「彼氏彼女の事情」1998/12/7■2002/5/5 追加更新
■コラム1■原作と声のイメージ(1998/12/7)
宮沢雪野の声も有馬総一郎の声も浅葉秀明の声も、僕はまるで違和感がない。雪野の声はああいうものなんだって最初から思っているし、雪野が有馬に甘える時に出す声なんて特に大好きだったりする(笑)。これはたぶん僕がアニメの「カレカノ」から入ったから、声付きで絵が動く「カレカノ」が当たり前という感覚でいるからなのだろう。
原作漫画から入って、それからアニメを見た人はまた随分と印象が違うはずだ。雪野や有馬、浅葉の声は、原作から入った人たちにも、どちらかというと好意的に受け止められているようだが、しかし例えば芝姫つばさの声などは、賛否両論というよりむしろ「イメージとまるで違う」という非難(?)の声が相当多かったりするらしい。でもアニメから入った僕なんかにしてみれば、その芝姫つばさの声にしても「変わった声で、ユニークなキャスティングだなあ」とは思ったものの、特に違和感はないのである。むしろ幼い感じで少しひねたようなあの芝姫のキャラクターには、ぴったりの声という感想を持っているくらいなのだ。
原作を読んでからアニメ化や映像化された作品を見ると、声の出演者や役者に対して違和感を覚えてしまうことの方が確かに多い。漫画であっても小説であっても、原作を読んでいるうちに、登場人物に対して「自分なりのイメージ」というものが出来上がってしまうからだ。たまにイメージぴったりの声優や俳優が演じている場合もあるが、どちらかというとそういう例は少ないように感じる。最初に作り上げられた印象がいかに大切か、ということなのだろう。だから、原作を読んで既に芝姫のイメージが出来上がっているファンにとっては、「こんなはずではなかった」という感想を持ったとしても不思議ではない。
アニメの「カレカノ」は台詞やキャラクターなどかなりの部分が原作に忠実なので、アニメを見た後でもすんなりと自然な形で原作が読める。第1話から第4話に限って、アニメを見てから原作を読んでみたが、違和感はまるで感じなかった。アニメから入った僕は最初、放送がすべて終了してから原作を一気に読もうと考えていたのだが、そろそろ原作を全部読んでみたいという欲求が抑え切れなくなってきつつある。主な登場人物も出揃ったみたいだし、作品の流れもつかめたことだし。実は、既に原作漫画は6巻とも入手して手元にあるのだが…。
「善人面して周りを取り込んで世の中をうまく渡る奴いるんだよね」という井沢真秀の言葉がきっかけで、雪野はクラスの女子全員に嫌われてしまう。たった一言が、あっという間にクラスの女子全員によるシカト(無視)にまで発展してしまうのだ。集団の怖さだよなあ。全体の大きな流れにはなかなか逆らえない。あらためて感じたけど、こうやってみんなからいとも簡単にシカトされてしまうのって、ぞっとする。クラスの中の個人個人にはこうした流れに対する温度差というものが微妙にはあったのかもしれないけど、みんなが一つの方向にどっと流れてしまうというのは本当に怖いことだと思う。
もともと、いじめが起きる土壌は存在していた。みんなの心の中には、雪野に対するあこがれ、羨望、嫉妬、やっかみ、コンプレックスなどの気持ちがあった。だからこそ、ほんの少し火が付けられたら一気に燃え広がったのだ。何もないところに自然発火したわけではない。だけど、そういう気持ちは、自分自身を「高める」というプラスの方向に作用することだってあるのにもかかわらず、相手を「おとしめる」というマイナスの方向に作用してしまった。その場の空気を支配する雰囲気によって「集団ヒステリー」を起こしたのである。
