘禁や強制入院、強制隔離などの安易な導入は、まさに人権侵害と弾圧社会への一里塚だと思うので、強く反対しておく」と指摘したが、やっぱりと言うか案の定と言うか、「治安維持のためには、精神障害者を監視・管理・隔離の対象にすべきだ」という声が上がってきた。しかもあろうことか、コイズミ首相その人が「刑法改正や保安処分(要するに予防拘禁などの強制措置)も視野に入れて…」などと言い出している。今のところはまだ、刑法改正や保安処分の導入について、政府や関係省庁には慎重論が多いようだが、しかしそんなのはころころ変わる可能性があるからなあ。
何回も繰り返すが、治安維持を名目にした人権侵害は、決して許してはならない。普通の精神障害者とそうでない精神障害者を、正確に区別すること自体が相当難しいと思われるが、そもそも一体だれが「精神障害」であると認定し、どこから「拘禁・隔離」の対象と判断するのか、その基準や根拠はだれがどうやって決めるのか、そこに恣意的なものが入らない保証はあるのか、対象がどんどん広がることはないのか、拡大解釈されていく恐れはないと断言できるのかなど、疑問や課題は山積みである。だからこそ、これまで「保安処分」の導入については何回も議論されながら、医療関係者や弁護士などから強い反対があって立ち消えになってきたのだろう。ことはそんなに簡単ではない。隔離しようとするその時点で「犯罪を犯していない」人間を、犯罪を犯す「危険性がある」として拘束することには、慎重にも慎重でなければならない。
自分がいつの間にか公権力から、一方的に「精神障害者だ」と決め付けられてしまったら…。「犯罪を犯す危険性がある」として拘禁されたら…。社会から隔離されてしまう深刻さと影響について、そういう想像力を働かせて考えてみることが大切だろう。確かに心を病んでいる人たちは日本社会に大勢いる。電車の中など身の回りの現実社会にも、あるいはインターネット上の仮想空間にも、明らかに「おかしいんじゃないか」と思わざるを得ないような人たちはたくさんいるだろう。しかし、そういう心を病んだ人に対する治療は、治安維持の発想とは切り離して考えるべきだ。
6月14日(木曜日) 犬の雑誌や本立ち寄った本屋2軒で、「愛犬ファン」やら「犬の育て方」やら「子犬の選び方」などといった雑誌や本を、延々と立ち読みしてしまった。ものすごくたくさんの関連書籍が出ているんだなあと、驚いてしまう。でもってそこには、どんな犬種があって、どれを飼うのが自分のライフスタイルに合っているのか、性格や育て方はそれぞれ犬種によってどのように違ってくるのかなど、読めば読むほど分からなくなって迷うようなことばかり書いてあるのだが、しかし読めば読むほど飼いたくなってくる。この間、ファミレスの駐車場で隣の車を見たら、助手席にコリーのような犬がちょこんと座っていたのだが、たぶん深層心理にその時の光景が強烈に焼き付いているのだろうな。あれは魅力的なシーンだった。今度は猫の本や雑誌も検討してみよう。…って、そもそも自分のことで精いっぱいなのに、ペットを飼うなんてそんな余裕があるのか。う〜む。
6月15日(金曜日) その後の不動産屋6月4日付の「身辺雑記」で「堪忍袋の緒が切れた」と書いた不動産屋は、その後もいい加減な対応を続けていたので、論理的に畳み込むような内容でぐうの音も出ないような質問状を書いて、もう一度ファクスで送り付けたところ、本来返還すべき精算金を全額振り込んできた。さらに、社長名で「社員教育の責任を痛感…」などとする回答書をようやく送ってきたのだった。2通目の質問状の文末に「この期に及んでさらに不誠実な態度を取るのであるならば、今後は文書を内容証明便に切り替えたうえで、法的対応や業界団体等への苦情申し立ても検討する」と書いて、最後通告を突き付けておいたのが利いたのかもしれない。こちらの怒りは爆発寸前で、不動産取扱業の知事免許を出す基準はどうなっているのか、県庁に取材しようと考えていた矢先だったのだ。不動産屋の対応は、まさに滑り込みぎりぎりセーフといったところである。全くいい加減にしろよなっていう感じだ。本当ならば平身低頭して謝りに来るべきだと思うんだけど、もうこれ以上かかわるのも鬱陶しいし、そもそもそんな暇はないので了解してあげた。
