身辺雑記 

by totoropen (OOKA Minami)


2011年5月1日〜5月31日

●今も続く「大変な事態」●大震災以降のすべての日付にリンク設定●「もしドラ」●「猿の惑星」のラストシーン●コリアタウン●浜岡原発の運転停止を支持する●盛り上がらない講義●また愚痴をこぼしてしまった●日本脱出●大学時代のコラム●070を携帯電話に開放へ●NNNドキュメントの栄光●今週の作文は出来がいい●ぜひこの調子で●映画「東京原発」●橋下知事「起立しない教員処分」●何を今さらのメルトダウン●リンゴの木の枝のハンコ●ETV特集「放射能汚染地図」●高校新聞部員は原発記事を書け●やはり適正規模は15人だ●確実に向上●朝日も大震災縮刷版●チーズデザート「贅沢ナッツ」●「ショージとタカオ」再審無罪●襟をただして●「君が代条例」反対アピール●まだ続いていた花粉症●台風で自主休講?●人権感覚が軽すぎる最高裁判決●●●ほか


5月1日(日曜日) 今も続く「大変な事態」

 2カ月ぶりに髪の毛をカットする。前回は大震災前でその時は6カ月ぶりだった(汗)。そろそろ暖かく(日によっては暑く)なってきたので、今回は短かめにしてもらった。ああすっきり。

 ところでこの美容室も、うちと同じように、地震の影響はほとんどなかったそうだ。やっぱりなあ。棚から食器などが落ちて散乱したり、タンスが転倒したりというほど揺れなかったという。停電も断水もなかったのも同じだ。横浜市内でも地域によっては、かなり揺れたところがあったみたいだが、うちの周辺は地盤がしっかりしているんだなあと改めて心強く思う。ごたごたしたのは、買い占め騒動や計画停電騒ぎがあった最初の1週間くらいだ。

 「ほんと変な1週間でしたよねえ」。被災地の方々には申し訳ない気がするが、このあたりの住民の率直な感覚としては、美容師さんの漏らしたこの言葉がたぶんすべてを表現している。本当は、今この瞬間も福島第一原発から高濃度の放射性物質が大量に垂れ流されていることを考えれば、「変な1週間だった」と過去形で語られるのは正しくはない。「大変な事態」が現在も続いているのだ。それはこれからも数年以上続いて、しかも間違いなく首都圏にも(さらにもっと広範囲に)影響と汚染は広がるのだけど。嵐の前の静けさか、惨事の前のプロローグといった感じかもしれない。

◇◇

【お知らせ】 大震災以降のすべての日付にリンク設定

 これまでこの「身辺雑記」の記事には、いくつかの日付については直接リンクできるように設定されていましたが、すべての日付の記事に直接リンクできるようにはなっていませんでした。今回これを改め、東日本大震災以降(2011年3月11日付以降)については、すべての日付の記事にリンクを設定するようにしました。それぞれの記事の日付の前にアンカーを打ち込みます(アンカーは表示されません)。例えば、2011年5月1日付の記事の場合のリンク先は「zakki2011-5.html#20110501」となります。

 ただしすべての日付の記事にリンクを設定するのは、東日本大震災以降の「過去雑記」のページについてのみの対応であって、「大岡みなみの身辺雑記/最新版」のページにはアンカーは打ち込みません。最新版のページは、月の初めにほぼすべての記事が新しく入れ替わるためです。

 その代わりに、これまでは月の初めに前月分の公式ページを新しく立ち上げていたのを改め、最新版のページと並行して、その月の公式ページも同時にアップするようにします。そちらの公式ページにはそれぞれの日付の前にアンカーを打ち込んで、すべての日付の記事に直接リンクできるように設定します。


5月2日(月曜日) 「もしドラ」

 NHK総合テレビで先週から連日(月曜〜金曜)放送されているアニメ「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(略称「もしドラ」、全10話)を、第1話から第5話までまとめて見た。都立程久保高校の弱小野球部の女子マネージャーが、勘違いから偶然手にした経営学者ドラッカーの著書「マネジメント」を参考にしながら、野球部の組織を立て直して甲子園へ導くというストーリーだ。原作の小説は250万部のベストセラーになっている。

 本来は経営者向けのビジネス書である「マネジメント」を、女子マネージャーが高校野球に活用する発想は斬新で、この両者の組み合わせは一見ミスマッチだからこそ意表を突く。どんな組織でも応用できる話であり、組織のあり方や社会との関係を考えさせる。企画そのものはなかなか面白いと思うが、原作の小説の文章があまりに粗雑なのにはがっかりさせられる。同じような表現や言い回しが同一ページに何回も出てきて、ぱらぱらと目を通すだけでも、読み進めるのが苦痛になってしまうのだ。

 書店で原作を初めて手に取ったのが、ちょうど大学から依頼された文章講座の準備をしていた時期だったので、悪文の事例として授業で紹介しようかと思ったのを思い出す。目の付けどころとしてはとてもユニークなのにもったいない。もっと推敲したらどうかと編集者は助言しなかったのかなあ。全編を読み通すのはちょっと無理だなあと思ったのは記憶に新しい。

 さてそれで、アニメはどうか。作画がかなり残念なことになっているのに加えて、同じシーンの使い回し(バンク)や絵が動かない場面(止め絵)が多いのがかなり気になる。低予算アニメなのか制作日数が足りなかったのかと心配してしまうが、話の展開としてはそこそこ楽しめた。第3話あたりからはついつい見入ってしまうようになった。次はどうなるのかなと期待させてくれる。まずまずの出来じゃないだろうか。本編のアニメと次回予告が終わってから、ドラッカーに関係のある人や影響を受けた経営者らが登場するおまけのコーナーが、いかにもNHKらしいなあ。見るたびに教育テレビだったっけと錯覚する。


5月3日(火曜日) 逃避

 取材経費の計算がまったく進まない。厄介な作業から逃避しているだけなのは、自分でもよく分かっているのだけど。ああ面倒くさいなあ。でもやらなくてはならないのだ。


5月4日(水曜日) 「猿の惑星」のラストシーン

 横浜市立高校の先生たちに誘われて、夕方から横浜・野毛の中華料理店で飲み会。外側の皮がパリパリに焼けた餃子、ボリューム満点の豚キムチ炒め、ジューシーな鳥肉とカシューナッツ炒め、甘辛さが絶妙のエビチリソース、などを腹いっぱいに食べて、生ビールや焼酎の水割りをあおる。くーっ、たまらん。

 この日は原子力発電所の事故から人生論、生き方、職業意識へと話が大きく発展。大学院で核融合を研究していた先生も一緒だったので、「これこれこういう事態になったらもう対処のしようがなくなるので終わりなんだよ」と説明されて目からウロコが落ちる。そうなのか、もうその1歩か2歩くらい手前あたりまで実はきている可能性があるんだ。もしかすると手の施しようがないということなのか。なんだかもうすべてがどうでもよくなっちゃうなあ。

 しかもこんなひどい事実を目の前に突き付けられて、それでもまだなお原発は必要だなどと力説する連中が国民の半数以上もいるなんて。おまけに原発は絶対安全だと宣伝するCMに高額の報酬を受け取って登場し広告塔を演じた連中が、デカい顔でのうのうと暮らしているなんて。もう馬鹿ばっかりじゃないか。あくせく取材して記事を書いているのがアホらしくなっちゃうよなあ(半分くらいマジ)。マスコミも上から下までアホがあまりにも多すぎるし。などと憤慨しながら愚痴をこぼしていたら、いつも冷静なのにきょうは珍しいじゃないかどうしたんだと不思議がられた。だってむかつくことばかりなんだからしょうがない。