扇動するのは簡単だ。みんなの心の奥底に潜在的にある気持ちを、うまいことすくい上げさえすればいいのだ。深層心理をつかんでタイミングよく誘導すればいい。そういう策略がうまくて、おまけに扇動するのが大好きな人間にかかったら、学生集団なんてひとたまりもない。特に、欲求不満のはけ口を無意識のうちに探している状況にある中学生などたぶん効果てきめんである。いじめやシカトなんて、あっという間に広がってしまうだろう。
それに「みんなと一緒の流れ」に乗って行動するのは、安心感があるし気持ちがいいんだよなあ。でもって、熱くなっている時はただ突き進むだけだ。冷静になって考えればおかしいと思うことでも、みんなと一緒だから深く考えたりせずにやってしまう。思考停止状態である。これはいじめやシカトだけに限らないのだけれども。まさにこれがファシズムってものなんだなあ。
雪野の学校は優等生が集まった進学校だから、陰湿な嫌がらせまでは起きなかったし、クラスの女子が集まって「なんだかおかしくない?」「こういうのって嫌だね」「高校に入ってまでシカトなんて…」と自主的に、理路整然と話し合いを始めたからよかったけど、普通はなかなかそんなにすんなりとは解決しないことの方が多いだろう。それに本物の策略家だったら、真秀のように自分が首謀者であることなんか決してばらさない。首謀者があいまいなままだったら、事態はまだ未解決の状態が続いていたはずだ。雪野の言うように、確かに真秀は「詰めが甘い」とは言える。まあ、真秀は本物の策略家ではないし雪野を憎悪していたわけでもなくて、むしろ雪野に対しては無意識のうちに少なからず愛情を感じていたのだから、こういう結末になるのも不自然ではないとは思う。
もう一つ、シカトされながらも優等生の誇りを堅持して、徹底して淡々と学校生活を過ごした雪野の精神力も事態の解決に大きく作用した。シカトしている対象があまりにも超然としていると、シカトする側の熱気が冷めてしまうからだ。みんなも冷静に考えるゆとりが出てくる。もっとも、有馬や浅葉の存在があったからこそ雪野は超然と耐えることができたのだろうけれど、クラスの女子全員からシカトされている状態で普通はなかなかできることではない。
本編冒頭の「これまでのあらすじ」で流される軽快な音楽。どこかで聞いたことのある懐かしいメロディーだということはすぐに分かった。最初は円谷プロの怪獣映画の音楽だったかなと考えて、それから、いやいや確か1960年代に放送された「旧・鉄人28号」の挿入歌だよなあと思い直した。たぶん、主人公の正太郎少年が鉄人を操縦する時にかかるマーチだろう。高度経済成長の時代に生まれ育った庵野秀明監督らしい選曲だと思った。この時代に生まれ育った子どもにとっての「鉄人28号」は、ウルトラマンなどの円谷プロ制作の怪獣映画や鉄腕アトムなどと並んで、忘れられない存在と言えるだろう。エンディングテーマの井上陽水の「夢の中へ」や、挿入歌のピンクレディーの「S・O・S」についても同じことが言える。
庵野監督のそんな「時代性へのこだわり」は、音楽以外の部分にも現われているような気がする。「カレカノ」に何度も何度も出てくる道路工事標識などの建設現場、工場地帯などの風景がそうだ。高度経済成長の時代は「輝かしい未来へ向かって発展していく」という希望と期待感にあふれていた。もちろん公害や学園紛争など、未来や現在の社会に対して漠然とした不安を感じさせる材料もたくさんあったのだが、しかし日本という国がこの時期に、上昇気流に乗ってひたすら突き進んでいたのは間違いない。
建設現場や工場地帯などの風景は、そうした成長や発展の象徴なのだ。そして、庵野監督はこれらの風景を「登場人物の心象風景の象徴」として、効果的に使って見せるのだった。これから作り上げていくもの、発展途上のものへの共感性を示すかのように、繰り返しイメージ映像を作品に挿入する。そう言えば「新世紀エヴァンゲリオン」にも、基礎工事の音が鳴り響く高層アパート群や復旧作業中の街のシーンなどが何度となく登場した。「成長していく人間像とその心理」を描くことに執着する庵野監督が、強くこだわっているように見える小道具がこの「工事現場」の風景であるように思えるのだ。