6月16日(土曜日) 事実を伝える責任午後から東京・早稲田へ。「教育関連6法案の改悪に反対する市民集会」に顔を出す。「偏向授業をした」などとして処分された教員や、あるいは処分されそうになっている教員、またはその教員仲間たちが何人も発言した。すさまじい管理を前にして大勢があきらめて流されていく中で、それでも「事実をしっかり伝えていくことが大切だ」と訴えた教員の言葉が重く心に響いた。理不尽な攻撃やデマが加えられても、職務の中で「事実」を伝えられる立場に教員はいるのだから、子どもや親の理解は少なくとも得られるはずなのだが、しかし現実は残念ながら想像するよりもずっと厳しい。例えば、授業や担任から外して「事実を伝えること」ができない立場に教員を追いやるなど、子どもや親との関係が築けないような形の異動を、最近の教育行政は平然とやってのける。それでも「試行錯誤して事実を伝える工夫を」と呼びかけるしかないところに、かなり追い詰められた教育現場の深刻な状況がある。たぶん今この時に、一人一人の教員が連帯してきちんと現場で声を上げなければ、後になってとても後悔することになるだろう。がんじがらめにされて、身動きが取れなくなってから何かを言おうとしても遅い。そしてそれは結局、子どもたちが「事実」を知らないまま社会に出ていくことにつながるのだ。「不作為の作為」の責任は教員にある。もちろん、言うまでもなくこの問いかけは、メディアに対しても突きつけられている。「事実をしっかり伝えているか」。メディアにかかわるわれわれの責任もまた大きい。
途中で会場を後にして、高田馬場駅前の居酒屋へ。ネットで論争系の掲示板にかかわっている人たちのオフ会に、かなり遅れて顔を出す。ネット上の掲示板はピンからキリまで掃いて捨てるほどあって、ゴミ溜めや便所の落書きのようなものもたくさんあるが、この日のオフ会は、いわゆる「良識派」とされている掲示板の関係者の集まりだ。僕はほとんど掲示板には書き込みをしないけど、メールやメーリングリストなどを通じて付き合いがあるのだ。高田馬場の居酒屋はどこも学生であふれかえっていた。しかも全員が全員、みんな馬鹿騒ぎをしていてうるさくて仕方ない。おまけにどいつもこいつも傍若無人の振る舞いで、酔っ払い学生がフラフラ状態でわれわれの席のふすまを突き倒しても、まるで知らん振りでトイレへ向かうといった感じなのだ。ゲロも吐き放題だし…。週末だからなのか、それとも高田馬場はいつもこんな調子なのだろうか。以前は学生が大騒ぎするにしても、もうちょっと周囲に気を配っていたと思うんだけどなあ。この街はもうこりごりだというのが、参加者多数の意見だった。午前1時半帰宅。
6月17日(日曜日) 現実逃避かも原稿の締め切り日が一週間延びたので、そうすると日程的にはゆとりができて、楽ちんになったのは事実なんだけど、しかし綱渡り状態に変わりはないのだった。緊張感が薄まったことによって、逆にだらだらするだけだったりもする。う〜む、これはいわゆる現実逃避ってやつだろうか。おまけに返事を出していないメールもいくつもたまっている。ちゃんと読んではいるんだけど、急ぎのもの以外はほとんど返信していないんだよなあ。労働意欲とともにメールへの対応意欲も低下しているので(おいおい)、原稿を書き終えて気分が乗ってくるまでしばし保留させてもらおう(言い訳か)。