 しかしまあ宇宙の広大さから考えたら、日本がどうなろうとそんなのは実にちっぽけな話だよなあ。そもそも2代か3代くらい後のことは、今ここで生きているわれわれにはまったく把握のしようがないわけで、それよりもっと後の世代についてはなおさらだ。もしかしたらさほど遠くない将来には、あの名作「猿の惑星」のラストシーンのようになっている可能性だって十分にあり得る。恐れ多くも人間が神様の真似事をして太陽をつくろうとして、それを完全に制御できるなどと考えていたこと自体が、傲慢にもほどがあったということだろう。原発事故は「天災」なんかではなく明らかに「人災」であって、そういう意味においては「天罰」を受けたのかもしれない(どこかの知事の言葉とは本質が全く違うが)。

 それなのにいまだに絶対に安全に管理制御できる、と思い込んでいる愚かな科学者(自称)が掃いて捨てるほどいるのだから、やはり最終ラウンドまで行き着かないと、懲りることはないのかもしれない。いや、行き着くところまで行って地獄を体験しても、目は覚めないかもしれないなあ。そんなことを考えてみたりしながら、大いに議論が弾んだ5時間だった。


5月5日(木曜日) コリアタウン

 午後から東京・新大久保。女子大の女性の先生とコリアタウンを歩いた。とにかく人でごった返しているのにびっくりする。どこに行っても人の波が途切れない。歩道ではまるで知らないし見たことも聞いたこともない韓流スター(なのかな?)を取り囲んで、何十人もの若い女性がカメラやケータイをかざしている。新大久保の一帯には無数の韓国料理店や食材店、韓国芸能グッズ販売店がひしめいているが、料理店はどこも長蛇の列ができている。もう街中がものすごい熱気であふれていて、お祭り状態といった感じだ。聞きしに勝るコリアパワーの炸裂だなあ。連休期間の最後だからひっそりしているかと思ったら、とんでもなかった。

 しばらくぶらぶらしてから、行列に並んで韓国家庭料理の店の一つに入った。店の外で待っている間に、写真付きのメニューが大書された看板を見ているだけで、これから始まる至福のひとときに期待は大いにふくらむ。あれも食べようこれも食べたいと、妄想が果てしなく広がっていく。そしていよいよ順番。店内に足を踏み入れると同時に、食欲をそそる匂いに迎えられた。わくわく。

 さっそく韓国風すき焼きのプルコギや海鮮チヂミなどを注文するが、どれも量の多さが半端じゃない。最初にサービスで出されたキムチセットも大皿だった。しかし出される料理は決して大味ではなく、しっかり味付けされていて楽しめる。美味しい。さすがにお腹いっぱいになって、鶏肉に高麗人参やもち米などを入れて煮込んだスープ料理のサムゲタン(参鷄湯)は注文するのを断念した。結構楽しみにしていたんだけどな。ちなみに、この時期にユッケを注文するような「勇者」は、店内を見回してみたけれどもだれ一人としていなかった。僕たちも生肉はもともと好きではないので、はなから食べるつもりはなかった。いやいや生肉はいかんだろう。ステーキだってレアはいかがなものかと思うよ。

 横浜の中華街では、東日本大震災の原発事故以来、留学生や出稼ぎで来日したかなりの数の中国人が母国に逃げ帰ったという。在日華僑の人たちは、中華街のお店を維持するのに四苦八苦しているらしいけれど、ここ新大久保のコリアタウンはそんな話とは全く無縁といった感じのにぎわいだった。


5月6日(金曜日) 浜岡原発の運転停止を支持する

 浜岡原子力発電所のすべての原子炉の運転停止を、菅首相が中部電力に要請した。よく決断した。これだけでも政権交代した意味があったと言っていいくらいだ。自民党政権では絶対に無理だろうから。少なくとも僕は菅首相のこの判断を100%支持する。できれば浜岡原発だけでなく、ほかの地域の原発の運転も即時停止するように要請してほしい。手遅れになる前に。

 これに対して、「なぜ浜岡だけなのか」「パフォーマンスにすぎない」などと揶揄する声があるが、浜岡原発を皮切りにほかの原発の運転も停止していけばいいだけの話だ。もちろんこれはあくまでも要請であって命令ではないから、中部電力としては従わない選択もあるだろうが、だからこそ、「停止要請を拒むなんてことは許されない」という世論を広げるのが重要となってくる。脱原発の動きを少しずつでも着実に進めるには、菅政権の判断を支持する声を広げて、しっかりバックアップすることが何よりも必要だ。

 ところが、脱原発や反原発を掲げる「運動家」と称される人たちは、首相の判断をけなして冷笑する。「無能な菅のパフォーマンスを支持するのか」「デモに集まった市民パワーに押し切られたみたいになるのはシャクだから、きょうのうちに発表して、自分がイニシアチブを取ったみたいにしたのではないでしょうか。実質私たちの勝利」といった調子なのだ。

 勝った負けたの問題ではないだろうに。いったい何が目的で、脱原発や反原発を掲げて「運動」しているのだと言いたい。危機的状況の中で、とにかく原発の運転をストップさせることこそが、最も大事な目的ではないのか。だれかの手柄だとか勝利などといった問題ではなかろう。政権維持のためだとしても、仮にパフォーマンスであっても、現実に原発が止まればそれでいいではないか。

 最初は浜岡原発だけの小さな一歩でも、それがほかの地域にも拡大するように働きかければいい。国の代表である内閣総理大臣が原子炉の運転停止を判断した意味は大きい。自分たちの考えとすべて100%同じでなければ認めないというのでは、現実の社会は何も変わらない。ゼロか100か白か黒かの二元論では、ものごとは前に進まないし幅広い共感も得られない。いわゆる「運動家」が嫌悪され、「運動」への支持が広がらない最大の原因でもある。

 さらに早速、ネガティブキャンペーンも始まった。「浜岡原発が全基停止すると夏場の電力供給力に不安がある」「電力不足は製造業の圧迫要因となりかねない」などと、読売新聞や毎日新聞が報じている。しかし東海地震が発生して、浜岡原発が福島第一原発と同じような壊滅的状況に陥ったら、電力不足や製造業の圧迫といったレベルの話では済まなくなることは明白だろう。現在も危機的な事態が続いているのを目にしながら、そんなことも分からないのかと言いたい。それにそもそも、電力消費量が最も多い真夏の平日の昼間に、数時間ほどがしのげれば問題はないし、浜岡原発を稼働しなくても十分に電力供給できるだけの余力のあることは、中部電力自身がデータを分析して予測している。心配することはない。

 自民党や民主党の小沢グループからは、浜岡原発のすべての原子炉の運転停止という菅首相の方針に対して、「唐突な発表だ」「なぜ浜岡原発だけなのか、理解に苦しむ」「日本の原発はダメだという誤ったメッセージを発信することになりかねない」などと反発や懸念の動きが広がっているという(読売新聞)。そういう問題ではないだろう。国民の生命にかかわる話ではないのか。自民党と小沢グループの反応は痛すぎるが、政局ネタに矮小化しよとする読売新聞にも唖然とする。政治家の動きを伝えるのはもちろん悪いことではないが、伝えるのであれば、彼らの滑稽さや醜悪さをしっかり指摘した上で、何が問題かを報道しなくてはならない。


5月7日(土曜日) 盛り上がらない講義

 学生の作文の添削をしていると、今週もやっぱり徹夜になってしまった。シャワーを浴びて大急ぎで学校へ。レジュメなどの印刷を済ませて午後から授業。きのうのツイッターに、「あすの原発反対デモは授業があるので取材できないが、これまでも折に触れて授業で原発の話をしてきたように、浜岡原発に触れるつもりだ。とにかく僕にできることをしよう。考えるための材料を提供することが、記者や教員の最も大切な仕事の一つだから。あすは大学教員としての役割を果たす」などと書き込んだ。そんなこともあって、「調べて事実を踏まえて書く」大切さを説明する流れで、福島原発は手の施しようがない状態かもしれないことや、浜岡原発で事故が起きると取り返しがつかない事態になることなど、大震災と原子力発電について10分ほど話をした。