選曲のセンスと風景へのこだわり。そこに、高度経済成長の時代に少年時代を送った庵野監督の「世代的な発想」を強く感じるのである。
「円満な家庭の子は伸び伸びしていて素直でいいな」。浅葉秀明のこの台詞は実に奥深いものがある。家庭が子どもの人格に与える影響は大きい。例えば、いがみ合っている両親の姿をずっと見て育ってきた子どもは、心が傷つけられ情緒不安定になっている。そして、子どもの時に心に刻み込まれた風景は、大人になっても心の傷としてしっかり残されていくのだ。
宮沢雪野の家は両親の仲がよくて、ほのぼのしていて楽しく、家族みんながお互いを尊重し合っている。そんな幸せな家庭は当たり前のようでいて、実際にはなかなか難しい。どちらかというとたぶん、うまくいっていない家庭の方が多いのではないだろうか。
夫による妻への日常的な暴力(性行為の強要なども含む)、家庭内離婚(表面的に形だけの夫婦をやっているが実は冷め切った関係にある)、夫が定年になったらさっさと離婚してしまう妻…。そういう「崩壊家庭」の問題が最近クローズアップされてきている。外から見れば幸せそうに見えるが、実際には完全に崩壊してしまっている家庭は意外と多そうだ。もちろん、どこの家庭でも何かしら問題を抱えているのかもしれないが、しかし多くの場合、夫婦がお互いを「尊敬できる対等な人間だ」と認めていないことから問題が発生しているように思える。「だったらすぐに別れたらいいのに」と思う。
「どうして一緒になったのかな」「何のために一緒にいるのだろう」と疑問に感じるような男女が、形だけの夫婦や家庭を維持しているのはとても変だ。子どもの存在だとか世間体があって別れないのだろうが、そんな両親を見て育った子どもはとても悲しい気持ちになるに違いない。そうした家庭の子どもの心を想像すると胸が痛くなる。子どもにとって家庭で受け取る安らぎとか愛情はとても大事なものなのに、その家庭に安らぎの場はなく愛情も受け取ることができないのだから。多くの場合、夫婦の正常な関係が崩れると、母親は代償行為として歪んだ過剰な愛情を子どもに注ぎ始めるが、それは愛情ではなくて過干渉だ。子どもの人格を尊重しているわけでは決してない。自分の所有物として子どもを好き勝手に扱っているに過ぎないのだ。子どもにとってはいい迷惑。いやむしろ悲劇である。
ついでに書くと、そのような親に限って、学校や会社の名前などの「世間体」「ブランド」「権威」に強くこだわったりするのだ。恐ろしく「想像力」の乏しい人たちである。そんな親に育てられた子どもってどうなるのだろう。親がそんなふうだから、恐ろしく「想像力」に欠ける大人にやっぱり育っていくのだろうか。いわゆる「拡大再生産」ってやつなのかな。
両親の仲がよくて、ほのぼのしていて楽しく、家族みんながお互いを尊重し合っている宮沢家みたいな家庭で育つと、少なくとも「心の豊かな大人」にはなれるはずだ。本当の意味の愛情をいっぱい注がれてきたわけだから、心のすき間を自分で埋めていく作業に苦しむ必要はない。それに、自分の一番身近な家庭という場所に、自分の全存在を無条件にきちんと認めてくれる人たちがいるという意味は大きい。そのことによる心の支え、安定感、安心感は計り知れないものがある。人間は弱いものだから、そうしたバックボーンがあるのとないのとでは、何かがあった時のぐらつき方が全然違ってくるのだ。数々の少年事件の多くも、このあたりに問題の本質・背景があるのではないかと考える。