「セカンドインパクト」のルポルタージュのページに、新しい記事「『偏向授業』と決め付け」を追加更新しました。「東京・多摩中の家庭科教員に対する市教委の強引な事情聴取」を追跡した短編ルポです。それから、この「身辺雑記」のページで紹介するのを忘れていましたが、6月11日に「となりのトトロのページ」に「トトログッズの販売店リスト」のページを新設しました。サイト訪問者の皆さんから「キャラクター商品などを扱っている店を教えてほしい」などの声が、いくつも寄せられるためです。参考にしてご活用いただければ幸いです。なお、現在発売中の「週刊金曜日」に掲載されている短編ルポ「逮捕・懲戒免職された『金髪先生』の無念」は、しばらくしてからネット上にアップします。すぐにはアップしませんのでご了承ください。
6月18日(月曜日) 白いワニ?本棚の本の位置を少し入れ替えて整理する。司法関係のグループと、メディア・記者関係グループ、ルポ・読み物グループが、一部混在していたのをまとめてみた。微妙にカテゴリーがダブるものもあるので、なかなか簡単には分類できないのが厄介なんだけど、でも以前よりは多少すっきりしたかもしれない。ついでにコミックスも作者別の配置などを入れ替える。それにしても大きめの本棚のスペースにはずいぶん余裕があったはずなのに、じわじわといつの間にか空間が埋まっている。引っ越しの時にかなり段ボール箱に突っ込んで、余白をこしらえたんだけどなあ。困ったものだ。
最近流行の廉価版コミックスのシリーズで、江口寿史の「ストップ!! ひばりくん!」が出ているのだが、懐かしくてついつい買ってしまっている。実家に行けば、連載当初の単行本シリーズが全巻そろっているというのに…。で、きょう配本された第4巻でどうやらおしまいのようだ。今読んでも十分に笑える作品なんだけど、中途半端に連載終了したのは実にもったいないと改めて思う。絵もギャグもストーリーも冴え渡っていて、間違いなく江口漫画の頂点に位置する一番のオススメ作だろう。ところでこの中に、江口寿史がスランプで描けない時の描写として「白いワニ」とか「真っ白な原稿用紙」が出てくる。そうして作者が登場してきて「遊ばずにやっていれば、こんなに苦労しないものをーっ」と言い訳するのだ。う〜む、まるで自分のことを言われているようだな。
6月19日(火曜日) 卑屈外交終日原稿執筆の準備など。それはそうと、やっぱり一応は書いておくかな…。田中外相の米国訪問について。外相会談で田中外相はパウエル米国務長官に、米国のミサイル防衛計画を「理解する」だとか何だとか、そんな言い訳がましいことを言ったそうだけど、これはどうにもいただけないよなあ。世界平和の観点から考えてミサイル防衛計画なんて必要ないと、せっかく日本の外相が珍しくも自分の意見をはっきり述べたというのに。日本は米国の属国や植民地じゃなくて対等な関係なんだから、懸念や意見を伝えるべき時には堂々と伝えればいいのだ。それでこそ初めてお互いに信頼し合える関係になるというものだろう。そうでなくて、いつでも何でもハイハイと相手の言いなりになっていたら、馬鹿にされたり甘く見られたりするだけだっつーの。米国のミサイル防衛計画を批判してご機嫌を損ねたようだから、慌てて陳謝のためにお伺いしましただなんて、そんな卑屈なことをやっていたら、米国どころかほかのどこの国からも相手にされないって。国会対策や自民党内対策や官僚対策なんかもあって、今回はこうするより仕方がなかったのだろうと思うけど、ああ、めちゃくちゃカッコ悪いよなあ。しかしまあ、外務官僚もこれでしばらくは、外相の足を引っ張るための情報リークを休まざる得なくなったわけで、それは成果かもしれない。