 しかし学生の反応はいま一つ。いや、いま二つか三つかな。最初のクラスは半分くらいがまあまあ関心を持って聞いていたみたいだが、次のクラスは4分の1ほどしか聞いていない感じだった。食いつきの悪さにがっかりする。地震の話はかなりの学生が作文に書いてくるし、電力供給についても触れる学生が少なくないので、少なからず興味はあるのかと思っていたんだけどなあ。原発事故に対する危機感や怒りといったものは、それほど抱いていないのか。

 原発の話だけでなく、この日の授業は全体的にほとんど盛り上がらず、学生の反応はきわめてよくなかった。前回は学生の顔つきも違っていたし手応えが感じられて、かなり完成度が高いと思える授業になったんだけどなあ。うーん、いったい何がどう違っていたのだろう。原発の話を持ち出したからか。それだけなのかなあ。徹夜明けで体調不完全の状態は同じだし(苦笑)。わけがわからん。

 講師控室に戻ってほかの先生たちと話をしたら、やはり何人かが講義で原発に触れたそうだ。ところが学生の反応は鈍く、「ほとんど何も分かっていないし、その上いい加減な知識しかないのに、適当なことばかり言う」とあきれていた。そうかあ、授業の完成度は別にして、反応としてはよそも同じようなものなんだ。じゃあ愚痴でもこぼしながら一杯やりますか、となったところで、ケータイに県立高校の先生から電話。「藤沢で飲んでるから」とお座敷がかかる。大学の先生たちとはまた来週にということで、藤沢へ。駅前の居酒屋で10人ほどの先生と2時間ほど盛り上がった。

◇◇

 【追記】=5月9日

 友人から「学生たちがやる気がなかったのは、きっとゴールデンウィーク中だったからかもしれないよ」と言われた。みんな遊びに出かけているのに、なんで自分だけ授業なんだよと思っていたのでは、というのだ。なるほどそうなのか、GW中だったからやる気がなかったのか…。そんなことは考えもしなかったけど、言われてみれば、もしかするとそういうのもあったかもしれないなあ。おまけに原発の話なんかされた日には、僕が学生だったら「うっぜえ」と思うかもなあ。来週の授業に期待してみます。そんなふうに考えたらちょっとすっきりしました。ありがとうございます。


5月8日(日曜日) また愚痴をこぼしてしまった

 きのうの県立高校の先生たちとの飲み会では、僕が愚痴をこぼしまくって話を聞いてもらう展開になった。3日前に横浜市立高校の先生たちと飲んだ時と、そういえば似たような感じだなあ。僕よりもずっと年長のN先生(元県立高校教員で現在は大学勤務)が主に相手をしてくれた。

◇◇

 みなみ「これだけひどい状態を目の当たりにしながら、それでもなお原発が必要だという連中の気がしれない。世論調査でも半数以上が原発肯定派なんですよ。浜岡原発だって地元では運転を止めるななんて言ってるし。もうアホばっかりじゃないですか」

 N先生「それはマスコミがきちんと報道しないからでしょう」

 みなみ「そうかもしれないけど、しかしそれでも報道されていることだけを見ていたって、もうどうしようもない悲惨な事態だってくらい分かるはずじゃないですか。しかも天災じゃなくて人災なのに、これだけひどい目に遭わされてまだ懲りないなんて」

 N先生「それはそうだけどね。その通りだと思いますよ」

 みなみ「地元経済が打撃を被るとか株主に説明できないとか言ってるので、中部電力は浜岡原発を止めないかもしれない。地震が起きて浜岡原発で事故になれば、地元経済や株主どころじゃなくて生命にかかわってくるのに。もう馬鹿じゃないかと」

 N先生「うん、それは私もニュースを見てそう思った」

 みなみ「福島と同じようなことになって、浜岡原発も壊滅的な状況にならないと目が覚めないんじゃないですかね。しかしそれでもまだ原発は必要だと言ってそうだけど。そういう意味では福島原発の事故は天罰かもしれないな、なんて思うんですよ」

 N先生「それじゃあ石原慎太郎と同じじゃないですか」

 みなみ「もちろん石原とは違って、天災である地震や津波のことを言ってるのではなくて、人災によって引き起こされた原発事故が天罰って意味なんですけどね」

 N先生「もちろんそれは分かってますよ」

 みなみ「なんかもうどうでもいいやって感じになるなあ。こんなにアホばかりの日本にがっかりですよ。あまりに民度が低すぎる。記者をやってるのが虚しくなるばかりで」

 N先生「民度は低くないと思うけど。周りがアホばかりに見えるのはよくない傾向だね。ナチスドイツのゲッペルスと同じになってしまうよ。それに少なくとも読者は期待してるんだから。あなたたち記者が書かなければ、よくなるものもよくならないわけだし」

 みなみ「そうかなあ。みんなそんなに期待してるかなあ。そもそもちゃんと記事なんか読んでないんじゃないかなあ。やる気が全く失せてしまってゼロになったわけではなくて、まだ意欲はあるんですけど、パワーゲージが著しく低下しているというか」

 N先生「疲れてるからそんなこと言うんじゃないの。体力的や精神的によくない状態だと弱気になるからね」

 みなみ「うーん、確かに徹夜明けで弱ってはいますけどね。あした一日ぐっすり眠ったらかなり回復してるかもしれません」

 ◇◇

 すみませんでした、N先生。しょうもない愚痴に長々と付き合っていただいて。まともに相手してもらって感謝しています。ちょっとは回復しました(たぶん)。原稿はしっかり書きます。


5月9日(月曜日) 日本脱出

 友人のきょうだいの家族が、福島原発事故による放射能被害を心配して、小学生の子どもを都内から香港に留学させるという。日本脱出の動きが起き始めているとは話には聞いていたが、身近な知り合いが実際に踏み切ったというのは、さすがにちょっと衝撃的ではあるなあ。そこそこ情報収集でき得る仕事に就いている人だけに、いかがわしいニュースサイトや掲示板の怪しい書き込みなどに踊らされて、やみくもに恐怖感や不安に駆られたわけではなく、それなりに状況を分析して真剣に考えて判断したと思われる。

 確かに東日本大震災が発生して以降、福島第一原発からは高濃度の放射性物質が大量に延々と漏れ続けているわけで、福島の原発近辺だけの影響で済むような事態でないことは、一目瞭然だ。今すぐには東京や神奈川に放射性物質が流れてこないとしても(既に流れているとの説もある)、遅かれ早かれいずれ飛散してくるのは間違いない。時間の問題だろう。

 大人と違って、子どもは放射性物質の影響を受けやすい。親が子どもの健康を心配するのは当然だから、まず子どもを安全な場所に逃がそうとする気持ちはよく分かる。決して突飛な行動とも言い切れない。それだけに、事態の深刻さを感じさせる。たぶん多くの人は現実にどうしようもないから、あまり深く考えないようにしているのだろう。経済的にも物理的にも余裕があってしかも行動力のある人は、これから次々に逃げ出していくのかもしれない。

 【おことわり】5月7日付「身辺雑記」の記事末尾に、「追記」を書き加えました。


5月10日(火曜日) 大学時代のコラム

 大学時代に雑誌で連載していたコラム記事を久しぶりに読んだ。うん十年も前に書いた文章なんだなあ。バックナンバーを保管されていた麻布高校の山領健二先生が、ご自宅の書庫から探して送って下さった。その回は「原子力の『平和』利用/だれのための原発なのか」のタイトルで、原発の管理体制のずさんさや核廃棄物処理の問題点を指摘し、推進派を真正面から批判していた。