アニメ「カレカノ」の劇中で使われている音楽(サウンドトラック)は、映画「タイム・リープ」(今関あきよし監督、佐藤藍子主演、音楽:千住明)のサントラに、とてもよく似ている。もちろん音楽的にはまったく別ものだが、「耳に残る音楽」という意味において両者はとてもよく似ているのだ。2つのサントラに収録されている音楽を聞いていると、ストーリーの情景が映像として目に浮かんでくるだけでなく、登場人物の心の動きまでが自然に伝わってくる。しかもどこかしら懐かしさすら感じさせてしまう音楽なのだ。音楽で情景や心理状態を描くことは昔からよくあるが、心地よく耳の奥底に残り、しかも懐かしさまで感じさせる音楽は必ずしも多くはない。「映画やドラマのために作られた音楽とはそういうものだ」ということだけでは片付けられない旋律が、2つのサントラには息づいているのである。
さらに両者に共通していることがある。サントラ盤が発売されてからしばらくすると、テレビのワイドショー番組で効果音楽として多用されていたという点だ。先週(1999年1月11日〜16日)、日付は忘れたがたまたま2日間見たTBS系の午後のワイドショーで、「カレカノ」のサントラ盤に収録されている音楽が2日間とも、それもあらゆる場面で頻繁に流されていた。番組担当ディレクターかプロデューサーが「カレカノ」のファンなのかもしれないが、いずれにしろ「カレカノ」の音楽が気に入ったからこそ自分の番組でも使おうと考えたのだろう。さまざまなコーナーで入れ替わり立ち替わり何曲も使われていたが、「カレカノ」の物語とはまったく異質の場面であっても十分に耐え得る旋律だった。97年の春にサントラ盤が発売された「タイム・リープ」もその辺の状況は「カレカノ」と同じだったのだ。
そう言えば「タイム・リープ」のほかにも、「カレカノ」と似ているサントラ盤があるのを思い出した。「新世紀エヴァンゲリオン」(音楽:鷺巣詩郎)と「となりのトトロ」(音楽:久石譲)である。どちらも耳に残る音楽でいっぱいだ。で、やっぱりこの2つのサントラ盤もワイドショーの中でよく使われていた。そして、どの場面で流されてもまったく違和感がなかった。
ちなみに、「エヴァンゲリオン」や「カレカノ」サントラ盤を適当に再編集したテープを、僕は愛車の中で繰り返し聞いている。もうほとんどエンドレス状態である。それでも全然飽きることがない(^^)。
◆今回の「コラム☆カレカノ」は、作品内容や作品背景そのものについてではなくて、放送技術的なことについての雑感です。
第16話「永遠の点綴(とわのてんてい)」(1999年1月15日放送)のアイキャッチはこれまでのデザインとはかなり違っていて、サブタイトルの「四字熟語」が画面の一番下の位置に書かれる形に変更されていた。そのために、僕の自宅のテレビ画面では漢字部分が大幅にはみ出る状態だった(下側の5分の4が判読不能)。何人かのカレカノ関連HP主宰者の方にうかがったところ、「問題なくちゃんと見ることができた」「下側3分の1くらいが隠れていた」など、画面の見え方には結構ばらつきがあった。「四字熟語」が読みにくかったのは、わが家の安物のテレビ受像機の受信状態にも原因があったのである。
テレビ放送の場合、本来の映像画面のうちのどれだけの範囲が見えるかは、視聴するテレビ受像機によってかなりの違いがあるらしい。NHK放送センターの技術担当者の話によると、メーカーや機種によってかなり差が生じるという。例えば10年以上前に作られたテレビだと、映像画面の端から端まで80%くらいの範囲しか映らないそうだ。最近製造された受信機でも95%前後と、やはり機種によって映り方には誤差やばらつきがある。だから、映像を送る側としてはその辺の映り方の違いを見込んで、字幕スーパーを出す位置などを考えているのだという。「切れてしまったら意味がないですからね。放送局によって違いがありますが、NHKでは誤差を想定して一定の基準に従って字幕を出しています」とこの技術担当者は話す。