6月20日(水曜日) 蛍光灯引き続き終日原稿執筆の準備など。要するに取材のまとめや整理である。でもってそれとはまるで関係ないんだけど、リビングと和室の蛍光灯ランプを新調した。うちの蛍光灯は円形のランプが2本で1セットになっているのだが、引っ越しをしてからこれまでずっと、調達が間に合わずランプ1本の状態だったのだ。寿命がきていたこともあって新しく購入し、きちんと「2本で1セット」という本来あるべき状態にしたのである。都合4本になるので結構な値段になってしまったけど、やはり室内の明るさが全然違う。
6月21日(木曜日) 終日執筆終日原稿執筆と取材資料のまとめ作業など。それにしても、追い込まれているこういう日に限って、朝早くからいろんな電話が頻繁にかかってくるのはどうしてなんだろう。う〜む、謎だ。小雨が降り続いて少し肌寒い一日。まあ、いかにも梅雨らしい気候で、これはこれとして風情があるかもしれない。
6月22日(金曜日) とりあえず何だかすっごく手間取ってしまったが、ようやく「さいたま市誕生」の原稿を書き終えた。どの話を拾って、どの話を捨てればいいのか、書いていてなんだかよく分からなくなったが、しかしまあ、行政ネタだからこんなものかな。ルポというわけじゃないし、かといって論文やエッセイじゃないから、自分の意見をたらたらと書き連ねるわけにもいかないし。う〜む、普通の特集記事みたいなものと考えればいいのかも。さらに週末も仕事は続くのだった。とりあえず、きょうはこれから漫画を読んで一息つこう。
6月23日(土曜日) 食べるのも忘れて午後から東京・お茶の水へ。日本民主法律家協会(日民協)の定時総会記念シンポジウムを取材する。テーマは「検証・司法制度改革審議会最終意見書」。掲げられた看板に偽りなく、最終意見書を徹底的に分析・批判する内容だった。大学教授や国家賠償請求訴訟などを担当する弁護士たちが次々に登壇する。「政財界や上層市民のための司法改革であって、労働者や弱い立場の人や大衆のための司法改革ではない」と、ばっさり切って捨てるさまはある意味で爽快である。裁判所の役割や与える影響だとか、弁護士本来の在り方だとか、そういう視点で眺めれば眺めるほど、本当の司法改革はどうあるべきなのだろうと考え込んでしまう。「ハンセン病違憲国家賠償訴訟」と「即位の礼・大嘗祭違憲住民訴訟」の担当弁護士の話を聞いていると、裁判所はだれのために存在しているかを今さらながら考えさせられる。懇親会に顔を出したら、前から話を聞きたいと思っていた有名弁護士がいた。初対面だというのに盛り上がってずっと話し込んでしまう。えらく気に入ってくれた。僕の書いた記事を読んだことがあるそうで、しかも名前も覚えていてくれたのには感激する。懇親会は立食パーティー形式で、うまそうな料理がたくさん並んでいたが話に夢中でほとんど口にせず。でも記者としてそれ以上の収穫があったので十分満足だ。ん〜、やっぱりちょっと惜しかったかも。おいおい。秋葉原を1時間ほど散策して帰宅。
6月24日(日曜日) アピールを兼ねて記事宣伝髪の毛をカットする。じっとり蒸し暑いしそろそろ季節も夏なので、いつもより前髪を少し短くしてもらう。ああ、かなりすっきりした。いつものことながら出かける1時間前に電話して、予約を入れてもらったんだけど、そういうのでも「予約」と言ってよいのだろうか。それでも、いつも何となく客の流れに滑り込んで、カットしてもらえるのだった。タイミングがよいのかな、それともいい加減な客に対して配慮してくれているのかな。