 時期的にタイムリーなテーマでもあるし、文章講座を受講している学生たちと同じような年齢のころに僕が書いた文章であれば、親しみも持ってもらえるのではないか。……とまあそんなことを考えて、大学の授業で教材として使ってみようかなと思ったのだが、今こうやって読んでみるとかなり赤面ものである。なんて回りくどくて下手くそな文章なのだろう。よくこんなものを平気で世間に出していたなあ。おまけに原稿料までいただいていたとは。うーん、読めば読むほど恥ずかしくなるじゃないか。

 しかし、そういうまずい点も含めて学生に読ませてみるか。で、この文章はここがよくないとかこうした方がいいとか、添削しながら解説するのもいいかもしれない。えらく自虐的な授業になりそうだな。まあコラムの組み立てや、内容そのものは悪くないと思うんだけどね。突っ込みどころのある教材として講義で示し、参考にしてもらおう。なんか、いろんな意味で冷や汗が出てきたよ。


5月11日(水曜日) 070を携帯電話に開放へ

 PHS専用の「070」で始まる電話番号を来年度から携帯電話でも使えるように、総務省が関連規則を改正するそうだ。携帯利用者の急増で「090」と「080」の空き番号が足りないためだという。PHS利用者に不利益がなければ構わないけど、そこはどうなのだろう。震災時でもPHSが途切れずに通話できたのは、独自の基地局の存在のほか、携帯に比べて利用者が少ないので回線がふさがりにくいといった側面もあるらしい。「070」を利用する人がどっと増えることへの不安はある。

 しかし電話番号を開放するということは、PHSユーザーが携帯電話に乗り換える際も、電話番号を変更せずにそのまま引き継いで契約できるようになるわけだ。もちろんその逆も可能ということになる。総務省も電話番号継続の方針のようだ。携帯電話同士では通信会社を乗り換えても電話番号は変わらなかったが、PHSは対象外だった。選択の幅はぐっと広がることになる。

 さてどうしたものか。僕はドコモからPHSに切り替えてもうかなり長いのだが、インターネット接続などに関して不自由なことがあるほかは、それほど不都合は感じていないんだよなあ。取材先の松山市内でバッテリー不足になった時は、現地のウィルコムの人がとても親切にしてくれたので、それからはもう断然PHS派(ウィルコム派)と任じているくらいだ。

 ところがウィルコムは昨年から会社更生手続き中で、ソフトバンクの影響下(支配下)に入っている。そこのところがどうも釈然とせず引っかかっている。そろそろ潮時なのだろうか。ドコモに戻るかどうか、来年までゆっくり考えてみよう。


5月12日(木曜日) NNNドキュメントの栄光

 TBS系の「筑紫哲也ニュース23」が、2003年に放送した特集「シリーズ内部告発/東電のトラブル隠し」を見た。放送当時もライブで見ていた記憶があるが、原発をめぐる隠蔽体質に、改めて強い憤りを感じさせてくれる内容だった。

 米GE(ゼネラルエレクトリック)社の日系米国人の技術者は、福島第一原発の保守点検作業の際に、蒸気乾燥機のあり得ない取り付けミスや多数のひび割れなどを発見した。東京電力によるさまざまな隠蔽工作や嫌がらせが続くが、この技術者の内部告発がきっかけで、2002年8月に福島と新潟の17機の原発すべてが停止する事態に発展する。

 日米の原子力産業の癒着。そして東電と原子力行政が一体となった不正の隠蔽。命がけの内部告発がなければ、原子炉の欠陥は表に出てこなかった。腐りきった原子力産業の体質は何も変わっていない。9分30秒のこの映像は、動画投稿サイトのユーチューブでまだ見ることができる(このページから)。必見だ。

 考えてみれば、「筑紫哲也ニュース23」(TBS系)や日曜深夜の「NNNドキュメント」(日本テレビ系)は、原発の危険性や原子力産業の闇について、かなり掘り下げて報道していたと思う。残念ながら現在の「NNNドキュメント」は、かつて六ヶ所村の核廃棄物処分場の問題をしつこく追及していたころと比べて見る影もない。「筑紫哲也ニュース23」は筑紫氏の死去とともに、番組が終わってしまった。そして福島の大惨事に…。

 かつての「NNNドキュメント」は鬼気迫るものがあった。学生時代や新聞社に入社したばかりの駆け出し記者のころ、毎週日曜深夜に番組を見るたびに、社会の矛盾を目の前に突きつけられて、素朴な怒りに心を大きく揺さぶられたものだ。まさにテレビジャーナリズムの真骨頂。こういう取材をしなければと思わせる映像の連続だった。なかでも地方局が頑張っていた。

 僕は新聞という活字の道に進んだけど、映像の力を如何なく発揮して取材対象に迫る「NNNドキュメント」の迫力は、見ていてとても勉強になった。事実をもとに不正や矛盾を鋭く浮き彫りにする姿勢に、ものすごく刺激を受けた。その一つが、六カ所村の核廃棄物処分場に関する一連の番組だった。

 映画「チャイナ・シンドローム」や堀江邦夫の体験ルポ「原発ジプシー」とともに、「NNNドキュメント」の六ヶ所村の核廃棄物処分場に関する報道は、原発と原子力行政のおかしさを鋭く描いていて、少なくとも僕は大きな影響を受けた。こういう番組を作る地方局の記者やディレクターは、今はもういないのだろうか。

 「NNNドキュメント」は、主に地方のテレビ局が制作する番組が面白かったんだよなあ。地方局の記者やディレクターが、忙しいルーティーンワークの合間を縫って、時間と手間ひまをかけて地道に取材を続けて、それが深夜0時過ぎの時間帯に放送される。残念ながらキー局の制作する回はつまらないものが多かった。

 「NNNドキュメント」でキー局の制作する回は、まとまってはいるけど普通のニュース番組でやっていた特集とどう違うんだという感じで、感動も怒りもほとんど感じない。ところが地方局は過疎地の矛盾に切り込んだり、原発や六ヶ所村の核廃棄物をしつこく取り上げたりと、夕方やゴールデンタイムなど普通の時間帯の番組ではなかなかお目にかかれないテーマが多かった。

 「NNNドキュメント」で重厚な番組を作っていた地方テレビ局の記者やディレクターから、休日や空いている時間を工面するなどして、大変な苦労をしながらドキュメンタリーを作っていたと聞いたことがある。そういうこともできないほど、最近の地方局は余裕がなくなっているのかもしれない。あるいはそんな苦労までして、あえて社会の矛盾に斬り込むような番組を作ろうなどと考える情熱や気概や志を持った若手が、そもそも入社してこないのかも。社会にとって大きな損失だ。


5月13日(金曜日) 今週の作文は出来がいい

 やっぱり今週も徹夜だ。学生に書かせた宿題の作文をひたすら読んで添削するのだった。だがしかーし。なんだか今回は出来がすごくいい。文章の構成やエピソードの使い方、テーマの料理の仕方など、これはなかなかうまいなあと思わせる作文がとても多かった。毎週よく書けている作文を4本選んで印刷し、授業中に配布して講評するのだが、その倍の8本くらいよく書けているものがあって、選ぶのに苦労させられた。それほどのレベルではないが、かなりイイ線いってるのも増えたし、授業中にアドバイスしたことを反映してしっかり改善されている作文も目立つ。確実に文章力がアップしていると感じる。もちろんやる気のない学生はそれ相応の内容だけど、だいたい8割は成果ありだ。なんだよ、まるで話を聞いてないようで、ちゃんと聞いてるんじゃんか。ちょっと安心したよ。