ゲーム業界に詳しいHP主宰者によると、今回のアイキャッチでサブタイトルの「四字熟語」が表示されていた画面下部のような部分には、十分な「余白」を取っておくのが常識だという。楓水みのりさんからは「ゲーム業界では、あの領域には重要な書き文字は控えるというのが定石です。テレビは個体差が激しいので、安全マージンが必要なんです」という貴重な解説をいただいた。
そう言えば、テレビや映画のニュース速報や日本語訳などの字幕は、必ず画面の端から少しだけ離れた位置に表示されている。これは新聞や雑誌や書籍も一緒だ。紙面や誌面の枠ぎりぎりまで文字や映像があったら見にくいし、綴じ込み部分なんかに文字があったら読むことができない。なるほど、どんなものにも「遊び」(余白)は必要なのだ。もちろん「遊び」の部分に文字や映像が入ることもあるが、その場合は「重要な情報」は載せないものなのである。
そうすると、やっぱりガイナックスの制作方法にも問題はあったんだということになる。ガイナックス作品では「カレカノ」のほかにも時々、字幕や書き文字がテレビ画面からはみ出していることがある。ガイナックスが「大して重要な情報ではないから」と判断して、画面のあの位置に文字情報を置いているのだとすれば、それはそれで一つの判断だから構わないけれども、しかし少なくともアイキャッチに関して言えば、サブタイトル(四字熟語)は「重要な情報」に該当すると思うんだけどなあ…。
■コラム7■庵野監督が描きたかったこと(1999/3/17)追訂 4/15「カレカノ」は、あらすじ(「これまでのあらすじ」)や総集編(「これまでのお話」)が実に多いアニメである。番組冒頭の「あらすじ」は、ざっと数えてみても第3・4・7・9・12・13・19・23話と全部で8回もあって、中でも最も長いバージョンは何と3分間もあるのである。そして、総集編としては前編(第14話&第14.3話)と、後編(第14.6話)とが放送されているのだが、その上さらに、放送もいよいよ終わりに近付いてきた第24話に至ってもまだ、Bパート全部を3つに分けた「これまでのおさらい」が登場するのだ。
第3話:65秒
第4話:50秒
第7話:30秒(全編字幕版)
第9話:65秒(8分割画面で過去映像を早送り再生)
第12話:2分30秒
第13話:40秒
第14話:「これまでのお話」総集編=A・Bパート
第15話:「これまでのお話」総集編=Aパート
第19話:3分
第23話:1分(この回のあらすじ紹介は、雪野が文化祭で芝居をやることを決意した部分以降について。ほかの回のあらすじ紹介は、番組スタート時に戻って一番最初から物語を復習する構成になっている)
第24話:「これまでのおさらい」=Bパート全部
第25話:1分20秒
第26話:1分20秒
で、もちろん、いやたぶん、制作進行スケジュールが厳しいこともあって、時間稼ぎのための苦し紛れで「これまでのあらすじ」と称したコーナーを繰り返し流してみたりや、「総集編」を挿入してみたりする側面もあるのだろう。僕は決してこのような手法を否定するものではない。むしろ、それなりに工夫が凝らしてあって、笑えるし楽しめる出来なので大好きである。だが、それよりも僕は、「これまでのあらすじ」にここまでこだわる庵野監督の姿勢にこそ、注目してみたいと思うのだ。
どういうことなのかと言うと、庵野監督がこの作品の中で表現したかったことの「核」となるものが、実はこの「これまでのあらすじ」に要約されているからこそ、番組冒頭で何回も流すのではないかとも考えられる、ということなのである。実際は「時間稼ぎの苦し紛れ」であったとしても、だ。