あす6月25日に発売される「こころの科学」(日本評論社)という隔月刊の雑誌の7月号(第98号)に、ルポルタージュを書いています。特別企画「教師のこころ/学校現場のストレスを考える」の一つの記事として掲載されています。「『日の丸・君が代』と教師たち〜強まる管理と重圧の中で」のタイトルで、原稿用紙20枚ほどの分量を書きました。4つの教育現場の実態報告です。取材して記事を執筆した時には、学校はこんなにも息苦しくなってしまっているのかと背筋が寒くなる思いがしたのですが、しかし出稿してからわずか2カ月しか経っていない今、事態はもっと深刻な状態になりつつあります。にわかには想像できないほど、閉塞感と無力感と無気力な空気に覆われているのです。「そうかな、そんな空気は感じないけどなあ」などとおっしゃる関係者は、たぶんよほど恵まれた環境にいるか、あるいはよほど鈍感で感性が鈍いか、想像力が欠如しているのでしょう。いずれにせよ、まともな憲法感覚や人権感覚を持って、教育基本法の精神に則って、そして子どもたちの想像力(創造力)と自主性を伸ばす教育をしようとするだけで、とても居心地の悪い場所に学校がなろうとしています。今回のこの記事では残念ながら、急激に進んだそうした異常事態まではフォローできませんでしたが、少なくとも2カ月前までの状況は反映した原稿になっています。ぜひ、ご一読ください。全国書店で発売。定価は高いんだなあ、1333円(本体)。立ち読みや図書館の利用も可。
6月25日(月曜日) 「ダサイタマ」と地域ナショナリズム先に出稿した「さいたま市誕生」の原稿に付ける写真を、東京・水道橋の編集部に持参する。写真について説明をしていたら、担当編集者が突然怒り出した。僕が「ダサイタマ」という言葉を使ったことに、どうやら反応したらしい。最初のうちは冗談かと思っていたら、マジもマジ、大マジで怒っているのだ。「埼玉に住んでいる人間に対する侮辱である。ハゲの人にハゲと言って馬鹿にするのと同じだ。あなたがそういう言葉を使うとは思わなかった。あなたは県外・部外者の人間で、地元の人間が自虐的に言うのとは違う。それにあなたは横浜から埼玉のことを見ているに過ぎない」…。とまあ、要約するとそのような趣旨と観点から、許し難い発言をしたというのである。何だか全人格と根本的な取材姿勢まで否定されたみたいだけど、実に心外だし、まるで納得のいかない話だよなあ。
ちなみに、原稿の中には「ダサイタマ」という表現は一つも使っていない。けれどもはっきり言うが、僕は埼玉はダサイよなあと心から思っているので、編集者との会話の中で軽口として「ダサイタマ」という表現を使ったのは、むしろ信念に基づくものである。埼玉に7年ほど住んでいた経験と、さらに加えて今回の取材に基づいた結果からも「ダサい」と確信しているから、僕としては半ば愛情も込めてこういう表現をするのは当然なのだ。
でもさあ、埼玉を揶揄(やゆ)して「ダサイタマ」って表現したからと言って、埼玉県に住んでいる人の人格そのものを誹謗中傷したわけじゃないでしょ。何とも言いようのないカッコ悪い埼玉の風土や行政センスを批判したんだよ。それって話の流れから分かるはずじゃん。合併して大きな都市ができれば「埼玉の顔」が誕生するなんていう発想だとか、さらには「さいたま市」なんてカッコ悪い名前を恥ずかし気もなく付けてしまうなど、そういうダサさに象徴されるものがまさに「ダサイタマ」なんだっつーの。
そもそも「県民」とゆーことに、どうしてそこまでこだわるのかなあ。「ダサイタマ」と言われたことに、どうしてそこまで反応するのかねえ。「ダサイタマ」と表現された埼玉という実態のない存在と、それとは別個の人格であるそれぞれの独立した市民(県民)と、わざわざイコールで結び付ける必要なんてないじゃん。それこそ「地域ナショナリズム」の最たるものだと思う。それが発展したものが「国家ナショナリズム」だろう。郷土愛や愛国心を否定するつもりは毛頭ないし、僕だってそういう気持ちは人並みに持っている。問題なのは、独立した人格である個人が、実態のない国家だとか組織というものと無自覚に一体化することだ。無批判に必要以上に連帯することで、他者を排除しようとするところに「ナショナリズム」の怖さがある。