5月14日(土曜日) ぜひこの調子で

 そんなわけで徹夜明けで、午後から授業。いつものようにレジュメや資料を大急ぎで印刷してから教室へ向かう。「今回はびっくりするほどみんなよく書けていた。確実に文章力はアップしている。自信を持っていいと思うよ」と大いに褒めて、添削した作文を返却した。ぜひこの調子で頑張ってほしいなあ。授業が終わってから、土曜日の担当講師が集まって1時間半ほど会議。ちょっと面倒くさい問題について話し合いをしたが、全員の意見の一致をみることができた。よかったよかった。駅前の居酒屋で飲み会。冷えた生ビールがうまい。生ビールはやっぱりサッポロだな。


5月15日(日曜日) 映画「東京原発」

 映画「東京原発」を見た。エネルギー問題の解決のため東京に原発を誘致するとぶち上げるカリスマ都知事(役所広司)が、副知事(段田安則)や都庁の幹部(吉田日出子)たちから反対される。ところが都知事の真意は実は意外なところに…。そこに、プルサーマル計画のためにひそかにトレーラーで運搬されていた大量のプルトニウムを強奪した少年が、自作した爆弾とともに都庁に突っ込んでくる。監督・脚本・山川元。出演・平田満、岸辺一徳、益岡徹、徳井優ほか。バサラ・ピクチャーズ、日活。2004年公開。

 面白かった。基本はコメディーだが、福島第一原発で起きた大惨事や、原子力発電が抱えている現在進行形の問題点のすべてが、余すことなくしっかり描かれているのが何といっても見事。カリスマ都知事の原発誘致発言を逆説的にとらえた上で、原発に無関心で無責任な日本人と日本社会全体に向けて、痛烈な皮肉を放つ展開は秀逸としか言いようがない。ブラックユーモアとして笑うもよし、パニックサスペンスとして楽しむもよし、「十二人の怒れる男」のような密室劇として見るもよし。しかしいずれにしてもこの映画を見れば、原発に賛成するか反対するかは別にして、原発がいかにとんでもない存在であるかということは、少なくとも理解できるようになるはずだ。

 もっとも、福島第一原発の惨状を目の当たりにした今となってみれば、荒唐無稽なパロディーだとかギャグコメディーなどといった見方や評価だけではもはや済まない。それ以上に、原発の本質から目を背けていた多くの日本人に猛省を促す作品として、しっかりと見直されるべきだろう。それにしても、この映画の撮影に東京都はよく協力したものだ。感心する。


5月16日(月曜日) 橋下知事「起立しない教員処分」

 橋下徹・大阪府知事が率いる「大阪維新の会」府議団は、府立学校の入学式や卒業式などで君が代を斉唱する際、教員に起立を義務付ける条例案を5月府議会に提出する方針だという。「維新の会」は府議会で過半数を占めていることから、可決される公算が大きいようだ(朝日など既報)。

 条例について橋下知事は、「当然。条例や職務命令を守らない場合の処分のルール化も目指す」「大阪府教委が決めたことを守らせるルールを作るのは当たり前だ。守らない場合の処分のルール化を考えていく」などと述べた上で、「維新の会が起立して歌えと言っているのではなく、府教委が決めていること」と語ったというが、とんでもない大ウソだ。これは橋下知事本人が率先して動いていることは明白で、よくもそんなことをしゃあしゃあと言えるもんだとあきれるしかない。

 橋下知事が5月7日付と5月8日付で、大阪府の幹部職員に送信したという2通のメールを読ませてもらった。橋下知事は100行にも及ぶ1回目の長文メールの中で、「組織のルールである以上、それが嫌なら公立教員を辞めれば良い」「何が社会常識かは、価値判断にかかわること。意見が割れたときには、最後は公選職が決めることです。組織のルールに従えないなら、教員を辞めてもらいます」と何回も繰り返し述べ、「まず、3年生の担任の半数以上が起立しなかった課題校を教えて下さい。そして、起立しなかった教員の所属の学校名、氏名全てを教えて下さい」と要請している。

 さらにボルテージは上がり、「全員に職務命令を出せば良いのです。そして、違反を積み重ねれば、それに従って懲戒の段階を上げて、最後は懲戒免職か、分限免職にすれば良い」「ビシッとルールを作って、組織全体に示す。3アウト制ぐらいにして、3回違反すれば、免職にするルールにすれば良い」「本気でやるなら、上記のルール化をすれば良い。教育委員会がマネジメントできないのであれば、条例化するしかありません」と断言している。

 そして最後は、「国家を歌う際には、起立して歌うべし。これが僕の政治感覚です。そしてこれは教育内容の問題ではありません。起立して歌わない教員は、大阪府民への挑戦と捉えます。まずは課題校、起立しない教員の所属校、氏名の把握から始めます。至急、報告下さい」「教育委員会ができないのであれば、教員を含めての公務員管理の問題として条例化していきたいと思います」(橋下知事メール原文ママ)などと締めくくっている。

 100行も延々と続く長文メール(2通目は約50行)で、くだくだと執拗に同じことを繰り返し、「オレが決めたルールに従えないやつはクビだ」と何回も恫喝するこんな文章を、朝から読まされる大阪府幹部もご苦労なことだと同情するが、それにしても橋下知事のこの異様なまでの執着と粘着気質には正直なところちょっと怖くなる。ねばっとした気味悪さと生理的嫌悪感を覚える書きっぷりだ。精神科医か心理学者に分析してもらうと興味深い結果が出てきそうだが、しかし橋下知事が教員の徹底管理に並々ならぬ意欲を示し、かなり本気であることは少なくともよく分かった。

 国旗・国歌は公の場所で尊重されるべきだろうし、現にしっかり尊重されているだろう。「君が代」のメロディーが流れてくれば多くの人は起立して歌っている。起立して歌いたい人はもちろんそうすればいいと思う。けれども中には起立したり歌ったりしたくない人も少なからず存在しているわけで、その意思は最大限に尊重されなければならない。それが個人の基本的人権がしっかり守られている民主主義社会というものだ。

 実際に、甲子園球場や国技館や国立競技場や後楽園ホールでも、試合開始前の国歌斉唱の際に黙って座っている人は何人もいる。ただ静かに黙って座っているだけで、プログラムを妨害するわけでもなく、ほかの人が起立して歌う行為を邪魔するわけでもないのだから、周囲の人たちも特段そのことをとがめ立てたり罵声を浴びせたりすることもない。それが個人の意思をそれぞれがお互いに尊重し合い、他人に寛容であるということだ。成熟した民主主義社会のあるべき姿だろう。これは学校現場でもまったく変わらない。

 橋下知事は、そんな現状のいったいどこに不満があるというのだろうか。「今の日本、国家を歌う場では、必ず起立、脱帽を求められる」(橋下知事メール原文ママ)のが社会常識なんだと、橋下知事はしきりに強調するが、静かに黙って座っている人の意思も尊重されることこそが、むしろ社会常識となっているのではないか。国歌斉唱の際に起立して歌わないと、橋下知事が言うように「教育現場は無法地帯」となってしまうのだろうか。そんなことはないだろう。教育現場をがんじがらめにして、いったいだれにとって、どのような利益が生じるというのか理解に苦しむ。

 橋下知事は、日本国憲法をもう一度よく読んで勉強し直した方がいい。弁護士法や教育基本法についてもしっかり学び直すべきだ。弁護士だということだが、およそ法曹として耳を疑うような非常識な発言を開陳されることが、橋下知事にはあまりにも多過ぎる。法律の何を学習して司法試験に合格したのか、もしかして採点ミスでもあったのではないか、などと余計な疑念を抱かざるを得ない。2年半ほど前にも書いたが、橋下知事は法律家失格だと言わざるを得ない(2008年10月2日付「身辺雑記」参照)。