完璧な優等生を演じる見栄王・宮沢雪野は、同じく優等生で「いい子」を演じている有馬総一郎と出会って、お互いに優等生のふりはやめて、自分に正直に生きようと決意する。これが「カレカノ」の物語の「核」だ。そして、それぞれが本当の自分とは何かを探そうとして歩き出すわけである。幼児体験がトラウマとなっている有馬の屈折した心の闇、そこに触れながらも自分の世界を着実に広げていく雪野と有馬との関係と心の揺れ。庵野監督が「カレカノ」というアニメで描きたかったのは、こういったものだろう。ギャグをふんだんに盛り込みながらも、そうした心の葛藤と成長を描いてみせたかったであろう庵野監督にしてみれば、極端なことを言うと「カレカノ」の第1話から第4話までが描ければ「表現すべきことは表現できた」ということになるのかもしれない。だとすれば、ほかの話は「おまけ」のようなものと言えなくもない。
そんなふうに思ったのは「第24話のAパート」を見たからだ。前からぼんやりとは感じていたのだが、「事実上の最終回」とさえ言ってしまっていいような「第24話のAパート」のストーリー展開&構成を見たことで、はっきり認識したのだった。雪野と有馬の二人の関係は微妙なズレが生じているようにも受け取れるこのパートの展開は実に興味深い。原作にはないオリジナル版の「最終回」として、ふさわしい内容だと言ってもさしつかえないと思うのだ。
(この項、次回コラムにつづく)
(この項、前回コラムからのつづき)
「第24話のAパート」は「事実上の最終回」とさえ言ってもいいようなストーリー展開&構成だった。暗い過去に引きずられて延々と苦しむ有馬と、そんな有馬の苦悩に夢の中で思いを巡らせる雪野。二人が独白を繰り返しながら、自分の内面を見つめていくというこの手の心理描写は、「エヴァンゲリオン」テレビ版の最終回のノリそのもので、庵野ワールド全開という感じのシーンが続く。この独白のやり取りを見ていると、二人の心には微妙なズレが生じているように思えてならないのである。雪野への依存度をますます高めていく有馬と、ぼんやりとではあるけれども有馬との別れの予感を意識し始める雪野。そこに、二人の今後の関係が暗示されているように思えるのである。
有馬はこれまでも場面場面で悩んではきたが、今回はまるっきり碇シンジの再現といった感じで描かれていた。雪野の姿を求めて校舎内をひたすら歩き回る有馬は、だれもいない教室の中でもう一人の自分に出会う。「今まで自分だと信じてきたものは、僕が作り上げただけの偽物だったんじゃないのか。本当は最低の人間だったらどうする」とつぶやきながら悩むもう一人の有馬総一郎の姿を目のあたりにするのだ。一方、雪野は屋上で昼寝をしながら夢を見る。その夢の中に有馬の「暗い心の扉」のようなものが出現するのだが、扉の向こう側で泣いている幼いころの有馬を、現在の有馬は拒絶するのだった。そんな有馬を雪野は「怖かったら私がついてあげるから。これは有馬が解決することだよ、私にできるのは支えることぐらい…」と励ます。有馬がさらに苦悩の迷路に入り込もうとするのを、いとも簡単にあやして引き戻してみせるのだ。
雪野は有馬よりもはるかに大人で、自立している。無意識のうちに母親の視線で有馬を見ているのかもしれない。そもそも「自分らしく生きる」と決めてからの雪野は、はっきり言ってかなり積極的で前向きだ。心を許せる友達は着実に増やしているし、創造的な活動にも取り組もうとするなど、その世界は確実に大きく広がっている。それに対して、有馬は過去の心の傷の呪縛から解放されないまま、泥沼にはまり込んでいく。十波建史が登場してからの有馬は、雪野に対する独占欲と嫉妬心の固まりのようになってしまって、平常心を失いかけているのだが、有馬の乱れる心を落ち着かせてなだめる雪野は、有馬にとっては恋人というよりは、むしろ母親に近い存在になっているのだろう。
有馬は「僕は変わらなくてはならない」と自分自身に言い聞かせ、雪野とつないでいる手を離して一人で「過去の心の傷」に向き合おうとするのだが、たぶん雪野がいないと有馬の精神状態は均衡を保てないに違いない。有馬はそれくらい雪野に依存しているはずなのだ。「宮沢、宮沢、宮沢!」と叫びながら、校舎内を探し回る有馬の姿がそれを象徴している。