で、かつては埼玉県民だったけれども、今の僕は横浜市民(神奈川県民)だから、そういう「部外者」に「ダサイタマ」なんて言われる筋合いはないということらしいが、そういう単純な二分化にどんな意味があるのか、僕にはさっぱり分からない。たまたまその土地に住んでいるだけで、埼玉だとか横浜だとか日本だとかを、自分がすべて背負って生きているわけではないでしょ。愛着とか愛情なんてものは、それぞれがそれなりに自然に感じるものだ。それは以前に住んでいた土地に感じることもあるだろうし、あるいはそういう感情を全く感じなかったり、逆に嫌悪感を感じたりしている人間だっているだろう。住民か否かで二分化するのは実にナンセンスな発想だ。それじゃあ、「お国のために命を捨てて戦うのは当たり前だ」とか「自虐史観の戦後教育は反日的だ」などと叫んでいる、どこかの国の狂信的な人たちと何も変わらないって。
さらに付け加えるならば、僕は別に「横浜から」埼玉を見たり、どこかを見たりなんて発想はないんだけどなー。もちろん、現在の居住地だから基準にはするけど、ただそれだけの話だ。そんなことを言っていたら、それぞれの地域の問題はそこに住んでいる人にしか検証・論評できなくなってしまう。湾岸戦争の時の報道姿勢などを教訓として、「ジャーナリストは国籍や国益という視点で取材するべきではない」という考え方がある。つまりメディアというのは時の政府の考える国家観や国益に加担しがちだが、ジャーナリストは国家や組織の利益のために仕事をしているのではなく、ジャーナリストにとって一番大切なのは真実である、ということだ。なかなか難しいがとても重要な指摘だろう。そう考えれば住んでいる地域から見ているだなんて、見当違いもはなはだしい。
とゆーわけで、そこまで「ダサイタマ」という言葉に「反応」する理由がまるで分からないんだけど、どの写真を使うのか決めないまま編集者はどこかに行ってしまった。唖然としていると、埼玉在住の編集者の一人が「だって埼玉って本当にダサいですよ」と感想を漏らす。ほかの編集者たちも首をかしげていたが、結局のところどうして「自分の県」にそんなにこだわるのか、だれにもよく分からなかった。う〜ん。そんなに怒るようなことかね。しかし、これはこれで別の面白いテーマになるかもしれない。「地域ナショナリズムの高揚と排外主義」なんて記事が一つ書けそうだな。前から漠然と考えてはいたのだが、何だか明確になった。そのうちどこかで書いてみようかな。
釈然としないまま、赤坂のホテルへ。マスコミ関係者の集まる勉強会に誘われていたので顔を出す。ずっと前から誘われていたのだが、いつも都合が合わなくて今回が初めての参加だ。テレビワイドショーと政治について、キャスターが体験談をもとに見解を述べていた。それにしても会費がめちゃくちゃ高いなあ。赤坂のホテルが会場だから仕方ないとは思うけど…。午前1時帰宅。
6月26日(火曜日) ジブリで散財いやはや、もうシャレにならない蒸し暑さだ。首都圏はどこも気温30度をゆうに超えたらしい。電気料金節約だけでなく原発反対のためにも(ほんとかよ)、なるべくエアコンは使わないように気を付けていて、使ってもこまめに消すようにしているのだが、どうにもこりゃ我慢できまへん…。髪の毛をさらにもう少し短くカットしてもらってもよかったかもしれないな。気が付くと、冷たい飲み物やアイスなどをついつい口にしてしまう。出稿した原稿の手直しや確認の電話取材などをたらたらとやっていると、あっという間に時間が過ぎていく。なぜか、電話先がなかなかつかまらない。