 「起立して歌わない教員は、大阪府民への挑戦と捉えます」とまで断言するのであれば、まずは法曹資格を返上してからご自分の主義主張を唱えるべきだろう。日本国憲法と法律を率先して遵守すべき法曹の資格を維持したまま、最高法規の憲法に示されている基本的人権の尊重や思想・良心の自由をないがしろにした主張を繰り広げるのは、どう考えても整合性が維持できないからだ。たぶんそれは橋下知事ご自身の美学にも反するのではないかと思われるので、法曹資格を返上されることを強くお勧めする。


5月17日(火曜日) リンゴの木の枝のハンコ

 福島第一原発の1号機〜3号機。すべてメルトダウンしてることが分かった、って今ごろ言われてもなあ。何を今さらとしか言いようがない。ほとんどの人は「そんなの知ってますが何か」と返すだけだろ。大地震が発生して間もない3月中には既に、こりゃ炉心溶融してるなということは予想できた。だって漏れ出した放射性物質が、あれだけ大量に観測されていたんだから。もう東京電力が何を発表しようと、「あっそう」としか思わなくなってしまった。

 たぶんもうしばらくしたら、東京電力は「東京にも高濃度の放射性物質が運ばれていることが分かった」と言い出すに決まってる。これもまた「あっそう」「そんなの知ってますが何か」と返すだけだ。本当はみんなも分かってるんだよ。でも怖いから見て見ぬふりして思考停止してるんだろうよ。きっと。なんとも虚しい。大人はそれでもいいけど、小さな子どもと妊婦さんは真剣に対応を検討して、福島原発から少しでも離れた場所に疎開した方がいい。

◇◇

 近くのデパートの特設催事場でやっていた大信州展。最終日なのでのぞいてみた。期待して入ったイートイン・コーナーで、佐久市の野菜味噌ラーメンを食べる。麺はもちもちでシコシコして美味しかったけど、スープは信州味噌を使っただけといった感じで、ラーメンにマッチしているように思えなかった。スープの分量も少なくて麺や具材がしっかり浸っていない。これじゃあつけ麺みたいだ。もっとたっぷり欲しかった。文句ばかりで申し訳ない。

 長野市の工芸展の実演コーナーで、リンゴの木の枝を使った手作りハンコを注文した。善光寺の裏山で伐採したという素材は、どれ一つとして同じ形はしていないのが面白い。客が選んだ好みの枝にその場で加工してくれる。20〜30分ほどで完成。遊び心があってちょっとかわいい。名字でなく名前を彫ってもらった。銀行印や実印にも使えるということだが、本や手紙などの片隅に気軽にポンと押す遊び印として使うことにした。


5月18日(水曜日) ETV特集「放射能汚染地図」

 NHK教育テレビで5月15日に放送されたETV特集「ネットワークで作る放射能汚染地図/福島原発事故から2か月」を、録画映像で見た。

 放射線観測や放射線医学を専門とする科学者の観測チームが、大地震発生3日後から福島県内の広範囲を丹念に動き回り、福島第一原発の周辺地域の土壌、植物、空気中の粒子を採取し、放射線量を計測してデータを積み重ねていく。いわゆる御用学者とはほど遠い科学者たちが、地道な活動の末に放射能汚染地図を作り上げる。蓄積されたデータは、被曝による人体への影響と今後の土壌汚染対策について、客観的に考えるために欠かせない資料となる。

 計測が進むにつれて、避難区域の外の方がむしろ高濃度の放射性物質に汚染されていることが判明する。こうしたデータは文部科学省も早くから把握していたが、住民には全く知らされない。番組スタッフは、国とは別に独自の計測調査を続ける科学者たちの活動に同行しながら、原発事故から避難する住民、事情があって残る牧場経営者、何も知らずに汚染地域で生活する人たちに密着。2カ月にわたって記録した苦悩や葛藤をレポートする。

 心の底から怒りが湧いてくる1時間半だった。百姓にとってなくてはならない大切な土を台なしにして、平穏な暮らしを根底からぶち壊し、まともな避難誘導もしようとせず、おまけに国は放射能汚染のデータさえ公表しない。この理不尽さと無責任さは、いったいどういうことなんだ。これがクリーンで全体安全な原子力発電の本質なのか。役人はだれのために何のために働いているのか。

 ぜひとも聞いてみたい。全国の原発立地の住民や首長はこうした実態を見てもなお、あすはわが身だとは思わないのだろうかと。原発事故がもたらす影響の大きさと深刻さに、恐怖も憤りも感じることはないのかと。それでもまだ、「原発は地域の生活には絶対に欠かせない存在なんだ」と言い募るのだろうかと。

 事実に基づいたドキュメンタリー。テレビマンの心意気としっかり定まった視点と明確な主張が、ストレートに心に響いて伝わってくる。映像メディアならではの仕事ぶりだ。とてもいい番組を作って放送してくれた。NHKのディレクターや記者をはじめとする制作スタッフに、惜しみない拍手を贈りたい。必見。

 NHKには放送終了後、視聴者から再放送を求める声が殺到したという。その結果、短期間のうちに地上波2つで再放送されることが決まった。こういうのは異例のことらしい。総合テレビのゴールデンタイムで放送できないのは、総合テレビの場合はどうしても途中で定時ニュースが入ってしまうから。内外から圧力があったなどということではないそうだ。

5月20日(金)総合テレビで午前1時30分から(木曜深夜)。

5月28日(土)教育テレビで午後3時から。


5月19日(木曜日) 高校新聞部員は原発記事を書け

 高校文化部のインターハイとも呼ばれ、高校生の文化芸術活動の祭典として毎年開催されている全国高等学校総合文化祭の全国大会は、大会運営や企画にも高校生が主体的に参加するのが特徴で、今年も8月に開催される。第35回の今年は福島県を会場に、「ふくしま総文」として実施されることが決まっており、一昨年から準備が進められてきた。

 震災の影響から開催が危ぶまれたが、実行委員会は5月13日付で、会場や日程などを一部変更した上で、総合開会式と可能な15部門(当初予定は22部門)を開催すると発表した。演劇部門は香川県で開催し、書道部門と放送部門は出品予定作品を審査する方法に変更されるという。吹奏楽、郷土芸能、マーチングバンド・バトントワリング、JRC・ボランティアの各部門は中止される。

 実行委員会は、「地震と津波、原子力発電所の事故により甚大な被害を被っている状況の中で、震災直後から会場施設や宿泊施設の被災状況などについて、調査・確認を進めてきた。その結果、当初の予定通りに開催することはできないものの、これまで開催に向けて努力を続けてきた全国と本県の高校生の期待に応えるためにも、開催が可能な部門において開催することとした」「開催が予定されている会場施設の所在地域は、国が定めた警戒区域、計画的避難区域、緊急時避難準備区域の対象となっていない」としている。開催期間は8月3日から7日まで。5日間で全国から高校生約2万人、一般を含めて約10万人の参加者が予想されるという。

 これに対し、「チェルノブイリ原発から4キロの死の街プリピャチと同等の汚染区域に、優秀な高校生を集めて被曝させるなんてありえない。文部科学省は日本を潰す気か!」などと批判する書き込みが、ツイッターなどのインターネット上に出回っている。確かに「国が定めた警戒区域、計画的避難区域、緊急時避難準備区域」なるものが、そもそもどれほど信用に値するものなのかきわめて疑わしいし、仮に警戒区域から大会会場が離れていたとしても、県外と比べて放射性物質の量が格段に多いことは間違いない。だから、できれば高校生を派遣させたくないという気持ちは分かる。