雪野と有馬は、出会ったことでお互いが自分を変えるきっかけになったというスタート地点は同じなのだが、相手に対する「依存度」がここにきて、かなり開いていることが分かった。「雪野なくしては生きてはいけない」とまで、たぶん考えているであろう有馬に対して、一方の雪野はこう思うのだった。「私たちはお互いを変えるために出会ったのだろうか。だとしたら、変わったことで二人でいる必然性をなくしてしまうのかもしれない。それもいいかとも思う。新しい出会いや別れを繰り返しながら、私たちはこれからも変わっていくのだろう」「いつかそういうことがあっても、二人で感じたいろんな気持ちを決して忘れないように」。はっきりと「別れの予感」を心に刻んでいるではないか。有馬が唯一無二の存在ではなくて、成長の過程における出会いの一つに過ぎないということを雪野は認識している。二人で感じた気持ちは大切にしたいけれども、雪野にとっては有馬だけが世界ではない、ということなのだ。
こうなると、有馬にとって残された選択は、きっぱりと雪野からの自立を図るか、雪野への依存度をさらに増して、最悪の場合は雪野と無理心中でもするかの二つしかないだろう。しかしきっぱりと雪野から自立するのは、今の有馬には至難の業と思われる。二人が別れて恋人から友達の関係に戻るとしたら、精神的な支えがなくなった有馬の生活は、ボロボロになりそうな気配が濃厚だ。依存度が増した場合は、完全に泥沼にはまってしまうに違いない。有馬を突き放すことは雪野にはできないだろうし、独占欲が抑えられなくなった有馬は自分の殻に閉じこもり始めて、事態は収集がつかなくなってしまうからだ。独占欲の行き着く先としては「一緒に死のう」ということになってしまうのか…。これでは、とてもじゃないけど学園ラブコメディーの世界としては描けないなあ。でも、有馬が今のままの精神状態を膨らませていけば、そういう状況になってしまうことも十分に考えられるのである。
原作漫画に先行して、原作よりもさらにぐっと奥深い部分をえぐったという感じがあったテレビアニメ版の「第24話のAパート」だったが、テレビ放映終了から3年目に発売されたコミックス第13巻で、いよいよ雪野と有馬のベクトルのずれが見え始めた。
雪野・有馬たちのグループも高校3年生になって、それぞれの進路を考える時期を迎えた、という場面から物語はとりあえず穏やかに始まる。ずばぬけて優秀な有馬は全国模試で1位、インターハイでも2度の優勝。輝く将来は約束されたも同然と周囲のだれもが思っている。しかし有馬は深刻な苦悩を抱えていた。幼いころにいじめ抜かれた有馬一族に対する憎悪の気持ちが、どうしても心の中から消し去れない。と言うよりは、むしろ社会的に高い評価を得ようとしているこれから、抑えていた感情を解き放って復讐に転じようと有馬は考える。それこそが「自分の本心」なのだと自身の心に語りかけるのだった。
けれどもそんな「本当の自分」を、雪野にだけは絶対に知られてはならないと固く決意するところに、有馬の心の深い闇がある。幼少時から傷つけられてきた有馬の心が癒されることはないのか。「昔のことなんかもうどうでもいいよ」と気持ちを切り替えられたら、たぶんとても楽になれるのだろうが、有馬の過酷な幼児体験はそれを許してはくれない。
「一番でなければならない」ことの呪縛から飛び出して、自由奔放に生きる雪野と、有馬一族への憎悪と復讐という形で心を解放させる有馬。このあまりに対照的な2人のベクトルは、お互いに対する「依存度」にも、これから大きく影響してくるだろう。果たして有馬は、まるで二重人格のような自分を、雪野の前で演じ分けることができるのだろうか。それとも、閉ざされた有馬の心を温かく包み込んで優しく開かせるような展開が待っているのだろうか。あるいは、決して交わらない道を進んでいくことになるのか。話がシリアスになってきた。