宮崎駿監督の新作アニメ「千と千尋の神隠し」が公開されるというので、世間ではやたらとスタジオ・ジブリ関連の映像やグッズがたくさん露出されるようになってきた。絶版になった書籍や過去の一連のジブリ作品の映画パンフレットやポスターまで復刻されるそうだし…。で、ジブリ作品の絵コンテ集がついにシリーズ化されて配本されるという。いや、既にもう第1回の配本は始まっているのだった。絵コンテというのは、アニメ作品として実際に撮影されるそれぞれのカットシーンに合わせて、監督が各パートの1コマずつの絵や台詞を描いてまとめたものである。映画作品で言うところの脚本・台本みたいなものだ。う〜ん。しかしこれがまたマジで結構な値段なんだよなあ。でも欲しい。そんなわけで大方の予想通り、本当にほんの少し逡巡(しゅんじゅん)しただけで、「風の谷のナウシカ」と「天空の城ラピュタ」と「となりのトトロ」の絵コンテ集を3冊ど〜んとまとめて買ってしまいました。8千数百円…。
ついでにその勢いで、コンビニのローソンだけで限定予約注文している「ナウシカ&ラピュタのガイドブック2冊セット」と、さらには「ナウシカ・ラピュタ・トトロ」のそれぞれの映画パンフとポスターのセットも予約した。こちらもすべて完全復刻版である。この3作品はどれも上映当時から人気が高くて、パンフ類も完売だったので、やっと手に入ったうれしい買い物ではあるんだけど、それにしても何だかやけくそ的な散財だなあ。およそ6千円…。まあ、いっか。名作の背景をじっくり味わうためなんだから。ちなみに今夏公開される「千と千尋の神隠し」は、たぶん上映終了間際あたりに駆け込みで見に行くことになるだろう。チケット予約してまで見ようという気分には、今のところなっていない。
6月27日(水曜日) ネット接続セーブ宣言?このところ目が霞んで調子がイマイチなので、眼科に行く。いろんな検査をしてから目薬をもらった。まあ、目を酷使していることと早い話が老化現象(マジかよ)みたいなものらしい。これからはなるべくパソコンの前から遠ざかるようにしよう。…な〜んてことを言ってみても、しかしパソコンがなかったら原稿が書けないんだよなー。四苦八苦しながら書くような内容の時は、パソコンの前からそうそう離れることはできないわけだし。ん〜、インターネットでだらだら遊ぶのをセーブすればよいのかな(そんなこと実現可能なのかね)。そんでもって、もっと要領よくてきぱきと原稿を書くようにすればよいのだ。ああでもないこうでもないと取材ノートや資料などをひっくり返しつつ、文章構成や表現を推敲するのはプロとして当然としても、遊びでも仕事でも「だらだら」するのはよくないっつーことだろうね。
検査は目に強い光を当てて眼底などを見るので、暗い映画館から急に明るい外に出た時のように、しばらくものが見えにくくなる。そのまま運転なんかしたらとても危ない。しかし能天気な僕は、そんなことは何も考えず無頓着に車でやって来たのだった。車は病院の駐車場に置かせてもらって歩いて帰る。車だと5分くらいなんだけど、歩くと30分以上はかかるんだよなあ。蒸し暑くておまけに坂道が多かったりもするので、いい運動にはなるが汗だくだ。
一昨日書いた「ダサイタマ」の話はそれなりに反響があって、いろんなところでウケているみたいだ。さまざまな「郷土愛」のカタチやら思いやらもあるわけで、読ませてもらって参考になる。ま、僕が言いたかったのは、「組織との無自覚な一体化と他者の排除」への疑問ということであって、ごくフツーの愛国心や郷土愛を否定しているわけではないので、そこは誤読しないように。