 しかし、放射性物質の影響を受けやすく被爆が心配される乳幼児や妊婦と違って、高校生はもうかなり大人に近いので、ほんの数日間を福島で過ごすことに、これほどまで神経質になってヒステリックに叫ぶのはどうかとも思う。現実に福島県内では、高校生をはじめ大勢の子どもたちが生活している。その子どもたちへの差別にもつながりかねない。もちろん、子どもと妊婦は福島第一原発からできるだけ遠く離れた場所に、それもなるべく速やかに避難・疎開すべきだと僕も考えるが、それでもそのことと、数日間の高校総合文化祭に高校生が集うことまで頭から否定するのは、やはり同じようには考えられない。一緒くたに論じるのは乱暴すぎはしないか。

 高校総合文化祭(ふくしま総文)には新聞部門もある。全国から約400人の参加者が集まって熱い議論を交わす予定だという。参加するなら、高校新聞部員は原発の危険性と矛盾をしっかり取材して記事にすべし。高校新聞の記者も立派なジャーナリストの一人なのだから。だれのために何を伝えるべきか、こういう時だからこそ原点に立ち返ってよく考え、高校新聞記者として福島にいる意味を理解して記事を書こう。そして全校生徒に向けて発信しよう。それでこそ、福島で開催される意味があるというものだ。「汚染区域に高校生を集めて被曝させるなんて」という声に対して、新聞部員ならではの参加者としての返信を期待したい。


5月20日(金曜日) やはり適正規模は15人だ

 宿題の作文を添削。いつも金曜日はもうこれだけで手いっぱいだなあ。しかも間違いなく毎週のように徹夜になるし。やはり1クラスの人数は現状の30人から半分の15人に減らしてほしい。ただ一方的に講義して終わりというのではなく、提出されたレポートに点数を付けるだけでもなく、一人一人が書いた作文を添削して指導する作業がベースになっているのだから、ほかの一般的な講義とは根本的に違うはずだ。教える側の労働への適正評価と適正報酬を求めるといった側面ももちろんあるが、そういうことよりも教育効果から考えて、学生のためにもゼミ程度のクラス規模が望ましい。よその大学は1クラス15人で編成していると聞いている。教職員と学生を大切にしない学校には明るい未来はないと思うけどなあ。


5月21日(土曜日) 確実に向上

 午後から授業。今週はなんとか講義が始まる時間までに、レジュメや資料など教材の印刷を終えることができた。余裕を持って教室へ向かう。今回の作文のテーマは書きにくかったようで、先週に比べると出来がイマイチだったように思うが、それでも「これはうまいなあ」と感心させられる作文が何本かあった。文章を書くコツが分かり始めてきたのだろう。受講生全体としても文章力は確実に向上している。いい質問もあって、教える側としてもうれしい。授業が終わってから、ほかの先生2人と駅前の居酒屋へ。先週飲んだ店と同じくこの店もサッポロ生ビール。よく冷えていて美味しい。肴もまずまず。安くて居心地のいい飲み屋だった。


5月22日(日曜日) 朝日も大震災縮刷版

 朝日新聞も、東日本大震災の特別縮刷版を刊行した。3月11日付から4月12日付までの紙面が収録されている。読売新聞の特別縮刷版「東日本大震災1カ月の記録」(4月27日付「身辺雑記」参照)に触発されたのかもしれない。418ページの読売新聞特別縮刷版に対して、朝日新聞縮刷版「東日本大震災/特別紙面集成」は、縮刷紙面だけで653ページ(このほか巻末に記事索引が32ページ)もあって、ボリュームで読売を圧倒している。それぞれの日付の第1面がきちんと左ページから始まるなど、縮刷版全体の編集でも配慮が行き届いている。

 しかしオールカラーの読売に比べて、朝日は巻頭付録の号外と特別号外をカラーで収録したほかは、すべての紙面がモノクロなのは実に残念だった。これでは通常の縮刷版と変わらない。わざわざ大震災の特別縮刷版を作るのであれば、写真の迫力や生々しさ、図解の分かりやすさなどを考えて、やはりすべてカラーで掲載してほしかった。そうは言うものの、大震災と大震災報道を考えるための資料としての価値は、読売と同じく朝日も大きい。買っておいて損はないだろう(たぶん)。定価1500円(+税)。


5月23日(月曜日) チーズデザート「贅沢ナッツ」

 「これは美味しい!」と前から思っていた。そんなオススメの逸品が、「スウィーツ好きのためのQ・B・Bチーズデザート」だ。クリームチーズケーキのようなチーズが、6ピース入っている。全部で5つのシリーズの中でも特にお気に入りなのは、アーモンド、ヘーゼルナッツ、クルミの3種類のナッツを練り込んだ「贅沢ナッツ6P」。チーズ特有のくせのある臭いもなく、甘過ぎず上品な味わいが楽しめる。しっとりととろけるような柔らかな甘さと香ばしさが、口の中いっぱいに広がる。こんなに美味しいチーズはこれまでに食べたことがないなあ。製造元は神戸市の六甲バター。値段がちょっと高いけど、近くのスーパーでごくたまに安売り(希望小売価格300円の半額ほどに値引き)されていると、ついつい手が伸びてしまう。そんなわけでまた買っちゃったよ。


5月24日(火曜日) 「ショージとタカオ」再審無罪

 「布川事件」で強盗殺人などの罪に問われ、無期懲役が確定して仮釈放中の桜井昌司さん(64)と杉山卓男さん(64)の再審判決公判が水戸地裁土浦支部で開かれ、神田大助裁判長は強盗殺人罪について2人に無罪(求刑・無期懲役)を言い渡した。再審判決は3月16日に予定されていたが、東日本大震災の影響でこの日に延期。逮捕から44年ぶりに、ようやく2人の名誉が回復された。

 桜井さんと杉山さんの再審無罪判決を祝して、「セカンドインパクト」を更新。「冤罪・裁判・裁判員制度」のページに「コラム/試写室」を掲載しました。「布川事件」の2人を主人公に、再審までの14年を追ったドキュメンタリー映画「ショージとタカオ」の紹介記事です(「冤罪 File」12号/2011年2月号)。桜井さんは真面目で勉強家、杉山さんは気さくで面白い人です。晴れて無罪、本当におめでとうございます。


5月25日(水曜日) 襟をただして

 午後から大学。1年に1回の非常勤講師懇談会。講師控室の開室時間や受講学生数の適正化など、大学側に改善を求める意見が出されるが、たぶん「お聞きしました」「お伺いしました」というだけで終わるんだろうなあ。経費が余計にかかるようなことに、手を付けることはまずないだろう。先の先の将来像まで見据えるだけの頭が働く経営陣なら、学生にも教員にも利益をもたらし、そして大学のステータス向上にもつながることは何なのか、話を聞いただけで即座に理解できると思うけど。あまり期待できそうにない。

 夕方から立食パーティーの懇親会。大した料理が出されるわけではないのだが、寿司(中でもウニやイクラや鯛など)を重点的につまむ。1時間半ほど取り留めのない話を周囲の先生方と交わして、散会後は親しい先生2人と喫茶店へ。すると注文を取りにきたウエイターの青年が、「先生、池添先生ですよね。現代ジャーナリズムの講義を受講させていただきました。とても面白い授業でした」と声をかけてくれた。そういうふうに言ってもらえるとすごくうれしい。ちゃんと単位をあげたかどうか恐る恐る確認したら、大丈夫ですとのことだったのでほっとする。アルバイトをしているのだそうだが、礼儀正しく真面目な仕事ぶりが好印象で微笑ましい。それにしても、どこで教え子に見られているか分からないなあ。おかしな人たちとおかしな行動をしていなくてよかった。