6月28日(木曜日) 接触渋滞している車の列と駐車車両の間をすり抜けようとしたら、ドアミラー同士が接触してしまった。時速5キロほどだから大したことはないはずなんだけど、先方が修理が必要だと言うので、警察に連絡して検分調書を作成してもらう。ドアミラーは見たところかすり傷程度ではあるものの、通過できると踏んで結果的に接触したのは事実だから仕方がない。とりあえず保険会社に報告の電話を入れた。あとは保険会社に任せよう。それにしても今週はやけに車のトラブルが多いなあ。一昨日も急な割り込みをしてきた運転手に「逆ギレ」されたし、きょうも実はこのほかに、しつこく煽ってくる車がいたのだ。ヤバそうなのでもちろん相手にしなかったけど。きょうの接触の一件はともかくとして、日本の社会全体が暴発状況にあるのだろうか。まさに一触即発だ。電車の中ですぐにキレたり、突然怒り出して乱暴をしたりなど、一種異常な社会になりつつあるのと関係があるのかなあ。とにかく大事故や大事件に巻き込まれないように、まずは自分自身が慎重な言動を心がけなければと思う。
6月29日(金曜日) 深夜のカラスうちの近くには意外にも自然が多く残っていて、雑木林のようなものが点在している。どうやらそこがカラスのねぐらになっているせいか、朝に夕にカラスの鳴き声がうるさい。慣れれば別にどうってことはないのだが、しかし夜中の1時や2時ごろに突然カラスたちが大騒ぎを始めることがあって、さすがにそれには少し驚かされる。カーカーギャーギャーと、みんなで一斉に鳴き叫び出すのだ。一体どうしたというのだろうと思っていると、数十分ほどしたら大騒ぎしていたのがうそのようにすーっと落ち着いて、また元の静けさを取り戻すのである。子ガラスが悪い夢でも見て泣き出して、それがほかのカラスたちにも連鎖反応して大騒ぎになるのだろうか。それとも、ヘビか野良猫がヒナでも狙うためにねぐらの木に上ってきて、そんな天敵を撃退するためにカラスの自警団が総動員で騒いでいるのだろうか。いくら何でも夜中はカラスたちも寝ているはずだから、宴会や集会の途中で喧嘩になったとゆーわけではないと思うんだけどなあ。まったくもって謎だ。賢いカラスたちのことだから、きっとそれなりに何か意味があるのだろう。暇があればそのうち調べてみたい。
6月30日(土曜日) 「脱・記者クラブ宣言」に異議あり田中康夫知事が「脱・記者クラブ宣言」をした長野県で、記者室の撤去が始まった。田中知事は「すべての表現者に開かれた場を」として、記者クラブの代りに新しく「メディアセンター」を設置する方針を発表していたが、報道によるとその名前は「表現道場」とするのだとか…。う〜ん、悪い冗談だとしか思えないな。そもそもこの田中知事の「脱・記者クラブ宣言」について、僕は大いに異議ありである。権力者が、言論の自由や知る権利の侵害につながるようなそんな発言をしてはいけない。
しかも言うに事欠いて「表現道場」だとは…。田中知事は紛れもない権力者である。情報統制や管理ができる立場にあるのだから。その権力者に「道場」だなんて言われる筋合いはないと思う。報道やジャーナリズムというものの役割や意義を、きちんと理解していないからこそ、そんな思い上がった筋違いの言葉が出てくるのではないか。ジャーナリズムの最大の役割と責任は権力監視なのだ。監視や批判の対象である人間から「道場」などと言われるとは…。報道やジャーナリズムを馬鹿にしているとしか思えない。作家である田中康夫氏が「表現道場」などという言葉を使うのなら分かるが、権力者である田中康夫知事が「記者クラブ排除」を公言するのはもちろん、そんな言葉を使うのは到底容認できない。
そんなわけで、な〜んと1年9カ月ぶりに「新・大岡みなみのコラム風速計/ネット版」を追加更新した。しかも2本。「『脱・記者クラブ宣言』に異議あり」と「市民の支持失う記者クラブ」で、いずれも書き下ろしである。「記者クラブ」の現状については決して肯定はしないが、しかし本来あるべき姿としての「記者クラブ」そのものは存在すべきだとの観点から、田中知事の「脱・記者クラブ宣言」を検証した。きょうの「身辺雑記」に書いた文章だけだと誤解される恐れがあるので、ぜひ「新・風速計/ネット版」の2つのコラムも併せてお読みください。