5月26日(木曜日) 「君が代条例」反対アピール

 国歌斉唱時に教職員の起立・斉唱を義務付けることを目的に、大阪府の橋下徹知事が率いる地域政党「大阪維新の会」が府議会で成立を目指している「君が代起立条例」に対し、大阪府内の教職員や弁護士らの市民グループが、条例への反対を呼びかけるアピールを発表した(朝日、毎日、共同など既報。アピールはネット上で公開されている)。発表に先立って同グループから、名前の公表を前提にアピールへの賛同をお願いできないかと要請があったので、賛同者の一人に名前を連ねた。

 署名を求められたり賛同者に加わってほしいと依頼されたり、いろいろなところから協力要請をいただくことがあるが、個別の事件や裁判などの署名やアピールについて、僕は基本的にすべてお断りすることにしている。理由は取材活動の支障が生じることがあるからだ。趣旨に共感する場合ならなおさら、取材して記事を書くことで貢献したいと思う。これまでも一貫してそうしてきたし、これからもその姿勢はたぶん変わらない。

 報道記者の仕事の基本は、さまざまな立場の人に会って話を聞いて、読者に判断材料を提供することだ。そのためには、取材対象からできるだけ警戒されないで、相手の本音を引き出すことがとても重要になってくる。特定の政治党派や団体・宗教・個人に肩入れすることなく、「公正中立」であるというスタンスを示すのは、なにかと都合がいいし、取材先からそういう姿勢を期待されることは少なくない。もちろん、自分なりの考えや意見は明確にある。しかし少なくとも取材する際には、予断や先入観を持たず、真摯な姿勢で相手の話に耳を傾けることは欠かせない。

 そういうわけで、職業上の倫理観と職務遂行の際の都合など総合的な観点から、署名やアピールなどには基本的に加わらないことにしている。しかし例外もある。報道・言論・表現の自由や、思想・良心に関わる問題についてはその限りでない。

 イルカ漁を批判する米国映画「ザ・コーヴ」の映画館での一般公開が、右翼団体による集中的な抗議活動で次々と上映中止に追い込まれた際には、上映中止に反対する「緊急アピール」の賛同者に加わった。「自分の意見や考えと違うものは徹底的に排除し表現も一切させない」というのはファシズムと何ら変わらないし、そういうことがまかり通るようでは、とても健全で成熟した民主的な社会とは言えない。上映中止の動きに強い危機感を抱いたので、「緊急アピール」に賛同してほしいとの呼びかけに応じた。今回もそれと同じスタンスで、アピールに賛同させていただくことにした。なお、橋下徹大阪府知事と「君が代起立条例」に対する僕の考えは、5月16日付の「身辺雑記」に書いた通りだ。


5月27日(金曜日) まだ続いていた花粉症

 花粉症の季節も終わりかなと油断して、このところ鼻炎薬を飲まずにいたら、とたんにぐずぐずになった。寝ていると鼻が詰まっているのに鼻水が出て、夜中に何度も目が覚める始末だ。たまらず慌てて薬を飲んだら症状が収まった。スギ以外の花粉と黄砂と放射能のトリプルパンチが原因なんだろうか。

 しょうがないなあと思いつつ鼻炎薬を買いに薬局に出向くと、いつも飲んでいる鼻炎薬が値上がりしている。店員さんによると「値上げしたのではなくて元の価格に戻したんですよ。スギ花粉の季節が終わったので、特別セール価格から通常価格にしたんです」という。なるほど。言われてみれば理にかなっている。うーん、それにしても高いなあと困った顔をしていると、「こちらはどうですか。成分や効果は全く同じで用法用量は変わりませんよ」と別の薬を勧められた。1700円ほどする愛用の薬の半額近い値段だ。

 テレビCMでお馴染みの大手製薬会社と違って、あまり聞いたことのない弱小製薬会社の薬なので安くしているのだという。薬効が同じなら試してみるか。というわけで服用しているが、確かに効き目は変わらない。つなぎとして服用するにはこれでもいいかな。


5月28日(土曜日) 台風で自主休講?

 今週もやっぱり徹夜明け。しかもきょうは朝ご飯を食べる余裕もない。洗顔と歯磨きをして慌てて家を出る。コンビニでおにぎり1個を買って、駅のホームで大急ぎでほお張る。なんてせわしないんだ。われながら情けないよ。レジュメや資料を印刷して、午後から授業。なんとか間に合ったと教室に駆け込むと、いつもより受講生の数がやや少ないなあ。梅雨入りの雨に加えて台風が近付いていることで、自主休講にしたのかな。よく書けている作文4本を選んで授業中に講評しているが、そのうち2人が休んでいたのはちょっとがっかりだった。いつもより早めに講義を切り上げる。


5月29日(日曜日) 雑用

 昼過ぎから延々と、たまっているメールの返事を書き続けているような気がする。あとはひたすら雑用に明け暮れているといった感じ。外はずっと雨が降り続いているし、まあいいか。それでもまだまだやるべきことは山積みで、やってもやっても片付かない。


5月30日(月曜日) 人権感覚が軽すぎる最高裁判決

 卒業式の国歌斉唱時に起立を命じた校長の職務命令に従わなかった元都立高校教員が、定年後の再雇用を拒まれたため東京都に損害賠償などを求めた訴訟の上告審の判決で、最高裁第二小法廷(須藤正彦裁判長)は、「起立を命じる職務命令は思想・良心の自由を保障した憲法に違反しない」とする初めての判断を示した。教職員を対象にした起立斉唱の職務命令について、最高裁が合憲の判断を示したのはこれが初めて。

 最高裁判決は、「起立斉唱は国歌への敬愛表明を含む行為で、思想と良心の自由に間接的制約となる面がある」としながら、制約が許されるかどうかは、「必要性と合理性があるかどうかで判断すべきだ」と判断基準を述べ、「教育上の重要な節目の行事では秩序の確保や円滑な進行が求められる」として、「起立斉唱の命令には間接的制約が許される必要性や合理性がある」と結論付けた。4人の裁判官全員一致の判断。

 最高裁第二小法廷の裁判官連中は、思想・良心の自由を保障した憲法の規定を、あまりにも軽く扱い過ぎているのではないか。憲法のこの規定はもっと重い存在であるはずだろう。起立しなかったというだけで「秩序の確保や円滑な進行」が妨げられたわけでもないのに、思想・良心の自由がいとも簡単に制約され、「制約が許される必要性や合理性がある」などと結論付けてしまう感覚は理解し難い。これが人権を守る最後の砦の実態とは情けない。

 そもそも最高裁の裁判官連中は、東京都の学校がどれだけ窮屈に管理統制されて、がんじがらめの状態になっているか知っているのだろうか。学校現場の実態を知っていてそれでもなお、「教育上の重要な節目の行事では秩序の確保や円滑な進行が求められる」などと判決文に書いてるのか。だいたい卒業式で「君が代」を歌うことが、どうして卒業生を祝うことになるのかさっぱり分からない。

 なぜ卒業式に「君が代」が必要なのか。「教育上の重要な節目の行事では秩序の確保や円滑な進行が求められる」という最高裁判決には、卒業式の主役である卒業生の存在や生徒へのまなざしは微塵も感じられない。秩序維持こそがすべてに優先されるべきで、まるで「日の丸・君が代」が行事の主役と言わんばかりだ。残念ながらこれが憲法の番人の実態らしい。


5月31日(火曜日) 風邪

 のどが痛くて頭も痛いし、悪寒もする。鼻水もずるずるで、体もだるい。どうやら風邪をひいたらしい。食欲だけはあるので助かっているかな。早めに寝る。


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